やさしいひと(弁慶長編:完結)
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13.仮面
訳が分からぬままに歴史用語が飛び交う奇妙な世界に来てしまった異邦人二人は、ただただ目の前のやり取りを流れるように見つめている。
直情的な気質を持つ娘、春日望美は詰所でもその負けん気を発揮し、己の身長よりも遥かに上回る男に食って掛かっていた。
そんな望美を複雑な目で見つめるのは、有川将臣が弟、有川譲である。
譲が驚いたのも無理はないとリンは心中思った。
目の前で厳しい表情、眉間に皺を寄せた大男がある。名を源九郎義経。
リン達の世界では昔話に登場する英傑と同一人物だ。
奇抜な橙の髪を頂で一つに結い、その広い背には馬の背思わせる長さの豊満な髪が流れている。
日本史の教科書をいかに探せどこのような風貌の“義経”など存在し得ないであろう。
ちらりと譲を盗み見れば、やはり納得がいかないのか、はたまた困惑しているのか、眼鏡を触り何とか落ち着きを模索しているようである。
こうして冷静に周囲を見渡しているリンとて、義経を見るのは初めてであった。
陣に足を踏み入れるや否や、黒龍の神子と呼ばれる少女、朔へ叱責を浴びせる姿は真っ直ぐで、軍人らしさに好感すら抱いたが、譲同様にイメージしていた人物像と異なっているとも思う。
それよりもリンにとっては胸が騒ぐ理由が他にある。
その義経の隣に―――叱責を受ける朔を慰め、九郎のフォローを行った人物…武蔵坊弁慶の姿を捉えたからである。
「(………弁慶、さん)」
驚きつつもどこか感情的になれなかったのはリンの性格ゆえのものであった。
ほんの数メートル先に佇む愛おしい男。
その加護を振り払い背を向けて早一年以上経過していたが、褪せない想いが立ち香る。
目が合わぬようにと盗み見る彼の瞳に、あの頃以上の光は見られず、もどかしい気持ちを抱く。
けれども心の端でほっとしていた自分がいた。
まだ、運命の人には出会えていない。
自分勝手な言葉が胸に宿ったのを悟り、リンは自身に毒づいた。
「この世界は僕たちが知っている世界とは違うのかも知れません」
意識が冴える。九郎や朔、弁慶らのやりとりを聞いていた譲が導き出した答えに望美が驚きながら反応していた。
義経も弁慶も、譲らが知っている歴史ではありえない関係性を築いている。
主従であった彼らがここでは肩を並べ、対等に話をしているのだ。
それを裏付けしているのが不思議な子供、そして神子の存在である。
先程から望美の腰にしがみつき大きな瞳を滲ませて周囲を見上げる姿は年相応の愛らしい姿である。年のほどは十前後であろうか。
望美たちは既にその存在について認識を得ているようであるが、リンだけはまだそこに至れていない。
「朔殿、お疲れの所悪いのですが、彼らの紹介をしてくれないですか」弁慶が求める身の上の紹介に耳を傾けることにした。
朔の話は驚きの連続であった。
九郎、弁慶、譲、望美、そしてリンと、驚き方も焦点も様々である。
譲、望美、リンが異世界の未来から来た異邦人であるという事、不思議な子供は“白龍”という京を守る龍神であるという事。
そして、朔と望美はその“龍神”に選ばれた“龍神の神子”であるという事。
「にわかに信じがたいな、お前のような女人が白龍の神子だと?」
説明を続ける朔を切り、九郎が不審な目を望美へと向ける。
神子であるとか龍であるとか神であるとか、非科学的な言葉が飛び交う理解しがたいリンと譲はただ張りつめた空気に身を固くした。
見目に反し気丈らしい黒龍の神子はそんな視線に臆することなく、手を合わせ説明を続ける。
そこに込められていたのは直向な願いなのだろう。
抜け落ちた生気の枯茶が一際光を放っている。その瞳の強さに違和感を覚えながらも、リンはやり取りを見守る事に決めた。
