やさしいひと(弁慶長編:完結)
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11.逆行
覚束なかったこちらの生活も早三年の月日が経とうとしていた。
猟師、茶屋、薬師、邸、と巡るように住まいを変えた目まぐるしい日々も、一年程前から定着したこの場所で二度目の冬を迎えようとしている。
元の世界に帰る手立てもその見込みも、何一つ手がかりは得られないままの生活ではあったが、季節、気候、日々の全てが生活に直結するこの時代は生きる事に忙しい。
釜戸で炊く飯を焦がさなくなった頃には、すでにこの時代が染みついている自分に苦笑する余裕さえできていた。
けれども時折思い出す、怨霊と化した恩人の事や、元の世界。
そして今でも鮮やかに思い出される彼の人の深い瞳。
鈍く、時に甘く広がる様々な悲喜も、時間の経過が少しずつその思い出を風化させていく。
忘れることが罪だと己を責めた日もあった。忘れたくないのだと、泣きわめいた日もあった。
どうすることも出来ないその苦しみを癒したのはやはり時間で、そして周囲に付き添い続けてくれた長者屋敷での同僚、そして集落の住民であった。
元の世界では希薄となってしまった“人の絆”のあたたかさに触れ、癒され、その日常を守りたいと強く願った。
けれども世の流れとは残酷なもので、源平合戦の余波は確実に民衆へとその牙を向けていたのである。
京からほど近いここ藤森に流れてきた噂は、程なくして集落を凍りつかせることとなった。
「…宇治川、ですか」
「……ここから目と鼻の先だよ。お上の考えは私達には分からないけど…ここらも巻き込まれる可能性があるんだよ」
「戦場になるということですか」
「それもあるけど…敗走兵が野党になる方が怖いよ。男共は武具を狙うって命知らずもいるけどさ…どちらにせよあたしたちの生活が壊れるのは間違いないよ」
その後も同僚の口から語られるのはどれも絶望的な言葉ばかりであった。平和とは言い難い、成長途中の時代である。
同民族での諍いの予告。国の明確な支配者がおらず、システムも確立していない時代だからこそ国内での争いは絶えず続き、裏切りと欲望が横行する世界である。
それはリンの感覚ではありえないことであった。
いつ命を落とすか分からない状況という異変が、けれどもこの世界では常なる感覚であり、まるで遠い世界の紛争を語るような口調で吐き捨てる同僚に違和感を抱いたのだ。
どうすればいいのかと聞いたとて、諦めたような仕草で曖昧な返答が返ってくるのみで現状を変えられる手立てはどこにもないのだと言われたのに等しかった。
噂を真実か否かを見定めるだけの情報もなく、命を確実に守れる手立てがあるわけでもなく。
ただただ、いつ行われるかも分からない戦の行方に怯える事しか出来なかったのである。
ある、雪明けの日の事であった。
心配していた戦も、噂話から幾日か経過しているが開戦の知らせはなく、この邸でも特別な避難指示や暇を与えられるといったこともなかった。
ただの噂であったのだろうか、雪に反射される日の光を浴びながらそんな事を思う。小気味よい音を鳴らして、シーツが空に掲げられた。
青い空に差し込む日光の暖かさに思わず和んでしまったが、手早く手元の桶を片して邸へと戻る。
この後、新しくやってくる客人の為にと食材の調達を頼まれていたのだ、冷えて真っ赤な手を擦りながら注文を聞き出しすぐに外出の支度を始める。
風呂敷で袋を作るリンの背に、ふわりと手が置かれた。調理場担当の娘だ。
リンとは年齢が近いことから意気投合した同僚の一人で、越中から出稼ぎでやって来たと話に聞いた。
