やさしいひと(弁慶長編:完結)
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14.京日
身構えて向かった弁慶と九郎の元であったが、龍神に引き寄せられたすべての人間が集まっており、肩の力を抜く。
弁慶がリンを呼び付けたのも、九郎を含めたこれからの話を聞かせるためであり、深い意味などはなかったようであった。
幾日か前に会った時と変わらぬ、険しい表情を貼り付けた九郎は曲がった口をそのままに、源平合戦の概要の説明と今後の源氏軍の進行に関し情報を共有した。
現代とは異なり、情報が勝敗を委ねると言っても過言ではない時代に、ただの異邦人にそんな軍事情報を渡していいのかと譲が尋ねれば、九郎はきょとんとした表情でさも当然のように応答する。
「望美からは既に力を貸してもらう旨、了承している。そして譲は八葉であるし、リンもまだ使命は明らかではないが、龍神に召喚された身。情報を出し惜しむ必要はない」と放った。
だが、白龍の神子の存在を信じたわけではない、と釘を刺すことも忘れてはいなかったが、九郎の中で現代人三名の立ち位置はある程度確保されたらしい。
意図せず巻き込まれていく状態に、譲は最後まで是の意は示しかねていたが、望美の強い希望に折れ付き添う覚悟を決めている。
リンはと言うと、居た堪れない気持ちでいっぱいであった。
先程の戦闘で望美の神子としての力、譲の八葉としての力を目の当たりにしているからこそ何も言えない立場である。
役に立てる人間とそうではない人間がいるのだ。言わずもがなリンは後者だ。それを自覚しているからこそ、居た堪れないのだ。
「……私も行動を共にするべきでしょうか」
「当然だろう。少なくともお前はたった今重要な軍事情報を得たのだぞ。自由な行動をされては困る」
「リンさん、九郎なりに心配しているんです。神子や八葉と違い、君はただの女の子ですから」
困惑のまま九郎を見やれば、端正な顔を真っ赤に染めてそっぽを向いている。
九郎の発言は厳しいものではあったが、最もな事であり特別反対する気はリンにはなかった。
ただ、怨霊を封じ平家討伐を進めていくに当たり、総大将たる九郎、戦奉行の景時、軍師の弁慶。
その戦の第一線に立たねばならない人間の傍にあるという事は、それなりの自衛能力は必要だろうとリンは思うのだ。
どう返事をしていいのか悩むその肩に、手を置かれる。望美が明るい笑顔で言った。
「大丈夫だよリンちゃん、こう見えても私ちゃんと戦えるよ!リンちゃんくらいなら守れる力あるから」
「…春日さん」
揺るぎない自信と絶対的な言葉に、言い返す言葉が見つからない。
肩の手が不愉快で、そっと剥がしたのだがその手のひらの異常に気付く。
幾か所か、固くなっている場所があった。タコが出来る程に、彼女はあの刀を翳し幾度もの戦を掻い潜ってきたのだろう。
九郎に凄まれても決して引く事がなかった理由―――――彼女が自信を持って言い放つに値する経験なのだろう、リンはそう思った。
しかし、相変わらず言葉が出ず困惑しているところを九郎が話し始めたことで沈黙は破られる。
これから京に戻る―――――リンにとって久方ぶりの帰省となる。感慨深くはなかったけれど。
見上げた夜空は厚い雲に覆われ、月も星も姿を隠している。
雨が降り出しそうな寒空は、けれども随分とその寒さを遠くへ追いやっていた。
いつか、背の傷を負ったあの日とよく似た季節が廻ってきたのだとリンは瞳を伏せる。
命からがら、袈裟を纏って背を向けたかつての恩人の姿が瞼に浮かび上がる。優しい表情。優しい手。
武骨な店主の手から生み出される繊細な茶菓子も、踊るように店内を巡る女将の姿も、もうこの世のどこにもない。
そう思えば思う程にリンの胸は締め付けられた。
「生きなさい」そう告げて命を絶った店主の願いが苦しくてたまらない。
胸に手を当て再度空を見上げた。
今にも泣きだしそうな曇天と自分はよく似ている――――自虐的な一面を人には見せたくないと願ったのは己の意地であり精一杯の配慮だった。
幼少時より刷り込まれた“他人の目を気にする習慣”も使いようだと思う。
こんなに後ろ向きで醜い感情を、女々しさを人に見せて縋るなど考えられなかった。
だからこそ、自分が自分でいられる立場と体裁を誰よりも望んでいるのである。
――――カタン、背方より不意に音がした。振り向く気になれずそのまま空を眺めていると、その人物は隣までやってきて腰かける。
目の端に映った色は懐かしい漆黒。夜の闇とも異なるそれに、身が強張った。
「……背の傷はもう痛みませんか」
いつかと変わらぬ優しい声色が少し掠れて振ってくる。
震えて上手く振るわなかった喉を恨みながら、小さく頷けば、それでも相手は満足したらしい。
そっと空気が和らいだ。
聞きたいことも言いたいこともたくさんあったのに、隣にその人がいるというだけで何も考えられなくなってしまう。
心臓はけたたましく鳴り響いているのにだ。
顔を隠すように下を向いて視界に髪を呼び寄せた。
白い簾が隣の漆黒を隠す。
それが不服だったのか、隣の人――――弁慶はその髪を掬って、ぐい、と距離を詰めた。
驚いて振り向けば少し悲しげな弁慶の瞳と重なる。
