手無し娘
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エピローグ
―――カラン。
ステンレスの水筒とぶつかる、小さなボトル。それは小さな小瓶のような形をしており、首の部分に紐を絡め数個連なる不思議な形をしていた。ココの腰につけられたそれは時折ココの動きに合わせてぶつかり、先のように音を立てる。
ちらり時計を見やるココがおもむろに腰の水筒を外すと、振り返りそれを後ろに控えていた女……リンへと渡した。リンは少し困ったような、曖昧な表情でそれを受け取ると、指示通りの分量を器へと移し、飲み干した。
こくり、と細い喉が鳴り、やがて美しいその瞳が男のそれと重ねられた。
「―――、塩味?」
「ああ、合ってる」
男の言葉に、リンは緊張したその顔を思わず綻ばせた。華やぐ柔らかな表情に、ココの表情も幾分か穏やかなものへと変化していた。
思いを伝え、晴れて通じ合わせたあの日から幾月―――一日も忘れることなく続けられる味覚の特訓。飽和溶解度ギリギリにまで濃度を上げた5つの味覚を鍛える水溶液を作成し、毎日決まった時間に定量をテイスティングする。
精神は人のそれではないというものの、リンの肉体は“リン”という人間そのもの、生身のそれであるのだ。
異常な濃度の水溶液を、味覚が感じないからと口にし続けていれば確実に肉体の限界がきてしまう、そう考えたココは時間をかけてでも少しずつ鍛えるという手段を選択した。
精神と肉体が分離しているという特殊すぎる推測は、幸か不幸か決して後はずれな推測ではなかったらしい。精神と肉体が完全に一致することは今後も不可能かと思われるが、味覚に関する訓練の結果は日々確実に進化していると判断できる。
言ってしまえば、彼女は「血」の味は知覚できるのだ。すなわち、いくつかの“味覚”は確実に存在していると推測される。いくつもの複雑な味覚が入り組んで、血と言う味を形成しているのだと定義するなれば。彼女の人でない精神が、味覚という概念を拒否しているだけなのである。
人も、味覚は訓練により鍛えることが出来る。その応用を、重ねればいずれは―――そんなココの願いは、現実となろうとしていたのだ。
「随分早く成長したものだね。正直、こんなに早く味が分かるようになるとは思ってなかった」
「…うん、嬉しいです」
照れくさいのか、眉を下げて微笑むリンの顔に、かつて見た化物の形相の影は見当たらなかった。それでも、しばしば彼女は血を求め狂う日もある。
湧き上がる衝動に怯えながら、けれども懸命にひた向きに訓練に取り組む姿に励まされているのはココの方で。そんな彼女を見ては勇気をもらい、己の心へと向き合う。
女は味覚を、血の疼きを掌握し、男は毒の衝動を掌握する。互いが互いに、特殊な性癖を克服すべく戦っていた。
ココの方も、感情と毒との相互発動を分離すべく鍛錬を欠かさなかった。感情と発動とを分けて心持つことは容易ではなかったが、決して焦らずを信条にこつこつと経験を摘んでいた。
今日は、久方ぶりに悪友と会う日だ。
いつも以上に心の動きが活発になっている二人は、その騒がしさに戸惑いながらもそれをいなし、鎮める。程なくして約束の時間となったとき、ココはリンの目の前へと己の手を突き出した。
「―――さ、どうぞ」
以前ならば決して差し出されなかった助けの手。キッスに乗るときですら備え付けの梯子に頼り、たとえリンが落下しそうになったとしてもその腕を差し出すことなどなかった。
それが今はココ自らが、手を差し出している。今となっては当たり前の光景となったそれが、それでもその変化が何度でも嬉しくてたまらないリンは、特上の笑顔でそれに己の手を重ねるのであった。
キッスの背に乗り、準備が整ったところでふわりを羽ばたく。空の番長―――エンペラークロウのキッスは堂々たるその黒い翼を広げ、悠々と空を切って進む。
以前と異なり、余所余所しさのなくなった主人とその恋人と――――言葉は話せなくとも、感じ取るその二人の空気の違いに、キッスもどこか満足気だ。これから向かう先で起こりうるイベントを思って、キッスは祝福するかのように空を羽ばたいていった。
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今が幸せだから、満たされているから。
