手無し娘
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12.崩壊
目を覚ましたのは部屋が明るくなったからであった。
昨夜までの混沌ととぐろを巻いた醜い感情は、まるで雨上がりの空のように雲散している。
いつものことだった。
よろよろと起き上がり、シャワーを浴びて身を清める。頭の中は真っ白といった感覚で、何か考えようにも考えられない。
身支度を整え、鏡に向かう。無機質な顔がそこに投影された。
部屋に気配はない。恋人はどうやら帰宅しなかったようだ。その事実にどこか安心しながら、リンンはさっと化粧を済ませ外へ飛び出した。
行き先はない。ただ、外の空気を吸いたくなった。それだけだ。
仕事場から少し離れたこの街は静かな住宅街である。
道路脇に植えられた街路樹が朝日を浴び、緑の葉を透かして輝く。
軽快なリズムで走り去るランナーの姿、レジャーへ向かう家族の車、寝不足そうな学生の自転車。
あらゆるものがリンを通り過ぎて先へと進んでいく。その背中がいやにまぶしく映った。
息を吸い込み吐き出せば、体の内側から入れ替わるような新鮮な感覚に包まれる。悪くない、感覚。
けれどもふと思考が戻れば、考えるのは夜の事と、ココの事だ。
今夜の仕事の状況を考えれば、同時に浮かんでくるのはココの顔だ。決して笑顔ではない、その顔が苦しかった。
きっと自分では笑顔にすることなど出来ない、そう決めつけては諦めたふりをする。昨晩と同じ事だ。
ふっと顔を上げた先、広がる澄んだ空と淡い雲が目に飛び込んだ。まるで淀んだ体内を浄化するようなその空に触発されたのかもしれない。
唇が、震えた。
「…助けて」
それが何よりの望みであったのに。
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恋人に何度指摘されても、今日だけはどうする事も出来ないまでに女は疲弊していた。
小さな体内に過剰なまでの自責を渦巻かせ、張り詰めた状態でいる。
それは普段と大差ない姿であるのだが、この日ばかりは恋人ですらその様子の違いに気付くほどであったのだ。
けれどもこれはビジネスであり、女に与えられた役目である、恋人は心配する気持ちが無いわけではなかったのだが、女の都合を優先させる選択肢は取る事ができなかったのだ。
一人になった部屋の中、じっと床を見つめ、闇に抗う。ひと時の休息の後に何があるのかなど、女は痛いほどに分かっていた。
それでも受け入れられない“何か”が手を伸ばしている。
何度、振り払われたか分からない腕。次第に、伸ばす事さえ躊躇われてしまった腕だ。
「ごめんなさい、頑張るけど…今日は、無理かも」
「………しょうがないな」
こくりと頷いて、視線をまた床へと落とした。
いつも通り支度は整っており、店のドアの外には人の気配も感じられる。
開店を今か今かと待つ客らからは殺気にも似たような執念の圧迫を受けるようで、それはリンの気持ちに更なる影を落とす。
待っている。必要とされている。それは何よりも嬉しいことのはずなのに。
「……?」
不意に恋人が扉の向こうへと視線を向けた。気まぐれの視線かと思い、気に留めずにいたのだが、その視線が長く戻ってこないのに疑問を覚える。
疑問を拾うべく、リンも続いて扉の向こうへと意識を向けたが男が察知したと思われるような異変は感じられない。
リンは尋ねた。
「どうしたの?」
「………なんか、嫌な予感がする」
「…嫌な予感って?」
問うても返答はそれ以上もらえない。リンは答えを待つのを諦め、窄む気持ちに叱咤し立ち上がった。
開店はすぐそこだ。落ち込んでばかりもいられないのだから。
いつも通り、錆古い檻の中へと入る。
まもなくあの鉄の入り口が解き放たれ、周囲を取り囲む男達を目を閉じて思い浮かべる。
眉を下げ、瞳に涙を滲ませ、微かに口を開いて舌を見せる。いつもの手管をイメージして、リンは扉へと視線を向ける。
ふと、違和感を感じた。
何がそう思わせたのかは分からない。扉の向こうは相変わらず人の犇めく気配が分かる上に、漏れ出る念は感じざるを得ない。
いつもの渇望するそれと何ら変わりはないはずなのに、何かが異なっている、そう感じるのだ。
先ほど、彼はこの微かな異変を感じ取っていたのだろうか。その答えなど出ぬまま、時計の針が定刻を告げた。
