手無し娘
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
13.解析
あ。とココがすっとんきょうな声をあげた。珍しい声色にサニーとリンとが見やり話を聞くと、食料を買い足すのを忘れたという何とも間の抜けた言葉が返ってきた。
呆れ顔のサニーと苦笑するリンと。私はそんなに食べませんので、と慰めようと開けた口を先にココが制す。
きちんと食事を採る事はここでは義務だから。そう目で諭され、リンはさらに困ったような笑みを深める。
どうしたもんかとしばし考えた末の結論は、以下の通りだった。
「客に留守番させるなんてスマートじゃねえし」
買って出たのは自分であるのだが、ふんふんと鼻を鳴らし拗ねたふりをするサニーにちょっとばかり面食らう。
素直じゃない人だとは思っていたが、こんな子供みたいな一面もあるのだな、とリンは笑った。
結局、サニーの申し出でリンとサニーが留守番する事となり、ココは先程食料の買い出しへと出かけて行った。
リンとてサニーときちんと向かい合って話をするのは久しぶりである。ココを交えない方が色々と話しやすい事もあり、茶会の続きが始まったのであった。
とはいえ、話題という話題があるわけでもなく若干時間をもてあそぶ。何か話題を、と思っても、聞きたい事はあれどもそれは全てココに関わることで。
本人が言わないでいるのにこちらから聞き出すのも気が引ける。
その上、ココの話題ばかり出してはサニーも面白くないであろうし、何よりこちらの気持ちが悟られるのもどこか心地悪い…リンの女々しさが話題を出すのを邪魔していた。
むずむずと口を動かす様子が漏れていたのかもしれない。話題を振ったのはサニーの方であった。
「ココの事で聞きたい事とかねーの?」
うわ来たよ直球が。デッドボールさながらな質問に笑顔がひきつったのはもう許してほしい。
顔が赤くならなかっただけ自分を褒めてやりたいと思った。
「それは…、その」
「前、好きなんだろココの事」
「ちょ、ちょっとサニーさん」
なんで知ってる。というか。
ねえ。
やめろ。
紅潮する頬と空回る喉、明らかにエラー音が鳴り響く脳内でせわしく言葉が行きかう。何を言えば、認めたら?やめてよ恥ずかしい。何で。なんで知ってる。
処理しきれない気持ちが溢れて思考が追い付かず、唯一はじきだした指令は俯いて顔を隠す事であった。
だせーと非難が浴びせられるが誰のせいだと毒づき、熱くなった頬を抑える。しかしこの姿は本当に「だせー。」と思う。これではまるで少女のようだ。
「……それは、……気になっていますけど」
「だったらさっさと告白だのなんだのしろし!お前ら見てるとムズムズすんだよ、体裁ばっかり気にしやがって」
「……そうしたいのは山々ですけど…だって」
―――私は。そこまで出かかった言葉は放たれず喉奥へと流し込んだ。
口にすればサニーへの八つ当たりになってしまいかねないし、なにより彼の言うとおり、言い出す勇気がないだけなのだ。
今の生活は心地よく、責める事も問いただされる事もない。いつか立ち上がる事が出来るまで、と思っていたかった。
黙ってしまったリンにサニーは盛大にため息をつく。それに、ますます身を縮こまらせた。
「…触れても、もらえないし」
「は?」
「…っ、………私、……汚いから」
精一杯の言葉を吐き出す。それ以上はとても口にできそうになかった。放った後でキイ、と胸の奥が締め付けられるように痛む。
どくんどくんと波打つ血潮が、苦しい。
けれども当のサニーにとってはさした告白でもなかったらしい。というよりも、端から知り得た上での話だったか更にため息が振りかけられる。
二度目のため息には呆れが含まれていた。
