手無し娘
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15.終幕
酷く長い時間だった。そう思う程に長い時間、沈黙が場を支配していた。
ココは目の前の男をただ見つめ、そして男もただココを見つめていた。それ以外に何もなかった。
長い沈黙を破ったのはココで、それも特別重要な何かを口にしたとかそういった事はない。ただただ、無に等しい沈黙の時間が続いていたのだ。
ようやく、それを真の意味で破ったのもやはりココであった。
ただただ静かな声で、男―――鉄平の言葉に疑問を投げたのである。長い沈黙に包まれる前に鉄平が言った「リンは俺が殺す」というその言葉の真意―――それをココは問うてみたかったのだ。
ココの質問に対し、鉄平はといえば何も答えはしなかった。ただ静かにココを見つめるだけである。けれどもそれでココは全てを悟ったのである。
見通すこの目に映る、不安定で朧気な電磁波がそうであったように。
「―――それは、君の役目ではない」
僕の役目だ。
その言葉で沈黙は終幕を迎えたのである。
個性的な内装に反し、奥へ進めば進むほど病棟のような簡素な作りが目立った。鉄平に案内された再生所の奥は見なれた病院のような、検査室のような―――無菌、そんな言葉を彷彿とさせる静かな場所である。
辿り着いた先はごく一般的な個室の前、鉄平は一度ココを見やってそれから静かにドアを開いた。ココの「ノックは――」その言葉を遮っての入室である。
宝箱が開いた時のような、あふれ出る光に思わず目を閉じる。ふわり流れた風は癒しの国らしい、薬草のような青い香りがした。まばゆい光を分け、目を凝らした先に静かにたたずんでいる人影―――以前よりも一層華奢になったその影は紛れもなく探し人、リンその人であった。
かけよって抱きしめてやりたい、なんて、叶うはずもない衝動を飲み下してココは鉄平の出方を見た。鉄平は無表情であった。ただ、静かに彼女のそばへと近づき腰を下ろす。彼女もまた、無反応であった。
これにはさすがのココも違和感を感じ、己の目で“視る”。その視界に映ったのは紛れもなく生きている人間が放つ“生気”だ。これは特別おかしなものではない。けれどもただ一点、気になるとすれば―――。
「…リンさん」
「……………」
「…リンさん?」
何事もないかのように。音を知覚した反応や気が見られない事であった。
緊張で騒がしかったココの心臓がひやり静まり、思考が停止する。しかし次の瞬間にはせわしなくも焦燥に騒ぎだした。どくどくと脈打ち、嫌な汗が流れ出す。
声をかけても反応がないということはすなわち、聞こえていないという事である。無視をしていても聴覚が働いているのだからその“気”や“波動”には必ず変化が見られるのだ。
それすら見られない。
混乱に狂わされるココを見やり、鉄平は言った。
「安心しろ。聴覚は失っていない。……ただ、心がやられてしまった」
肝を一層冷やすような残酷な言葉に目を真開いたのもつかの間、鉄平はそっと、リンの掌に触れた。その瞬間、此処に在らずのリンの意識が覚めたのをココははっきりと感じ取っていた。己の視界にも先程まで僅かたりとも見られなかった彼女の“波動”が突如現れたのだ。
意識が覚醒したのを見て、思わずココは体をカーテンの後ろへと隠した。彼女の目に映る勇気がまだ、なかったのだ。
あたたかい光に溢れる病室で、目覚めたらしい彼女は目の前の男にそっと微笑む。少しこけた、美しい、横顔で。
「鉄平兄様……、あ、もしかして、今日が」
「いや違う。……今日は、どうだ」
「……どうしてでしょう、覚悟を決めたからかあれから発作はなく、ずっと落ち着いているんです」
「そうか」
交わされる会話はとても淡々としていて、味気ないと感じられた。けれどもそこには自分とのやりとりにはない無言の信頼があったように感じる。ココは密かに唇を噛んだ。全てを知り得た上で覚悟を決めた、絶対なる信頼――共に過ごした時間の差があるのだろう。
