やさしいひと(弁慶長編:完結)
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01.現代
人は本当に優しいものですか。
排気ガスを吐いて街を行く。
布張りの座席から外へ目を向ければ、西の空に暗さを見つけられた。
明朗に開ききらない瞼と晴れない心は、その雲とよく似ていてどこか安心感を得たのは仕方がないことだったのかもしれない。
住宅地を進むこの車は同じく方向を共にする人々を道の左右へ押しのけて、迷惑に思うのだろう、左右へ散らされた人々は皆、恨めし気な視線をこちらへ向けた。
同じ制服―――それを視界にとらえると、そっと窓から身を離しできるだけ体を小さく丸める。
私は、人の迷惑になるという事が、何よりも怖かった。
帰るときは連絡をよこしなさい。
今度はいつものお決まりのセリフを吐いて、車は来た道を戻っていった。
何度かの懇願の後、折れた両親がようやく人目につかない場所へ下車させてくれることとなったのだが、それに至るまでも相当な戦いを経てきている。
両親は所詮「過保護」と言われる人間たちで、高校生になった今でも一人で登下校することは許可されず、こうして車通学をしているのである。
友人と共に帰宅するときのみ、送迎を断ることが出来るのだが、生憎友人と呼べるほど気心の知れた人間は少なく、送迎登下校という呪縛から逃れられずに早2年が過ぎた。
高校生活も残り半分過ごせば大学生。
そして迎える成人。
なれば、この過保護という手綱ももしかしたら緩くなるかもしれないなど、期待を抱いてしまうのも仕方がないことなのだろう。
けれどどこか一方で、そんなことがないことも分かってはいた。
人目を避けるように足早に校舎へと向かう。
下車した場所はいわゆる裏口であるため、すれ違う生徒はみな自転車通学者ばかりである。
風を切るように流れてくる彼らの障害とならないよう、気を遣いながら歩いていく。
ちらり、ちらりと向けられる視線が気にならないわけではないが、それを避けるだけの順当な理由は持ち得ていない。
自転車通学でもないのに、こんなところにいて、不審な奴だ―――向けられる視線が決して良い印象からのものではないことを知っている。
気にしてはならないのだと言い聞かせる一方、けれども不快なその視線から早く逃れるべく、私は教室へと急いだ。
不快なのではない――――本当はただ、人の視線が怖かった。
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教室の定位置につき、適当に周囲の人間に声をかけて、その後はウォークマンという耳栓をする。
あとは朝のHRが始まるまではこの音楽の世界に閉じこもっていればいいだけだ。
周囲の朝の騒がしさもすべてがかき消される、耳栓式のイヤホン。奥から脳に直接届くような音質が心地よい。
机に突っ伏せば長すぎる前髪が顔を遮ったが、払うことも忘れて音楽に浸る。
なぜ両親が送迎するようになったのか
なぜ電車に乗ることを許可してもらえないのか
なぜ顔を隠すように髪を伸ばしているのか
なぜ―――、
溢れ出てくる自問自答。
正しい答えなど無い問いを振り払ってただただ音楽の海へと、沈んでいった。
幾時限か後のこと、朝見た雲はおあつらえ向きの天気へと変化した。
地面を叩く雨に遠ざかる教室の喧騒。
苦手な教科の時間ほど意識が他毎へと向くのは道理で、同時にそれは「考える時間」を生み出して苦しめられる。
授業中にウォークマンに頼ることは出来ないため、ただただ長く長い45分間を思考の腕に閉じ込められるのだ。
考えなくていいことを考えて、考えて―――苦しむ。
「(……この苦しみから逃れたい)」
正解のない問いはただ責められているように感じる。
本当ならばそんな問いに真面目に正解を探して自分を作り直すよりも、疑問すら感じられないように心が上向けばいいだけなのだ。
そんな、明るい性格になれたらば―――そんな無意味な願いに苦笑をもらす。くだらない。
吐き捨てるように5文字を己に叩きつけて、私は次の授業を受けるべく、教室を移動した。
湿気で滑る廊下の先に見えた人物に、心中で舌打ちをした。
道を変えてしまいたいが、生憎次の授業の教室はこの道を行く以外に方法はない。
ならばせめて視界に映さぬように、視線を下向けながら流れるように通り過ぎてしまいたい。道の向こうから来るのは隣のクラスの女子生徒だ。
腰ほどまである奇抜な色の髪が特徴で、常に隣にガタイのいい男子生徒を連れている。女生徒の名を春日望美、男子生徒を有川将臣という。
有川の方はさして大きな問題ではない。
過去に係役員が一緒になった事もあり、今もすれ違えば一言二言会話をしたりする、貴重な人間である。
しかしながら、女の方はその限りではない。
有川一人であれば問題ないが、春日を連れているとなると状況は一変、二人ともが関わりたくない人間へと変化する。
ぐだぐだと考えている内に一歩、又一歩と互いが近づいて、雨を遮って聴こえるその声が鮮明に会話の内容を伝えた。
そっぽを向き、拒絶を示す私の顔に、おそらく有川は気がついたのだろう。声をかけてくることはなかった。