何も言えなくなってしまった。
「…随分と痩せましたね。この世界で生きていくには大変だったでしょう」
「………そんな…。私は周囲に助けられてばかりでしたから」
労う言葉が胸に突き刺さる。この人はいつだってそうであった。
助ける義理もない娘をかくまって、まるで家族のように甲斐甲斐しく治療を続け、毎日近くで慈しむ。
その瞳の奥には今も遂げられない信念を隠したまま、優しく微笑み人にばかり与えているのだ。
彼の苦しみに気付きながらも、それを救う事もしなければ、恩を仇で返すように飛び出していった小娘に労いの言葉などかけてやる必要もない。
彼の優しさに甘えてはならない。
ぐっと奥歯を噛み締め、リンは唸る。
受けた恩を返すために、彼を助けるためにかつてはそばを離れたのだ。
その意志は今も曲げてはいない。
甘えてはならないのだ。
髪を遊ぶ弁慶の手をそっと放す。
少し前まではなかったはずの宝玉が、右手の甲に埋め込まれているのを見て不意に泣き出しそうになってしまった。
彼は八葉だ―――神子を守護する存在。
この世の役割に於いて彼が最優先するのは“あの神子”だ。
“坐”じゃない。“わたし”でも、ない。
ぐ、とこらえて彼を見る。意図を読み取れない無温の黄金の瞳が、寂しかった。
「…………子供なんて出来てませんでしたから……安心していいですよ」
気を紛らわせるために言い放ったと言い訳しても最低のセリフだ。
その下種さに瞳をそらす。
弁慶の反応を聞くのが怖くて、リンは間入れずに次を紡ぐ。
「…もし仮に“あった”としても、」
「リンさん」
ぴしゃりと遮られる。
否、ただ名を呼ばれただけであった。
けれどもその音には有無を言わさぬ停止の意が込められていたのを目ざとく拾ったのだ。
最低だと自覚した上での発言故に、後ろめたさがあるのだから敏感となっている。俯いて、ただ震えた。
嫌われたいわけではない。
けれど、距離がうまく保てられないのだ。だからこそ離れたというのに、これでは何の意味もない。
沈黙がただ耳痛く、けれどもそれに耐え続けたが、それは弁慶により破られる。ただただ静かな物言いで。
「―――――君を助けましょう。元の世界に帰ることが出来るように」
君はこの世界にいるべき人ではないのですから。
突き放されたような言葉はそのままの意味であったのか、それとも弁慶の優しさだったのか。
リンに推し量ることは出来なかったが、否定でも肯定でもないその言葉に今はただ救われたような気持ちでいたのであった。
弁慶は部屋へ戻るリンを送ることはしなかった。まだ肌寒い春の空を眺めて、そっと呟く。
「………君は相変わらず息苦しそうだ」
――――僕の手を振り払って飛び立って行ったのは君の方だというのに。
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風に舞う桜の花びらは白昼夢のように幻想的な光景であった。
元の世界でも桜の名所として京都は必ず上位に挙げられる。
こんな何百年も前の世界でもこうして桜は美しく咲き、人々の目を楽しませていたのだろうと悠久の意識に思いを馳せる。
泉の近く、その水面に口づけるかのように枝垂れた桜の花びらは濃く色づき、染井吉野と異なる品種の鮮やかさを誇っていた。
そんなリンの思考を読み取ってか、染井吉野は品種交配で誕生した人口の桜なんです。
そう補足を入れた譲の博識さに感服すると同時にどこか興ざめな気持ちを抱いたのは仕方がなかったかもしれない。
美意識など人様々であり、それを限りある言葉で形容しようなどとただの無粋であるとリンは考える。
譲の言葉を聞き流し、この洗練された情景に溶け込もうと、深呼吸をした。
――――はずであった。
「は!!」
「…見事だ!まさかこれ程までとは思わなかった」
互いを褒め合う九郎と望美の掛け合いの声が幻想をぶち壊している。
がくりと肩を落として後方を振り返れば、桜舞う幻想的な景色の中、暑苦しいまでに体育会系の臭いを立たせて二人の男女が刀を手に沸いている。
暑苦しい二人の姿を、それでもどこか雅に見せる京の桜がいじらしい。
聞きたくもないが二人の声は興奮のせいか大きく響き、花断ちがどうとか先生がどうとか、まるで体育祭の運動場を髣髴とさせるほどに熱かった。
極力人と関わらずに過ごしてきた学校生活ゆえ、こうして知り合いとはいえ人が常に周囲にいる状態はリンにはやや窮屈である。
けれども離れることも不自然で、仕方がなく目の行き届く範囲内で距離を取る事しか許されていない。
出来れば視界に入れたくはない望美の気配を感じることは、特に酷くストレスとなっていたのも大きい。
水面に浮かぶ桜の花びらを眺めながら、学校生活の頼れる相棒を想う。
「(ウォークマンで音楽聴きたい……)」
当り前のものがなくなると意外と寂しいものだと、今更その文明の利器に感謝の気持ちを届けていた。
歴史にはあまり明るくないために、有名どころの義経や弁慶は存在を知っていたが、景時は別であった。
身を寄せる場所のない異邦人一行に宿として提供された“京邸”は仮屋というものの梶原姓の威厳を感じざるを得ない佇まいである。