その後、しばらくの沈黙が続いた。遮られた視界、カーテンの向こうに迎えに来た訪ね人がいるというのに、ココはカーテンを開ける気にはなれなかった。覚悟を決めたのはココも同じであったが、それでもこのカーテンを開ける事が躊躇われたのだ。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、しばらくして、ぽつりとリンが言葉を漏らした。抑揚のない、けれども諦めたような声で綴られたのはココへの未練であった。
ひとつひとつ解き明かされていく彼女の苦しみや悲しみが、あの小さな背に全てのしかかっていたその事実を目の当たりにし、ココは胸が苦しくて苦しくて仕方が無かった。
同時に、いとおしさが溢れてたまらない―――唯一隔てていたカーテンを払い除け駆け寄ったのも、溢れ出る想いの反動からであった。
「リンさん」
「どうして…」
驚いた女の表情はすぐに困惑へと変わる。そして助けを求めるように、リンは鉄平へと視線を映した。鉄平は自分が呼び寄せたわけではない旨を伝えると、ひらひらと手を振り部屋を出ていく。
真っ白な部屋の中にリンとココとが残された。
行き場を無くした視線は手元のシーツへと落とされ、困惑を映していたその瞳はココに向けられる事はない。ただ、握りしめたシーツが小刻みに震え、会話の拒絶をありありと示していた。
「帰ろう」
迎えにきた。怖がらせぬようにそっと話しかけるがリンの反応はなく、ただ静かに震えていた。
言葉を続ける。
「僕自身の意思で、君を迎えに来たんだ。誰に頼まれたわけじゃない。僕は、君と…」
「勝手な事を言わないで!!」
ココの言葉を遮り飛んできたのは空気を裂くような威嚇の言葉であった。
言葉の鋭さとは裏腹に、悲しみに歪むその顔にココは一瞬たじろいだ。それを見逃さずに続ける。
「帰って下さい。あなたと話す事なんてありません。短いようで長い間でしたが、お世話になりました。挨拶もせずにすみません、でも、もういいんです」
淀みなく吐き出される別れと感謝と、有無を問わない拒絶の姿。
揺るぎない意志の元、綴られていく言葉と知りつつもそれでもココとて引くことなど考えていない。握られたシーツがその皺を一層深いものにしていたとしても、それでもだ。
決していいとは言えない空気の中、今度は気まずい沈黙が続く。上げられたリンの顔は再びくたりと擡げられ、表情は伺えない。けれど、視なくても分かるのは彼女は今自分に消えてほしいと思っているという事実であった。
「僕が嫌になった?」
吐いたのはずるい言葉だ。自分でもそう思う。それを聞きとってリンが静かに反応を見せたが、けれども彼女の意思も相当に硬く、動揺はすれども折れる事は決してなかった。
変わらず握られたままの手が赤みを差すほどに、固い決意を秘めているのだろう。
ココはというと、これも彼の悪癖の一つであるのだが相手が感情の動きを見せれば見せるほどに、自らは冷静になっていく。己の一挙一動に動揺し、けれどもそれを見せるまいと隠し振舞う目の前の女がただ面白いと感じていた。
決して悪意があるわけではないのだが、難関であればあるほどそれを崩す瞬間が楽しみであるとでも例えたらいいだろうか。ともかく、ココにとって目の前のいとおしい人も今はその対象でしかない。
下を向いて縮こまるリンには知る由もなかったが、男の柔らかな笑みに差し込んだのは紛れもない戯の影で。切れ長の瞳はゆっくりと細められた。
しばらく待てどリンからの返答はなく、また彼女もそのつもりもないようであった。
追い詰めているという、先にも挙げたが、決して暴力的な感情ではない。…のだが、優位に立っているという事実がココの笑みを深くする。愉悦に浸る己に驚いたのは何よりもココ自身である。けれどもそのささやかな戸惑いは目の前の愛しい女を見ればすぐに納得がいく事であった。
