やさしいひと(弁慶長編:完結)
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12.合縁
三室戸寺を守る僧の規律や厳格で、けれども誠実な彼らの介抱により少しずつリンはその心を取り戻していった。
出家した者、又は信者により保たれていた三室戸寺へどれにも属さない女人が入る事に反対する声は無論あったが、住職の志に次第にその声は失われていった。
藤森の集落の、邸の人間の想いが住職にしかと届いていたのである。
身寄りなく、類稀な風貌を持つ不思議な娘に降りかかる厄災を払ってやりたいと願った住職の心もあった。
伏見の山に積もる雪が解け、川の水嵩が増す季節になる頃には、リンも日常会話を交わす程度に回復を見せており、京の街に桜が満ちる頃には僧の務めを行うようになっていたのである。
京の街に身を置く源氏の名代、源九郎義経がその名を馳せるようになってから都の最新の話題が流れるようになった。
宇治にあるここ三室戸寺へも世の流れが伝わるようになって久しい。
世間の浮ついた噂話こそ僧達には無縁であるのだが、今では積極的に取り入れるようになっている。
リンが、唯一深く興味を示す話題であったからであった。
と言っても若い娘が心躍らせる流行の衣であるとか装飾品であるとか、そんな話題ではない。
特に京に伝わる龍神に関する伝承、怨霊、源氏平家の確執…政治的な世の流れに深く関心を示した。
不安定ながらも日に日に己を取り戻していく姿を住職は微笑ましく眺めていたし、リンに対し感じていた不思議な空気の正体を掴めそうなところまで至ったことに満足していた。
「汚れを落とせば傾城宛ら、けれども俗気を抜いたその鮮烈な白の風貌はどこか神具にも似ている」
敬虔である故に感じられたその神秘性に、住職や僧らはどこか畏敬の念を重ねたのかもしれない。
唯一の秀でたる才能―――そう呼ぶには些か卑屈であったが、それがここでは自衛へと働いたのはリンにとって有益であった。
三室戸寺が紫陽花に埋まる――――水無月の出来事である。
早朝の小雨の中、初々しい新僧が雑巾片手に向かう大廊下の端、見かけたのはリンの姿であった。
青白い、朝の薄暗い光の中で降りしきる雨を裂いてじっと見つめる先には紫陽花の群がある。
新入りの起床時間よりもずっと前からそこにいたのか、いや、もしかしたら昨晩からそこにあったのかもしれない。
まだ幼さが残る僧の視線を縫い止めながら、けれども双方の視線は決して交わらない。不思議な静寂が広がっていた。
ひたすらに紫陽花を見つめるリンンの世界に音を立てる事を憚り、そっと立ち去る―――――気配の消えた部屋の中で、僧は思い返していた。
青に、紫に――――――静かに彩る紫陽花を見つめるリンの視線の、その熱さを。
しとど。けれども酷く――――静かな空間である。
ゆるりと流れる時の早朝、三室戸寺が紫陽花の名所だと知ったのは水無月に入ってからの事であった。
かつての世界で母と散歩に出かけるのはいつも晴れの日で、雨が降る六月などは籠っていたから、葉を見るだけでは紫陽花だと気付かなかったらしい。
―――随分と遠くまで来てしまった。
精神と肉体の分離が徐々に元に戻ろうとしているが、まだ精神が“深く考える”事を奪っている。
子供のように思うがままに、感じるがままに発言することを己が理性は許した。まどろむ思考の中で紫陽花がぼんやりと形を変える。
きれいなひとだった。
「………弁慶さん、だいすき」
本当に、随分と遠くまで来てしまった。
旬の過ぎた寺院の役割は大人しく、季節の移ろいは早い。
烈なる日差しの夏も、切なく高い秋の空も、見送るのは瞬きの刹那であったように思われた。
この寺院に身を寄せ、一年の月日が経とうとする冬の景色はどこか寂しく、飽かず吹かれる木枯らしの侘しい音が紫陽花の園を駆けていくばかりである。
いつの日かと同じように、リンは廊下の渡り橋の端、すっかり色寂しくなった群へと目を向けていた。
半年前と異なるのは、その瞳の生気であっただろう。
ようやく初々しさの抜けた彼の僧が見たのなら、その変化に喜んだに違いない。
目の前の紫陽花の園は既に冬を迎える姿に変わりきっており、青々と茂っていた葉は何処へ朽ちたのか、ただ畑土ばかりが広がっている。
変わった瞳と、変わった景色と。けれども変わらないのは胸を焦がす一つの想いだった。
紫陽花のようには移ろえない、甘い呪い。