櫛笥小路にひっそりとあるそれは突然の入居者を数名抱えても余裕があり、ただただため息ものであった。
現在福原へ遠征に向かっている弁慶も、ここに部屋を借りているのだと聞いて、リンが気が気ではなくなったのは言うまでもない。
神泉苑で熱血二人の打ち合いに延々と付き合った事もあり、少しばかり疲れていたリンは何とか一人の時間を作るべく隙を狙っていた。
さすがにこの屋敷内ですら人と共にいなくてはならないという道理はない。そう判断したリンは、夕餉の準備に取り掛かる朔と譲に背を向け、そっと中庭へと逃げ出した。
春の陽はさして長くはない。
既に半分以上落ちかけた太陽は辺りを橙に染め、頂には藍色の浸食が始まっている。
東の空へと目を向ければ何等星だろうか、幾千の星が瞬いている。現代では見られない満点の星空に自然とリンの瞳も輝いた。
普段は朔が使用しているというこの京邸は広いが、手入れは怠っていないらしい。
花がなく、少し寂しいとは思うが、庭の端にも手入れが行き届いており簡素ながら整った空間は純粋にきれいだと思った。
ぼんやりと眺めていると、左端より景時がやってくる。腕には大量の洗濯物を抱えて。
「…わっ!リンちゃんいたの!?」
オーバーリアクションで手に持っていた洗濯物を落とした景時の、絶望的な表情が忘れられない。
薄ら切れ長の瞳に涙を浮かべる様子は妙齢の男性とは思えない無邪気な姿で、思わず声をあげて笑ってしまう。
景時は一瞬呆気にとられたような表情を見せたが、いつもの飄々とした態度へと戻ると眉を下げてリンに願い出たのである。
「お願いリンちゃんこの事は黙っててね~、ほら、戦奉行が女人みたく洗濯大好きなんて知られたら沽券に関わるでしょ」
「はい、大丈夫です。――――でも、価値観の違いって不思議です。私の時代には男女の区別は随分薄れていましたから」
男尊女卑、リンの世界ではそういう言葉が思い当たった。
もしかしたら朔の手伝いにと御勝手に立っている譲の行動も、この時代では好まれる姿ではないのかもしれない。
それでも過剰に卑下することもなく対等な人間として扱ってくれる姿がとても好きであった。
朔は景時の事をあまり信用していない節が見られたが、穏やかで周囲の和を保とうと振舞う姿を何度か目にしている。そんな所も尊敬していた。
他愛無い話を交わすうちに分かったのは、景時は物づくりが好きだという事である。
彼の獲物である銃も、彼自身が作ったというのだから驚きだった。
リンの世界の数々の発明品、家電などの話をすると子供のように目を輝かせて話に聞き入り、目を細める。
いいお兄さんなのだろう、一人っ子の自分にはあまり馴染みのない感情であったが、人を安心させる懐の深さを感じリンの瞳も細まる。
程なくして望美が夕餉の知らせを運んできて、その場はお開きとなってしまったが、リンはまた景時と話がしたいと思った。
そう伝えると、照れながらも嬉しそうに微笑んでくれる。あたたかい人だと、深く思った。
望美も随分型破りな性格をしていると思ったが、譲も相当なものだと思った。
景時と共に居間へと進めば、おいしそうな夕餉の香りがいっぱいに広がる温かな空間に包まれる。
少し大きめの台をどこからか引っ張って来たらしい朔が並べた食器は、数が合わないのか柄も大きさもまちまちで、けれども几帳面に並べられている。
大きな飯櫃を運ぶ譲はどこか穏やかに微笑んでいて、妙な包容力を感じざるを得ない。
ついでに胴体に白い割烹着すら見えかねない。もちろん着けてなどいないが。
六名で囲む食卓の賑やかさはもちろん、準備とて大変であっただろうと思うと手伝いを申し出た方が良かったとリンは思ったが、それはまた次の機会に、と言葉を飲み込む。
今まで身を置いた場所で武士の身分はない。食卓に並べられた食事も、今まで見たどの食事とも異なるものばかりであった。
「うわあ美味しそう!これ朔と譲君が全部作ったの!?」
「譲殿の手際が本当によくって、すごく助けられたわ。器が揃わなくてごめんなさいね」
申し訳なさそうに朔が眉を下げるが、急に大の人間が三人も押しかけたのだ。
如何に大規模な武家屋敷とて急な客人への対応など十分であるとは言い難い。
戦場を忙しなく行き交う景時は京邸になど早々帰らず、基本は朔一人でここに留まっている事実を思えば、これだけ十分な食事を準備してくれること自体がありがたいのだ。
望美が全力で感謝の意を伝えているから、リンはそっと首を振り朔の言葉を否定した。
ほどなくして白龍が箸を片手に、膳へと手を伸ばす。
「白龍だめだ、最初は手を合わせて挨拶をしなくちゃ」
「挨拶?何の?」
「こう、両手を合わせて“合掌”をするんだ。そして「いただきます」と挨拶する。いただきますという言葉には食への感謝の意味が込められているんだ」
譲に倣って手を合わせ、食卓にいただきます。の言葉が響いた。
本当に高校一年生かと思う譲の姿に若干苦笑いが漏れたが、精神論は大切だと思っている。
不意に周囲を見やれば朔と景時、そして望美はその光景をどこか物珍しそうに眺めている。
どうしたものかと尋ねれば、どうやらその習慣がないらしい。
「へえ。譲君達の時代にはそういう風習があったんだね。いい習慣だと思うよ――――いただきます」
