手無し娘
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14.天地
かつて遠い過去にこんな風景を見たような気がした。
一面の銀世界―――に近い程の、真っ白な世界だった。その頃はただただ体の奥が痛くて、けれど人にはとても言えないような場所で、体を小さくしてその痛みをこらえた。声も上げられず、また、伸ばす手も、なかった。
前後左右、どちらを見渡せど広がるのは真っ白なその色のみで、奥行きがあるのかそれすらも掴めない真っ白な世界だ。
時折、聞こえてくるのは誰かの声で、けれどもそれは決して姿を見せない。声のする方へと顔を向けたくても、繋がれたように重い体は決してそれを許しはしなかった。
背と尻に感じる柔らかな感触だけが、この身を支える唯一のもので、それが無くば精神など完全に崩壊していたのだろう。
酷く喉が渇いていた。
視界から得られる情報に乏しいせいか、思考までもうまく働いていないようで、ただぼんやりと虚空を見つめる。
けれどもなぜか喉は渇くらしく、水分を欲した。それを要求するために声を膨らます事は出来そうもなかったが。
するとどこからともなく水分がそそがれ、喉を満たす。異常事態だ、正常な脳ならば吐き出すくらいの拒否反応を出来たはずだし、何よりこの事態そのものに危機感を覚えただろう。
けれど今のリンにはそれすらも失われていた。ただ、水を欲した生理的な欲求のみ手つかずで漂い、また、なぜか、誰かがその欲求を満たしたまでの事でそれ以上もそれ以下もなかった。
同時に湧き上がる、食欲。赤い、何かを欲した。あれは何と言ったか。
思い出そうになり、ズキンと脳が痛む。違和感に気付けば気付くほどその痛みは増して、物事を考えられなくなってしまう。まるで、思い出す事を、要求する事を拒否するかのように。
痛みに苦しむその腕がようやく上がったと思った瞬間に、何者かにそれを掴まれ、視界が色づいた。
「大丈夫か」
「……ぁ」
真っ白な世界は一掃され、代わりに視界に飛び込んできたのは鮮やかな若草色と人の存在だ。酷く心配そうな顔をしてこちらを見ている。
誰だったろうこの人は。ぼんやりする意識にピントを合わせ声を震わせる。
「…鉄平、にいさま」
「魘されていた。水は飲ませたが………腹は減ってないか?」
「……血が」
飲みたい。
「ち、違う…違う違う」
「リン、落ち着け」
「違う違う違う違う違うの!!」
頭を振って否定の言葉を吐き出す。咎めるような誰かの声が聞こえるが構わずに両手で頭を押さえ、爪でひっかくじくじくと脳天から痛み出す感覚ですら恐ろしく、ただひたすら抑えつけられるまで騒ぎ喚いた。
言葉にできない恐怖心が体中を舐め回すように貼り付いているような不快感と不安感で発作が起きているのか、もう何であるのかこの状況を正確に捉える事さえ出来なかった。
ただ分かるのは、この体が、喉が、たまらなく血を欲しているという事実だけであった。
謝罪が一瞬の隙をついて混乱の隙間をくぐったと思った瞬間、意識が遠のいた。白ではない、今度は黒の世界だ。
「…すまん」
鉄平はリンの意識を飛ばしたのだった。
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不機嫌そうに吹かした葉巻の煙がふよふよと舞う。血だらけの白衣を纏った人相の悪い男が鋭い視線で鉄平を見た。否、見たというよりも覗ったと表すのが正しいように思われる。
しかし男はそれ以上何も言葉を発しようとはせず、ただ黙ってじっと弟子を見つめていた。二人の間では言葉なき言葉が交わされ、ただ苦々しい顔をしては表情を歪める。それも次第にゆるりと姿を変え、最後には諦めの表情となった。
男―――は、名を与作と言い、この診療所の長だ。鉄平の師でもある。
かつての幼子だったリンを住まわせ、鉄平に見させたのも彼であった。今、師弟の間で静かに下された決断だけが現実を映し出す。
