やさしいひと(弁慶長編:完結)
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10.性分
気を張り詰めることを解いてしまうと、すかさずその隙間に雪崩れ込むのは離別の悲しみであった。
本当の家族よりも愛していた茶屋夫妻の成れの姿、信じていた人間に襲われる恐怖、そして胸に沁みた甘暗い別れ。愛別離苦。
思わず足さえ止めてしまうそれらの思考を払いながら進む道、東海道に人の気配は少ない。
怨霊が出没するようになってからというもの、すっかり行き来する人間は減少し、今ではこの道を往くのは行商人が殆どとなっていた。
その道を今やまさにリンは危険地域へと遡っているのである。
時折すれ違う人々は怪訝そうに、けれども困惑を含めた目で見送るものの、誰一人として声をかける者はいなかった。
あぜ道を踏み出しながら、何とか寂しさを振り払って考えるのは現代に残してきた本当の家族の事である。
弁慶と決別し一人になった今だからこそであろうか、振り返るのは平和だったあの家庭での自分とその周囲のことであった。
“誘拐”をきっかけに狂い出してしまった家庭の和気は異常な光景だったのではないかとの疑問を抱いている。
渦中の存在である故にその異常さに気が付けなかったが、それから抜け出し冷静に考えると、やはりあの束縛と抑圧の暴力は異常でしかないと感じられた。
愛娘が誘拐されたとて犯人を憎むならばまだしも、母親が責め立てたのはリン自身であった。
防衛のためだと、母の愛を借りた暴力だったのだろうか。
そこまで思考が巡ったところで自身が弾いた“暴力”の言葉に滅入る。
暗い気持ちを引きずりながらも尚も思考の渦から逃れることはできず、推考は進む。
「(母さんはああだったけれど……父さんはそこまででもなかったのは、どうして?)」
父はいつだって母の後ろに控え、その表情を曇らせていた。
滲む記憶の端に浮かぶ父親の顔は、何かを押し隠すように渋いものであったように思われる。
けれども、母の弾圧に怯え、それらから逃げるように、心を閉ざし言いなりとなった頃には、リンは父の姿すらも追えないようになっていた。
なぜ母はあれほどまでに執拗に命の心配を、この体の安全を貫こうとしたのだろうか。
リンには皆目見当がつかなかったが、一つだけ分かる。
決してそれは“母の愛情”などではなかったということだ。
不意に足が進まなくなった。
周囲は枯葉が舞い、遠くの木々は赤く色づいて見事な紅葉の風景である。
物理的に行き先を阻むものなどないはずであった。
けれどもまるで地面が縫いとめられたかのように足が踏み出せない。
それだけではない。全身から吹き出すように汗が滲んで、徐々に鼓動が早まる。
最早緊張だなどとは呼べない程に、体は全身で警戒を示していた。
目が間開いて、背の傷が、引き攣る。
「……あ………あ………」
50mは先であろうか、生え連なる広葉樹の隙間から覗いたのはゆらりゆらりと不気味に徘徊する人ならざる者
――――怨霊の姿であった。
思わず漏らした絶望を飲み込み、身を隠す。
とはいえこれだけ離れていては向こうも気づくまいと、そっと陰から姿を見やれば、予想は的中していた。
これだけの間合いがあれば枝を踏んでも気が付かぬらしく、先の影に気配を拾われることはなかった。
上がった心拍数が元の音を取り戻し始めた頃、何とか冷やした頭でこの先をどうするべきかを考えるが、怨霊は周囲から遠ざかる様子はない。
茶屋があった大谷はまだ近いとは思えない。歩き始めてからの正確な時間はわからないが、足の疲労具合から考えても目的地までの道のりの長さを感じる。
「………どうしよう」