ふいに気配を感じ振り返れば、神妙な面持ちを向ける住職の姿があり、リンは姿勢を正した。
軽く手を振りそれを遮ると、住職ははしたなくもリン同様橋へと腰を下ろし、畑土へと目をやった。リンもそれを追う。
「そなたはもう元に戻られたか」
「はい。住職様と皆様のおかげで……本当に、感謝してもしきれません」
「私達は務めを果たしたまで。そなたにかかる厄災を払いのけたのはひとえにそなたの心の強さ。誇ればよろしい」
「そんな……」
自我を取り戻したリンは既に素直ではなくなっていた。
認められて嬉しい気持ちはあるが、多くの協力により得た現在の自分である。
素直に誇り受け入れることは出来なかった。けれども住職の称賛を否定することもしたくはなかった。
噛み砕いて、言葉を胸に留める。
「思えば、随分と世は乱れてしまった―――――未だ治まらぬこの戦乱の都を、そなたはどう思う?」
「……戦は嫌です。理不尽に命が奪われてしまいます。……けれど、そんなことをどうして私に問うのですか」
その問いに返答はなかった。一介の学生―――――その認識は今も完全に拭い去ることは出来ていない。
故に、リンは深く悩むのだ。この世界では、学生と言う身分に与えられる“学業”を果たす事叶わず、ただこの鎌倉という世に在る迷い人として時を重ねるだけの日々。
「生きなさい」と枷をはめた茶屋夫妻の言葉だけがこの世に生を繋ぎ止める理由で、それがなければもしかしたらとうに命を絶っていたかもしれない。
唯一心を動かした“彼の人を救いたい”。その願いを抱きながらも結局は何も事は進展していない。
僧達から流される伝承に耳を傾けていても、結局は何一つ答えを導き出すことは出来なかった。
自分が何者かも分からない。
この世界に於いての役割とは。
与えられた使命とは。
あなたはどうしたいの。
わたしはどうしたいの。
質問や疑問は言葉にならずに脳内で鳴り響くばかりで出口が見えない。
きっと、答えなどどこにもないのだ。その中で己が信じるものを抱き、困難を払って進んだ先、その全てが“さだめ”となるのだろう。
「…どうして私はここまで弱いのでしょう。自分が自分たる理由さえも、肯定できないのです」
「それはそなたがやさしいからでしょう。人というものは強欲で、己の幸福の追求の為に生きているもの……そなたにはそれが薄い」
「やさしい?」
思いがけない綺麗な言葉にリンは振り向いた。けれども住職は変わらない静かな面持ちで述べるばかりである。笑みさえない、無表情だった。
否定の言葉が喉まで出かかって、遮られる。
「己を律し、他人が為に無償の愛で生きるというのは神の教えに似ている。そしてそなたはそれを体現している。その、若い身で。その精神をやさしいと評する」
「…………」
「けれどそなたは神界ならぬ現世に堕ちした身」
「何もしないということが、きっとそなたの罪だ」
己の信念を決める理由を、人に委ねてはならない。恐れてはならない。
住職がリンの無機質な精神と完成された容姿に見出したのは“答え”であった。経年の逞しい心眼は確実に心理を掴んでいたのである。
リンに与えられた使命は必ずあって、そしてそれは己の範識を越えた重く要たる使命なのだろうと、か細い肩を揺らして涙する娘を見て思う。
この世の全てが運命という壮大な流れにあるというのならば、天命を果たすべく生きたいと願う娘は酷くいじらしく、そして愚かなほどに聞き分けが良すぎると感じた。
けれどそれを住職は最後までリンに告げることはなかった。
神道に仕える身としてあるまじき選択であったかもしれない。
けれども住職は人であった。
運命を捻じ曲げる事願わずとも、人として、人であるリンに「ただの娘として幸福に生きてほしい」と思った。
「(どうかこの娘に降りかかる厄雨を今一度弱め給え)」
この娘にもう一度精神を取り戻させたのは罪であろうか。リンはそれを恨むだろうか。
間を埋めるように。皺だらけの手の中で数珠が擦れ、音を立てた。
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西へ東へ、時には北へ。
世が深まるのに伴い、日ノ本は戦に明け暮れた。
各地の戦の爪痕やその戦乱に巻き込まれ村がなくなったという噂を耳にするのも一度や二度の話ではない。
リンがこの世界へやってきてから早三年近くが経過しようとしている。
日にして千の日を過ごせばこの時代の慣習に馴染む事もあり、悲報が耳に届けば熱心に祈りを捧げた。