沈黙に耐えかねて口を開いたのは鉄平であった。
「それしか、」
ないんですか。言葉が最後まで放たれなかったのは遮られたからではない。
その問いの無常さを誰よりも発した本人が分かっていた、それゆえに言葉を殺しただけの事だ。それだけだった。
どれだけ名残惜しかろうと結論が出てしまえば覆す事など出来ない事を何よりも分かっているのは鉄平自身であった。どれだけ非情だと責め立てられたとしても、命の重さをはかる事は出来ないのだと諭されたとしても。
故に、苦しむより他、気持ちを雲散させる方法がなかったのであった。
「かわいかったなァ」
「?」
「ガキは好かんが、愛されるために生まれてきたみてぇなツラして、俺の顔を見てはよく泣いてやがったな」
ガハハ、と普段通りの音で与作は笑う。けれどもその笑い声の末尾が微かに震えていたのに気付いた目聡さが、鉄平の長所であり短所なのかもしれなかった。
ルール無用。事あるごとにそう笑い飛ばすかの師がこの状況を決して覆そうとしないのは、すでにそれを考えた後の結論なのだということを意味している。鉄平は、そう感じた。
意味のない昔話など持ち出して、遠い目をして、声を震わせて笑う。絶望にも似た悲しみだけが場に取り残されたまま、それ以上、鉄平は何も言う事が出来なかった。
意味もなく生かされている毎日。それがリンの今に相応しい言葉であった。
与作の再生所へ転がるようにやってきて早幾日が経過したが、それ以上の変化もそれ以下もそこには存在しなかった。
ただ、毎日鉄平が食事を運び、意識のないままそれを食す。時折、意識が戻ったと思えば顔を酷く歪めて血を欲し、拒絶反応に雄たけびを上げる…異形さながらの生活であった。
首の皮一枚で繋がった“リン”という娘の意識があったことが幸か不幸か、彼女は未だ“覚醒”せずにもがき苦しんでいる。
とっくに人の肉体の限界を超えてしまったらしいそれは、今や自分の意志では動かす事が困難となっており、一日の全てをベットの上で過ごしていた。
傍から見たら廃人同然のその姿が酷く痛々しくてたまらなかった。
早く楽にしてやりたいと願ったのは偽りない気持であった。けれども決定はそれを許さない。
死に行く命ならば、せめて有効活用を――――尊厳を奪いつくしたその決定に拒否反応を起こさないと言えば嘘になる。けれどもそれに反抗した鉄平を何より絶望させたのはたった一言であった。
「あの娘は人であるか」
人権という言葉を当てはめるに相応しいか。その一方的な問いにそれ以上、何も言えなかった自分が酷く、未熟だと、思ってしまった。
開け放した窓から降り注ぐ光は穏やかで、真っ白な室内をさらに明るく照らしている。柔らかな風に揺られたカーテンがひらり翻り彼女に触れても、女は身じろぎひとつせず光を失った目でただ遠くを見つめるだけであった。
大きな足音を立てて部屋に入りても、反応らしい反応を何一つ示す事もなく、ただじっと、遠くを見つめる。静かなこの瞬間は決して穏やかなそれではなく、ただ嵐が起こる前の前兆であるなどと誰が予想できただろう。
無理やりに詰め込んだ高カロリーの食事――と呼ぶにも憚る、食物が入った皿。小松がここにいたならば、決してそれを女に含ませる事はないだろう。そう鉄平が思うほどに、手にしている“食事”はそう呼ぶには余るものであった。
けれども仕方が無いのだ、と自身に言い聞かせ支度を進める。嵐を一線、交えるために。
「リン、食事だ」
声をかけても反応はない。廃人同然だと比喩した、その理由がここにあった。声をかけても、面前でいくら脅そうとも、彼女は全くの無反応なのだ。
けれどもただ一つ“触れる”事によってその意識が戻り、人となる。そして、魔物に、なるのだ。
暴れても支障ない場所へ皿を置くと、鉄平は横たわる彼女の右肩に触れた。その瞬間今までまったくの無反応であった女が、ゆるりと鉄平の方を振り返った。目に、光が宿る。