京にまつわる龍神の伝説、そして神子の存在。話が深まるにつれて、胸の違和感が増しているのに気が付いた。
咄嗟に胸を抑えるが当然ながら何の変化もない。
けれどじわじわ、じわじわと忍び寄るようにリンの内で何かが燻り始めていた。
目の前で望美と九郎とが言い合いをしているが、ほとんど耳には入ってこない。
既にリンの思考はその何かに侵され意識を失い始めている。
どろりと濃厚などす黒い何かは、警鐘さながらあの鈴の音をかき鳴らし精神を乱しては、リンに一つの言葉を吐き出させた。
「…………春日さんが“神子”………?」
己のものとは思えない低いそれに驚くが、それを拾うほどの余裕がなかった。
尋常でなく震えるリンの背を見て譲が声をかけるがそれすらも振り払いリンは望美へと近づいた。
九郎から目を離しリンと向き合う、望美の翡翠の瞳には明らかに怯えの色があった。
鬼のような形相をしているのだろう、興奮状態と言っても過言ではない。
喉の奥が震え、吐き出した白い息が荒れた。
深く、擦れたそれがただただ異常に辺りに響いているような気がして、リンの視界も捻じれて混ざる。
大嫌いな、桃色の髪。大嫌いな、翡翠の瞳。大嫌いな、
「…遠坂、さん………?」
――――声。耳に届いた瞬間に振り上げた右手が望美へ向かって振り下ろされた。―――はずであった。
未遂となったのは、尋常ではないリンの様子に危機を感じた九郎が望美を庇ったからである。
九郎の手に簡単に包まれてしまうリンの細腕が空しく暴れた。
拘束されても心の、淀みの勢いは止まらない。
箍を切って溢れだしたそれらは“憎悪”だった。
留まるところを知らぬそれがただただリンを奮う。
「離せ!離せッ!!この女だけは…ッ!この女だけは許さないッ!!」
金切り声を上げながら持ちたる力の全てで九郎の手を払うべく暴れたが、歴然な力の差の前に成す術はない。
獣さながらに暴れ続けるリンを抑えるのは容易ではなく、致し方あるまいと九郎がその首根に手刀を落とそうとしたその時であった。
不思議な光が白龍より照らされる。
舞うように操った羽衣は軌跡を描いて、彼の美しい髪を浚った。
その空間から放たれた柔らかな風は酷く穏やかに、リンと九郎の元へ流され、荒むリンを包み込むとその意識を奪い雲散した。
「大丈夫、少し眠らせただけ」驚く九郎に静かにそう告げると、白龍はまた望美の後ろへと隠れてしまう。
神の力をまざまざと見せつけておきながら、その外見相応のおぼこさに九郎は怯む。
どうにもこういった場は苦手であった。
抱きかかえている娘にしてもそうである。
しとやかそうな外見のその娘は何を火種にか、急に逆上し、神子と呼ばれる娘へと襲いかかったのだが、何が彼女をそうさせたのかなど、この場の誰もが知り得ているはずもない。
だからこそ今後の彼女の身の振りを考えれば陣へ連れ帰っていいものか、九郎は判断しかねていた。
こういった場への対処は苦手だ。
どうしたものか思案しながら、意識を失ったその娘を抱き起せば。力加減を違えてか、必要以上に密着する形となる。
けれども九郎は何よりも、そのリンの体の頼りなさに驚いた。
「なんにせよ、この方達は龍神に呼ばれたのです。歓迎しましょう、九郎」
「あ……あ、ああ。そうだな」
九郎の困惑を汲んでか否か。連れ帰った方がよいとの弁慶の言葉に狼狽えながらも答える。
いつもの口調と変わりない。
そう一度は思ったが、どこか発する音に違和感を覚える。
形容すなれば、有無を言わさぬ命令の音。
しかしそれは違和感という意識となる前に消え去る。今はこの場を片すことが先決であった。
「…とにかく。戦場に出るというのならばそれ相応の力を見せてもらわねば納得できん。威勢がいいのは結構だが、口だけなら誰だって達者となれるからな」
「九郎はとにかく女性が戦場へ出ることを心配しているのですよ。それに、朔殿に何かあっては僕達、景時に顔向けできませんから」