かくして、私は無事に難所を切り抜け、教室へと向かった―――――はずであった。
――――シャン、 ――――シャン、
聞き間違いかと一度は流した、鈴のなる音。
この雨音の中で、それのみが空間を違えているかのように鮮明に響く。
奇妙な現象に引き寄せられるかのように、後ろを振り返った。否――――振り返らされてしまった。
運命の扉が開く瞬間を見てしまったのである。
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瞼が上がり、意識が覚醒した瞬間の最初に感じたのは違和感だった。
いつものベットの柔らかい感覚ではない。横倒れになった体に、肉に刺さる鈍い痛みである。
ようやく体が異常事態を把握し始めたらしいことを機に、勢いよく体を起こし辺りを見渡した。言葉は何も出なかった。
「(……? は……?)」
横たわり下敷きとなっていた右腕に付着する小石を払いながら、ただただ状況を把握すべく辺りを見渡す。
目前に広がる一面の銀世界―――そこでようやく寒さを実感した。
ぶるり、と全身が震える。
自分を見やればその姿は制服で、この風景の中放り出されるには余りにも薄着だ。
けれどその変わりない制服姿がより一層、この状況への把握力を鈍らせる。
「(…夢?)」
可能性を一つ挙げて、即座にそれを否定した。こんなにも感覚がリアルな夢を見たことはない。
まして「今見ているこれは夢だ!」などと理解しただなどと、そんな夢だって見た経験はない。
座っていた周囲の雪が溶けてじわりと沁みてくると、よりいっそう体は寒さを増した。
状況は全く分からないが、どこか暖かい場所に行かなくては凍えてしまう。そう判断した私は、とりあえず周囲を捜索することに決めた。
周囲を見渡せど、遠くにかすかに見える雪山と、視界の左右に申し訳程度に見える林、その奥に寒々しく流れる小川―――それ以外の建物らしき建物も、人影も見当たらなかった。
どれだけ目を凝らしても電線一つ空にはなく、飛行機が行き交う様子もない。ただただ、周囲には自然しか存在していなかった。
例えばここが畑の中心であったならば、必ず近くに農作業用の小屋があるだろう。
そんな算段で周囲を歩いていたのだが、小屋どころか、決して過大発言ではなく、本当に自然以外の何もがここには存在していなかった。
道すらも、あるのかどうか怪しい。
「……なんなの、よ」
ぽつり漏らした頼りない言葉もそのまま地へと落ちるだけで、誰に聞き届くわけでもない無人の世界。
それでも私は歩く以外の道は残されていなかった。
混乱はしているが、どこか冷静でもある。
ただ今は“このままここにいたら死んでしまう”
その張り詰めたひとつだけが、私を動かしていた。
雪原を行く足はすでにびしょ濡れで冷え切っていて感覚もない。
今すぐに脱いで確認したいが、目で見て理解してしまうと一層辛さが増すのを知っている為、ただただ意識を振り払い前へと進む。
はじめは闇雲に進んでいただけであったが、次第に太陽の向きやその方向、高さ、色で少しばかり方角の認識が強まる。
ただ、目覚めた頃は高かった太陽が少しずつ黄味を増して大きくなっていく事に焦りを感じ始めていた。
寒さをしのげるような場所は――――未だ、ない。
「(どうしようこのまま…寝ることもできないし、食べるものもなければ)」
飢えて死ぬか凍えて死ぬか。
どちらにせよこの寒さですでに体力を大幅に削られている時点で先が明るくないのは見えている。
こんな時でもどこか冷静な己が、誇らしくもどうしようもないと感じている。結局、生きる為に抗うこと、戦うことを避けているのだ。
さく、と雪を踏みしめる。もうその感覚はないが、これが止まれば。止めてしまえば、この先に続く道はすべてが絶たれる。
生きる希望も、小屋も、人も、なぜ私がここにいるのか、これはいったいなんなのか、すべての答えが消える。
「(楽になれる?)」
ここがどこだか知らないが、帰ることができたところであの家に待ち受けているのは息もできないほどの束縛なのは明白で。
進んでも引いても、待つのは絶望だ。ならば、いっそ。
「――――――ひどいよ」
張りつめていた生命線が、ぱちんと解けてしまった。
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真っ暗な意識の中をたゆたう。
ここは死後の世界なのだろうか、とかそんな意識がはっきりしているわけではないが…けれどもどこか微かに残るものがそう思わせているのか。
全てが曖昧な空間でそれでも“わたし”は存在していた。何をすることもできず、考えを巡らせることもできずただそこに在るだけ。
しかししばらくしてどこからともなく“音”が聞こえてきた。耳に届いたそれを、わたしは追った。何かを話しているようなその音は次第に鮮明になっていく。
「(誰かの、声)」
覚醒は唐突に訪れた。
瞬時に流れ込んでくる色彩に、反射的に目を閉じ顔を覆った。手の感覚、触れる瞼の、鼻の、皮膚の感覚。
ひとつひとつが鮮明に感じられた。
「あんた!目が覚めたんだね…生きてるね!?」
「……っ、あ、……私、」
――――生きてる?