景時がもろこの甘露煮に箸をつける。深茶に照り輝くもろこは琵琶湖で採れた旬のものを調達したらしい。
それに倣って口に運べば、当然ながら内臓含みのそれは苦味があったが、よく煮られた味付けのバランスが美味しい。
米は白米ではなく玄米であったが、独特の香りが箸を進める。ザ・和食という健康バランスのよさそうな食事は久しぶりで全員の表情は綻んでいた。
食べる事が好きらしい望美はパクパクと食事を進めながら譲に問う。食べ物を口に入れたまま喋るのは、と朔に咎められて少し恥ずかしそうに頬を染めていたが。
「私の家では手を合わせる習慣はないの。いただきますは言うんだけどね。確か手を合わせるのって西の方の文化だったんじゃないかな」
「おかしいですね、うちは代々鎌倉に住んでいたはずですが…」
望美の疑問に、リンも箸を止める。そう言われてみればリンの家もいただきますの挨拶は行うが、手を合わせる習慣はなかった。
とはいえさしたる問題でもなく、適当に相槌を打って食事の手を再開させた。
もろこの佃煮、三つ葉のお浸し…その他漬物といった保存食、どれも旬のものが並べられ舌を楽しませてくれる。
話題の尽きない食卓は賑やかで、終始笑顔が満ち溢れていた。
食事を採り終えて箸を置き、リンはその様子を眺めている。
元の世界での食事と言えば静かなものだった。
母親のしつけが厳しく、食事中はそれに気を取られ会話を楽しむ余裕などなかったと記憶している。
家族とはいえ他人の集まり。
そんな情の無い言葉すら思い起こすほどに家族と言う名の絆は薄かったように思う。
母親の異常な執着、束縛―――――愛されていないわけでは、なかったと思うのだが。
食後の茶を嗜む傍ら、リンは空想に耽っていた。襖の奥、天井一杯に広がる星空に思いを馳せる。
先程までの曇天が嘘のように、厚い雲は東の彼方へと引き上げていた。代わりに強く吹き付ける風が髪を浚う。
時折香ってくる春の花の甘い香りが心を静めて、けれども空想に耽るリンは己でそのささくれを剥がして血を見るのだ。
考えることを止められたならそれが一番楽であるのに、どうしてそれが出来ないのか他人事のように感じながら空を見上げていた。
いつか母と見上げた空にはこんなにも星に溢れたものではなかった。
細い指が指し示した一等星も、ここでは屑星に紛れて探すことが出来ない。
かつては優しかった母、豹変してしまった母。
切なさから逃れるように瞳を閉じれば、春の終わりに弁慶に言われた言葉が流れてくる。
「元の世界に帰られるように」突き放したように響いた。
「(元の世界に帰らなければいけない存在)」
―――そう、ずっと思っていた。
その方法こそ探すだけの余裕はなかったが、衣食住が確保された今ならばその方法を探す事とて難しい事ではないだろう。
それ程に地位の高い人間と、何よりこの世界に呼び寄せた本人と行動を共にしているのだから。
ちらりと後方の食卓へ視線をやる。
白龍は相変わらず望美に張り付くように甘え、離れる様子はない。
彼が一人になる機会を狙っているのだが、あの様子では今後もしばらく恵まれないのだろう。
そっと溜息をついて空へと意識を返す。
白龍は言った。五行の力を取り戻せば、もう一度時空を渡る力を得、異邦人を元へと帰すことが出来ると。
「……帰ったって、居場所なんてないけれど」
以前同じような事を漏らして、将臣だっただろうか、こっぴどく叱られたのを思い出す。
内容まではいまいち覚えていないが、家族の大切さについて強く説かれたような気がする。思い出してリンは苦笑した。
「(本当に……何でも簡単に言ってくれるなあ、有川君は)」
笑っていられるのは他人事だからだ。
彼が彼自身に降りかかる災難を振り払う度に、それを代わりとなって受け、苦しんでいる人もいるというのに。
そして身勝手に言い放つのだ。振り払えない程弱く、生きる事に迷うお前が悪いと。
―――――誰かの願いが叶えば、誰かの願いが犠牲となっている。
「……ねえ、そうでしょう、譲さん?…………ねえ、神子?」
恨めしく睨んだ視線は交わることはなく、乾いた笑いと共に花の香りに浚われて消えた。
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「(やはり――――ない、か)」
ぱたん、と本を閉じて舞う埃が弁慶の睫に乗る。
伏せた瞳に焦点の合わない埃が白くちらつくのを払いながら、人知れずため息をついた。
福原での要件を大方済ませて弁慶が向かったのは雪見御所―――清盛の邸宅である。
あわよくば侵入も厭わない覚悟で参ったのだが、余りに短慮であったか、もちろん侵入など出来るような警備ではなく早々にその野望を放る事となった。
けれども諦めきれない思いが弁慶に無茶を強いる。
どうしても掴みたいものがあった――――龍神伝説に纏わる“坐”の伝承である。
かつて平家の屋敷に出入りしていた伝を頼り、御所とは言わないまでも相当する書庫へと案内されたのは幸運だったと言わざるを得ない。
そして話は先頭へと戻る。
顎に手を当て、書物の内容を整理するがやはり坐と言う言葉などどこにも記述は見られなかった。