育まれた兄気質――目の前でふるりふるりと打ち震える女の姿に酷く保護心がくすぐられるのだ。ただしこちらもまた生まれ持ったものかもしれないが、もう一つ、ココには毒な感情を持ち得ていた。いつだったか小松がココの言葉にチクリ傷んだと言っていたような気がする。まさにそれであった。
愛しい女を守ってやりたいと思う心とけれどももう少しいじめてやろうかというアンバランスな感情が、笑みの正体だ。
そして何よりココを頂点にさせているのは、切り札―――家を発つ前に見つけた“手紙の切れ端”の存在であった。
そう、ココはもう全てを分かっていたのだ。
いつかリンがココの家を去った時に残していった手紙の末部は不自然に千切り取られており、その手紙には世話になった旨の短いメッセージが綴られているだけであった。
追いかけたいという気持ちすら切り捨てる、ただの紙切れのような手紙であったその最後に綴られていた、リンの言葉。
「僕も君を愛している」
“あなたを愛していました ずっと気付いてほしかった”
ココは勇気を振り絞り、リンの手へと己のそれを伸ばした。けれども触れる間際のその瞬間、弾かれたようにリンは顔を上げた。
美しい大きな瞳にかつてないほどの涙を浮かべながら、憎しみを込めて彼女は叫ぶ。
嘘つき だと。
白々しい言葉と空気が己の周りに渦巻いている。そうリンは感じていた。それは決して考えすぎな自分の劣等感の壁などではない。
ほんの数刻前までの寂しくて寂しくてたまらなかった切なさが雲散するほどの激しい心の流れ。湧き上がるのは怒り。そしてただただ空しさであった。
リンはシーツから手を離しそっと胸を抑えるが、穴などもちろんどこにもなくて。けれども胸に感じられる、抉られたような虚無感―――酷く乾いていたように思った。
来てくれて嬉しい。…はずなのに。そうであってほしかった。
もしもここへ、連れ戻しに来てくれるのならばその時はきっと彼の中にある何かを乗り越えて来るのだろう、そんな根拠のない期待があったらしい。けれど男は、ココは何一つ変わらないまま、ただ言葉を重ねてこちらの出方を待っている…その姿勢でやってきたのだった。
それはリンを酷く失望させた。以前、一度彼の家を飛び出した時に連れ戻された時から何一つ変わっていない事に。あの時は彼の怒りの感情の底に「もしかしたら心配してくれていたのかもしれない」という微かな希望があった。事実、その後の彼はわずかながら歩み寄りの姿勢を見せてくれていたのだ。
それでも、ただの一度も触れてくれた事はなかったけれども。
もう十二分に精神的な安らぎを与えられたのだ。これ以上はもう溢れていくだけだった。
蔑むような視線を浴びるだけの寂しい同居生活から、少しずつ形を変えていった二人の空気の中でリンの心の傷は本十分すぎるほどに癒された。
どうして、分かってくれないのだろう。どうして、彼の一番近くにいけないのだろう。
どうして、手を伸ばさせてくれないのだろう。
こんなにもあなたが溢れて、たまらないのに。
けれど、そうしてまた、秘密を打ち明ける事もなく、空疎な言葉で私に触れたつもりになるのですね。
どくんどくんと体の奥が煮え始めるのを感じ取った。これはいつもの衝動の始まりの合図だ。
あと数分もしない内に理性が飛び、見苦しく叫びながら血を欲し喚くのだ。今すぐにでもココには立ち去ってほしいと願うが、それもおそらく叶わないだろう。リンは密かに悟り、覚悟を決めた。
己が人でない事も、悪魔のように血を欲し叫ぶ姿を見られるのだ。以前同様、あの侮蔑混じりの冷めた視線で見られる日が始まる。リンは静かに瞳を閉じた。――――いや、違う。視線を向けられる日などもう来ない。発作が始まった瞬間が、永遠の別れなのだ。