いつ命が失われるかも分からぬ日々に怯えこそなくなりつつあったが、源平合戦の動きだけは把握すべく気を張り巡らせていた。
そんな、ある冬の日の事であった。
朝の務めを終え、朝餉の支度を手伝っている最中の事である。
まるで叩きつけるかのように乱暴に鳴らされる板間のけたたましさに手を止め、集まった。
皆々同じ面持ちで、動揺を隠しもせずにその音元を見やれば、厳粛なる住職が血相を変えて震えている。
その身に何か起こったのかと僧が詰め寄る。
伝染する動揺の様子を悟ってか、しばらくして平常心を取り戻したらしい住職であったが、けれども険しい表情のまま告げた。
「皆の者、心して聞きなさい。時代が大きく変わろうとしている」
源氏軍敗走の知らせだ。部屋の中にはどよめきが広がり、驚きや憤りなど各僧の反応は様々で過剰な擁護も抗議もない。
歴史の流れを詳しくは知らないが、教科書上で、源氏が世の中心となり事を上手く進めていたという教育を受けていた事もあってか、世間に源氏を支持する声の少なさに驚いた。
僧の中にも京出身者はいるらしく、鎌倉に幕府が開かれたこと、源家が政治の実権を握っていることに不満を覚えている者もいる。
ぶつぶつと小言を述べているのに、ふと、リンは意識を留め、それに問う。
「…すみません、無知でお恥ずかしいのですが、教えていただけませんか」
「…え、あっ、リン様。どうぞ」
「源氏軍と言うのを率いているのは“源”という名字の人なのですか」
「みょうじ、というものは分かりかねますが…。鎌倉に幕府を統べる鎌倉殿…が、“源頼朝”様です」
よく考えてみればそうだ。歴史を定義づけるのは“現代”で、見つかった資料から名付けるものであったはずだ。
源氏という名が“源”という氏から来たものであると仮定するとあっさり答えに導かれるというのに。随分鈍っていた思考に内で舌打った。
しかし同時に湧き出てくる、不安感。歴史には明るくない、けれど、人間誰しも幼少時に童話に触れさせられる。それが常識を超えた逸話であればある程童心をくすぐるものだろう。
『武蔵坊弁慶は五条大橋で牛若丸と出会い、召し抱えられた。牛若丸―――後に、源義経と呼ばれる英傑』記憶が色を取り戻し、けれど見る見るうちに淀んだ色へと変わっていく。
“源”義経と共にある、武蔵坊弁慶。その事実が胸を揺さぶり不安に駆られる。
今すぐにでも安否を確かめたいと願えども、源氏への風当たりが明るいと言えないここで公にそれを問うことは躊躇われた。唇を深く噛み締める。
ぎりり、と肉の食い込む乾いた音がした。
情報をスムーズに得られないまま、幾月の時を流した。
源平軍の動きは軍事機密であり、易々と一般民の元へと流れてくることはありえない。
リンはそれを失念していた。三室戸寺を出て京の街へ飛び込んでいく決断を終ぞ出せないまま、先の見えない不安を解消する事叶わず、またもこの世の路頭に迷ってしまった。
自分を責める癖に、踏み出すこともしない。それを表に出さないだけが、唯一のリンのプライドであった。
責められたくなどない。慰められたくなどない。この結果はすべて己が動かぬせい故のものなのだ、と自分の身に起こりうる全てを受け入れ、悩み、嘆くだけだ。
そんな内なる葛藤を誰も知らない。誰も知らなくていい。ただ、大切な人が、笑って―――幸福であってくれたならば。
託された生への執着はやはり持てない。けれど、けれど。汗でぬめる両手を合わせて、瞳を閉じた。爪が食い入る程に固く握った両の手を、音に出来ない憤る願いを、祈った。
――――シャン、 ――――シャン、
―――それは、突然に訪れた。
激しい引力の崩壊、まるで何者かに手を引かれたように体が浮く。
思考も視力もそれをとらえることが出来ずに混乱に染まる。
浮遊する物のように宙を舞う感覚があるが、目の前の景色は高速で移動を続ける伸びた色だけが映し出されて、何であるかが判断できない。
けれどこの感覚を知っている。
それを思い出した瞬間に、全身が粟立った。恐ろしい記憶の一つだ。
混乱は一瞬にして恐怖へと塗り替えられ、震えだす体と敏感になる肌と。準備を待つ前に無常にもそれは訪れてしまった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ァァァァ!!」
化け物のように奇声をあげてそれに耐える。既に考えることなど出来るはずもなく、肉体が全身で雄叫んだ。