しかしあの龍神は自らが召喚したと言っており、その役割も知り得ていると考えて問題なさそうであったが、坐と呼ぶ本人にすらそれを伝えていない。
「(坐…言葉そのものは動作を表す言葉……名詞ですらないとなると…)」
推考を深める前に、物音で遮られる。伝を頼ったとはいえ今の自分は清盛に反旗を翻した源氏の手の人間である事に変わりはない。
京邸を発つ際も望美から危険な事をするなと心配されたことを思い出す。
出入り口の様子を見れば、そこに立つのは知り合いであり、ほっと胸を撫で下ろす。
しかしその表情を見る限りそんなに事態は思わしいものではないらしい。
源氏の人間を招き入れたとあれば罰せられる事は確実である。弁慶はそれ以上の詮索を諦め、夜の闇に乗じて書庫を抜け出したのであった。
今回の福原遠征は大輪田泊の地形図を手に入れ、かつて平家に関わりの合った人間を尋ねる事を目的としていた。
どちらも満足し得る結果を得られたのは幸いで、また更に欲を重ねた事も今回は吉と出たと自身は思う。
欲の上塗りが祟ったのか、個人的感情の上で一番気になっていた情報は有力ではなかったけれども。
「とりあえず、」
必要なものは揃った。
京へ引き返さねばならないその足に、急ぐ理由などどこにもない。
それでも弁慶の足を速め、気持ちを急くその原動力―――――弁慶は自虐的に笑った。
今も胸に突き刺さる、拒絶の言葉が捻じれて血を吹き出すようだ。
じくじくと痛むそれは己の知識をかき集めて作った薬でさえも癒すことは出来ない。
「―――――よく言ったものだ」
君を助けましょう、などと。どの口が。
『「私を助けても、貴方の罪は赦されないんですよ…………弁慶さん」』
彼女はもしかしたら泣いていたのだろうか。
長い冬の寒さに耐えた身と心は春の綻びに誘われ狂う。
あからさまとなる己の欲を隠すように弁慶は袈裟を引き寄せた。
無粋な言葉で振り払われても、刃で心を抉られても、それでも。
遠い京に置いてきた細い髪を梳き、そっと口づけたい―――――切なさを噛み締めて瞳を閉じた。
九郎の剣の師匠である男に会いに行くと、望美達は朝から鞍馬へと出かけて行った。
リンも同行を誘われたが、京の街を見て歩きたいからと伝えて断った。
ここ連日の大人数の窮屈さにとうとう耐えかねたのが本音であったが、さすがにそれを口にするだけの度胸はない。
京邸に残った景時に出かける旨を伝え、リンは春の京へと姿を消した。
櫛笥小路から五条大橋は目と鼻の先である。そこはリンにとって決していい思い出ばかりの場所ではなかったが、どうなっているのか一度その目で見てみたかった。
華やかな京の街並みとは打って変わり、東へ歩を進めるごとに寂れていく景色は桜が咲いている姿ですら不釣り合いに見えてしまう。
程なくして到着した五条大橋は、発ったあの日と変わらない景色を映し出していた。
近づき、川底を覗き込む。
淀みなく流れる川はさらさらと、時折花びらを連れて遊ぶ。
その川の脇の集落はあの頃と変わらずくたびれて並び、けれどもその光景の中に生活の色を滲ませていた。
あの小屋はどうなっているのか、川原へ降り立ち集落を進めば不意に呼び止められる。前方からやって来たのは見覚えのあるいかつい男二人組である。
リンの姿を見るなり、その強面を綻ばせて人懐こく駆けてきた。
「リンさん?リンさんじゃないですか…!ああ、久しい…!」
「うわぁ本当だ!急に出て行ったと先生から聞かされて本当に驚いたんですよ、あ、俺達の事分かります?」
迫力満点に迫ってくる様子に圧倒されながらも、じわりと胸に広がる温かさに感動する。
怨霊と化した茶屋夫妻に一太刀浴び、命辛々転がり込んだ京でリンを保護し、先生――――弁慶の所まで導いてくれた恩人達である。
熱で朦朧としていた間、何度か見舞いに来てくれていたようだが、面会の機会はなかった。
というのも、家から外出しないようにとの弁慶の言い付けがあったからである。
いつかはお礼を言いたいと思っていたが、まさか今日成立するとは思わなかったため、反応が遅れる。
ここに滞在していた時にも思ったが、五条の温かい人柄に包まれると荒んでいた心も和らぐ。
自然と笑みがこぼれ、お礼の言葉を述べると二人は顔を真っ赤にして狼狽していた。
雰囲気とのギャップがおかしく、からからと笑うと次いで二人も照れくさそうに笑い返した。
「本当にその節は、命を救って頂いて……なんとお礼をしていいのか」
「いやいや、命を救ったのは先生だから。俺達は運んだだけで何もしてないですよ」
「先生も言ってたでしょう、元気になってくれればそれで十分だって。見返りを求めて助けたんじゃあないですから」
「………っ」
どうして、そんな風に。
胸を激しく揺らしたその言葉に、唇が震えた。
みっともないと口元を抑えたのだが、その手にぽたりと生暖かい雫が落ちる。
滲んだ視界の先で強面が打って変わって顔を青くし、身振り手振り踊っている。
彼らにとっては本当に心根に染みついた常識なのだろう。
その優しさは、けれども、リンにとっては何よりも美しく輝いて見えたのである。
胸を締め付けられて、息が苦しい。きれいなその精神は歓びの風へ変わり、リンを包んで慰めては心を洗っていくようだ。
涙をぬぐって男たちの手を取り、精一杯微笑む。