彼女の顔を見て、リンはそっと両手を差し出す。それを見やってにやりと笑った娘はその手に小さな袋を渡した。二人のお約束である。
「サクラちゃんいつもありがとう!あったかい…っ」
「今日は雪も積もってるし一層冷えるから…しもやけにならないようにかんじき履いて行かなきゃだめよ」
「あ、そうか。かんじき借りていかなきゃ。さすが雪国育ちだよね」
「リンちゃんが都会生まれなだけよ。さ、早く行かないと。今日のお客様は重要な方らしいの。おいしそうな鮭、お願いね」
温めた小石に包まれた袋を胸元に入れ、かんじきの紐をきつく絞めた。
じんわりと温まる胸元に、サクラの気遣いを感じて頬が緩む。
――――行ってきます。見送りにと勝手口に立つサクラに手を振って、リンは京へと向かう。
吹き付ける北風なんのその、胸元の友人の気遣いの前ではその寒ささえも感じられない。
時の流れで錆びついていた感謝の心が思い出される。人のあたたかさ。
ささやかな気遣いの、日常のたったひとつの輝きに結びとめられたのは心か、記憶か。思い出して泣き出しそうになるのを振り払ってリンは先を急いだ。
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荒縄にくくられた見事な鮭、包装の間からこぼれる荒塩を揺らしながら岐路に向かうリン。
目的を果たしたという充足よりも、その姿は緊急事態を表すのに等しい。
険しい表情で荒縄を揺らしながら邸への道を急ぐ。いつかの悲劇の日と同じ、鮭の切り身が空しく揺れた。
「(…早く…っ、早く!)」
リンが異変に気付いたのは京に入ってすぐの事であった。馴染みの葉物屋が出店していない。
そんな日もあるのかとさして気に留めずに座を巡っていたのだが、よくよく見やればその他の馴染みも座を開けていないことに気が付いた。
辺りを見渡しても客入りが少なく、買い物客もどこか忙しなく座を巡っては足早に退散していくのを見て、とうとうリンが声をかけたところ、京の住人らしいその人は酷い剣幕で状況を言い放った。
“宇治川で開戦”
一気に絶望へと突き落とされたその情報に、暖を取っていたサクラの石袋を落とす。音もなくそれは雪へと消えた。
でも藤森から京へ向かう間に、武装した人間とは一人もすれ違わなかったと反論したが、それはすぐに真実で上塗りされ希望はかき消されてしまう。
既に布陣の済んでいた両陣営は早朝より開戦となったはずだと店の主人は言った。決着が着かずとも、日が落ちれば終了するということも。
京から藤森までは約三キロメートル。二時間もかからないうちに戻ることは出来る。けれども、避難する時間を考えれば時は早ければ早いほどいい。
そう判断したリンは最低限の買い物を済ませ、急ぎ邸へと引き返してきたのである。
慣れないかんじきを脱ぎ捨て雪靴で走る。深い雪に足を取られ何度も転んでは立ち上がり、走り出すが既に足先の感覚はない。
体育の授業をもう少し真面目に受けていたらと己の怠惰を憎めども、リンはただひたすらに雪道を駆けた。
距離にして約三キロメートル。決して長くはない道のりだが、大雪の影響もあってか、リンが邸へ戻った頃には陽は頂点を過ぎていた。
見慣れた邸の普段と変わらぬ様子に、ようやく心臓が落ち着く。転がり混むように勝手口に滑り込めば、驚いた様子の同僚と目があった。
「ど、どうしたのよリン…!そんなに血相変えて」
「ちょっと、ぼろぼろじゃない…っ!かんじき履かずに出て行ったの?」
尋常ではないリンの様子に同僚が口々に心配の声をかけるが、息が整ったところで開戦の情報を伝えるとその雰囲気は一変する。
それでもさすがはプロといったところか、同僚達は落ち着きながらそれでもすかさず邸全体へ情報を流し、主人の命を正確に伝えた。