ゆるりと唇が弧を描き、柔らかな光の元、天使と称された美しい笑顔が咲いた。そのまた瞬間、一気にそれは崩れさる。
「…血、血が…血を!」
奇声をあげて懇願するのは血液だった。激しい抵抗を抑えつけるべく、まずは右肩を抑えつけ素早く口へと食物を押し込む。これを食事風景と呼べる人間がいるのならば、問うてみたいと鉄平は思う。
それでも抵抗をあげ吐き出そうとする口に、無理やりに押し込まねばならない異常なこの時が、一刻も早く過ぎる事だけが願いであった。
えずいては苦しむ女の顔を見続けるのは自分への戒めか、それでもやらねばならない現実への断罪か。ぐちゃぐちゃになる思考の中、ただひたすら女がそれらを飲み込むまで、終わる事のない暴力的な食事を待たねばならない。
「いいから…食え!食わないとお前は死んでしまうんだぞ!」
「――――っ!」
酷い話である。味覚が無いのをいい事に、少量で高カロリーの、一般人にはとても食せないようなおぞましい味の食材を押し込むのだから。
人権もなにもあった行動ではない――――そう。それを、かつてそう叫んだ己が行うのだ。これ以上の業苦がどこにあろうか。
無理やりに押し込ませた食材が喉を通過したのを見計らい、手刀を下す。すぐにリンの意識は闇の彼方へと落ちて行った。
鉄平の手が震えて止まない。こんな方法でしか本当に何もないのだろうか。これでは生き地獄だ、吐き捨てる場所のない憎らしい叫びがこだまして苛む。
心が、悲鳴をあげていたのはリンだけではなかったのだ。
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嫌な予感がした。というよりは、悪寒を感じ取った。という方が正しかった。
何気ない一日の昼下がり、久々の休暇を満喫すべく行きつけの温泉がある、癒しの国にやってきたサニーだった。自慢の美貌に更なる磨きをかけるべくのんびりと湯に使っていたそんな一時に走った悪寒。
全裸なのを忘れ立ち上がってしまうほどの強い波動に思わず周囲を見渡したほどであった。衝撃こそ強くはなかったが、その分類は凶悪極まりない悪しきものだったのだ。警戒心が働いたのも無理は無い。
そんな嫌な出来事から早幾日か経過した。何かあれば自分のところにも然るべき場所から連絡が入るだろうと、気長に構えていたが良きかな己のところに連絡は入らなかった。
けれど、サニーには分かっていた。決して関わらずに過ぎ去る問題ではないことを。そして―――もうすぐ、渦中の人間が訪れることも。
程なくして空が騒ぎ始めた。行き交う鳥達がその速度を速め、忙しなく飛び去っていく。ひとしきり周囲の鳥が飛び去ったところで堂々たる空の番長の姿が視界に飛び込んできた。それはみるみる内に大きくなり、激しい風と共に地上へと降り立った。
見慣れた男に、声をかける。
「久しぶりだな、来ると思ってたぜ」
「驚かせて悪かったね。鳥達には悪いことをした」
ほんとだぜ。蹴散らすように飛んできたからな。そんな軽口を叩けた事に安心した。
それでも目の前の男はどこか心ここにあらずといった感じで、こちらの存在へ意識が集中していないのが手に取れるほどであった。長話の必要はないが、場所を選ぶ必要はある。
サニーは手早く男を促し、落ち着いて話を出来る場所へと導いたのだった。
席に着き、単刀直入に切り出せば、男―――ココは、ここへ至る経緯を簡単に説明し始めた。それはサニーを少なからず驚かせたが、感じ取った悪寒とその事件とは大きなずれもなく、比較的にすんなりと状況を受け入れられたように思う。
居場所を知らないか、ココはそう尋ねたが、もちろんサニーにそんな心当たりは無い。また、行きそうな場所すら思いつかない。
所詮サニーとお尋ね者の女との関係はその程度で、尋ねる方が無駄と言うもの。そんなことはココにとっては分かりきっている事であろうに、それでもココは声をかけてきたのだ。こりゃ相当詰まってるな、と当事者でない故の余裕で客観的に見る。