ならばいっそ思いの丈をぶつけてしまおうか。再び握りしめたシーツと指の赤さを見やり、力を緩めたその時であった。
「僕も君を愛している」
その後の行動はもう考えている時間はなかった。弾かれたように顔を上げた瞬間にはもう言葉を発していた。
噴き出した激しい怒りと…絶望と。叫ばずにはいられなかった。
「嘘つき…ッ!!」
塞き止めていた悲しみや苦しみや、我慢、怒り、切なさが言葉となりて吐き続けられる。付け入る隙を与えないまでに打ち出されるそれらの言葉と言う感情の終わりは見えなかった。
ただひたすら責め立て吐き捨てる言葉たちはなんと醜い感情の権化であろうか。けれどそんな風に冷静に考えることもできず、ただひたすらリンは感情をぶつけた。
「白々しいッ!そんな上っ面の同情の言葉に踊らされたりなんかしない! 何が“自分の意思”よ!…何が“帰ろう”よ!! 何が…!! 何が“愛している”よ!!」
「私に触れもしないくせにッ!!」
「それは違っ…………リンさん……?」
断末魔。肉が裂けるようなおぞましい奇音が目の前の女から発せられる。びりびりと肌の表面を裂くように突き向かってくるそれに怯んだのも束の間、それは明確な意思を持ってココへと向かった。目が合った瞬間に滲む愛らしい目元は血走り、裂けそうなほどに間開かれた目からは狂気が滲み出ている。
狂気にまみれた叫びから血を欲する言葉が紡がれたと気付いた時にはすでに女の牙はココの腕へと突き刺さっており、たまらずココは力いっぱいにそれを振り払った。痛みを回避したのではない。ココの体内にある毒が彼女に吸われ侵される事を恐れたのだ。
「リンさんッ!!」
最早女に理性はなく、ココの必死の問いかけにも反応らしい反応は返ってはこなかった。ただ息を荒げ、血を吸い出すべく隙を伺う獣の姿。まごう事なき、化物の姿。
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ココは酷く冷静を欠いていた。先にも挙げたが己が追い詰められているという焦りから来るものではない。己の毒が、女を死に至らしめないか。ココが一番恐れるその最悪の事態を想定し、張り詰めていたのである。
「(確実に僕の毒が吸われた…ッ!)」
“死”という言葉が見えた時、攻防で熱くなる体と引き換えに心が凍りそうなくらいに冷え固まっていくのをココは感じた。どうすればよい、どうすれば。
バタバタと乱暴な足音と共に鉄平が現れたの事に若干の安心を得たのか、隙が出来た彼女からココは距離をとる。しかしその間もリンは血を求め叫び狂っている。勢いの衰えないリンの姿に、毒が利いていないことを確認し胸を撫で下ろす。
まだ十分に冷静でない脳が忙しく働くが、何一つ答えを導き出せない。ちらりと鉄平へと視線を向けた。――瞬間、全身に走った悪寒。あの目は、あの気は、知っている。
ココが言葉を発するよりも速く、鉄平はリンの動きを封じ、その首へと腕をかけていた。まだ、言葉が発せられない。ココを置き去りにして鉄平はぼそり呟く。
「今、死なせてやる」
細い首に指が食い込んでいた。
「待てッ!!それはお前の役目じゃないッ!! 彼女を放せ!」
チイッと舌打ちが聞こえた次の瞬間には、喧騒は急速に終焉を迎えた。
―――手刀。首に深く埋め込まれかけていた指は手刀へと変わり、リンの首後に落とされ、呻き声と共にリンはベットへと崩れ伏せた。ばくばくと鳴る心臓を沈める暇も与えられないまま、ココの左頬に激しい痛みが走る。次の瞬間には、胸倉を掴まれ引き上げられた。
「…さっきから聞いてりゃくだらねぇ建前ばっかり並べやがって! お前は一体何しに来たんだッ!?」
「違、…ぐ、」
「リンを泣かせやがって…おまけに覚醒までさせるところだったんだぞ!? お前は自分が何をしてるのか分かってんのか!!」
投げつけるように床に転がされる。確かに鉄平の言うとおりであった。ココは判断を見誤った。