「―――貴方達のような人と出会えて、本当によかった」
大げさだと笑われても、それでも。
昼間の京とて安全だと言い切れる場所では無くなっていた。
細い小路の奥、人気のない場所で怨霊の姿が目撃されていると男達は言っていたし、何よりリンは丸腰だ。
不要に危険に足を踏み入れるなどするほど無謀な性格ではない。
一人で戻ると言うリンを最後まで心配していた人好しの二人に手を振り、立ち去る間際、またここに来てもいいかと尋ねれば満面の笑みで返される。
ここはもうリンさんの家だから。
そんな言葉にまた涙ぐんでしまったのは仕方が無い事であった。
邸へ戻るが望美たちはまだ戻っていないようであった。
と、そこで鞍馬までの距離を思い出し、納得する。
鞍馬は京都の北に位置する地域だ。以前茶屋を訪れる客に聞いた話では、鬼が住む地域なのだと聞いたような気がする。
非現実的なおとぎ話を信じる気のないリンは、当時も適当にあしらって話半分であったが、九郎は真剣な目をしていたように思う。
まさか鬼な訳がない。……と断定するよりも、そもそもそんな考えにすら至らず、リンは持て余す時間をどうするかを考え始めていた。
とにかく、邸から鞍馬まではかなりの距離がある。道中で宿をとる可能性をはじき出す。
他人の家に居座っている身分では、居た堪れない気持ちになるのは性格上仕方がなかった。
「(勝手に家の中を漁るくらいなら何もいらないし…)」
朔からは自由にしていいと聞いているが、さすがにそこまで図々しくはなれない。
衣食住を提供されているだけでも十分すぎるほどだ。
ちらりと中庭へ視線をやると、景時の干したらしい洗濯物が日の光を吸い込んでいるのが見えた。
縁側へと移動し腰を下ろす。
運ばれてきた花びらと共に、舞うように揺らめく色とりどりの着物を眺めていた。
五月の吹き流しのように鮮やかな視界は目に楽しく、リンはそっと息を吐き出して、飽きもせずにそれを眺めている。
ふと思うのは、その景色には映えない黒い色だった。数日前に福原へ向かった、弁慶の姿である。
思い出しても胸が痛むような、最低の発言で遠ざけたその人を、案じる姿は滑稽だと思う。
「…あんなことが言いたいわけじゃないのに」
優しい瞳の奥に宿る沼地のような淀みが澄み渡る日を、誰よりも望み、願っている。
その為に離れたはずなのに。
結局こうしてまた同じ場所に留まり、あまつさえそれを嬉しいと思っている自分がいるのだ。
リンは、そんな自分を許しがたかった。
素直になればいいのにと自分の中で囁かれる言葉が耳につく。煩い。そんな事が出来るならとっくにやっている。
「(………手助けは出来ても、救い出すまでの力はない)」
やらないだけでしょ。ああ言えばこう言う、己の心の内が煩くて耳を塞いだ。
物事はすべて捉え方次第で善にも悪にも変わる。
どうして前向きに捉えられないのかと責め立てる声はやはり己の物で、とんだ茶番であると思う。
完璧な人間などこの世にいないと多少の肯定はできても、最終的に落とし込む場所はいつだって“お前が悪い”の一言だった。
「(せめてこんな汚い心は知られたくないから)」
今日も、表情を、感情を凍らせる。
こんな私の想いなど誰も知らなくて、いいのだ。
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日が傾く頃、景時が帰宅した。
すっかり気落ちしていたリンはその帰宅に喜び、玄関で出迎える。笑顔の景時の右手には、
「お留守番のリンちゃんに唐菓子買ってきたんだよ~~~皆は多分一泊してくるみたいだし、楽しみがないとね」
「わっ……団喜じゃないですか…!……懐かしいです」
竹の皮の小包を揺らす姿は酔っ払いのサラリーマンのようで、リンは思わず笑った。
中を開ければ団喜が六つほど入っていた。久々の甘味に心躍る。
純粋に景時の気遣いが嬉しく、素直に行為にあやかろうと手を伸ばした。
一口含めば懐かしい米の粉の味が広がり、ほのかな甘さがじわりと染み入るようだ。
五条でもそうであったが、どうにも老人のような感情はどうなのかと自分でも思う。それでもおいしいものはおいしい。
そしてリンにとっては懐かしく、切ない味でもあった。女将の顔が浮かび、運ぶ手が止まる。景時が問うた。
「どうかした?」
「懐かしい味で―――昔、茶屋で働かせてもらっていたことがあったので…」
「へえ、そうなんだね~。リンちゃんが作ってたの?」
静かに首を振り、女将が、と答える。
リンの表情から何かを読み取ったらしい景時は、短く返事を返すとそれ以上の詮索はしなかった。
またしんみりとしてしまいそうな心に首を振り、笑顔を作った。
景時のせっかくの気遣いなのだ、温かい気持ちのままでいたいと思った。
もう一本、手に取り口へと運ぶ。変わらない優しい甘さが広がった。
団喜を肴に、リンと景時は他愛もない話で盛り上がった。
以前も話した内容であったが、発明品の話などは本当に景時の好む分類のものであるらしく、あらゆる疑問を投げられた。
子供のように目を輝かせるのが嬉しく、リンもいつもよりも饒舌になっていた。日常の当り前になりつつあったそれに興味を持たれるのは悪くない。