激痛を通り越した激痛に、めりめりと存在しないはずの精神と肉体の剥離感に悶え苦しみただただ狂うばかりの時間は進んでいるのか止まっているのかすらも判断できない。
辛うじて皮膚と髪が拾う引力と慣性に、この現象が目的ありきである事が想像できるが、けれども当の本人に状況分析をし得るだけの余裕があるはずもなく。
髪を振り乱しながら異空間の中を流されるだけであった。
その激痛は突如終わりを告げた。
ゴミのように放られた先、滲む視界で何とか捉えたのは一面の白色であった。
さく、と音を立てめり込むその地は雪原であり、すぐに肌にじわりと冷えが伝わる。
全身に感じていた痛みの余韻に喘ぐリンは、まだ周囲を見渡す余裕なく、横たわったまま蹲り己を抱きしめた。
酷い痙攣を構いもせず、強く強く掻き寄せる。
腹を、腕を、股を、膝を掻き寄せてこの身が分断されていない事実を噛み締めれば、少しばかり取り戻した意識で目元へと手をやる。
涙を拭って、次は小刻みに震えた。恐怖への震えだった。
もしかしたら、生きている事への安堵だったのかもしれない。
「…う……うう…………」
雪に埋もれた半身が冷えて痛みを感じる頃になっても、リンは立ち上がることが出来なかった。
落ち着いた思考がただ、この先を示してはその気力を奪っていくのである、元々後ろ向きな思考の持ち主なだけに、弾き出された答えはどれも残酷だ。
また、時間が戻ったのだろうか。
また、あの歴史を変えないよう振る舞う恐怖に怯えるのだろうか。
また―――――この痛みを味わう日が、来るのだろうか。
『「人は痛みで死んでしまうんだよ」』
―――――もう一度があったなら、私は次こそ死んでしまう。
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「…!? 誰か倒れていますよ!」
雪原に響き渡った声が耳に届いた。けれども身を起き上がらせるだけの気力さえ尽き果てていたリンは、その声をそのまま聞き流す。
金属が擦れる音と、雪を踏みつける足音、次第にそれははっきりと、そして音量を増していく。
真っ白な視界と、その端に映っていた空色が遮られる。
まるで五月の新緑のように、鮮やかな頭が視界に入った。
かつて見たことがある色だと霞む思考でそれを追ったが、抱き上げられるという動作でそれが遮られた。
力強い、けれどもどこか細い腕が膝の下に通り、引き上げられたその先。
見覚えのある若い男の顔が視界いっぱいに広がり、急激に世界に色が灯された。驚き、目が自然と開いていく。
「……有川君の、弟さん?」
「!? あ、あなたは………遠坂先輩?」
リンを抱き上げた若者、それは有川将臣の実弟の有川譲であった。
驚く譲とは対照的に、リンはすぐに平常心を取り戻した。幾年か前に将臣と京で再会した際にそれとなく匂わされていたからである。
けれども一つだけ、リンは不可解な点に気付いた。この世界にやって来てから約三年が経過しているはずである。
けれども抱き上げる譲は三年前の記憶と一つも変わらない。
――――まさか。一つの可能性に行きつく前に、若い女の声で五感が奪われる。
「遠坂さん!?でも髪の毛真っ白って…どういうこと?それに、心なしか大人っぽい、よね?」
弾かれた様に声の方を振り返る。
真っ白な世界に目障りな桃が舞う。北風が掬い遊ぶその長い髪を靡かせて、真っ直ぐな翡翠の瞳が射抜く。
少し険しい表情でリンを見るその目は酷く輝いていた。その眩しさに、思わず瞳を逸らしたが、既に遅かった。
掌には汗をかき、心臓はばくばくとけたたましく鳴り、脈が早まる。
―――――春日望美。将臣の話でこちらに来ている可能性はもちろん知っていた。
けれども譲の時のようにその現実を受け入れるのが容易ではなく、その腕の中で静かに震えていた。この感情を何と呼ぶか、リンには分からない。
形容しようのない不快感に襲われる中、逸らした瞳の先、またも目を開くこととなる。
落ち着いた風貌の少女の隣、腰ほどの身長の存在を見たからだ。小気味悪い存在感の、掴み所のない瞳でこちらを見通す存在。かつて、時空を渡るべく手を引いた、存在。
「あなた……あなたがどうしてここに」
「遠坂さんこの子を知ってるの?」
譲から降り、その子供に詰め寄る。真冬だというのに頬には汗が伝い、心臓が激しく鳴り響いていた。
その子供には聞きたいことが山ほどある。あまりにも鬼気迫る表情で近づくリンに悟る物があったのだろう、近くに立つ枯茶色の髪を持つ少女が制した。