大きく肩を膨らませて息をする鉄平の背が微かに震えていたが、その背にかける言葉をココは持ち合わせてはいなかった。それは酷く惨めな気持ちであった。
少し冷静になったらしい鉄平がココを見やり言う。鉄平がココを案内したのは他でもない。もしかしたらこの運命を覆す力を持っているかもしれない、その可能性にかけたのだ。リンとの誓いを交わした時も、その後も、彼女がそれでも諦めきれなかったこの男への恋心。誰にも叶える事が出来ないその願いを唯一叶える事が出来る男が自らの意思で覚悟を決めやってきたというのだ。
これに希望を託したいと思うことは愚かであっただろうか。鉄平はその判断を違えたとは思わない。
けれども、男はまだ、真の意味でリンを救うことが出来ないのだ。リンが望んでいるのは、欲しいものは、そんなことじゃないんだ。そう、言ってやれたらどんなに楽であったか。
人を避け生きてきた人間に、慈悲を求める女の心を量ることは出来ないのだろうかと、鉄平は顔を押さえ俯いた。が、すぐにそれは解かれる。そう、待ってやるだけの時間はないのだ。
射抜くような視線がココに突き刺さる。先ほどまでとは異なる真剣なそれに、ココの心がざわついた。鉄平は一旦姿勢を正すと、抑揚のない声で言い放つ。
「リンはやはり俺が殺す。
俺は、あいつを拾ったその時から命を見届け、この手で終わらせる覚悟がある……お前にはそんなものないだろう?」
「覚悟なら出来ている」
「ハ、お前の安い言葉にはもううんざりだ。聞く価値がない。少し揺さぶられただけでぐらつく覚悟なんて、覚悟とは言わねえんだよ!」
「そうだな、お前にはきっと分からないさ」
どの口が言うのか――――どこまでも女々しく苛立つ男だと、睨み返した鉄平であったがその言葉は腹の底へと飲み込まれていった。目が合った男の、ココのその表情が全てを語っていた。
自分の価値観が崩れ落ちていくような不思議な感覚と、敗北感と。果たして、覚悟とは何であったか。そう、自問せずにはいられないほどに。
「…………分かりにくいんだよ、アンタ」
そう不服を漏らせば、困ったようにココは笑った。
――――未だ、試した事はない。
誤解が解けたその後、鉄平は一つの小さな錠剤をココに手渡した。鉄平によると、人の思考や夢を一時的に具現化しその中に干渉するためのものだという。目的としては精神疾患を抱える患者の深層心理を的確に理解し、分析する目的で開発されたものだという話があるようだが詳しい事は鉄平も知らないらしい。
どこか禁忌であるという感覚は否めず、おそらくはそんな理由や風潮が広まり嫌煙された発明なのだろう。故に、鉄平は言ったのだ。試した事はない、と。
思考を形にするなどと言う非現実的な話をすんなり信じられるほどココはお人よしではなかったが、今までのやりとりを経て、鉄平もまたそういった人間である事を理解していた。すなわち、これくらいしか手段が思い当たらないのだろう。
もちろん不安も十分にある。これを投与して彼女の身に良からぬ事が起こった場合の恐怖は計り知れない。副作用だってあるかもしれない。それらを全て飲み込んで、それでもココは決行した。
投与してから数十分、未だ鉄平の手刀で意識の戻らないリンがベットに横たわっている。それに大きな変化はない。じっと不安と戦うだけの待ち時間は酷く長く感じられたが、ほどなくして変化は訪れた。
「これ、は…!」
額の中心から天井へ雲状の煙が伸びている。透けているようなものではなく、例えて言うなら綿菓子…あるいはマシュマロのような。グルメ時代と呼ばれるこの時代で、理解に難しい摩訶不思議な出来事も経験してきた。けれどもこれは。思わずココは鉄平を振り返るが、鉄平至極真面目な面持ちでそれに応じた。