「なに。まさかだから触れてもらえねーとか、嫌われてるとか、踏み込めないとか、そういう事考えて落ち込んでるわけ」
「…っ!だって!」
「だっても何もねーし。ココが色んな物が見えるっつったって、人の心まで見えるわけじゃねーんだから、そういう不安だとかを口にしないで伝わればいいとか、自分勝手だろ。つくしくない」
「………今までの人はみんな、求めてくれたもの。みんな、こぞって手を出した」
「前のその言葉は、あいつがそういう奴等と同じだって言ってんのと同じだぞ」
「!」
「初めて自分から好きになったんだろ?なら今までとは違う何かを感じたって事だし。踏み出せよ、今までとは違うんだから」
「…なんで、そこまで」
分かるのか。すかさずサニーが鼻を鳴らしてプライドに満ちた笑顔で答えた。
「触るまでもないし。顔見りゃ分かるし。それでもってココが気付かないのは“視る”ことに頼りきってるから」
こんなにも不安に瞳を揺らして、それでも花開いた恋心を灯して。
如何せん女にこんな顔をさせるなんてそれでも男かと叱ってやろうかとも思ったが、どうせあの男はのらりくらり交わすだけだろうと結論づいた所でバカバカしくなった。
「(まあ、こっちをこれだけ焚きつけたし、少しは進展すんだろ)」
いざと言うときは男よりも女の方がフットワークが軽い。
リンの行動力に期待しつつ、サニーは冷えてしまったティーカップへと口付ける。
放っておいてもいいだろうこの型物二人を放っておけないのはなぜなのか、自分らしかぬお節介ぶりに苦笑した。
「(ウジウジ理屈こねて報告されんのもそろそろ面倒だし…)」
そう突っぱねて、サニーは出された茶を飲み干したのだった。
----------
頬が熱い。
リンはとっさに手を右頬へと添えた。拭き掃除で冷えた手先があっという間に温まっていく。
サニーから告げられてから幾日。特別行動を起こすには至らなかったが、日課をこなす際に思い出しては赤面するという不審行動を続けていた。
隠し続けていた気持ちを言い当てられたのが恥ずかしかったのか、己の行動が浅はかだったのが恥ずかしかったのか、はっきりとは言い難いが、指摘を受けた事そのものは非常にありがたいと感じていた。
“今までの男と同じだと思っているのか”それだけは決してない。
そう、サニーの言葉で気付いたのは、ココはココであって、今までの男たちはまた、それぞれの人であったということだ。
一緒くたにしてよいものではなかった。彼と向き合っていなかったという事実は少なからずリンを驚かせ、罪悪感が芽生えたが同時に勇気も与えられた。
もう私は逃げない。上っ面な言葉ではなく、心からの意識で。
踏み込んだのはココの部屋だ。ポケットから取り出したのはいつかの手紙の切れ端だ。広げれば中には震えた指先で紡いだ愛の言葉が顔を覗かせる。それをそっと机に置いた。
タイムリミットはココがこの部屋に戻るまでの間。この手紙を見られる前に、全てを打ち明ける。そう自分へ課した。
ふるり喉が震え体が強張る。本人不在の内から動揺していては話にならないと苦笑しつつ、リンは拭き掃除を再開した。
肝心の家主は朝からグルメフォーチュンへ仕事へ向かっているため、帰りは夜になるとのことだ。
それまでの間に少しでもシュミレーションを行い…と、考えては赤面し、緊張し…を先ほどから繰り返してばかりで掃除は捗っていないのであったのだが。
緊張だけではない、どこか晴れやかな気持ちが胸を温めるのには理由があった。サニーの言葉である。彼が決定的な言葉を発したわけではなかったが、ココと己のことを語る口調から推測し、希望が芽生えたのだ。