以前渇を入れたように、もう一度言わないとわかんないのか、とちょっと見下げる気持ちがないわけではない。これだから頭でっかちはどうしようもない。と、再度けしかけてやるべくココを見直したその瞬間だった。
淡く、微笑む男がそこにあった。そう、ココは決して余裕がないわけではなかったのだ。
「薄ら笑みがキショイ」
「……ひどいな」
思わずそんな言葉が出たが、その表情を汲み取りサニーは悟った。ココは答えを見出したのだと。
今日、ここへやってきたのはリンの居場所を尋ねるためではない。ただ、見出した答えの決意表明に来たのだと。
間をおいて、確かめるようにココは話し始めた。
「…前に、小松君に触れられたことがある。…僕の体は毒があるといっても、コントロールさえ出来ていれば少しくらいは触れたって問題ないんだ」
「ああ…なんか聞いたような気はするな。フグ鯨を捕獲しに行った時だっけ?」
感慨深く頷く。悪友が珍しく一般人を引き連れてハントに出るとの連絡を受け、半ば呆れながら赴いた先での出来事であった。今でも胸に残っている、とても優しい記憶だ。
触れてはいけないと遠ざける己の言葉を彼は受け入れ、安心させるように自ら触れた。
大切な人を傷つけないよう遠ざける事が必ずしも正しかったのかと問うたのならば、もちろん頷く事は出来ない。それでも、傷付ける可能性が1パーセントでもあるのならば、己を殺してでも全てから逃れた方がいいのだと思った。
――――けれど。
「僕は彼女ときちんと向き合おうと思う。…これから先、共にありたいと伝えたい」
まっすぐに射抜くようなその瞳に以前見た淀みはただの少しも見ることはなく、褐色の色が静かに炎を燃やした。その宣言に言葉などはただ無粋であった。サニーは静かに頷き、一呼吸置いていつもの調子で砕けて詰るが、それもそこそこに途切れて沈黙が広がる。
奇妙な緊張感が場を取り巻いていた。言葉を選んでいるのとは少し異なる、詰まったような息苦しさを伴う沈黙だ。核心に触れる、言葉が宙を舞う。“いつが人でなくても?”その問いにあっさりと返された肯定の返答が驚くほどすとんと胸に落ちた事に驚いた。
ココも同様であったらしい。向こう見ずな発言でなかった事は言わずとも理解できるが、その表情は驚きを隠しきれない。間開かれた目。数度瞬いた。
言葉を選ぶように口を開いては閉じを、幾度か繰り返して、それでもやはり言葉にはならなかったらしい。困ったように、けれどもどこか嬉しさを溢れさせた瞳で答えた。
それ以上、もう言葉は必要なかった。
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別れのときは刻一刻と迫っていた。
それなりだと自負していた精神がこれほどまでに疲弊した現実に自信が欠け落ちるような気すらしている。日課になってしまった凄惨な食事の終わりを呆然と見つめていた鉄平は、言葉にならないこれらの鬱憤を大きなため息として吐きだした。
ちらり視線を動かして映した女は、酷く不健康な顔を晒し横たわっている。毎日、暴力で意識を飛ばさせているこのか細い肉体は紛れもなく人のそれで、柔らかな肉も、美しい顔も、女の持ちえたそれであることに違いはない。
気絶していれば、触れても意識は戻らない。鉄平は女の側へと移動し、散らばる髪へと手を伸ばした。ゆっくり持ち上げればさらり、と頼りなく指をすり抜け消えていく。
「…どこからどう見ても人なのにな」
けれどこれは人ではないのだ。それだけならばさした問題ではなかったのだろう。けれどこれは世間を脅かし、世の中の秩序を狂わせる害を及ぼす危険のある生物であった。直接的な食材への被害はなかろうが、間接的に被害をもたらす危険性は高い。
この世に必要とされない、排除しなくてはならない化物であった。果たして幸か不幸か。これは、IGOと繋がりのあるココと言う男の元へと至り、情報は拡散しやがてIGO関係者への耳へと届く事となる。