「…これから私達は源氏の詰所へ向かうの。今ここで時間を食うわけにはいかないのだけれど」
「源氏の…詰所………あなたたちは源氏の兵士?」
「ヘイシ?…いえ、私は神子――――黒龍の神子よ」
―――神子。これ以上間開くことなど出来ぬというのに、それでもリンの眼はそれ以上を求めた。
目の端が痛むほどに開かれた瞼の端、思い出されるのは全身を引き裂くあのおぞましい体験の記憶であった。思わず全身に寒気が走り身を抱く。
溢れだす緊張と恐怖の泥を飲み込んで、少女を見やる。
冷めたようなどこか遠くを見据える涼やかな枯茶は、生きているようで死んでいる、リンはそう思った。
この神子にも聞きたいことは山ほどある。
しかしながらこの黒龍の神子が言うように、時間がないのだろう。扇を握るその手は苛立たしげに焦りを滲ませていた。
「…私も、連れて行ってくれませんか」
「了解しかねるわね。あなたが何者かも分からないのに、詰所へ案内することなど出来ないわ」
「朔、坐は敵じゃないよ」
たどたどしく言葉を紡いだのは子供であった。その言葉に朔と呼ばれた―――黒龍の神子が振り向く。
納得がいかないといった面持ちであったが、その子供の言葉を信じたらしい。
先ほどとは異なり、少しばかり緊張を解いた表情でリンを見据えた。
リンはリンで、その子供の存在について不可解に思う気持ちを止められなかった。
以前会った時、纏う羽衣を操りリンの常識を覆す魔法のような技を見せつけられた事から、その子供が普通でないことはもう嫌が応にも認めている。
ただでさえこの世界に引きずられた時から響いている奇妙な鈴の音がそれだ。
頻繁に鳴らしては眠りを妨げていた鈴の音は間違いなくこの子供と共にあることも分かりきっている。
警戒心の強そうな人間である、朔があっさりと主張を下げて警戒心を解くほどに、この子供の言葉には意味があるとでも言うのだろうか。
考えても答えの出ない疑問が舞う
。全てを尋ねたいと願ったが、状況がそれを許さなかった。
朔が導くまま、不思議な子供、有川譲、春日望美、そしてリンの五名は源氏軍の詰所へと、雪道を往くこととなったのである。
苛々と落ち着きなく右へ左へ。
その背を見やって弁慶は密かにため息をついた。
集団というものを統率するには第一に“頂”を一身に、盲目的に信じ込ませるだけの魅力が必須であると考えている。
先ほどから落ち着きなく動き回るこの男、源九郎義経はこの源氏という集団の頂にある身である。
いくら詰所内であるとはいえ、この姿を伝令兵などに見られでもしたら指揮が下がるのは目に見えて明らかである。
「九郎、いい加減腰を下ろしてはどうです。朔殿ならいざという時の力があります。心配するほどの事はありません」
「しかし、そうはいっても黒龍の神子とやらの力は戦闘に特化したものではないのだろう?」
意味のない繰り返しの会話を押しやり、九郎を幕の向こうへやるとすぐさま弁慶は伝令兵を呼び付けて指示を下す。
梶原戦奉行の妹御が戻った場合は何者も介さずにこちらまで通すよう伝え、短い返事と共に伝令兵は踵を返した。同時に弁慶もである。
宇治川のこの戦は大まか勝敗を決したとはいえ、川岸にはまだ怨霊が確認されている。
安全を保つだけの保証はどこにもない以上、源氏軍軍師としてはまだまだ気を休めている暇などない。
夜警の指示、今後の展開などを敷くべく詰所内を忙しく走り回っていた。
陣内を回っている内に幾度か九郎とすれ違っては言葉を交わしていたのだが、それも時間が経過するにつれて元の冷静さを取り戻したらしい。
己の未熟さを悔いながらも先を見つめ始めている。その姿を垣間見て、ようやく弁慶も一息、安堵のため息を吐き出すことが出来たのである。
さて、これからどうするか。話題を振るべく口を開いた時であった。
「なんだ?随分騒がしいな」
「おそらく朔殿が戻ったのでしょう。兵達にはここに通すよう指示を出してあります」
「…そうか」
先ほどの落ち着きのなさはどこへ行ったのか。顔には出さぬが内心安心を噛み締めているに違いない若き大将を見て弁慶は笑う。
あるべき姿を取り戻した九郎のことだ。また仕様のない物言いで対応するに違いない。
弁慶は呆れたようにため息をついているが、その口元は微かに緩んでいる。
「本当に君は、放っておけない人ですよ」
あとは暴走せぬように補助を入れるのみ。同じく踵を返し、神子一行を迎えるために幕を離れたのであった。