彼は言った。“お前ら”と。あの時は同様でその真意に気付くことこそなかったが、いざ冷静になり思い返してみればそれはかなり有力な情報ではなかったか。
もしかしたら、ココ同じ気持ちかもしれない。―――――そんな淡い期待を抱かずにはいられなかった。
幸運にもそれはリンの警戒心を解し、踏み出す勇気となった。
うまくいったらいい。微かな期待を胸に、はやる気持ちを抑え椅子から立ち上がった瞬間。
「あっ…!」
からん、と近くに置いたバケツがひっくり返り床に水を撒き散らす。先ほど掃除したばかりの床を見事に濡らし、がっくりと肩を落とした。
ああ、なんて幸先の悪い――――絞っておいた雑巾を手にし、床を拭くべく踏み出した右足であったのだが、こちらもまた不幸なことに支点がずれた。
派手に音を立ててリンはその場に転んだ。薄汚れたこげ茶色の水にまみれ、白いエプロンが汚く染まる。
ああ、なんて――――、
何かが途切れたかのように、言葉と思考が途切れた。
転んだ弾みで怪我をしたらしい、左足の頂、膝が大きく裂け血が滲んでいた。真っ赤な、真っ赤な血だった。
「…あ、ああ、」
血が出ている血が出ている。
言葉にならない衝動、否、衝撃が稲妻のように脳天を突いた。けたたましい心音が耳の奥からドラムのように鳴り響き、視界がぐにゃり歪み色をなくしていく。
全身が粟立ち激しい痙攣と共に、リンは掻き毟るように手で顔を覆い必死に頭を振った。
脳内に鳴り響くのは拒絶の叫びだった。違う、違うと己の声がうるさく響く。次第に金切り声は甲高い無機質な音へと変わり頭痛を呼び起こす。
目の奥が痛む!視界が歪む!声にならぬ声を上げ、リンはのた打ち回った。口の端から泡交じりの涎がこぼれ顎を汚していく。
やがて慣れつつあった眼球の激痛と頭痛を掻き分け、脳が髄へ筋肉へ指令を投げた。
冷や汗でびっしょり濡れた指先が、膝小僧に触れる。
ぬるり、血を救い上げ、口へと運んだ。
「ああ…ああ…あああああああ!!」
オイシイ、と思ってしまった。
「いや…いやだ…いやだいやだいやだああああああああああああああああ!!」
舌で味わった血が味覚を伝える。
とろけるようにそれは脳髄を満たした。これは甘味?
舌全体にじわり広がる微かな不快感。これは苦味?
喉近くで絞るように感じる刺激。これは酸味?
舌先に掠るように横切った微かな存在。これは塩味?
深い、深い、えもいわれぬ幸福感。血の旨味。
体中の細胞という細胞が目覚めたような覚醒感に鳥肌が止まらない。間開かれた目から涙が溢れてじくじく抉るような痛みを伴っても、感覚は止まない。
オイシイ。オイシイ。オイシイ。
「こんなの人間じゃない!!」
声にならない叫びを吐き捨てて家を飛び出した。
----------
突然の電話に疑心暗鬼になりながらも持ち前のフットワークの軽さで現場へと直行する。シャギーの入った茶髪をひらり靡かせ、ティナは操縦者を急かせヘリコプターを飛ばす。
四天王ココの自宅。
何の脈絡もないその不審電話を受けたオペレーターから電話をひったくって場所を聞き出したのはティナ自身で、本来ならば持ち場でないそこでその情報を得たことはある意味幸運なのかもしれない。
この手の情報はガセであることが大半で相手にしないのがオチであるが、ティナは繋がれた電話から、この情報がデマでは無いことを確信していた。
電話の相手は女性だった。それも尋常じゃないまでに緊張状態にある…あの口調では異常状態であると評したほうが正しいかもしれない。
「(グルメ情報関係なく、これはおかしいわ)」
もちろん救急ヘリを手配することも忘れない。
女性の異常状態とココの居場所とが全く繋がらないが、あの美食屋四天王のココのことだ。危険に巻き込まれることも多かろう。それに巻き込まれた女性が助けを求めてきたと仮定すれば、穴はあれど一応の筋は通る。