捜査は過去へと遡り、与作、鉄平へも依頼がやってきたのだ。
「……いっそ、今、ここで」
IGOから出された指令と言う名の選択はどれも顔をしかめるようなものであった。提示された指令…提案に抗議すれば、放たれたのは“非人間”という残酷な3文字だけ。人でなくば何をしてもよいのかと道徳を問うたところで何かが変わっただろうか。鉄平は己の手を見つめ思う。
結局のところ実験体となるか、体よく利用価値を出すかその二択しかない。人ならざる化物がなぜ人のような生を得られたのか、また覚醒せず潜伏していた理由、目的、覚醒理由、覚醒条件―――を含めたこの生物の調査。
野放しにすれば害になり得るだけの化物なのだ、どれだけ見目麗しかろうとそれだけは揺ぎ無い事実だと言い放ったIGOの科学者への反論空しく、利用価値が高いというのも揺るぎがない事実であったのだ。
これが持つ誘引力は害生物を誘い出すのに有力であることは想像がつく。言い捨ててしまうのならば、体よい囮の役割となろう。
いずれにせよ、実験体としても囮としても、人権などそこに存在はしない。ただ、害生物への有効な活用法――――それしか、与えられなかった。
鉄平が引渡しをギリギリにまで渋ったのはこの非情な選択肢を選ぶだけの鬼がいなかったからに他ならなかった。故に酷く苦悩に苛まれている。
――――いっそ、今、ここで
眩い光に包まれ、白く輝く細い首を包む。触れた掌からじわりと薄い体温が伝わって、鉄平は泣きたい気持ちになった。
怯えながらもしかと己を掴んだあの幼い手に一欠けらの悪意も無かった。ただひたすらぬくもりと安心を求め、小さな勇気がそれを繋いだ。ただそれだけの事であったのだ。
「幸せになっちゃいけないって言うのかよ…!」
ぽたり、鉄平から落ちた雫がリンの頬を濡らした。理不尽な涙と叫びなのは誰よりも男自身が理解していた。
どれだけ喚こうとどれだけ心傾け、痛めたとしても己が選ぶ道は最初から決まっていた。そう、これは言うなれば茶番と懺悔なのである。
死にいく良心の最後の叫び―――――全ては、これから行われる決断の実行への慈悲を、赦しを下すための懺悔の痛みだ。
この娘を妹のように可愛がり、愛らしいものを与えたとしても男の中でそれが己を差し置いてまで優先されるものではない。
鉄平は決断をしてしまったのである。
真っ白な世界に置かれるように座っていた。否、置いてある。その言葉ままであった。
床があるという情報以外は何も見当たらない真っ白な世界だ。背はあるのか、奥行き、高さ、時間、色、音。どれもが存在があやふやで存在を感じる事ができない箱庭である。
時折叫ぶような、言の葉が落ちたり舞ったり、ひらりひらり浮いているのを確認できたがその意味を理解する事は出来なかった。ただただそこに在るだけ。故に置かれていると表するのに相違なかったのである。
時々視界の端に存在が確認できるのはこれも真っ白なものであった。布である。存在しないはずのそれは本当に時々、光と風に晒され揺らされ存在をリンに知らせた。
ここは何もない世界ではないのだと、訴えかけるようなその動きに心を閉ざしたのはリンの方であった。
ひとつ知覚すれば、次に知覚する別の感覚。ああ、足に布が乗っている。背に、尻に綿が敷かれている。時間が、進んでいる。
ひとつひとつ思い出すように湧き出てくる情報たちは重なり、リンという固体の有様を伝えようと形を成す。それが、怖くて仕方がなかった。
「(お願いもうやめて)」
言葉にならない言葉が胸の中で爆ぜて全身に散らばる。これは痛みだ。誰にも理解されない、誰にも分からない自分だけの苦悩の破片。
知りたくない、思い出したくないと拒絶を続ける自分を許さないと言わんばかりに、肉体、心へと痛みを与えては散っていく罪の破片。
そして今日も訪れるのだ。全ての色彩が鮮やかになる時間。
「リン、食事だ」