先ほどまでの動揺を隠し、吐き捨てるように言い放った九郎はそのままリンを抱き上げて陣の奥へと消えていく。
その背を追って、弁慶も姿を消した。
残されたその場で再度小さな井戸端会議が繰り広げられたが、飲み込みの早い望美はすんなりと現状を受け入れたらしい。
朔の計らいで何とか個別に部屋を宛がわれたことに感謝を告げ、望美と白龍はそこへと離れていく。
肩に傷を負っていた譲は朔の案内で軍師兼薬師である弁慶の元へ。それぞれがやるべきことを判断し、お開きとなった。
幕を幾重か潜った先、医務室のようなスペースへと譲は辿り着いた。
ござの敷かれた簡素な空間の端、真っ青な顔で横たえられたリンの姿を見つける。
譲は望美ほど順応力が高いわけではない。白龍が繰り出した不思議な力を受け入れがたかった故か、はたまた好奇心か。
記憶の姿とは見る影もない真っ白な髪の、上級生へと近づく。
その不思議な髪に、触れようと手を差し出した時であった。
首筋にぴたりと刃物が付きつけられた―――――否、付きつけられたような、感覚が寒気と共に走った。
思わず振り返る。
そこには目的の人が、立っていた。
「彼女は絶対安静です。触れないでもらえますね」
「――――! あ、あの……弁慶、さん」
満月を背に、譲を見下ろす弁慶の表情は見えない。
深く被った袈裟が影となり、その姿は伸びた影のように高く威圧的に感じられた。
意図せず喉が鳴る。
その異様な威圧感だけではない、拒絶を含んだような冷たい声色に先ほど九郎が感じた違和感を垣間見たが、それが何であるのかを理解できるだけの経験が譲にはなかった。
完全に飲まれてしまった譲の出方を伺っていた弁慶であったが、彼の肩に怪我を確認し緊張を解いて近づく。
未だ冷や汗をかきながらぎこちなく体を固める譲に、上着を脱ぐように促すとそこにはかつての娘の傷を思い起こさせる、深い傷跡が刻まれていた。
けれどもその程度で揺るぐほど弁慶は愚かではない。てきぱきと処置を行い、傷が開かぬように保湿を整える。
「君は武人ではないのだから、必要以上に無茶はよくありません」
「……あ、……そ、そうですね。この時は先輩を守るのに夢中で、つい」
「若気の至りで片付けられたら幸いなのですが、ここではそうもいきませんよ。君達は帰る場所がある。大切にしてくださいね」
譲の返答を確認する前に、その背を軽く押して部屋から追い出せば育ちよく会釈し、足早に立ち去って行った。
食い下がることないその後ろ姿を見送って、弁慶は素早く幕を下げる。
部屋の端を振り返って、そっと溜息をついた。
九郎であっても、その心の内を量ることは出来なかったであろう。
常の彼からは想像しがたい複雑で険しい表情だった。
そっと弁慶は横たわるリンへと近づき、譲に許さなかった彼女の髪に触れる。
掬うように持ち上げたそれはいつかの日の時のようにさらさらと留まらず落ちていく。その不変を拾い、歪に微笑んだ。
「………生きた君を見たのは初めてでした」
白龍の神子へと飛び掛かったあの獣の瑠璃には、かつて重ね合った淀んだ色はどこにもなかった。
凶暴な程に燃え盛る憎悪の炎が宿り、力の限り肉体を振り回す姿のなんと鮮烈であったことか。
永く飼い殺したあの時間は、文字通り“飼い殺した”のだと己の選択を後悔させたが、彼女の刹那の魂の波動は、瞼を閉じても鮮明に浮かび上がらせることが出来る。
それほどまでに弁慶の瞳には輝かしく映ったのだ。例え、どこの誰が、異常であると蔑んだとしても。
「君は本当に僕を待たせてばかりですね」
名ひとつ得るのでさえ幾週も待たされてしまった。
先ほどの譲の背が思い浮かんでリンの華奢な背へと変わっていく記憶。
高熱に浮かされてまともな会話すら出来なかった、いつかの春の日。
今も、再会の挨拶を、至るまでに得た軌跡を聞きたいと願うのにリンの長い睫は深く閉じられ、微動だにすらしない。