それでもなぜテレビ局に電話してきたのかと疑問は残るが。
「(なんにせよ、行かなきゃわかんないわ)」
愛機を片手に握り締めて、ティナは再度操縦者を急かし、目的地へと激送したのだった。
指定された住所に近づけば見えてきた一軒の家。崖の上にひっそりと、人を避けるように佇む崖の屋敷。
目を凝らし場所を見やれば、庭らしき草むらに倒れこむ一人の人影が飛び込んできた。彼女が連絡者に違いない。
だが、周囲に争ったような形跡など見当たらず、ココの相棒である巨大な怪鳥、エンペラークロウの姿もない。ココの姿ももちろんない。
ティナはごちゃごちゃ考えるのを止め、操縦者に着陸を申し出た。
暴風と共に地へと降り立ち倒れこむ女に駆け寄り抱き起こせば、女は奇声を上げそれを拒絶し縮こまる。衝撃で引っかかれた右頬にじわり血が滲むのを見た女はその歪んだ表情を一層歪ませ、顔をくしゃくしゃに引っかいた。
異常事態。
そのあまりにも奇怪な姿にティナは怯んだが、防衛本能が働いたか、女の手首を掴み一喝する。その声に驚いたらしい女は我に帰ったような表情を見せると、その大きな瞳に大量の涙を滲ませ、詫び泣いた。
どうしたものかと頭を抱えたが、まずは事情を尋ねるべきだとティナが女と向き合った瞬間、質問するより先に女が言った。
「…私を、ライフへ、送り届けて……お願い…」
「ライフ?あ、あの、癒しの国のライフのこと?」
ぶるぶると痙攣する腕で身を包む女はこくこくと大きく頷いて、それ以降はまた何も話さなくなってしまった。
操縦者と顔を見合わせ判断を仰ぐが、この異常事態に操縦者も並々ならぬ何かを感じたらしく、その申し出に力強く頷いた。ティナと操縦者で支えて女をヘリコプターに積み込み、すぐさまそれは飛び立っていく。
ヘリコプター内、女は渡された毛布に包まり相変わらず震え続けていた。ティナもティナでどうしていいのか分からず、時々肩を叩いたり、背中をさすったりしていたのだが、そのどれも拒絶されるのでさらに困惑を深めるしか出来ない。
もしかしてとんでもないことに巻き込まれたのでは―――その可能性は大なのであるが、如何せん目的であったココの情報を何一つ得られないことに落胆の色は深まる。
「(うう…痕にならなきゃいいけど…)」
引っかかれた頬が気がかりだ。
薄皮のめくれた頬に触れ、ティナは閃く。そういえば先ほど彼女はこの傷を見て更に混乱を来たさなかったか。
そんなふとした疑問を得て、再度女を見やると、その左ひざに大きな傷を作っていた。奇妙なのはそれを遠ざけるかのように無理な体勢をしていることだ。
もしかして血が怖いのだろうか、そう思い、ティナは彼女の左膝に己のハンカチを裂き巻いてやった。もちろんびくりと大げさに驚かれたが、何もないよりはよかろうと拒絶を払いのけて巻き上げる。
指の隙間からこちらを伺う彼女に力強く微笑むと、ようやく少しその緊張を解いたらしい。女が微かに微笑んだ。
その表情を見た瞬間、ティナの心臓が酷く高鳴った。まるで、待ち望んだニュースをビデオに収めた時のような激しい高揚感だ。
何を女相手に動揺しているのか、ティナはすぐさま視線を逸らしたのだが、一度鳴った心臓の音はなかなか静まることは無かった。
長い時間だったように思う。
目的地に到着した瞬間、女は箍が外れたようにヘリコプターから飛び降り、そのまま町へと走り去っていってしまった。不躾なそれに操縦者が苦言を零すと、反射的にティナがそれに食って掛かる。
操縦者はティナの異常なまでの激変振りとその攻撃性に異常を感じ取り、素直な疑問としてぶつけると、彼女は面食らったように言葉を詰まらせた。