急に感覚が鋭くなったと思えば、浮き上がっていく周囲の輪郭。意識がはっきりするのに伴い、色と形、厚みが明確になっていく。ふわりと頼りなく宙を舞った言葉は、放たれた音源からリンへとたどり着きその意味を示す。
右腕に感じた人のぬくもりは繋がれた掌から優しく伝わり、どこか懐かしいような安心するような柔らかな安心感をもたらした。
「兄、さま」
「――――――」
目覚めの瞬間のような穏やかな意識の起床。けれどもその安定が崩れるのは一瞬。視界に映した優しい男の姿がぐにゃり歪み、内で爆ぜ痛んだ傷が煮え立つような熱さと不快感が全身に瞬時に走った、そう感じた時にはもういつも遅いのだ。
髄の隅から沸き立つ欲望が全身をよじ登る感覚、言うなれば分散した自分の悪しき分身たちが餌を求めて這い上がってくるようなえも言われぬ激情だ。
化物と称するに相応しいおぞましい欲望。味覚を、血を。美味なる餌を。悪魔の咆哮を上げ押し寄せる感覚的なそれを抑える手段はリンなどにはなかった。けれどそれは限界の一歩手前でいつもシャットダウンされる。鉄平の手刀によって。
それが、リンにとって救いであったなど、鉄平がなぜ知る事ができたろうか。
後付けの、そして言い訳がましく聞こえるのかもしれないが、リン自身本当は、何もかも全て知り得ていた。どうしてこんな事になってしまったのか、そして鉄平がこの身の行き先に苦悩し、涙している事も。
真っ白な世界など嘘だ。全て見えていた鮮やかな世界を“見えない”と騙していただけだった。壊れたふりをしなければ耐えられそうもなかったのだと、詫びる先もない謝罪がここにはある。
けれど胸を焼く血と味覚への執念だけは真実であった。そしてそれを受け入れられない、人として生きた“私”が競合っている。
“幸せになっちゃいけないって言うのかよ”そんな優しい叫びと共に涙を流している兄分を解放してやらねばならない。
人ではないのだと知ってしまったあの瞬間に、たった一つ、望んでいた幸せへの希望は、もう手に入らないものになってしまったのだから。
「…鉄平兄様、泣かないで」
勢いよく顔を上げた男は大層驚いた顔を見せた。男にしては珍しく、感情を言葉に出来ないらしい。唇を震わせては、漏れ出させる息がか細く舞った。
そんな鉄平をリンは静かに見つめていた。湧き立つ血への飢えを堪え、ただ静かに。―――を、取り繕う。甲斐あってか、平常心を保てている。
何から話したらいいのか少し迷いながら、リンはそっと言葉を紡ぐ。ぽつりぽつりと雫のように零れ落ちいく懺悔と感謝と別れの言葉たちは、床に落ちる前に全て掬われ、鉄平へと沁みこんで行く。
今までありがとう、とか、これからごめんなさい、とか。溢れる言葉たちはどれも幼い言葉ばかりであったが、離れていた二人の間を埋めるには十分であった。
ひとしきり言葉を伝えて、息を吐く。今までずっと言えなかった重圧から解放されたリンの胸に広がったのは少しの安堵と、許しを得たような洗われた心であった。
噛み締めるように瞳を閉じ、覚悟を決める。けれど、たった一つ。瞼の裏に焼きついて離れない願いがちらついて、胸を震わせた。
思わず漏らしてしまった小さな嗚咽。鉄平はリンの異変に気付くと、すぐさまその手を取り、温めた。
「…リン、泣くな。……お前の命はちゃんと、俺が」
「違うんです…違うの、違うの」
こればかりは鉄平にも背負うことが出来ない想いだ。長く開花を待っていたと、今となって言葉に出来る、恋心だ。
引き際を決意したというのに、彼の―――ココの顔を思い浮かべればそれも情けない程に形無しで。鉄平にそれを伝えたらば、耐え切れないと言わんばかりに涙を深めてしまった。
哀れ哀れだと嘆くそれを惨めだとは感じまい。でも。でも―――そんな女々しい言葉が離れないのもまた、事実であった。
ぐぐ、と涙、そしてぶれる想いをも飲み込み、下す。リンは鉄平を振り返ると、重ねられた手にさらに己の手を添えた。