二進も三進もいかない状況にため息をついて俯いたが、このままここにいてもいずれはあの怨霊に見つかるだけであるのは容易に想像できる。
かといってこの先に進むことを簡単に諦める気にもなれず塞ぎ込みながらどうにか道はないものかと考えるのだが、既に策は尽きていた。
戻っても帰る場所もなく、進んでも命の保証はなく――――抜き差しならないもどかしさに目頭を隠した、その時である。
右後方から聞こえてきた微かな進行音。
踏みしめる枯葉の悲鳴は一つではない。
複数に折り重なる足音に血の気が引いた。
人か、はたまた怨霊か、そしてそれは味方か、敵か。
身を隠したくとも前方には怨霊がいるのだ。いくら離れているとはいえ走り逃げるような大胆な振る舞いをすれば確実に見つかってしまう。
けれどもこのままここにいてもやってくる何者かに捕えられるのは確実で。思考ばかり忙しなく走り回ったが、結局は手足が言うことを聞かなかった。
迫り来る足音に怯えが頂点に達した時、届いたのは懐かしい声であった。固く結んだ手を解き顔を上げたそこにあったのは、青い髪の旧友の姿であった。
「……あ、…あ、りかわ……君………?」
「遠坂か、何やってんだこんなところで。…って、危ねえな、下がってろ!」
肩を掴まれ乱暴に後方へと放り投げられた。投げ飛ばされた先の誰かの鎧が背の傷に食い込み、顔が歪んだが、風を切って飛び掛かったかの背を視界は捕えた。一閃。
有川――――将臣の腰の丈ほどはあろうかという大太刀を容易気に翳し、先にうろついていた怨霊がなぎ倒される。
その姿は風の如し。旋風吹き荒れる戦場に、刃の轟音が響いたと思えばそれも一瞬の事であったらしい。
呆けて眺めていたそこは舞い上がった木の葉が落ちる頃には、肩を鳴らしながら帰還する大将の姿しかない。
腰を抜かし、口を開け間抜けな表情のリンを見て、将臣はケタケタと笑った。瞬間、金縛りが解けたかのようにリンも動き出す。まずは顔が赤く染まった。
「…そ、そんなに笑わないで……本当に怖かったんだから」
「いや、悪いな…お前のそんな表情見たこともなかったからな。思わず笑っちまったぜ。…それより、知盛」
「………クッ」
将臣が別の名を呼んだと同時に、意識も冴える。
背から聞こえた低い男の笑い声に飛び退いた。
姿勢を正して振り返れば鋭い眼差しとぶつかり、息が止まった。
先ほど背に食い込んでいたらしいのは青年の大袖であったらしい。
一般的な武士と異なり、華美な具足を身に着けている青年はさぞ身分の高い人物なのではないかという思案と、その青年に粗相を仕出かした負い目とで冷や汗が流れる思いである。
けれども何より目を引いたのは、退屈そうにこちらを見下ろす瞳と………己と揃いの、真っ白な髪であった。
青年はさして言葉を発する事なく踵を返し立ち去る。途中幾らか彼を呼び止める言葉がかけられたが、その歩みが止まることはなかった。
将臣が呆れ声で話し始める。
「あいつは知盛ってやつだ。まあ…あんな感じで掴み所のない奴だけど悪い奴じゃない。だからそんな怯えんなって」
「…痛っ、有川君、乱暴…っ。で、でもどうしてこんなところに?あの、怨霊は…?」
「ちょっと世話になってる奴らがこっちに用があって付いてきたんだよ。怨霊は一時的に遠ざけただけで退治とかそういうのは出来てない」
「そう、なんだ……それにしれも、すごいね、その、武器とか」
「ああ、まあ…こっちに来ちまってから長いからな。ある程度は必要だろ。それより、お前、望美や譲とは会わなかったか?」
―――望美。
その名に瞬間的に体が強張る。
カッと火がつくように燃えた内なる場所は臓物だったろうか。
どろどろと嫌な感触が広がるようでリンは無意識に腹を抱えていた。