ティナ自身にも良くわかっていなかった。けれど操縦者に言われ冷静さを取り戻せば、いかに自分が感情に走ったかを思い出す。感情のコントロール不良にティナ自身も疑問が芽生えた。
あの女性に同姓ながらどきどきして、それから―――。
「…なんか、本当に大変なことに巻き込まれちゃったのかも」
「……でもあの女がココの関係者であることは間違いなさそうだったな」
「え?な、なんで?エンペラークロウも、ココ自身もいなかったけど?」
「…いや、なんとなくだが、なんか……ココを呼ぶ声が聞こえた気がしたんだが」
「…?」
それ以上の追求も出来ないまま、二人の間には沈黙が流れた。
当人が存在しない今、彼女の素性も、なぜこうなったのかを問えども答えなどは到底得られない。スクープも取れず、局の費用でヘリを飛ばした責任を問われるのは明白だが、不思議とティナはそれを億劫に思わなかった。
それよりも胸を渦巻く切ない感情に支配されていた。それは恋の味に酷く似ている―――ティナはそう思った。
----------
「来ると思っていた」
扉が放たれた瞬間、雪崩れるようにその人物へと抱きつき顔を埋めて泣き出した。懐かしい香り、懐かしい腕。あの頃とは比べ物にならないほど逞しく大きくなったけれど、その温度は決して変わらなかった。
唯一自分を振りほどかない腕。唯一自分を臆することなく抱きしめる優しい腕。リンは鉄平の腕の中で泣き崩れた。
声にならぬ声で咽び泣くリンを慰める。来ると思っていた――――その言葉通り、鉄平は知っていたのだ。
鉄平の再生屋稼業歴もそれなりに数字を重ねている。予知というほどの能力ではないが、どことなく事件の種の匂いを感じる事があった。
姿を消した幼少期も、焦りはあったものの必要以上に騒ぎ立てなかったのは無意識のうちに彼女の安否を感じ取っていたからかもしれなかった。だが、今回、決定的に違ったのは、その予感の種類であった。
まるで高圧の電流を体に流されたような、一瞬の衝撃だった。瞬間、体が硬直し、背を走ったのは言いようのない悪寒と、甘い痺れだった。同時に湧き上がった不安感。そして頬を流れたのは冷や汗であった。
“覚醒”してしまった――――?
考えたくない最悪のシナリオが頭をよぎったが、それでも鉄平は信じた。目で見るものが、真実だ。
そう言い聞かせ、リンを待っていたのだ。
「…あ、ああ…あああ…」
「…そう、いい子だ……。落ち着け」
「…あ、………にいさ、」
「うん」
ぶるぶると大きく体を震わせしがみ付く女から、目に映るのではないかと思われるほど濃い“香り”が漂う。決してそれに酔ってはならぬと、鉄平は意識を強く持つよう努めた。
感じた衝撃から、リンが覚醒してしまったと内心決定付けていたが、実際に会って見て分かったのはまだ猶予があるという事実であった。放つオーラは確実にその一歩手前ほどの力があるだろうと推測されるが、まだ完全ではない。それに内心ほっとする。
だがしかし、この濃度では同姓ですらも引き寄せてしまうだろう―――そこまで考えたところで、リンがようやく少し冷静さを取り戻したらしい。震える手に一層力を込め、鉄平を見上げた。
「…血が、美味しかったの、味覚なんか感じないはずなのに、自分の、足から出た血がおいしそうって思って、気付いたら、口に含んでて」
覚醒寸前のところで踏みとどまったらしい“リン”が懸命に言葉を紡いだ。顔面蒼白で必死に伝えるその姿は不謹慎ながらもいじらしく、かつての哀れだった娘子だった記憶を鮮明に思い出させる。
事情など分かりきっていた鉄平はひとつひとつ、その言葉を零さぬように掬っては胸へと流し込んだ。うん。うん。ぽつり。ぽつり。と。一滴ずつ流れていく言葉は全て彼女の涙だ。