“穏やかな気持ち”というものが時折、酷く苦しくて堪らないのだと恋人に伝えたのならば。美しいものを素直に「美しい」と思えない心を知ったのならば。
薄汚いこの心を見て今度こそ捨てられるのだろうか。それが怖くて、私は今日も押し黙る。
悪友に会おう。そう、恋人が言い出したのは数日前の事であった。悪友とは恋人、ココの幼馴染達の事だ。ココを含め美食屋四天王と呼ばれている悪友達は皆長身の強面で、けれども中身は男気溢れる所詮ナイスガイと言う連中である。
ココからその話を聞かされたとき、中でも特に交流のある四天王、サニーの姿を思い浮かべてリンは笑顔になった。サニーはココと己とをつなぐきっかけを作った人物で、進展しない二人を一番心配していた男だ。リンも自然と信頼を寄せている。
次に思い浮かんだのは青い髪の大男、豪快と言う言葉がぴったりの男、トリコだった。良くも悪くも豪快で爽快なこの男は、思考が深いリンにとっては少しばかり苦手な人間である。親分肌と呼べばいいのか迷うところであるが、発言や行動、その全てがとにかく一直線なのだ。
あらゆる事象を考え、深読みするリンにとってその直情が心を抉る時もある――故にリンはトリコに苦手意識を持っていることは否めなかった。
けれども、彼を嫌っているわけではない。カラカラと笑う姿に駆け引きなどの計算はなく、心を委ねることができる。それは、カリスマ性と言うものなのだろう。
―――ならば、何がこうも気持ちに歯止めをかけるのか。
長い睫毛を伏せる。ちらちらと少し目障りな輝きの中にぼんやりと浮かび上がるのは一人の男の姿であった。人畜無害…などと、悪意ある言葉が喉を飛び越えそうになり慌てて飲み込む。ただただその影は柔らかく温かい空気を纏い、屈託のない笑顔で微笑むのだ。
ぐ、と唇を噛み締め、気持ちに蓋をする。リンとて分かっているのだ。影が、彼は何一つ悪くない。その人柄に惹かれ集まるのは一種の才能である、リンだってそうだ。人よりも優れた容姿を与えられた、それ故に人から注目されるきっかけを得ているのだから。羨むほうがおかしいのだと理解している。
けれども。――――けれども。自分には決して叶える事が出来ない職業への夢―――彼は料理人、であった。
「(…こう思ってしまう日が来るって、分かってたつもりだったのに)」
諦めている間はそれでよかった。自分とは住む世界が違うのだと、対象として並べることもしなくて済んでいた。けれども一歩、また一歩と、味覚を知っていく内に自分はその住み分けの枠線を超えて、スタートラインに立ってしまったのだ。
諦めていたはずの夢が、願いが、また、息を吹き返してしまう。心が、願ってしまう、望んでしまう。美食屋としてのあなたの隣を。そして、妬んでしまう。料理人としてあなたのそばにいける、小松の存在を。
「(……男に嫉妬するだなんて)」
あんなにも強く愛を誓ったというのに、それでも不安で押しつぶされそうになってしまう。押し寄せる暗闇に気を取られないよう、リンはココの背に強くしがみ付いた。
ずっとあなたの傍にいたい。それだけでいい。けれどもそれが叶わない、叶えるためにはどうしたらいい。
変わる日々が怖くて、怖くて、堪らないのだと伝えられたらどれだけよかったのだろうか―――――。
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わいわいと盛り上がる部屋の中。大きな体を揺らして騒ぐ大男達はみな、出された料理に舌鼓を打ち、各々の冒険譚を披露する。数々の危険な旅、あるいはその食材の味、価値などを語っては意見し、語り、笑い合っていた。
いつになく饒舌なトリコや逐一茶々を入れるサニーは見ていて飽きず、気の置けない仲間達の集まりが醸す空気に飲まれてしまいそうだとリンは思った。自分の過去には存在しないその温かくもくすぐったい空気はどこか居心地が悪く、落ち着かないという気持ちを隠すので精一杯であった。
また、その場には見たこともない人間も多く、その存在が一層リンの気苦労を増やしている。右斜め前、トリコの隣に座る可愛らしい女性。どこか気の強そうな、つり上がった青色の瞳が印象的で思わず見つめてしまう。可愛らしい顔に似合わない、目の下に入る大きな傷跡が気になるが、この空気で聞ける勇気も出るはずがなく…ただ、視線が八合わないように微妙なタイミングでずらしては重ねて、を繰り返した。