持ち帰った情報を集落へも伝え、避難が必要であれば実施すること、村に残る男手で落ち武者への対策を行うこと、その情報伝達は素晴らしい速さで行われた。
思った以上に優れた取扱いに、息絶え絶えに帰ったリンもようやく安堵のため息を漏らした。
サクラが器に注いだ水を手渡す。ありがたくそれを飲み干して、リンは詫びた。
「ごめんねサクラちゃん、せっかく袋、くれたのに…落としてきちゃったみたい」
「そんなこと大丈夫…!それよりかんじき脱ぎ捨てて来たんでしょ?足、凍傷の危険があるかもしれないから、温めないと…っ」
友人の甲斐甲斐しい気遣いに深く感謝する。その言葉に甘え、用意された温かい湯に足を浸せば、ようやく血が巡り始めたようで内側から発熱していく。
凍傷とまではいかないものの、やはり雪道での無理がたたったのか足はしもやけが出来ており痛痒さがもどかしい。
それでも必死で持ち帰った情報もあってか、何とか集落一体に対残党用の対策が敷かれたと話を聞き、安心を噛み締める。
そっと右の柱にもたれて瞳を閉じた。きっと大丈夫、きっと。
そう、思った束の間の出来事である。
「坐、こんなところにいてはだめだよ…!」
「! 誰!?」
「坐、早く、神子の所へ……」
――――シャン、 ――――シャン、
はっきりと聞こえた子供の声と鈴の音、目の前には真っ白な髪の子供が焦った様子でこちらを見ている。
距離を詰めていいのか迷うような仕草を見せた後、眉を下げてリンの着物に縋りついて、聞きなれない言葉の先へと連れて行こうとしている。
警報のように鳴り響く鈴の音が煩い。これは、そうだ、この世界にやってくる直前に聞いた、雨音の中の不思議な鈴。
「…あなたが私を連れてきたの?」
「違うよ。正確には、あなたは神子に引き寄せられた。神子にあなたは必要な存在。離れては、いけない」
「…神子?神子って……何?」
「坐、今は時間がない。あなたを在るべき場所へ連れて行く」
羽衣をふわりと操り円を描く。すると何もないはずの空間が捩れ、そこから皮膚のように捩れ裂けた穴が現れた。
非現実的なその光景に言葉を失う。それを起こした本人は呆け固まるリンに構わず中へ入るようにと急かした。
けれどもあまりにも異様な光景に足がすくんで動かない。
何物かも分からない子供とその現象を信じ受け入れるには、リンの性格からしてあまりにも酷な事である。
けれどもいくら渋ろうとも拒否権などないのだと言わんばかりに、子供はリンの手を引き強引に穴の中へと押し入ったのだった。
自分のものよりも一回りは小さいその手は氷のように冷たく、何やら異常な寒気が感じられた。
身の毛もよだつ。その表現がよく似合う。
状況を理解すべく思考を張り巡らせていたリンであったが、体が完全に異空間へと入ったその直後、体内に走ったのは言葉に出来ぬ激痛だった。
全身のありとあらゆる穴から脂汗が滲み、肉体と意識とが分離するようなおぞましい痛みにリンは獣のような咆哮を上げる。
痛いと言葉にすることも叶わないそれは喉を焼き、内臓が煮え立つ。
体の内から臓物を掴まれ引き抜かれるような、臓器が分断されるような、経験を幾重にも飛び越えた激痛にリンは全身で抵抗をした。
気狂いのようなその姿に怯んだか、否、激しい抵抗に耐えきれなかったその子供は咄嗟にリンの手を放した。
「坐!!」
子供の呼びかけ空しく、リンはそのまま異空間の狭間へと飲み込まれていったのである。
『祖父は肺を患い、数年前に闘病の甲斐なくこの世を去った。
癌に似たその肺の病の進行がピークに達した時、医者から告げられたのはモルヒネ投与の一言であった。
聞き馴染みの薄いそれはいわゆる“麻薬”の一種で、癌による強い疼痛を緩和する目的で使用されるとの事であった。