“もっと未来で会いたい”と願った気持ちは本物であった。
未だ贖罪を遂げられない身では、この手を取ることは出来ない。それは今でも変わりない。
月の光に青白く浮かび上がるリンを見て、弁慶は瞳を閉じた。
感情を明るみに、深い悲しみに歪められたその表情であったが、陣にあるのは弁慶と意識のないリンただ二人。
滲み出た寂しさは宙に舞い、流れ消えて、終ぞ気付かれることはなかった。
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闇の中を手探りで進んでいた。
泣き腫らしたらしい目は鈍く痛み、視界を一層狭めていると思われた。
どこからともなく聞こえてくるのは耳障りな鈴の音で、今ではそれもリンを嘲笑っているかのように反響を繰り返す。
悲しみと憎しみとが織り交ざった複雑な感情の捌け口は見つけられず、代わりに物言わぬ涙となってぼたぼたと地面へと落ち続けている。
腹の前で手を合わせれば、その上で生温い滴を拾った。
ぬるりと不愉快な肌触りで指の隙間を滑り落ちていく様を、恨めしくも見届ける。
闇を進んだ先、突如小さな光溜りが現れた。真っ白なそこに触れるとさらりとした感触、そして手の熱でそれは水へと変わった―――雪原だった。
「……邸」
轟音と共に闇が晴れ、懐かしい景色に包まれる。あの師走の景色だった。
「リン!」名を呼ぶ声に振り返ると、そこには大切な同僚が立っていた。陽の光を浴びて透けて輝く薄茶の髪、お人よしの顔をくしゃりと歪めて手を振っていた。
知らず、リンは彼女に向かって走り出していた。雪を蹴って飛びついた同僚の体は温かく、華奢なその背を必死に抱く。
「サクラ!! サクラ……っ!」けれども歓喜の震えは長くは続かない。手のひらで掴んだはずの彼女の体温は、刹那、ぬるりとした液体へと形状を変えた。
驚き手のひらを見やれば、紅葉のように赤く染まる己の手。絶句しながら身を離せば、視界の端に入ったのは、サクラの“首なし胴体”。
「ひっ……あっ……ああああ…っ」
思わず突き飛ばしたそれは脆くも崩れ落ち、やがて消え去った。
灰になり飛び散ったサクラがあった場所にはどこからか湧き上がった川が流れ、膝をついたリンを飲み込もうと勢力を広げる。
――――サクラは恨んでいるの? その問いへの答えは得られない。
私が、歴史を間違えなかったら。
彼女は今も生存し、藤森の邸でみんなと笑い合っていたに違いなかった。
「ごめん……ごめん…なさい………っ………許してえ……」
精一杯、頑張ったつもりだった。精一杯、守ろうとしたつもりだった。
けれどその結果は実らない。
サクラは絶えた。もう、微笑むことはない。
「全て自分が上手くやっていたら」そうリンは激しく己を責めた。責める事しかできなかった。
絶望に打ちひしがれ、嘆く彼女に悪魔が囁く。
どうして、こんなことになったの?
どうしてあなただけがこんな目にあっているの?
どうして「時間が戻った」の?
よく考えて、
『あなたを神子の所へ連れて行く』
――――――“神子が、関わっている”よ。
飛び起きた視界の先には満点の星空と揺らめく松明の赤さが広がり、周囲は微かにざわつく程度で人の気配は少なかった。
起き上がり全身を確かめるように触れるが、どこももちろん何の異常も見られない。
強いて言うなれば衣服が張り付く程溢れていた寝汗と、頬に溢れた涙の筋だけだ。
悪夢の嘔吐感を飲み込んで唸ってみるが脳内に染みついた己の懇願の叫びは剥がすことが出来ずに苦しみ喘ぐ。
悲劇のヒロインを気取る気など毛頭ない。
こうしてうじうじと先に進まぬ悩みを抱き気分を落としている事を悟られる事は絶対に避けたかった。
けれども、けれども。降りかかる理不尽な運命に、逆らい立ち向かうだけの気力が、今のリンには残されていなかった。
恨み言が、漏れる。
「あの時、時間さえ戻らなければ……ッ」
どうして、こんなことになったの?