連れていけたらいいのに、など子供染みた、いつもならば切り捨ててしまいそうな願いさえ抱いてしまう。
「あ、ごめんね俺聞いてばっかりで。リンちゃんは何か聞きたいことはないのかな」
この世界と君の世界、違う事ばかりで困ってるでしょ。
そう続けられたがリンもこの世界にやってきて三年近くが経過しているためか、随分と馴染んでしまい改めて問いたいことは思い当たらない。
何かあるだろうかと少し考えて、ひとつ、ずっと気になっていた事を思い出し、景時に問うた。
―――――けれども、その瞬間。
輝いていたその表情が凍りついたのを見て、リンの胸も瞬く間に冷えた。
咄嗟に発言を撤回したのだが、震えた声では場の雰囲気を元に戻す事すら白々しく感じられる。
リンの動揺が伝わったのか、景時は不意に表情を整える。
いつも通りの、飄々とした
――――――けれども、寂しい瞳で。
「うん、朔は色々あって…今は尼僧になってるんだけど……ん~と、ごめんね、何があったかは口止めされてて、言えないんだ」
「…あ、いえ……ごめんなさい、そんな立ち入ったことを聞いてしまって……」
「…………」
「…か、景時……さん…?」
――――駄目だと思った。
言葉を重ねれば重ねる程墓穴を掘るばかりである事に気付く。
取り戻した景時の表情も再度影を差し、何かを考えながらも沈黙が部屋に流れているだけで、肯定の言葉はもちろん何も返してはもらえない。
凍った心臓が溶ける気配は欠片もなく、ただただ重なる沈黙にその厚さを増していき、膝の上で握った両の手はカタカタと震えた。
そんなリンの恐れ心とは裏腹に、景時はそっと伝える。まるで幼子に諭す、父親のように。
「―――リンちゃん。リンちゃんのそういう人の想いを視て、立ち振る舞う優しい姿、俺から見たら羨ましいくらい上手だと思うんだ。でもね、」
「もっと、頼らないと。もっと、相手を信用しないとだめだと思うよ」
―――――俺みたいに八方塞がりになってしまうよ。
景時の言葉が届ききる前に、心の凍ては耳へと広がっていた。
遮断された心と、耳と。
閉ざしてしまえば傷を負うこともなく、傷ついた表情も、怒る表情も、何もかも見せなくて済む。
煩わしい感情を捨てるように、能面のような表情で覆い隠した。
そっと瞳を伏せる直前に陰った睫は、静かに震えていたがそれすらも背を向け、リンは景時の言葉を取り入れ、そして逃がしたのであった。
何とか飲み下して顔をあげる。
不安そうな景時の顔が夕日に照らされて一層物寂しく彩られていた。
作り変えなくてはいけない――――腹の奥から取り出してきたきれいな言葉たちを並べて、見比べて、そっと繋げる。
手慣れた繕いは一瞬の出来事。もう手は震えていない。大丈夫、ちゃんと“わたし”になっている。
「―――――景時さんはやさしい人ですね」
“こんな”
“どうしようもない”
“私みたいな女を”
“心から心配してくれるなんて”
どうしようもなく卑屈で、後ろ向きな発言は紡がれることはなかった。
その夜、景時が寝静まった後、リンはいくらかの荷物を抱えて京邸を抜け出した。危険は承知の上である。
明かりなどほとんど見られない夜の京はいくら華やかな都と言えども物騒な香りが充満している。
何度か通った通りを、速やかに進み向かった先は五条の川原である。
手に抱えている荷物は入浴道具一式だ。
結局あの後、景時との話が終わった後、風呂を借りたいと申し出る勇気はやはり起こらず、こうして慣れた五条まで足を進ませたのである。
どうしても入浴して就寝したいという気持ち半分、そしてもう半分は五条の温かさに少しでも近づきたかったというものがあった。
景時の言葉は何一つ間違ってなどいないと知りながらも、胸の内を抉られたような痛みが止まらなかった。
いつまでも同じような悩みを何度もめぐらせる己の後ろ向き加減に頭を痛めるが、どれだけ嘆こうとこの思考回路が書き換えられることはなかった。
くよくよ悩んでいないで、切り替えて頑張っていかなければならない。
世の人間は皆そうして奮い立たせて生きているのだ。
自分だけが不幸だと思うな。………何度も投げかけられた言葉たちだが、耳に痛いだけで心に響いてこないのはなぜなのだろう。
「小ざっぱりすればきっと少しは気分も変わる」
リンとてこんな後ろ向きな己が好きであるはずがない。
この徹底して自分をこけ下ろす精神が何たるか、嫌気が差しているのはリン自身だ。理不尽な怒りを抱いたのとて、一度や二度の話ではない。
再度煮え立ちはじめようとする腹を抑え、リンは川原へと降り立った。
手を浸したそこはやはり春の川の気温で、腕には鳥肌が立つ。
ちょうど頭を冷やしたい気分だ。リンは手早く衣服を脱ぎ捨てると、そっと川へと身を沈めたのであった。
「(……青春真っ只中の少年じゃないんですから)」
わざとらしくため息をつきながら弁慶はいるはずのない京の街を歩いていた。
福原を発って数日――――確かに急ぎ足で旅路を急いだのは間違いないが、遥かに短縮された到着予定は想定外の現状を引き起こす。
荷物こそ少ないものの、一旦京邸に帰った旨を報告するかと悩みながら結局その選択肢は選ばれず、こうして夜の京の街をうろついている次第だ。
余計な詮索への返答を考えるのが面倒だった事と、もう一つ。