リンが話し終えるまでずっと、あやすように鉄平は抱きかかえ時を待っていた。
いつかはこんな日が来てしまうことはなんとなく、分かっていたように思う。
運命というものを信じているわけではない。この職業を生業にしているせいか、重ねた経験から所詮予感というものを会得しているようには思う。
ただ、これはそんなものではなくて、ただただ理屈に則った再会だったのであろう。
離れたベットに目を向ければ泣きつかれ目を腫らせた女がか細げに横たわっている。先ほどまでの激しさとは打って変わり、身じろぎ一つ無い姿に一抹の不安がよぎるが、放たれる甘い香に途切れはなかった。
複雑な心境でそれを受け入れると、鉄平は再度窓の外へと視線を流した。瞳を閉じれば浮かぶのは女の悲痛に歪む表情だ。人ではない化け物だ。そう泣き叫ぶ姿は酷く心を痛めた。それだけは間違いない。
けれども―――くしゃり、若草色の髪に触れる。情がわかないわけがない。かつては妹のように面倒を見、ずっと共にあると思っていたのだから。
自分は再生屋で、彼女は自然界の秩序を脅かしかねない“魔物”で。いずれ、段級を定めた危険生物の認定が下るのは確実で。世から、追われる存在となろう。
「(行き着く先は)」
どう足掻いても、絶望。
覚醒仕切っていなかったのがせめてもの救いだったのかもしれない。せめて、人らしく散らせてやりたい。
それが叶わぬことだと知っていても、そう願わずにはいられなかった。
----------
幼い頃、蜃気楼をよく見た。それは蜃気楼などでは決してなくただ空腹が見せた幻覚であったと知ったのは、IGOに売られるように保護されて一定の安寧を手に入れてからの事であった。
今でも蜃気楼を見ることがある。それが己の精神力の弱さから来る幻覚だと知ったのは、大切なものが出来た時であった。
人の幾倍も見通す力のあるこの目を過信しすぎているのだと咎めないわけではないが、それでも、大切にしたいと思うものはいつも指の隙間をすり抜け、幻であったかのように消えていってしまう。
この手が、指が、一般人のそれと等しかったのならば、零れ落ちる幸せを逃したりなどしなかったのだろうか。そんな弱気な言葉が生まれては頬を濡らして砕け散った。
季節は進み、日が落ちるのも随分と早くなった。キッスは夜もある程度は飛べるとはいえ、夜目はそんなに強いほうではない。そんな相棒を気遣って早めに出た職場から自宅までの帰途。
遠くからでも良く見える己の目が、豆粒ほどの距離で自宅を捉えたとき、酷く心臓が揺れた。家に明かりが灯っていないのだ。
周囲は橙よりも紺色の空が占めるほどに日が落ち、夜が始まっている。いくら高度がある場所にある家だとて、この明るさではさすがに家の中は真っ暗だろうと容易に推測された。
にも関わらず、かの家には明かりらしい明かりが灯っているのが確認できない。―――――酷く、心がざわついた。
湿ったような、ぬるりとした汗が手の平に瞬時に広がり、心臓が鼓動を早める。落ち着け、きっと寝ているだけに違いない。ココは己にそう言い聞かせるのだが、キッスに添える手にはあからさまに力が篭っていた。
賢い相棒はそれを咎めることなく、速度を上げて自宅庭へと飛び進んでいった。
キッスが着陸するか、ココが飛び降りたのが先か―――どちらとも分からないまま、駆け足でココは家の中へとなだれ込む。虱潰しに部屋のドアを開けてまわる姿は既に冷静な男の姿など欠片もなかった。
ひとしきり開け進め、絶句したと共に、声にならぬ悲しみがどっとわきあがってきた。
「(…なぜ…!)」
叩くに等しい力でココは目を抑えた。じわり、と泥のような感触が手から顔へと伝わる。毒が、滲み出ていた。