程なくして煙は拡大を止め、宙をささやかに揺らぐようになった。触れるべく手を伸ばしたが、指先に感じるはずの触れた感覚はなく、その指先は雲の中へと飲み込まれていく。驚き冷めやらぬままココは雲の中へと飲み込まれていった。
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真っ白な空間であった。前も後ろも、左右も、何もかもが分からない場所である。唯一地に足がついていることから、全くの異次元でないことは分かるが、平衡感覚も失われかねないこの空間に長時間い続けることは無理だと思われた。ココの目をもってしても、ここには何も視えない。ただひたすら、白色が続いているだけであった。
鉄平は言った。投与された人間の思考を具現化したものだと。けれどここには何の一つも存在しない。先にも挙げたが、床が存在している以外は何も存在していないのだ。失敗。その二文字がココの脳内をよぎった。焦りだす気持ちを何とか静め、辺りを改めて見渡すと、先ほどまで何もなかったはずのその空間に、小さな人影が浮かんでいた。
あるはずのない壁に左側面を預け、気だるげに座り込む小さな後姿。見間違えるはずもない。愛おしい、この、世界の持ち主だ。
思わず駆け寄り、様子を伺う。足音もしないこの空間だからであろうか、その人影は決して振り返ることもなくただひたすら前を見ていた。触れられそうなくらい、近くにやってきた時その人が泣いていることに気付いた。小さく、すすり泣くようなか細い泣き声。そして、その影はココの存在を知ってか知らずか、独り言のように話し出した。
彼女が話を始めた途端、波が引くような衝撃と共に空間に色が浮かぶ。始めはどこかの家、食事の乗ったテーブル、それを囲む、優しげな瞳の母親らしき女と、目尻を下げた男と、おいしいと、話す愛らしい娘。温かい家庭の団欒の図であった。何かを話している様子は分かるが、肝心の台詞は聞こえない。唯一、確かに聞こえた娘の“おいしい”という言葉。
娘が何かを親に訴えたらしい。その瞬間、空気が一変した。しかしその正体を確かめるまでもないまま、目の前の舞台はまたも景色を返る。展開の読めない急激な変化に白黒させた目が次に捉えたのは、先ほどまでの温かさなど微塵ほども感じさせない、荒れた家庭の図であった。そしてココは悟る。
「(……あの娘はリンさんだ)」
その後は目を覆いたくなる凄惨な光景が続いた。目を背けたくなるような仕打ちの数々に幾度もぶつかりながら、それでもココは硬く拳を握り締め、その全てを見た。何一つ知らなかった彼女の過去を垣間見て、溢れ出る切なさをもう留めておくことなど出来るはずもなかった。力なく在るその体を抱きしめてやりたい。あんなにも伸ばしていた救いの手を、逃すことなく掬いたい。
けれどもココの伸ばした手は彼女に触れることが出来ない。視えない壁のようなものが、行く手を阻んだ。か細い背は今にも崩れ落ちてしまいそうで酷く儚い。
守ってやらなければ。抱き締めてあげなければ。伝えなくては。ココは視えない壁に、そっと、手を添える。これがもし、彼女の心の壁であるのなら、これを解き放つのはどうか自分であってほしい。そう、心から思った。
「……僕は君が好きだ」
「…………う、そ、つ、き」
ぴしり。薄氷にひびが入ったような音が聞こえた。景色がまたも変化するが、ココはそれに目をやることはなかった。濁った水底のような仄暗い青に包まれる。
その感情はただただ悲しい。消え入りそうな声がまた一つ波紋を作った。
「私、兄様に、殺してもらうの。……あっちへいってよ。あなたなんて、もういらない」
「それは駄目だ。そんなのは僕が許さない」
「………許さないって、何よ…。あなた結局、私を懐柔したいだけなんだわ……分かる?
そばに置いて、飼い慣らして、私があなたに依存することに優越感を抱いているだけ。
優しい言葉で一喜一憂する私は、ねえ、面白かった? 満たされた?