望美達と鞍馬への同行を拒否したリンが、邸に留まっている可能性があったからである。
さすがに顔を合わせるのはまだ気まずい。まして己は彼女を探るように福原で“坐”について調べていたのだから後ろめたさもあったのだ。
「(どうにも彼女の前では上手く自分を作りにくい)」
果たして己の腕が落ちたのか、リンの深読みする目が強すぎたのか。
答えは出ないまま肌寒い京の街をうろつくと、足は自然と馴染みの場所へと向かっていた。
視力の低い弁慶の目でははっきりとは映らない五条の集落の明かりはぼんやりと円を描いて輝いている。
弁慶が見やるのはかつて自分が住んでいた小屋の方向である。
ほんの数年前の出来事なのに、まるで昨日の事のように思い出される、うつくしい娘との再会、そして共に過ごした日々。
真冬の川に飛び込む珍妙な邂逅から、時を経て、離れて、また巡り会って――――けれど、それまでだった。
いつか旅立った時と同じ、弁慶を見る双の瑠璃は悲しみに揺らぎながらも、己を今も拒絶して近寄らせない。
「(――――――やめましょう)」
自ら傷を抉るだなどと馬鹿げている。そう吐き捨てて弁慶は集落から目を離した。
このまま適当に知り合いの所にでも転がり混んでしまおうかと、踵を返し橋から離れたのだが、不意に後ろに気配を感じ振り返る。
咄嗟に、薙刀へと手が伸びた。
怨霊かもしれない――――そんな弁慶の警戒は、驚きによってかき消されることとなる。
向かってくる小さな影と瞳が合った瞬間、息を飲む音が聞こえた。弁慶の瞳はその影を識別できるほどの力はない。
見えなくても分かる。今一番会いたくて、そして誰よりも会いたくない人物がそこにいたのだから。
予想よりも冷たい川に芯まで冷えながら、手早く衣を纏い川を後にした。
やはり水浴びは心地よく、先ほどまでぐだぐだと悩んでいた悩みも薄れ、今は寒さと格闘している程である。
髪の水気を払いながら土手を上がり、橋の袂までやってくると、その先に人影を確認し緊張が高まる。
「(……しまった、)」
そう思っても時既に遅し。
高揚して周囲への警戒をすっかり解いていた事を悔いても時は戻らない。
まだその人影とは距離がある。何とか逃げ切れないかと対策を考えていたところ、その人影が少しずつこちらに近づいてきているのに気付いた。
リンの背にある道は堤防であり、その先を行っても京邸はおろか街から離れていくだけの道である。
絶体絶命、その言葉がよぎったが――――近づいてくる人影を確認できる距離まで間合いが詰められた時、飲み干したのは息であった。
「………弁慶さん」
「何をやっているんですか…!」
「……っあ…!」
左手が捻り上げられるように掴まれ、否が応にも感じさせられる男の力に背筋が凍る。
弾かれるように上げた視線の先、先ほど交わった時とは色の違う瞳が見下ろしていた。
怒りを如実に語るそれはただ恐ろしく、ようやく浮き上がった気持ちは地へと叩きつけられた。
何もかもが分からず混乱する。
弁慶がなぜここにいるのかも、なぜ怒っているのかも。
夕方の景時とのやりとりで弱っていた心は、その混乱に耐えうることは出来なかった。
双の瞳が潤んで、憚らずそれは溢れ出した。
面倒くさい女だと思われたくない。
しかし、混乱している思考ではまともな解決法など考えられず、リンは泣きながら許しを請うばかりだ。
「すみません、乱暴な真似を―――――リンさん、泣かないで下さい……驚かせてすみません」
そっと温かい布に包まれる感触。
涙を拭っていた手を止め見やれば、弁慶の袈裟がかけられていた。
「……怒って………」
「……怒ってないと言えば嘘になりますが、まず僕の質問に答えてもらえますね」
「ごめんなさい…」
「これ以上心配させないでください……君に何かあったら気が気ではありませんから」
言葉は一等甘いのに、その音はため息交じりの呆れ声だ。
リンはかけられた袈裟の中で一層縮こまるばかりである。
先程景時に言われたような内容をもう一度弁慶の口から忠告と言う形で聞くことになるとは思わなかったが、景時の時のように突き刺さらなかったのは不思議であった。
けれども「真冬だというのに川に飛び込んで懲りたかと思いきや、全然懲りてなかったわけですね」と言われてしまってはぐうの音も出ない。
これ以上聞いていては、うしろめたさで袈裟の中で消滅してしまいそうである。
そっと、弁慶の着物の端を引っぱり、注目を引き寄せた。
「……本当にごめんなさい。心配かけるつもりなんて、なかったんです。次はちゃんと…その、朔さんにお願いしますから」
「……………絶対ですからね」
「…はい。きっと」
声が柔らかくなったことに、リンは胸を撫で下ろす。
先ほどまでの氷は解け、心は春が芽吹いている―――そう形容しても過言でない程に、安心感で覆われていた。
「景時さんには内緒で出てきてしまっているので、静かに入ってもらってもいいですか?お願いです」
「――僕が言った“頼る”とはそういう使い方ではないんですけれどね」
振り返った弁慶はそう言いながらも微笑んでいて。つられてリンも微笑んだ。心からの、笑みで。
霞かかった月明かりはふんわりと落ちて、京を優しく照らしている。そんな春の日であった。