「……誰が悪いの…!?……誰の……っ」
いつまでもこんな風に己を責めて立ち向かわねばならない運命から背を向ける事ほど愚かな事はない。
リンとてそれは知り得ている。
けれども、何にどう立ち向かっていけばいいのか、どうすればこの胸の苦しみが癒されるのかが皆目見当などつかない。
これから先どんなに清く正しく生きようとも、運命の悪戯によって命を絶たれたサクラが生き返ることなどないのだ。もし生き返るとなれば、それは既に怨霊の身。
背の傷が引き攣ったような気がして、身を弾く。
フェイスラインをなぞった涙の雫が宙に飛んで、月光を吸い込んだ。
「……私が、何をしたっていうの……………」
誰もいない今だからこそ言えたそれは本音であったのだろうか。―――否、本音の一部だ。
自己中心的な、けれども自衛心の欠片。
―――悲劇のヒロインを気取る気など毛頭ない。……けれど。
理不尽にこの世界に連れられ、見目が歪み、親代わりに殺されかけ、時間を遡るという禁忌に巻き込まれる。どんな罪を重ねてここに至ったというのだろうか。
“何もしないことが、そなたの罪だ”住職の言葉が思い出される。
どれもそれも、嘆くばかりで結局何もしない私自身が引き寄せた厄災だと言うのならば、受け入れることが正解なのだろうか。
“――――全ての厄災が自らが引き起こしてるみたいな考えは、エゴだぜ”
将臣が言った言葉が思い出される。右を選べば左を、左を選べば右を示される―――何も、正しくなどなかった。
「……神子」
その存在がこの世界の目である事は火を見るよりも明らかである事に気付いている。
それが、あの娘二人であるということも。
リン自身を呼び寄せたのが龍神で、その神に仕える神子と言う存在…怨霊との関わり。
そして己を呼ぶ“坐”の意義とは何であるのか、リンは知りたいと強く願う。
“生きる理由が欲しい”かつて願ったそれが、随分と遠く、霞んで見える。遠い月を重ねて、ただそう、思った。
一つを思い出せば、一つを忘れる。
この頃、胸に深く突き刺さっているのは同僚を死に追いやった自責の苛みであった。
けれど時折背に走る刃傷は時折引き攣りを起こしてはリンを悩ませた。
忘れてくれるな。そんな、茶屋夫妻の声なき抗議であるかのように思えて仕方がなかった。
顔にこそ出さぬものの、リンは深く疲弊していた。
夢見も悪く、食事を採ってもその後一人で何度も戻して、最近では喉奥が焼けるように炎症を起こし始めている。
再会時に着用していた三室戸寺の僧衣もどきから、今では着物を着用しているがそれも随分と肩や帯に余裕が生じている。新たな癖が生まれ始めていた。
以前、五条で共に在った時に贈られた着物だ。弁慶の前でそれを着やる事が躊躇われたが、新たに支給を願い出る度胸などリンには備わっていない。
思えば、将臣も譲も望美も、時代に合った戦闘服を着用していた。
譲に至っては、その背に矢を備えていたほどである。
不意に疑問に思ったリンは隣の朔へと尋ねると、初めて会った時からあの姿であり、望美に至っては初対面のはずの、朔の名前すら呼んでみせたという。
普段は凪いだような瞳を持ちながら、望美の、白龍の神子の話題となると輝きを取り戻す。
その瞳は見るに堪え兼ね、リンは朔から瞳を逸らした。
「(………やっぱり、そうなんじゃない。時を戻したのは、あの子なんだ)」
“白龍の神子は特別な存在”その内容を知らずとも、周囲の人間の反応で察しはついていた。
神子の主となる白龍ですら望美を持ち上げ、その神力を説く姿は、不自然にリンの目に映ったのだが、横目で見た望美の表情を見れば確信は深まるばかりである。
刀の切先のように揺るぎない瞳の奥に、微かだが哀愁と同情を請う色を捉えたからである。
望美は確実に意志を以って時間を巻き戻した。リンはそう思った。
ぶるぶると震えた拳の中、深く刺さった爪痕が赤く染まっているのに気付き、深呼吸と共に緩める。
滑り込んだ外気が汗を冷やし、手はみるみる内に冷たくなった。
怒りを面に出してはいけない。冷静に考えてみればその重要性は明らかである。
先ほどまでは感情が走り、彼女を罵ってしまったが、これ程までに周囲に歓迎され、珍重される彼女と敵対して得られる利がどこにあるのだろうか。
「(時が戻っていることを、私以外の誰も知らないのならば、それは貫いた方が、多分、いい)」
少なくとも、彼女がそれを強行した理由を知るまでは。
己を殺して期を待つことは苦でも何でもない。願おうが祈ろうが、それはただ自己満足にしかならないのだ。