あの人もこの世界に来ているのだろうか。同じ世界にあの人がいる。そう考えるだけで吐き捨てたくなる程の嫌悪の文字列を飲み込むので必死だ。
将臣は望美と仲がいい。幼馴染という関係であることを知っているからこそ、将臣の前で彼女を悪く言ってはならないという微かな配慮だけが今は頼りだった。
熱く汚い言葉を何とか飲み下して、知らない事を伝えれば、帰ってきたのはそっけない返答であった。けれどもリンは逃さない。
その瞳に不安が入り混じったような、寂しい色が浮かんでいたことを。すかさず対象を変えた。
「有川君の弟さんも来ているの?」
「確証はないけど、こっちに来ちまう時の変な現象の……渦みたいな中に望美や譲も巻き込まれていたからな。まさか遠坂まで巻き込まれていたとは思わなかったぜ」
将臣は三年、リンは二年弱。
この世界にやって来てから時を過ごした。同じ時を過ごしていた人間が、けれども巻き戻された地点の違いから年齢の差が生じている。
短かった将臣の、あの奇抜な青色の髪は今や肩に触れる長さとなっていたし、肩も脚も、逞しい大人の男の姿に変わっていた。
一方リンとてその姿は無垢な少女のそれではなかった。
言いつけのまま造作なく伸ばされていた日本髪は今や鬼子と疑われる白髪へ変化し、体はすでに男を知ってしまった。
その変化に清々しい気持ちにはなれず、将臣から視線を逸らした。
着の身着のまま意味もなく放浪する己とは異なり、将臣はこの時代で生き抜くべく己の脚で立っている。
それを目の当たりにするのがつらかったのだ。
「……有川君は、これからどうするの?さっきの、知盛さんと何をしているの?」
「難しい質問だな。とりあえず今世話になってる連中のところでしばらくは過ごすつもりだ。これから忙しくなりそうだからな、帰る方法とか考えてるんだったら力にはなれないと思うぜ」
「帰る気はないの?」
「あー……そういうわけじゃないけどな。まだ、無理だ」
その後はどれだけ質問を投げようとも、将臣からは何も得られなかった。これからの形振りのヒントである。
怨霊こそ将臣が退けてくれたが、彼の話では消滅させたわけではないのだいう。
故に先の、50メートル先に崩れてはいるが、時間が経過すれば再構築された体でまた動き出すとのことであった。
この先に行きたいという希望を申し出たが、険しい顔で首を振るだけで賛成は得られない。将臣にしては不自然な拒絶の仕方であったが、その理由はすぐに知れることとなる。
「この先は怨霊に満ちている。詳しくは明かせないがな、世話になってる人達が一時的に怨霊の温床として使っている」
「……なに、それ。……じゃあ、なに。この先の怨霊は有川君達が呼んだっていうの!?」
目の前が真っ赤になる。
優しい夫婦の顔が浮かんでは煙に塗れて怨霊と化して蘇る。あの地獄の光景が巻き戻された。
剣幕まま将臣にぶつかり、その胸元に殴りかかるが容易くその腕は止められる。どれだけ胸を叩こうと、びくともしないその体格差に絶望する。
彼が敵だとしたら。いくら度胸あるとて、平凡な一高校生であった彼が人を殺め取り込む怨霊を肯定する非情な性格をのぞかせたのだとしたら。
ここで死ぬのは間違いなく、私である。
「(……なんで…)」
がくりと力が抜け、首が落ちた。
終いには目からは情けないほどに涙が溢れてきて、けれども両手首が塞がれておりそれは拭うことが出来ない。
何もうまくいかない。この世界に落とされてから色んな人々の助けを借りて生き延びてきたというのに、自分と関われば関わる程その優しい人々は不幸に見舞われていく。
生かされていても何一つ恩を返すことも出来ないで、どうして生きていなければいけないのだろうか。
けれども、けれども。
「(……死ぬのは、怖いよ)」
もう何も分からなかった。
考えたくなかった。