後に話の流れで、彼女がサニーの妹である事を知ったのだが、それもどこか他人事のように聞き流してしまった。当の彼女本人はこちらよりも、隣に座るトリコに夢中らしく、彼の話を熱心に聞き入っていたから大した問題はなかったのだが。
曖昧に微笑みながら、共感しづらい話を流しては飲み込む。リンにとっては味の感じにくい、けれども絶品だと賞される小松の手料理を愛想で飲み込み下す…その作業の繰り返しが空しさを感じる頃、ふいにお鉢が自分へと回ってきた。
「リンさんはココと付き合ってるし?そこのところ詳しく聞きたいしー!」
先ほどまでトリコにその身を預けてべったりくっついていたはずの、サニーの妹、鈴がこちらに話を投げたのだ。
きらきらと大きな目が期待を込めて射抜く。悪意のないその、純粋な瞳に心が後ずさったのは仕方がなかったのだと思う。ただでさえこの空気に乗れていないのだ、ここで話の主役になってしまうのは出来る限り避けたかったのが本音である。けれども逃げられないこの状況に追い詰められた小動物さながら、困ったように眉を下げて曖昧に微笑むしか出来なかった。
すみません、ちょっと、失礼します。たったそれだけの言葉を発するのにもいつも以上に気を遣った発言であった。けれども結局、いたたまれなくなり、手洗いに立つふりをしてリンは部屋を少し離れることにしたのだった。
部屋から少し離れた休憩所の椅子に腰を下ろし、深く溜息を吐き出す。吸い慣れない建物の空気が空しさに拍車をかけるようであった。
連れてこられた建物、ここはちょっとした料亭のようなところで。リンはあまりその価値を知りえていないが、美食屋四天王だからこそ手配できる、特別な料亭なのだということは分かる。かつてリンが渡った男達では手配できない、格の違う場所だ。
付き合いの長さが違うのは理解できる。場所で幼少から育った仲間、彼らにとって互いは家族のようなものなのだ。自分がそこにすぐに馴染めないのも仕方がないことだと理解できる。
けれど、その埋めがたい距離を埋めるための手段、共通点をリンは持ちえていないのだ。ココとの特訓で幾分か味を理解しているとはいうものの、超濃度の水溶液を、ようやく知覚できている―――かもしれない、程度の味覚なのだ。繊細な料理の味など分かるはずもない。
美味しいおいしいと、笑顔になって皆がむさぼるのだ。それはそれは、本当に美味しくて堪らないほどの馳走なのであろう。けれども、リンはそれを分かち合うことができない。知ることができない。…共感することができない。盛り上がる一同から取り残されているその感覚が、ここ数日の不安と重なり、身を震えさせる。
付き合ってるよ。
大好きなの。
やっと手に入れたの。
言葉に出来なかった鈴への返答がぽつりと漏れる。リンは椅子に座りながらそっと自らを包み込んだ。―――大丈夫。怖くない。不安を晴らすための言葉が更なる不安を呼んでいるなどと、考えもせずに。
ぐ、と涙を堪え下を向くその視界の端に、黒い靴が映った。先端しか映さなかったそれはすぐに身を屈め、少し上げた顔の前には困ったように微笑む恋人の姿があった。
ああ、またこんな顔をさせてしまっている。私の今の気持ち、どうか気付かないで。抜け出したことをどうか、責めないで。嫌いにならないで。
たくさんの言葉にならない気持ちが溢れて消えた。彼を直視できずに逸らした瞳であったが、それを見ずしてもココは全てを悟っていた。そっと、大きな手に頬が包まれる。孤独に冷えていた頬がじわりと温められた。
「……やっぱり、不安だったんだね」
否定したい言葉はやっぱり言葉にはならなかった。少しでも話したらば、この汚い気持ちの欠片が出てしまいそうで怖かったのである。
けれども、ゆっくりと目が合ったらそれを隠すことなど出来なかった。いくつかの気持ちを吐き出し、リンは震える。安心させるかのように、ココはそっとリンを抱きこんだ。
幸せなのに寂しい。満たされているのに怖くて堪らない。どうすればいいのだろうか。リンはココの肩へ頭を埋め、心細さを噛み締めていた。
否定するわけでもなく、ココはその小さな背をそっと抱き竦める。自分が思う以上に自責の念が強いこの恋人はこうして目を離すと一人で泣いている。