事を成し得るのはいつだって己が意志と行動のみ。
「……願い事は、叶わないのを知っているから」
「え?」
立ち上がり、望美の前へと向かう。周囲の緊張が伝わったが、リンは構うことなく翡翠の瞳と己のそれとを重ねた。
潤んだように不安が滲むその翡翠を抉ってやりたい気持ちを抑えて、ちりちりと焦げる心から目を逸らして―――そっと、頭を垂れた。
「あの時はごめんなさい。大切な友達を亡くして、気が動転していたの――――私はここに来て三年ほど経つから、何かきっと力になれるわ。きっと元の世界に戻りましょうね」
精一杯の作り笑顔で謝罪を垂れるが、周囲は偶像には気が付かない。リンからの謝罪、和解の申し出に平和を見出し、柔らかな雰囲気が流れていた。
望美の瞳からも先ほどまで覆っていた不安の色がなくなり、差し出された笑顔に応えるかのように微笑んだ。そっと右手が差し出される。
「そうだったんだね、大変だったんだ。私は気にしてないよ!よろしくね、リンちゃん」
「ええ。こちらこそよろしくね。春日さん」
重ね触れたそこはじわりと温かく、己が温度の隔たりはあからさまで。指が折れて握手が深くなる。
上辺だけの和解の言葉は空中を滑り、嘲笑うように羽ばたき響く。
――――そう感じられたのはリンだけであり、重なった右手に唾を吐きかけてやりたかったのもまた、リンだけであった。
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「平等院に源氏の本陣があるんです」
前線から引き、安全な場所へ向かうことを提案する弁慶の提案を拒否する理由はなかった。
九郎はこのまま前線へ向かいながら平等院へ引く事を伝えた。何か思うところがあったのだろう。
望美は九郎に同行する旨を申し出、一行は宇治上神社経由で平等院へと向かうこととなった。
一行は、その道すがらで不思議な青年と遭遇する。
小春日和がしばしばあるものの、未だ雪が残る冬という季節に悩ましげに腹部を露出した奇妙な衣装を纏うその青年は、梶原朔の実兄で、梶原景時と名乗った。
譲とはまた異なる鮮やかな緑色の髪に、引き攣る表情を浮かべたリンであったが、気さくなその人柄に感化されたように思う。
かつての京で出会ったヒノエと比較すれば、入りの印象が如何に大切かと言うことを実感させられる。
不意にリンは、景時の首元へと目を留めた。
左右に広げた羽のような刺青の中央に、髪の色に似た深い緑の玉が埋まっている。
そういえば、と譲の首元を見やればそこには若草色の玉が埋まっていた。リンの困惑に気が付いたらしい白龍が説明をする。―――八葉の玉だよ、坐。と。
「…八葉?」
「そう。八葉。景時は龍の宝玉に選ばれた“地の白虎”」
実母が凝っていた風水を思い出させるワードが飛び交うが、いまいち受け入れがたい白龍の言葉に困惑の意を示す。
その表情を汲み取ってか「人の言葉になっていない?」と顔を曇らせる白龍を見かねたらしい弁慶が補足を加える。
どうやら八葉と言う存在は龍神の神子を守るために、龍の宝玉が選ぶ存在の事であるらしい。
その証として体の一部に宝玉が現れ、それに龍神の力が籠る事によってその加護、力を分け与えられるという事らしい。
今のところその八葉とは、九郎、弁慶、譲―――そして景時の四名。この場にいる全てが白龍と神子に引き寄せられた存在であるらしい。
かくいうリンとて、白龍に喚ばれし存在である。“坐”
「(……あの子と二人になれる時間があれば、聞かなければ)」
時は宇治川の戦いまで巻き戻された。時間がただ戻っただけであるのか、どこか似て非なる時へ戻されたのかは分からない。
この世界が非なる歴史であるのならば藤森のかの地で友人は生きているのかもしれない。
もしかしたら藤森にすら、存在していないのかもしれない。
―――けれど、いずれにしても命は一つで、人生とて一度っきりだ。だからこそ人は懸命に今を生きている。
そう、リンは思うのだ。喚ばれた理由が、それに反するものであったとしても。
川を渡り、辿りついた宇治上神社にて、早速リンは八葉の役割、そして神子の力、龍神の加護を目の当たりにすることとなる。
かつて怨霊と化した茶屋夫妻とは似て非なる異形の者たち。
刃の利かぬ相手だと九郎が止めるのも聞かず、真っ先に怨霊へと立ち向かったのは望美であった。
既にトラウマと化していた怨霊との対峙に震え、腰を抜かしていたリンは、けれどもその無鉄砲な背を咎める。