自分の人生であるのに、人任せに生きてきたせいだろうか。
本気で茶屋夫妻を思うのであれば、自ら武器を取りその仇を取ればよかっただけなのだ。
結局、いつも、いつも、落ち込んでは自分を責めたふりをしているだけで、自分の罪を償うだけの行動など何もしていないのはリン自身なのだから。
慟哭の後、急に黙ってしまったリンを伺うように将臣が声をかける。掴んでいたその手をそっと放した。
「…この先にあった茶屋が怨霊に襲われたと聞いた。遠坂、もしかして……お前…何か関わりがあったのか」
「……私の、この世界の、両親だったの。怨霊に…殺され……っ、て、それで…っ」
最後の方は言葉にならなかった。込み上げる悲しみと湧き上がる怒りとが混ざって涙が溢れて止まらない。
激情に任せて将臣を責め立てれば気が晴れたのだろうか。
そんなことは決してないことをリン自身は知っていた。いつもそうだからである。
どんなに理不尽で耐え難い苦痛に見舞われた時も、衝動的に感情の高ぶりは起こるものの、それはすぐに理性と理屈で抑え鎮められる。
抑圧され続けて育った事の反動なのだろうか。両親代わりの存在が無慈悲に殺された、その仇が目の前にいるというのに、一瞬の息継ぎとともに鎮圧が訪れてしまった。
ただ、思う。「彼は茶屋夫妻を殺したくて殺したのではない」と。「有川君は無差別に人を殺すことができるような人ではない」と。
感情と理性が常にリンの中では対立していて、いつだって思うとおりに生きさせてはくれない。
それが酷く苦しかった。
しゃくりあげながら、尻すぼみになりながらも、リンは怨霊によって起こされた悲劇を将臣へ伝えた。
責められるべくは将臣なのに、リンの方が怯えていたことに一体誰が気づけただろう。
善悪がすり替わってしまう、リンの価値観はあまりにも愚かで、理解されないものである。
複雑で繊細な感情であった。
「………なんで、お前が加害者みたいになってんだよ。お前が………、お前が、俺達が許しを請う前に、俺達の罪を、受け入れて許す必要……どこにもないだろ」
「………、」
「お前、そんな生き方してたら壊れちまうぞ。それに――――全ての厄災が自らが引き起こしてるみたいな考えは、エゴだぜ」
「…だって!じゃあどうしたらいいの!?ここで貴方を責めたって、あの人達が帰ってくるわけじゃない!貴方だって、そうでしょう?
責められたって、困るだけでしょう……貴方は…有川君は……意味なく殺戮なんかする人じゃ……ないんでしょ……?」
「―――それでいい。お前は何も間違っちゃいない。思うまま、怒ってよかったんだ。俺の事情なんか、俺の勝手で、お前が気にする事じゃない」
――――だけど、ありがとう。許しをくれて。
掠れた声で将臣は最後に告げた。
その声には深い後悔が滲んでいるように思えて、ただただ無言を返すことしか出来なかった。
後悔先に立たず――――いつだって人は過ちを犯して罰せられてしか、その愚かさに気付くことはできない。
けれども、けれども。いつだって、そうだった。
学校という狭い世界の中でも、将臣の姿勢はリンの目には輝いて映っていた。
周囲が何を言おうと、冷ややかな視線を向けられようと、傷を負わせようと飛び交う悪意を笑いながら払い、自分を貫くその背中はあまりに広く、遠く映っていた。
「…………有川君が、羨ましい」
返しきれないほどの愛をもらった茶屋夫妻の命を奪ったことを許してしまいそうになる、己の薄情さが、憎い。
その後、気まずい空気を吸いながらも将臣とリンは多くの事を語り合った。
この世界に飛ばされてきた時の事、それからどのように生きてきたかという事、
一度箍が外れてしまえば止め処なく溢れてくるそれぞれの奇跡はどれも重く、時折沈黙を交えながら続いていた。