鎮静剤というものに強い偏見と嫌悪感を抱いていた私は、医者に不快感を示したのだが、それを制した父親は憤る私を諭した。
「人は痛みで死んでしまうんだよ」
モルヒネで痛みを感じなくしなければ、その“痛み”に耐えきれずに死んでしまう』
「…! リン!!」
怒鳴り声に近い、己を呼ぶ声で目が覚める。目覚めた時、初めに視界に飛び込んできたのは見慣れた同僚の―――サクラの顔であった。
怪訝そうに眉を寄せこちらを覗き込んでいたが、尋常ではない汗の量に途端に心配そうな顔へと変わった。
手拭いを探しに去ったその背を複雑に見つめる。
恐る恐る腹部へと手を伸ばしたが、もちろんそこには肉があり、皮膚があり、衣服を着ている。
手足も首もちゃんと揃っているし、どこも欠けてなどいない。
悪夢だと切り捨てるにはあまりにも生々しい感覚だ。
現にあの、臓を、皮膚を、肉を、骨を裂かれるような“切れた”感覚が全身に張り付いている。痛みこそ、ないけれど。
まるで鶏肉を裂いた時のように、呆気なかった。思わず両手足に視線を落とす。肉料理を食べる時のように、捻って、千切れる。
そう意識した途端に目の前が真っ暗になった。
視点が合わない。ただただ襲い来る恐怖と全身の感覚から逃れるように奇声をあげてのた打ち回った。
格好などどうでもいい、とにかく今は、この恐怖から逃れたかった。
異変に気づき駆けつけた同僚数名らに取り押さえられ、事の事態の不明確さにただただ場にはどよめきが起こったが、日々の己の振る舞いが幸いしたのか。
気狂いの烙印が押されずにいられたのは幸いだったのかもしれない。首に落とされた手刀に意識を飛ばされた瞬間、心で感謝を述べたのは何よりも本心であった。
次に目が覚めた時のそこは漆黒が流れ込んでいた。少し開けられた扉の隙間からはぼんやりと月明かりが差し込んでいるのを見て、今が夜なのだと知る。
掻い潜って部屋に忍び込む風は冷たく、その向こう、庭の木々には薄らと雪が積もっており明かりを一層輝かしく見せていた。
どこからが夢で、どこからが現なのか。起き上げた上半身を布団へと投げ出せば、いつの間にか目の端に溜まっていた雫が目頭から離れる。静かな部屋に、それは酷く響いたように感じた。
泣きながらも記憶を整理する。けれどもリンには分かっていた。
記憶しているその全てがきっと現なのだろう、と。
時間が経ったが、身に感じたあのおぞましい痛みと感覚は今も思い返される。そして何より、恐怖を感じ、涙しているのだ。
迎えにやってきたあの子供こそ、この世界へと己を誘った張本人だ。
鈴の音と共に現れた、不思議なその存在を人と呼ぶには憚った。
奇妙な存在感、そして羽衣から繰り出された空間の歪み、近づいた時の空気、温度に乏しい声…謎の呼称――――“坐(ざ)”。
「(あの子が私をここへと連れてきた)」
あの子供が羽衣で作り出したあれは異次元への空間であったのか。
まるでマグマが煮立つような、不気味な沼地のような空間。
天も地も、奥行きも、時間さえも正常に存在しない奇妙なそこは身を引き裂き、強烈な苦痛を身に受けたのを覚えている。
声にならぬ叫び声を挙げて、全力で子供の手を振り払ったまでは記憶にあるが、そこから先はあやふやであった。
けれども周囲に子供の気配はなく、鈴の音も聞こえない。雪が音を吸収しているのか、微かな衣擦れがあるだけのここは神秘的に感じられるほどに静まり返っている。
見慣れた、邸の一室である。横たわっていた布団は、いつもならば客人へ提供するもの。
「………迷惑かけて、ごめんなさい」
子供は言った。神子から離れてはならない、と。
神子とはなんなのか、誰の事を言っているのか。坐とは何か。私が坐とはどういう事なのか。