そんなリンの止める声に、望美はゆっくりと振り返った。その瞳に込められていた光に、リンは言葉を失う。
望美はただ、笑顔であった。けれどもその瞳には強い意志が溢れんばかりに込められており、突如閃いた光が覚める頃にはその右手には刀が握られていた。
その後は驚きの連続である。
力を請えば、彼女の両脇に布陣を敷く八葉に光が溢れ、何やら呪文らしい言葉と共に“術”が放たれる。
怨霊の上げる奇声に耳を塞ぐ中、それでも真っ直ぐな声が突き通り、木霊する。
「かのものを封ぜよ!!」
迷いのない刀の軌跡が怨霊を切り裂き、それは目映い光を放って消滅した。
戦闘に巻き込まれぬようにと遠い所に佇んでいたリンには細かなやり取りは分からない。
けれどもただ理解したのは、白龍の神子の封印の力、そして八葉の人知を超えた力である。
リンはもう何も言葉に出来なかった。ただただその非現実的で奇妙な光景を眺め、瞳を伏せる。
遠くでは九郎が望美に助けを請い、力となるという契約が成立していたが当のリンには縁遠い話であった。
平等院の姿が見えた。左右対称の優美な朱の屋とその前に広がる澄んだ池、所々かけられた橋の優美な光景は、元の世界で見たものと変わりはない。
あの頃よりも柱の生き生きとした艶が見られる。
また、建物内部に人の姿が確認され、その生きた施設であるという現実に胸を打たれる。
時折こうしてかつての記憶との相違点を発見しては、異邦人であるという事実を目の当たりにするのだ。
感傷的になるわけではないのだが、やはり自分はこの世界の人間ではなく、そしてそれを日々実感する事がなくなったという事実に複雑な思いを抱く。
“本当に、随分と遠くまで来てしまった。”
先程の戦闘を目の当たりにしたリンは、未だ自身の中での気持ちの整理が出来ていなかった。
ぼんやりと胸の内に巻く不快感を持て余している。
陣の中に入る気にならず、外で時間を持て余していたリンの元へ譲が現れ、様子を伺う。
分かりやすいこの青年の反応が正直気になる所であったリンは、身を正して彼と向き合う。
思った通り、複雑そうな表情を隠すこともせずにリンを見ていた。リンはとりあえず気を取り直し、宇治川での非礼を詫びた。
「…驚かせたでしょう。春日さんに悪い事をしたわね」
「………俺が言うのもおかしいんでしょうが……先輩は、ただの高校生です。こんな、意味の分からない理由で連れてこられて、勝手に白龍の神子だなんて祭り上げられて、平気でいられるなんて俺には思いません」
「――――そうね。普通なら泣き出して嘆いているところだと思う。私だったらきっとそうだわ」
ヒュ、と喉が鳴るのを何とかこらえて絞り出した言葉は、自分でも驚くくらい上っ面のそれであった。
しかし譲は気が付かないのか、望美の処遇に関し落ち着くことのない胸の内を曝け出して嘆き続けている。
リンの耳も胸も痛み、喉が焼ける程に熱くなった頃に止んだ言葉の嵐に、抑えがたい憤りと保たねばならない体裁とで目が回る。
感情をコントロールしなければ。得意だっただろう。やるべき事を、言わねばならぬ言葉を知っているだろう。
悲しみも寂しさも自分一人で渦巻いてさえいれば、他人に求める事もない。
全身で叱咤し、一度の震えの後でリンは顔をあげた。
「…支えてあげてね。八葉として力が与えられた貴方なら、きっと力になれると思う」
譲がはっと顔をあげる。目じりがどこか赤く色づいたのは、秘めた思いを言い当てられたからであろう。
年相応の青年の反応はどこか微笑ましくさえある。
年長者の余裕の笑いを譲は目ざとく拾ったらしく、年下扱いを不服そうに唇を歪めていたが、力となるとの意思の共有に心底安心したらしい。そっと微笑んだ。
どうやら譲は弁慶らにリンを連れてくるよう使われたらしい。陣の中に入るのは変わらず気が乗らなかったが譲の立場もあろう。
「何の用か譲さん聞いてる?」
「いえ、呼んでくるよう頼まれたのは弁慶さんですが、九郎さんも遠坂先輩に用があるようでした。これからの話もあるようですし、行きましょう」
――弁慶という名にぴくりと身が震える。
離れていた間は幾度も会いたいと願ったものだが、再会してからはまだしっかりと話せていなかった。
逃げるように出て行った五条の日を思っては、抱いた決意の欠片が胸を刺す。
あの頃に比べて胸の内のそれは成長を遂げ、言葉に出来る程になっている。
けれどまだコントロールしきれていない想いの心が決意を惑わせていた。
向き合うのが怖い。
先行く譲の未熟な背を眺めながら、リンは一人そっと恐怖をやり過ごしていた。