涙で腫れぼったい目がこちらを向く。痛々しいそれに一度薄く微笑んで、紡いだ。
「どうぞ、よろしくお願いします」
鉄平は悲しげに、けれど力強く頷いた。
硫黄の煙を抜け飛び進む空は穏やかで、予定よりも短期間で目的地へと到着することができた。というものの、サニーから聞き出した“再生所”は目と鼻の先で、ものの数分で到着するこが出来たのだった。
いつもならば空へと帰す相棒に合図を送り、付近を旋回させる―――賢い鳥は指示に従うまま、付近の空を飛び交っていた。それを見やり、ココはしかと頷く。あくまで、最悪のケースを想定しての事であった。
煩く鳴るだろうと思っていた心臓は予想に反し静まりかえっており、それが逆にこれから先に起こりうる事態を甘く見てしまいそうで―――決して油断するまいと気を引き締めなおした。
「………四天王ココよ。お前がここに来るだろう事は分かっていた」
前触れもなく迎え入れられたことに驚かなかったのも、覚悟ができていたからに違いなかった。
通されたその建物―――再生所の中、奇妙に歪んだソファへ促される。ココを迎え入れた男は想像していたよりもしなやかな見た目をしており、涼やかな目元に浮かんでいるのは静かな波動―――冷静な色が濃く浮かぶ姿に、幾分か話が通じやすいのではないかと期待を抱くことができたのは幸いであった。
距離を離し向かい合わせとなるその男を改めて見やった。男も負けじと、その目をココに向ける。先に口を開いたのは男であった。
「単刀直入に聞く。美食屋、四天王ココ。何をしにきた」
「ここに、僕の大切な人が来ているはずだ。迎えに来た。返してもらえないか?」
「それはできないな」
ぴしゃり、取り付く島もないとばかりに拒否をされる。今まで涼やかな、けれども本心の見えぬ瞳だった男のそれに宿った鋭い陰りを、ココは見逃さなかった。急激に張り詰めていく室内の空気に自然と目が細まっていく。けれども、引く気などさらさらなかった。
男はそれ以上敵意を向けるわけでもなく、けれども決して付け入らせない、いわば隙のない姿勢で立ちはばかっている。さらに続けた。
「彼女の身柄はIGOにより保護されている。俺も含め、勝手な判断でどうこうすることは出来ないんだよねえ」
「保護、だと…?」
大した意味はなかっただろう。けれどもその二文字にココは過剰に反応した。かつて同じ言葉で正義を振りかざし、自分を追い込んだ記憶が沸々と蘇ってくるようであった。
危険生物のレッテルを貼られ環境保護の為にとその身を、命を追いまわされる恐ろしい記憶だ。保護だなどと綺麗な言葉で取り繕うがそれは偽善―――あの頃の自分のように、生きた実験体として利用される定めなのだ。
険しい顔になっていたのだろうか、隠しきれなかった怒りを男は目ざとく見つけ、保護に関する機関の考えをそれらしく述べていた。けれども、ココにその言葉は届かない。
つらつらと区切れない主張をひとしきり言った後、男は更に釘を差す。
「忘れてもらっちゃ困るけど、お前だってあれと同じなんだぜ? お前を捕まえて機関に差し出すことだって俺の仕事の内だ」
「…そうかもしれないが、僕にその価値はない。それに、簡単に掴まってやるつもりもないがな」
「この程度で冷静さを欠くようじゃあ、大した事なさそうだけどな………まあ、怒るなよ。そんな事が言いたいんじゃない」
飄々と掴みどころのない物言いに苛立ちは深まる。話が通じない相手ではないのに、核心へ迫ろうとするといなされる……そんな不透明なやりとりが酷く不快であった。
けれども目の前のこの男は簡単に引き渡す様子はない。引き渡すかどうかも…先程の男の言葉を借りるのならば、「できない」のだが、いまいち本心が読めないこの立場がもどかしく思えた。
どう切り出すか、話の出方を伺うココであったが、ふいに男が姿勢を正す。雰囲気が、また変わった。
男の言葉に息をのむ。
「あいつは死ぬ。俺が殺すんだ」
抑揚のない冷めた声であった。