分からない事ばかりで混乱するが、けれどもあの子供に再度会う勇気はとても持てそうになかった。
運命が大きくねじれるような、漠然とした不安感。
張り付くように纏われるそれに表情を曇らせながらも、今のリンには眠りにつき、明日を迎える事しか出来なかった。
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不気味な違和感が喉に詰まる。
同僚はみな同僚であり、変わったところはない。
いつも通りの支給された服を着用し、それぞれの役割を果たしている。
主から概要を聞いた女中長が各担当責任者に予定を伝え、責任者はそれを末端作業者へと伝達・指示を行う。何時も恒例の、この邸のシステムである。
伏していた間の騒動に陳謝して回る内に、次々と感じられたのは“日常の反復”であった。確かこういう感覚を“デジャブ”と言うのだと聞いたことがある。
月の間に客人が来る。その客人は主の遠い親戚の友人で、好物は青菜の汁物。寒い季節ということもあり、とびきり美味しいそれを提供するようにとの指示。
調理場担当のサクラは冬場の青菜調達を悩んでいたし、その相談に乗って、京へと調達に向かうのはリン。
このやりとりを、リンは知っている。すでに“行った”過去の記憶だ。
決して前の事ではない。ほんの、三日ほど前の事である。
冬の青菜の調達は難しい、と悩むサクラに“ほうれん草”はどうだ、と提案したことを覚えている。そしてその提案へのサクラの答えはこうだった。
「ホウレン…ソウ…?聞いたことのない名前だけど……野菜なの?」
この反応は、三日前にサクラとリンとで交わしたやりとりそのままであった。
奇妙なやり取りに気味の悪さを感じたが、そう感じたのはリンだけらしい。まさか。その言葉と共に馬鹿馬鹿しいとさえ思うような、ありえない想像が頭をよぎる。
サクラはというと、聞き覚えのない野菜の名前に首をかしげながらも、メニューとなる食材をどうするかという現実的な悩みへと方向を戻している。
もし、この想像の仮説が現実ならば、次に言う言葉は、
“『蕪の雑汁でもいいかな?』”
「蕪の雑汁でもいいかな?」
サクラが見覚えのある笑顔で振り返った。
感情が溢れ、泣きそうになる目元を何とか奮い「青菜じゃないけれど、旬だからきっと満足してもらえるよ」と返事をすれば、安心したのかほっと息を吐き出し微笑む。
その横顔も、その反応も、宙に浮いた白い息も、全て見たことがある光景で。
リンはとうとう、己の時間が巻き戻っているという受け入れがたい仮説を、受け入れざるを得なかった。
通り過ぎた過去をもう一度再現するという不気味な行動に感じたのは何も拒絶感だけではない。
一つ間違えば、この先の未来が変わるかもしれないという想像からの恐怖である。
その仮説を立てたのはつい先ほどまで交わしていたサクラとのやり取りの中であった。
大したことではない。サクラへの相槌を間違えたのだ。
さした返答ではなかったためそれ以上気には留めなかったのだが、話の流れが記憶と食い違い始めている事に気が付いた。
思い返せど、選択を誤ったという意識はない。
けれども何かがきっかけで根本が覆されようとしていた事に気が付いた時、全身に走ったのは時間を逆行したその行動の重さと、歴史を変えてしまうかもしれないという罪の意識であった。
「ね、ねえサクラ、さっきはああ言ったけど…やっぱり、今日の外出は避けた方がいいと思うの」
「え?…でも、主様から料理の支持を受けているのよ。用意しなくちゃいけないし、何か外出してはいけない理由があるの?」
「………ううん、そういうわけじゃ、ないんだけれど」