未だ混乱する頭は情報処理に追いつかず理解に至ることが出来ない。けれども全身で感じるすべてが本物で、目の前に映ったこの景色もまぎれもなく本物だ。
ようやくある程度の落ち着きが戻ったところで、身を起こして周囲を見渡した。
朽ち落ちそうな粗末な木の小屋に、がさがさとした植物の敷物、お世辞にも綺麗とは言い難いつぎはぎだらけの布団。
ふいに背にあたたかいものが添えられ、思わず隣を凝視する。
先ほど声をかけてきた、この小屋の住人らしい女性だ。――――ずいぶんと、古風な姿をしている。
「――落ち着いたかい、あんた…この雪の中で倒れてたんだよ。旦那が狩りに行く途中であんたを見つけて…こん雪の中に倒れてるってびっくりしちまったよ!」
「あ、す、すみません…ご迷惑を」
――――本当に助かったんだ。頭の中はそれでいっぱいで、女性の話はほとんど耳に入ってこなかったが、どうやら私はあの雪の中力尽きて意識を失っていたらしい。
それをたまたま狩猟にでかけた、目の前の女性の旦那様が発見し、保護してくれたらしい。
ちなみにこの小屋は狩猟用の待機小屋のようなもので、自宅ではないとのことだ。
どちらにせよ命の恩人であることに変わりはなく、感謝を口にしたいと頭では思うのだが、今は生きているという事実をかみしめることでいっぱいいっぱいだ。
背をゆっくりとさする手が、あたたかくて優しくて。落ち着きを取り戻していくのに比例し、視界がにじんでいく。
一人というのは、こんなにも孤独だ。そして孤独にひび割れた心に、人の優しさが酷く染み入ったのだ。
女性は私が落ち着きを取り戻すまで何も聞くことはなく、ただただゆっくりと背を撫でて落ち着かせてくれた。
それから少しして夫が小屋に戻ってきて、詳しい話は夕餉を交えて、ということになった。 私はただ、静かにうなずくほかなかった。
ぐつぐつと鍋らしき器の中で煮える肉から獣の香りが立ち上がる。
狩ったばかりで新鮮だろうそれらの肉の本体がなにであったかは知る由もないが、この冬に狩ることが出来る動物は知れているのだろう。
詳しくは知らないが鷹などに巣を襲わせておびき出し、捕獲する映像をかつて見たことがある。あんな感じなのだろうか。
少し冷静になったところで、いくつかの可能性を整理することができた。
―――まず、
「よし、そろそろよさそうだね。……はい、あんた。狩りお疲れさん。…それから、ほらあんたも」
「あ、ありがとうございます…そういえば……ずっと何も口にしていなかったんです」
「―――だろうなあ、そんな身なりじゃあ………どこに行くにも不便だろうて」
「…身なり?」
夫婦からじろりと向けられる視線の先にあるのは、ブレザーにスカート。ここに来た時のままの服装である。
足先だけは凍傷寸前だったのか、簡単に手当てが施されていたため外されていたがそれ以外はいわば普段着のようなものである。
いくつかの可能性の一つが浮き彫りになる。
明らかに向けられた視線は訝しげなものが含まれていて、けれどどこかに好奇のそれも見え隠れしていた。見慣れていないのである。この服装に。
こちらからしても、夫婦の服装はあまりにも異質なのである。
仮にここがいかに田舎の、俗世から離れた場所であったとしても、現代日本で夫婦のような服装で生活する人間はいないだろう。
考えられないが、考えたくはないが――――現代ではない、過去の日本だ。
時代は分からないが、おそらく年号を訪ねた所で慶長とか、天保とか、その時代の年号が言われるだけだ、きっと分からない。
色々と質問したいことがたくさんあるが、何から尋ねればいいのかが定まらなかった。少なくとも、この見目からして私の存在自体が不審なものであることだけが真実だ。
どうしたものかと答えあぐねていると、女性がからからと笑い、食事を促した。
その助け舟にありがたく乗船し器に口をつける。腹へ流れていくあたたかい雑汁は、何よりとてもおいしかった。
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腹を満たした後の情報の共有には長い時間を費やした。