リンの想像の通り、将臣と怨霊の関係は決して一言で善悪を定められるものではなかった。
少なくとも、リン自身それが善悪だと言い切られるほど、経験も共感もなかったからである。
この先、茶屋へ向かって進むことを再度問うたが、将臣からいい返事は帰ってこなかった。
それに少し落ち込んだが、自分の身を自分で守れない以上は突飛な行動を避けるべきだとの牽制は尤もで、おとなしくそれに従う。
「お前も、その飛び出してきたやつの家に戻った方がいいぜ。丸腰の女ひとり生きていけるような生易しい世界じゃないぜ、ここは」
「……うん、同じことを、別の人にも言われた。でも、戻れないの、それだけは、できない」
「でも、俺達と一緒に行くことも出来ないんだろ」
深く頷く。やはりいくら理屈上では許せていても、納得している気でいても、将臣らが仇である事に変わりはない。
共に行動すればいつかその抑えた気持ちが爆発してしまうかも分からない状態で、付いていけるとは思えなかった。
先ほどの将臣の話を思い返す。彼は言った。守りたい人達がいるのだと。
歴史にさして詳しくないリンにも、将臣が守りたいと願う一族の名は分かった。そしてそれが、自分の縁と相対する立場にあることを。
――――“平氏”を、あいつらを助けたい。歴史を変えてでも。
この世界がいくら自分たちの学んだ歴史でなかったとしても、運命を変えるという決断と、それに伴う犠牲を払ってでも叶えてみせると願う将臣の姿は強い。
どちらの勢力を贔屓しているだなどと意識したことはなかったが、源平争うこの世で、巡り合った人々は皆“義経様”“弁慶様”と口にしていた。まぎれもなく源氏の勢力に浸っていたのだ。
今も源平どちらにつくかなどと壮大な決断を抱くことはできない。けれど、そんなリンにも一つだけ願いがあった。
初めは心の片隅に引っかかっていただけの気持であったが、少しずつそれは成長を続けているようで、今では言葉にして存在を意識することができるまでになっていた。
往く末を憂いて眉を下げる将臣を見据える。まっすぐに、伝えた。
「……救いたい人がいるの」
発してすぐに儚く解けた願いの向こうに、黄金の髪が揺れた。
進むべき道を、持つべき信念を、“自分”の存在意義を教示し、諭すかのように――――――そんな気がした。
結局、リンは将臣らと行動を共にすることはなかった。
あの後、将臣の好意で行動を共にする事へ幾度も提案を受けたが、リンはその申し出を頑なに受け入れることは出来なかったのだ。
確かに彼の言うとおり、この世界で無事平穏に生きていくには独り身の女ではあまりに無謀である。
けれども、平氏に組する将臣と行くという事は源氏に背を向けることと同意義なのだ。それはすなわち、弁慶をも裏切ることとなる。
将臣と多くの話をしたが、自分が源氏側に世話になっているという事実を最後まで伝えることが出来なかった己の強かさに驚きながらも、それでも最後に導き出した答えは曲げられない。
“救いたい人がいる”罪に濡れた、けれど何よりもきれいな人。黄金の髪が、瞳が、いつか本当に輝くために必要な事。
「(…それを救い出せるのは私ではないけれど)」
彼を幸せにできる誰かと引き合わせる為―――――最早卑屈としか呼べない自己犠牲の魂は馬鹿げていると誰かが笑う。
それでも、長く悩み、導き出したそれは、リンにとっては唯一曲げることの出来ない信念であったのだった。
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名を呼ばれ、その元へ急ぐ。
随分と着慣れたものとなった簡素な着物を揺らしながら辿り着いた簾の前で深く頭を下げる。