三日前の話である。夕餉に蕪の雑汁を提供する事を決定した後、買い出しに出る矢先に集落の住民から里芋の差し入れがあり、急遽メニューを変更したのだった。
予定になかった買い出し等を行えば、その間の歴史が変わる。関わる人間、起こるはずだった出来事、その展開。全てが変わってしまう。
それが今後に吉となるか凶となるかは分からないが、少なくとも三日後には“宇治川の戦い”が起こるのだ。下手に動かない方がいいとリンは判断する。
行動、発言、そのタイミング。全てを記憶から掘り起こすにはあまりにも酷な事である。
ならばせめて要所だけでも本筋になるように正さなくてはならないのだろう、そう理解をした。ならば、やることは一つである。
「……奥の畑で里芋が採れたって、奥紅葉の畑作さんが言ってたの。後で邸にもおすそ分けに来てくれるって言ってたから、それを使わせてもらわない?」
「奥紅葉の方が?じゃあお茶でも用意しておきましょうか。先日頂いた干し柿が余っているから、それを菓子に」
「おもてなしは私がやるよ、サクラは献立変更の承諾をもらってきた方がいいんじゃない?…ほら、早くしないとどんどん予定が遅れちゃう」
少々腑に落ちなさそうにする友人を強制的に邸へと送り戻す。もちろん里芋をもらうだなんて約束は嘘だ。
辻褄の合わないやり取りに不信感を煽るわけにはいかないと、一人で畑作を迎える準備を整える。
程なくして現れた畑作に驚いたフリを演じ、サクラの用意した干し柿と茶を振る舞い、土の付いた新鮮な里芋を受け取った。
まるで来ることが分かっていたかのように準備の良い茶の用意を指摘され、肝を冷やしたがのらりくらりとなんとかかわす。
些細な事でも知り得ているからこそ、何気ないエキストラの挙動に過剰に反応してしまう。
気の休まるところがなかった。
何とか畑作を見送り、受け取った里芋を渡すべく厨房へと引っ込んだのだが、肝心のサクラの姿が見当たらない。
しばらくしたら戻るだろうと、土の付いたそれを洗い場の脇に置いてリンは深くため息を吐き出した。酷い緊張とプレッシャーの塊は微かな音を発して雲散する。
「(……正直、舐めてた)」
歴史を正しく繰り返すという事にである。
ただ時間が巻き戻っただけだと自分を奮って歴史をなぞることを決めた心がすでに折れそうになっていた。
もっと単純だと思っていた。
記憶を辿りそのまま実行するだけのものだと。けれども想像と現実は大きく異なっていた。
正しい道標が立てられどもそれは僅かな風で意図せぬ方向へと傾く。慌てて反対から支えに向かえば、今度は別の綻びであちらへと傾く。
嘘に嘘を重ねて塗り固めてようやく正しい方向へ向かせたところで―――――リンは顔を上げた。
“サクラは里芋をすぐに受け取ったはずだ”歴史の違いに気が付いたからであった。
慌てて同僚にサクラの居場所を尋ねれば、川へと水を汲みに行ったという情報を得る。もちろんそんな一昨日はない。
声の勢いをいなすことも出来ないまま責め立てるように同僚に理由を問えば、怯みながら同僚はただ一言告げた。
「リンが採れたての里芋をもらってきてくれるから、洗うための水を汲んでくる」サクラはそう言ったと。
目の前が真っ暗になる気持ちとはまさにこの事かと思った。
今すぐに友人の後を追うべく厨房から飛び出したところで、頭の片隅にあった疑問の欠片がその足を一瞬とどめ、思考の隙を作る。
確かに一昨日とは異なっている。けれど、サクラは“ただ里芋を洗うための水を汲みに川へ向かっただけ”である。
大きく流れを変えるような変更点ではないのではないだろうか。このままサクラが水を汲んで戻ってこれば、一昨日と同じくそれを洗って、夕餉に提供されるだけのはずである。
邸から川は目と鼻の先である。大した距離ではない。