荒く息を吐き出しながら、場に蹲り呼吸を落ち着かせる。だが、湧き上がった悲しみと焦りは混乱となり、一向に落ち着きを取り戻すことができない。
脳内を繰り返し叩くのは彼女の言葉だ。ここを、嫌いになったのではないと、何より己を安心させたたった一言だ。
それなのに、すり抜ける幻のように、またも彼女は姿を消した。
「この手では…つかめないっていうのか…!」
こんな体など…!ココは床を思いきり叩いた。ぶつかった木床は哀れ崩れ割れ、木片が手の肉へと刺さる。痛みが手に広がるが、そんな痛みよりも胸に広がる痛みの方が耐えがたかった。
怒りなのか悲しみなのか、判別つかないぐちゃぐちゃな感情が揺れて、それでもココはゆらり立ち上がって心無く目を動かした。
じわりと生ぬるい液体が滲む。流れてようやくそれが涙である事に気付いた。乱暴にぬぐった。
ココは思う。リンがここをそれほどまでに出たがる理由を。
遠慮が殆どを占めていると思っていた。理由なく、飼いならされるようにここに置かれることを彼女は酷く嫌がっていたのをココも理解している。
だからこそ、家事を任せたのだ。また、ここに留まる理由がないことに酷く悩んでいたのも知っている。
直接詳しく話を聞いたわけではなかったが、ここへ連れ帰る前まで、彼女は男を渡り生きてきたと言っていた。宿と生活の保障を受ける代わりに、体を差し出す。恋人して傍に仕えているのだと。
けれども自分は彼女にそれを要求したことは無い。変なところで責任感を背負う彼女にとって、ここが息苦しいのだろうということはなんとなく分かってはいた。
…そう、いずれも拒絶するまでに飛び出したい理由になるとは到底思えなかった。それでも、彼女はここを飛び出していったのだ。鋭い女性だ、きっとこの抱いている浅ましい気持ちに気付いたのだろう。そしてそれを受け入れられず、飛び出したのだ。
毒の話などする前に、そんなものがなくとも、彼女は僕を―――――受け入れられない、そう示したのだ。
悲しみに打ちひしがれたまま、ココは幾時間か立ち尽くした。何も考えられず、何も出来なかった。
何時間経った頃か、ゆらり抜け殻のように自室へと移動する。考え付かれた故の行動であった。たかだか、失恋しただけだ。そう自虐的な笑みを浮かべながら、そっとドアを開ける。
ふと、床に転がったバケツに目が行った。
バケツがなぜ、こんなところに。しかもそれは横に倒れており、中身がこぼれたのだろう、乾いた砂の痕が床に見られた。
「………?」
この状況から察するに、掃除をしていたのは明白で、けれどもそれは片付けられることのないままここに放置されたこととなる。
奇妙な状況に、ココは考えていなかったもう一つの可能性をはじき出していく。―――誘拐の可能性だ。“誘拐”自分で意識したその単語に背筋が凍った。
床を丹念に調べると、もう一つ肝を冷やす光景が目に入った。血痕だ。量からして多量ではないが、怪我の可能性があると状況が示している。
ああ、もう。ぺちんと額を叩く仕草をしてから、ココはようやく冷静さを取り戻した。この状況で冷静になるのも些かずれているとは思うが、ようやく冷えた頭が正常に回転を始める。
そう、全ては想像であり、予想だ。何一つこの目で見てはいない。
理解が追いついた瞬間、脳はフル回転だ。やらねばならぬこと、順序がぽんぽんと出てくる。
まずは情報を、と部屋を出ようと踏み出したその視界の端に映ったのは机だ。その上に見慣れぬ紙切れがある。
「…なんだ?」
そっとそれを手にし、くるりと裏返す。
瞬間、ココの目は間開かれ、そして、ゆっくりと細められた。そしてそれをとある本のページに挟むと、足早に部屋を出て行った。
そうでもしなければ、泣いてしまいそうだった。