…知りもしないであなたに恋焦がれていく私は愚かで、哀れで………
ねえ、いとおしかった? 」
ココの頬を一筋の涙が零れた。そう本人が自覚した時には涙は量を増し、ぼたりぼたりと床に大きな水溜りを作っていった。か細い涙声で綴られる言葉はリンの紛れもない心の悲鳴であった。ふわりと華やかに微笑むリンのあの笑顔の下に、こんな悲しみを携えていたという事実が胸を裂いてしまいそうであった。
何一つ交わってなどいなかった、互いの想いと、リンの苦しみを推し量ってしばらくココは涙を止めることが出来なかった。悲しみを、寂しさを、けれどもずっとひた隠しにしてきたあの背をなぜ自分は抱き締めてやれなかったのだろう。気付いてやれなかったのだろう。ただひたすら疑い、突き放し、抉って、惑わせた。過去の日々がただ、霞んで映っていた。
けれど。―――けれど。
「僕は、これから先の世界を君と一緒に生きていきたい。 …ずっと不安にさせて…ごめん。でも、僕の隣は、君じゃないと駄目だ」
「何度だって言うよ。僕は、君と生きていきたいんだ」
「嘘つき」
「嘘なんかじゃない」
「…嘘よ」
「嘘じゃない」
「君が嫌がったって、もう決めてる」
壁の向こうの彼女が小さく震えた。微かな震えも、髪が動くその変化すら気付くこの位置でけれども抱き締めたい気持ちだけが叶わない。隔てられた壁は、まだ阻んだままであった。
未だリンの心は閉ざされたまま、ココの侵入を頑なに拒む。己の過ちで抉り傷つけ続けた心に触れたい、そう願うココは、意識を飛ばす直前に言えなかった言葉を紡ぎ始めた。けれどもそれは同じく、リンの激昂により遮られた。決して振り返りはしない。けれど、背が全てを語っていた。
「…本当、一緒に生きてこうだなんて、出来もしないことをよく言える…! あなた自分で言ったわね、美食屋の仕事を始めるって…! 味覚のない私があなたのそばになんていたって、何の意味もないのなんて明白じゃない!」
「味覚が感じられるよう、一緒に訓練していこう。……常人より長い人生なんだ。君に一生をかける事を決めてる」
彼女の息をのむ音が響いた。
手を添えていた壁が、少し薄くなったように感じられる。けれど、まだ消え去らない。次の言葉は涙で少し、震えていた。
「…わたし、人間じゃないのよ……化物なのよ…! さっきも、見たでしょう? 気色悪い悲鳴も上げるし、……血が、好物なの……血を美味しいって感じる化物なのよ!!」
「…知っていたさ。それでも、僕は君と一緒に生きていきたい。君を幸せにして、そして僕も幸せになるんだ。二人で、一緒に幸せになってくれないか」
「……だったら!!どうして触れてくれなかったの!? ……知ってる、汚かったからでしょう…?」
私の生き方は決して褒められたものではなかった。それでいいと思っていたし、どう扱われようがそれは仕方のない事だと思うと同時に、自ら選んだことだと納得もさせていた。
複数の男と交わっては生気を啜って生き、仕舞いにはその命をも吸い尽くす。誰だってそんな体、好んで手に入れようとなど考えるはずがない。その為の“魅力”―――テンプテーションだ。けれどもそれがココに通じないことはもう知っている。彼の犠牲となった男たちも全て、このテンプテーションに惑わされて吸い寄せられただけなのだ。リンという固体が持ち得ている姿ではない。
ココとて健康的な男性だ。性欲だって十分にあるだろう。
…リンの置かれた状況や数々の要素を組み合わせて弾き出した答えは、どんなに否定したくともそれ以外にはありえなかったのだ。
初めて口に出した不安と言う本心は、想像以上にリンの心を抉った。ココから見えない事が唯一の救いであったリンの、ぐったりと垂れた頭部、その大きな瞳からは大粒の涙がぼたりと落した。
惨めであった。
こんな浅ましい姿を見せたくなどなかったのに。
激しい悲しみが吹き荒れる思考が、ココの言葉によりぴたりと止んだ。それは、リンが聞いた事のない、弱弱しいココの声であった。なんと言ったか、言葉を反芻する。ココは己を“第一級危険生物”だと言った。
「…過去に実験体みたいな事をやっていてね。短期間で多種の毒を取り込むという無茶をしていたんだ。その結果、僕の体内で毒が混合し、この体は新たな毒を生み出す“毒人間”となった。…どういうことか、分かるかい? 僕に触れたら……死ぬってことさ」
「……そんな、こと」