許可の声を聞き、中に入れば主人とその客人が向かい合って控えていた。
前もって聞いていた客人の情報と、その荷物とを見やって手筈通りに部屋へと導けば、客人はよほど疲れていたのか姿勢を崩して座り込んだ。
再びお茶をお持ちします。一言そう告げて、リンは部屋を後にし台所へと戻る。同僚に最低限の伝達を行った後は籠を片手にせわしなく表へと飛び出した。
その背めがけて女中長が「大根も3本!」と大声をかけたのを受け取って、走りながら手を上げた。今晩は煮つけでも作るのだろうか。
―――師走。
文字通り師も走り出すほど忙しない月の、とある一日の事である。
火鉢を囲み暖を取っていた女中らの元に、主人が仕事を持って現れた。
姿勢を正す女中らを適当にあしらい、自分も暖を取るべく割り込んでくるその姿は歳不相応であるのだが可愛らしい。
女中長がどこか居心地悪そうにそれを見つめるが、長い付き合いとなっているらしい二人の間に遠慮というものは薄い。
小言をたれる女中長と小さくなる主人の姿を見れば、どちから主か分からないくらいだ。
そんな二人のやりとりを見守りながら、客人来宅の任務を承る。師走も半ばの、十三日の事であった。
「すみませんこの鯔の塩漬けを3人前お願いします」
威勢のいい声に次いで、手早く包まれた“いなせ”な鯔を受け取り、素早く次の目的地へと急ぐ。
そういえば大根も頼まれていたのだった。踵を返し座を巡るリンの首元のストールがふわりと揺れた。
新入りであるリンは雑務雑用を一端に引き受けてはこうして街を回り、邸の御用聞きをしている。
重労働かつ、細やかな気配りと機転が要求され厳しい仕事であるが、腐らずに今日までやってこられたのはひとえに、よい邸とその主人と巡り合えたからである。
源の良い鯔を抱え、次は菜を扱う方へ。広い座をくるくる巡っては増えていく荷物に腕を震わせながら、けれどもどこか充足感に満ち足りており、やはりそれも、自分の居場所を見つけたからに違いなかった。
まだ、過去を思い出しては解けない悩みに迷ってしまう事もあるけれど、少しずつでいい、解決に向けて進んでいけたらとリンは願う。
とにかく目前の目的は大根の買い足しである。出来の良い形のそれらを受け取り、更に買い物に繰り出すべく座の中へと溶け込んでいった。
――――シャン、 ――――シャン、
不意に足を止めて振り返った。もう聞き慣れてしまった鈴の音ではあるが、今日は少し異なっていた。
いつもならば枕元で聞こえるそれが、陽の高い内から聞こえる事に違和感がある。しかし、見回せど鈴を持った何かなどいない。
けれども雑踏を掻き分けて純に響く鈴の音と、人の声。いつもよりもはっきりと聞こえるそれは子供の話し声だ。
「…だ、誰?……何なの…?」
「………ど………して」
――――どうして。
呼びかける子供の声は疑問を投げかけていた。それに応えたくとも人が多く話すことがままならない。
その後も何か話しているようではあったが、意味を理解するだけの言葉の形にはなっておらず、話が伝わらないまま鈴の音とそれは次第に聞こえなくなってしまった。
けれども胸の内に留まった「どうして」の言葉が離れない。責めるような響きではなく、ただ困ったような声色であった。
「……どうして……って」
疑問の言葉。何か“常ならぬ”ことが起きているのだろうか。
けれどもその言葉一つでは何も分からない。以前よりも鮮明となった鈴の音と謎の声が今後も聞けるのだとすれば、いつか本当の意味にたどり着けるのだろうか。
抱きかかえた食材が音を立てる。
分からない事ばかりで気が重くなるが、今はまだ分からなくてもいい。
そう結論付けて、リンは踵を返した。
なんとなく、根拠はない。けれども、また、あの声が聴けるような気がしたからであった。