こんなに不安に押しつぶされそうになる前に自分を頼って欲しいとココは常に思うが、彼女がそれを出来ないのにはやはり自分との信頼が積み重なっていないからだということを痛感する。心が通じた。思いが通じた。彼女と己の間に足りないのは、きっと。
ココは全てを知りえてここに来ていた。そう、今日の集いは決してただ近況報告を行うだけの食事界などではないのだ。
落ち着いたらしい彼女を、そっと放して部屋に戻るように諭す。その言葉でその瞳に一瞬にして広がる不安の色が痛々しいと思うと同時に、ココはどうしようもない期待が広がるのを感じていた。
「さ、みんなが待ってるよ。…戻ろう」
「…はい」
その手を取り、部屋へと戻る。
襖を開けた先は相変わらず盛り上がったままで、酒の入ったトリコが先ほどよりも一層陽気に場を盛り上げていた。よ、ご両人!と、宴会場でよくあるネタまでご丁寧に振ってくるほどである。いつもならば馬鹿にして制止するサニーも酒が入っているのか、大した反応もせずに料理を口に運んでいた。
席に戻り、その手をそっと離す。名残惜しくも離れたリンの細い手は行儀正しく折られた膝の上へと戻っていった。
―――頃合か。
心の中でそんなタイミングを図って、ココはリンへと視線を向ける。ココからの視線にすぐに気付いたリンはそっと顔を傾けたが、その瞬間にはすっぽりとココの胸へと収まっていた。急な出来事に戸惑う。みんなの前で大胆な、と顔が赤くなるのと、ココが言葉を発したのはほぼ同時の事であった。
「みんなに、言っておきたい事があるんだ。リン、君にもまだ話してない事だね」
「…?」
見上げられたリンの目には相変わらず不安の色が広がっている。さらにその体をぐ、と己に引き寄せ、ココは周囲へと視線を向けた。
茶化す声も今は静かであった。皆、ココの言葉の続きを知っているのだ。知らないのは、リンだけ。
「今ここに―――――僕とリンのコンビ結成を発表するよ」
何を言われたのかよく分からなかった。周囲の恋人の友人達が含みある笑顔でこちらの反応を伺っているが、肝心のリンの脳は思考停止状態である。リンの思考が再始動したのは、小松の祝福の一言がきっかけであった。
ようやく自分を抱きかかえて離さない男、爆弾発言をした恋人を振り返る。からかっているわけでもなく、真剣そのものなその表情に、リンはまたも言葉を失ってしまった。
やっとの思いで吐き出した言葉は情けなくも間の抜けた「…どうして」そんな疑問の言葉で。これにはトリコが大げさに肩を落としていた。
けれどもすぐに静かだった部屋はもう一度騒がしさを取り戻す。祝福というファンファーレ、羨望の眼差し、冷やかす言葉に満ちる中、滲んでいくリンの視界。
うそだ、だって、だって。
「嘘って顔してるね」
「だって…!」
「もう、弱音なんか聞かないよ。言っただろ? 一緒に、生きていこうって。これが僕の答えだよ」
「僕の人生のフルコースを料理するのは、君以外にありえないよ……リン」
我慢していた涙が溢れてとまらなかった。いくつも不安な言葉は浮かんだが、結局先ほど同様、どれも発することは出来なかった。
どれを吐いたとしても、ココはきっと全てを受け入れるのだ。逃げ道を与えないその不器用な優しさに、リンは前を向いて進む選択肢以外を捨てる以外の道はないことを悟ったのだ。
彼と共に往くとは、そういうことなのである。
グルメ時代―――中でも特異稀な“グルメ細胞”を持ちえる彼は恐らく、常人よりも永い時を与えられている。その永い時間を自分に分けてくれると、その覚悟があることを改めて誓ったのだ。
彼の、家族の前で。
それはまるで、
「…プロポーズみたい」
「やっと気がついたかい?……君は意外と鈍感だよね」
一瞬面食らったようにあどけない隙を見せて。そしてふわりともう一度微笑んだ。つられてココも微笑む。
その時の二人の笑顔は、今まで見た中で何よりも美しく輝いていた。そう、出席者の誰もが感じていた。
この先、普通ではないこの二人には想像できない苦難や壁が立ちはだかるのだろうと、不安も確かに存在する。
それでも、互いの一生の全てを賭けて添い遂げる誓いを交わした人ならぬ、この二人を見守り続けたいと願わずにはいられなかった。
手を取り、ようやく立った人生のスタートライン。
かくして、化物と毒人間は、真の意味で結ばれることとなったのであった。
fin.