ひとつひとつ、はやる気持ちを抑えながら丁寧に疑問を解いていく時間は驚きと困惑にまみれ、幾度も言葉に詰まり沈黙が訪れた。
それでも臆してはならぬと言葉を紡ぐ。疑問に答え、疑問をぶつけ。
そうして得た推測と情報は、何となく予想をしていたとはいうものの、すんなりと受け入れるには不可解であり双方を深く悩ませた。
その度に夫婦そろって、励ましの言葉を送ってくれるものだから余計にいたたまれない。
“未来から来ました”だとか、現代であれば気が触れているのかと、放置されかねない危険な言葉を真剣に受け止め気持ちを汲んでくれる夫婦の心遣いが嬉しい。
けれど、正直持て余すのも事実なのだ―――ここは、現代ではない。
年号はよく分からなかったが、有名人の名を知る事が出来た。
この世には「平清盛」や「源頼朝」が存在している――――すなわち、鎌倉時代だ。
明治よりも、江戸よりも……もっともっと前の世界。頭を抱える以外に感情を表現する言葉さえも見つからなかった。
「…あんたを置いてやりたいのは山々なんだけど、あたしたちも正直食べていくので精一杯でね………食い淵が増えるのを支えてやれないんだよ」
申し訳なさそうに眉を下げて謝る女性に、慌てて顔を上げさせる。
謝るだなどと、とんでもなかった。この夫婦が救ってくれなければあの雪原で凍死していたのは火を見るよりも明らかである上に、
仮に助かったとしてもこうして腹を満たすことだって不可能だったはずだ。
「そんな、やめてください。あなた方は私の命の恩人なのです…! …本来ならば、あの雪原で私は死んでいた」
今思い出してもぞっとする、死の恐怖。
こうして生きているからこそ、実感することなのかもしれない。
親に甘やかされ、悪態をつきながらもぬくぬくとそれに甘んじ、明日も当たり前に命がある事を不思議にも思わなかった。
明日も生きているのが当たり前だった。それが、いとも簡単に崩れてしまう状況なのだ。
そう、意識すると再度、身はぶるりと震えた。
「……ここは、京都……京に近い場所なんですよね? きっと、京まで行けば何かしら職につく事ができるでしょうか」
「少なくともここにいても何もないさ。最悪、京でなくとも、至る道すがら、宿を営んでる場所もあるからね。事情をきちんと説明したらもしかしたら力になってくれるかもしれないよ」
「ああ、あんたさんは随分可愛らしい顔をなさってるからね、甘味処なんかで看板娘とかね、なれるんじゃあないかな」
冗談を笑いあって。
少しばかり余裕ができて和やかになる場に、緊張と不安が溶けていく。気付けば夜も随分深まっており、適当なところで話を切り上げて眠ることとした。
制服姿では寝苦しかろうと貸してくれた寝巻きに袖を通し、三人寄り添って暖をとる。
思えば小さい頃は父と母に挟まれて川の字になって寝たな、などと、そんな暖かな記憶を思い出してしまったのは。
これもまた、無くしてしまったからこその哀愁だと思えば――――人間はやはり、失ってからじゃないとその価値を知り得る事ができないのかもしれない。
ほろり、と涙一滴、頬を伝って消えた。
次の朝、目覚めて簡単な食事を採った後、夫婦の支度と共に小屋を経つ事となった。
夫婦の案内で京までの道を共に往かせてもらえる事になったため、再度頭を下げる。本当に文字通りこの夫婦には頭が上がる日は来ないだろう、と思う。
「…着物まで、頂いてしまって」
「あたしのお古だし…悪いね、もう随分悪くなってるだろうけど……」
「いいえ、いいえ。助かります。この制服のままで歩くわけにはいきませんし…本当に嬉しいです」
簡単な着付け方法も習った。
現代の着物の作法とは異なり、普段着として着物が使われているせいだろうか、着付けに関しては随分と自由な印象がある。
元着ていた制服は小さく畳み、もらった風呂敷に包んで大切に抱えた。これだけが唯一の自分の持ち物―――記憶だ。
ぐっと抱き締めれば、胸にたくさんの思いが溢れてくる。
「じゃあ、行こうか。これから雪道が続くから、辛かったら言いなね。無理してはぐれても危険だから。いいね?」
「はい、よろしくお願いします」
いつまでも振り返っているわけにもいかない。私は決意を新たに、京への道を行くこととなった。