「(…悪い方へと考えすぎよね)」
結果的に大局から外れなければ問題ないはずである。
震える手を握って胸の前で重ねれば、けたたましい鼓動はしばらくして元のリズムへと戻った。
あと三日の辛抱である。三日経って、あの日まで追いついた時には、あの子供の手を振り払えばいいのだ。そこから先の未来はまだない。
「………早く帰ってきて」
“大局から外れなければ問題ない”そう言い聞かせたばかりだというのに、全身を覆う不安感が拭い去れない。
―――――嫌な予感がする。
悪く考えてしまう思考を振り払うように、リンはただ友人の帰宅を祈っていた。
邸に広がるどよめきと嘆きは渦を生じ、傾く陽の薄暗さを巻き込んで留まった。
リンの願いも空しく、邸に戻ったサクラの息はもうなかった。
“首が、なかった”
陽が進めど一向に戻らぬ同僚に苛立ちと疑念が起こり始めていた厨房に突如滑り込んだのは集落の童であった。
血相変えて飛び込んできた童達に面食らいつつもそれを迎え、話を聞けば、童は蒼白の面持ちでただ一言叫んだのだ。「サクラの姉ちゃんが、斬られた」
若衆が急ぎ河原へと向かった時には時すでに遅かった。首と胴体とが完全に切り分けられ、まるで末成りの南瓜さながら、打ち捨てられていた。
リンの耳に訃報が入ったのは、それと若衆が邸に戻った時であった。この世の絶望の淵、美貌をくしゃくしゃに崩してリンは気を失ったという。
全て推測の域を得ない話ではあったが、同僚は恐らく宇治川へ布陣すべく向かう源氏武者の行列と遭遇したのではないかという仮説がたてられた。
この出来事の三日後に宇治川の戦いが勃発している。それはリンが既に渡った歴史で確認されている事であった。
規律に厳しいはずの軍で無体な無礼討ちなど考え難いとは言うものの、けれども同僚は間違いなく鋭利な刃物で斬り捨てられていた。武者の仕業以外の可能性などない。
戦前の武士は皆気が立っている。もしかしたら些細な間違いがきっかけだったのかもしれない。
けれど、けれども、もう同僚の命はこの世のどこにもないのだ。
歴史が、変わったからだ。否、変わってしまったから、だ。
リンが自分を責めずに、どうしていられたのだろうか。
虚空に向けるその瞳は何も映していなかった。
悲しみを押し殺した同僚がどれだけ胸の内をぶつけても、瞬き一つ反応を返さない。“リン”は既に廃された肉細工と化していた。
意識をやってしまった間も時は進み、遠い世では宇治川で一つの戦が行われた。後の「宇治川の戦い」である。
源義経率いる軍が勝利を収めたその合戦は、怨霊が息巻く恐ろしいものであったと伝えられ、不思議な力を持つ娘が活躍しただとか、源氏軍に対し明るい噂話も流れた。
幸いな事に先の合戦での落ち武者は藤森には流れ来ず、人々は常と変らぬ生活を送っていた。けれども、リンだけは戻らない。
食べ物すらも口にせず衰弱を続ける娘を諦めるという決断を促す人々と、断固として回復を信じる人々との間で意見が割れる中、最終的に邸の主から下された決断は「隔離」であった。
本来ならば捨てられても致し方のない身分の娘。
後ろ盾も身分もなく、この世界で天涯孤独の娘をそれでも残る情で行き先を見届けたのは人の優しさであったのか、倫理であったのか今となっては分からない。
けれども堅実に邸に仕え続けたその忠実な志は十二分に周囲に浸透していた。
物言わぬリンが寺へ預けられる時には、反対意見を述べていた同僚も皆神妙な面持ちでそれを見送っていたほどである。
人はどこまでも勝手で、けれどもどこまでも優しいものだ。
リンを迎えた住職は邸の人々に深く頭を下げ、礼を述べたという。
リンはここ“三室戸寺”で、のち一年という長い時を過ごすこととなる。