「さっき言ったように、危険生物として組織にも追われたり更なる実験被体として扱われる日に嫌気を差して、僕は人と関わることから逃げた。人を寄せ付けないように生きた。…君を最初遠ざけたのもその延長だよ」
手が震える。けれどこれは決して避けることの出来ない告白であった。ココの胸にずっとくすぶっていた恐怖、そして打ち明けられなかった彼の秘密。
そっと片手を胸に添える。受け入れられないかもしれないという不安に、心拍はやや早さを増しているが、それ以外は酷く穏やかであった。ココは話を続ける。共に日を重ねるにつれて気持ちが変化していったこと、ささやかなやり取り、嬉しかったこと、寂しかったこと、手紙の話、これからの話。
毒に関してはほとんどコントロールできているが、万に一つを考え、ずっと遠ざけていたこと。そして、そこから一歩踏み出そうとしている事。
ひとつひとつ、丁寧に取り出すようにリンへと届けた。“普通じゃない”のは、僕だって同じだ。今は自虐的ではないその言葉を嬉しく感じられたなど、と、ココは困ったように笑う。少し間をおいて、気持ちを整える。
深呼吸の後、真っ直ぐに伝えた。
「君をずっと抱き締めたかったよ」
瞬間、添えていた手が前の空間へと落ちた―――とそれと同時に、リンが振り返った。綺麗な顔を涙でぐしゃぐしゃに歪めて、震えている。止める事ができないらしいその涙には、あらゆる感情が、今まで押さえつけていた気持ちがいっぱいに詰まっているのだろう。
しゃくりあげながら、必死に言葉を紡いでいた。
「わ、たし、味が、分か、ないの」
「うん」
「ち、血を、すすり、たくって、暴れるかもしれな、い」
「うん」
「人間じゃ、ない、から、け、っこんも、できない」
「うん」
「子供だって、産めない、かも、しれない」
「うん。…あとは?」
ひっくひっくと、苦しそうに息を吸う幼子のような問いに一つ一つ頷く。そしてリンは一層深く息を吸い込み、言った。
「わたし、手を、伸ばしても、いいの?」
「もちろんだ。―――――おいで、リン」
そっと広げた己の腕を見やり、腫れぼったい眼にこれ以上ないほど涙を溜めた。顔をくしゃくしゃに歪めながら立ち上がり微笑む。
感慨深く、そっと手を伸ばしたココだが周囲の異変に気付く。
何かが消えていくような朧気な雰囲気に、慌ててリンを見ればその姿がわずかに霞んでいる。
急ぎ手を伸ばそうとしたが、それはリンの体を突き抜けて空ぶってしまった。混乱が生じたが耳に届いたのは聞いた事のある誰かの声であり、耳をすませばそれは鉄平の警告であった。―――夢が覚める。この雲の中はリンの思考の中である。すなわちリンが目覚めてしまえばここから脱出する事ができなくなってしまうと言う事に違いない。
こうして迷う間にもこの空間の終焉は近づいていた。薄れ行くリンにココも微笑み返して、それに背を向け走り出す。―――大丈夫。必ず現実の君に会える。そう確信して、ココは走り出した。
----------
いつも通りだった目覚めの景色は今日は少しばかり異なっていた。真っ白な天井に変わりはない、少し鼻につく薬用風の臭いも変わりはない。それが揺らすカーテンも、穏やかな日差しも、全てがいつもと同じ景色であった。
手を当てた頬はかさついており、こけた頬の、骨の感触が伝わった。泣いているはずもなく、目も通常通り変わらぬ景色を映し出していた。異なっていたのは胸の痛みだ。頬の次に胸を押さえる。心が痛かった。
―――夢だったのだ。あれは、全て。
「なんて、夢―――――」
「夢じゃないさ」
声。気配。そこには夢の中で背を向け走り去った男が頬笑みながら立っている。その逞しい腕を広げ、頬笑みを携えて。
言葉が出ず、震える事しか出来ない女を、リンにココはそっと囁いた。
「おいで、リン」
その言葉が合図であった。
感極まる勢いそのままにリンはココへと体を投げ出した。
鈍い音が響いて胸の壁にぶつかったと感じた瞬間に、息も出来ないくらいに抱きこまれる。穴が開いていたような、寂しい寒さがじわり満たされ温められていくような感覚……まるでどこにも逃がさないとでも言いたげな力強い抱擁に、ただ今は酷く安心していた。
私、本当に、手を伸ばしてもいいのね。私、伸ばす手を、与えられたのね。
涙声でそう紡ぐリンは儚くも美しく、他の何よりも愛おしい。憑き物が落ちたような、無垢なその涙顔に胸が締め付けられ、苦しくてたまらない。言葉に出来ないほどに溢れて流れる深い感情の流れに逆らうこともないまま、ココはもう一度深く、きつく抱き締めた。
―――化物と毒人間の、最初で最後の恋物語。