音を立て、扉が開かれる。
なだれ込む見なれた客達の中、それは突然に姿を現した。
どよめいたのは客ばかりではなかった。闇に溶け込んでしまうような黒い衣服を全身に纏ったその男は、周囲を気にする様子もなくまっすぐにステージを目指し、進む。
ぶつぶつと小声で文句が聞こえて然るべきのこの状況で誰一人口を開く事はなかった。異様なまでの静けさが男の足音をさらに大きく響かせる。
―――男は酷く怒っていた。
それは幾月を共にしたリンだから分かるものではない。決して大きくないはずの、彼の一歩に付随して瞬間に沸き立つ怒気である。
それは周囲の凡人を震え上がらせるのは充分であった。ひとり、またひとりと男から距離を取り道を開く。
男はあっという間に檻の前までやってきた。
「…さ、帰ろう」
何事もなかったかのように男は手を差し出し、笑んだ。触れる事を一切許さなかった男が身を、手を差し出している違和感にリンの背も凍ったように固まった。
怒っている。我を忘れるほどに。ほどなくして檻がふわり宙へと浮いていく。根元を見やれば恋人が鎖を引いていた。
ガリガリに痩せこけた頬を一層抉らせては全身で訴えている。自分の身を守るが優先といわんばかりの突然の別れの宣告であった。
長い旅路であったように思った。冷風吹き荒れる夜空をどれだけ突き進んでも、現状が整理されることはなかった。
見慣れたかの崖が目に入ったとき、リンは本当に帰ってきたのだと初めて実感したのだが、それでも未だ纏まらない思考と現状に頭痛がするようで。
焦がれども焦がれども、決して伸ばし触れることを許されない黒い壁から目をそらすように、リンはキッスの背へと顔を埋めていた。
部屋はただ静かであった。空にある時にはあれほどまでに吹き荒れていた風もどこかへと姿を潜め、そこにあるのは眩い星ばかり。
点された淡い蝋燭の明かりだけが部屋の中の唯一の光であり、ゆらりゆらりと不安気に揺れては二人を照らした。
テーブルに向かい合わせに座り、如何ほど時間が経過しただろうか。数分か、半刻ほどかもしれない。ただ、リンにはその沈黙が苦しくてたまらなかった。
「…僕の言ったこと、覚えているか?」
沈黙を破ったのはココだった。主語のないそれではあるが、痛いほどに伝わっている。
肯定の意でこくりと頷くと、浴びる怒気が増したような気がした。肩をすくませ、縮こまる。怒られるのは怖い。
けれども決して折ることの出来ない塊がリンの胸中には渦巻いていた。いまはそれだけがリンをここに繋ぎ止める意識として存在している。
決して、理由なく飛び出したわけでも、約束を忘れたわけでもないのだ。
気付いた時には遅かった。
「…いつものことだもん」
口に出してすぐに、しまったと口を押さえたがもちろん手遅れであったのは言うまでもない。
「なに?」
「…………」
「言いなよ。何がいつもの事だって?君が普段どんな生活してるかなんて僕の知ったことじゃ、」
「…ここには戻らないつもりでした」
言葉で遮ったのはリンだ。分かっていたのだ。その先に続く言葉を。そしてその言葉が何よりも己の胸を抉る事を。
何度も考えた、何度も願った。何度も何度も繰り返し繰り返し、何度打ちひしがれても同じ願いを抱きつつ、やっとの思いでここを捨てたリンにとって、かつて交わした口約束など意味を成すはずもない。
約束の内容こそ覚えていれども、それは全てここに留まることを前提とした約束であった。
そう、自分は捨てたのだ。ここを、彼と共にある事を。それだけは真実なのだ。
顔を上げ、はっきりとココの顔を目に映す。その顔には怒気と…ほんの少しの、困惑。言葉が喉で枯れていくのを感じてしまった。
それからどちらもまともに言葉を発することもなく、沈黙が場を支配していた。
感情が動けば言葉が形成され、紡がれる。それを喉の奥で意識したが、それが言の葉となる事は終ぞ訪れなかった。
結局、互いにそれ以上の追求もないまま、ココの解散の一声と共に沈黙が終了し、流れるように自室へと入っていった。
真新しいシーツが敷かれ、家具に埃らしい埃などは見当たらない。定期的に手入れをされていることは一目瞭然であった。
胸のうちに沸き上がる罪悪感。けれども、同時に湧き上がってきたのは自分勝手な絶望だ。
「…私ってなんなの…………」
檻の中にいる間はあんなにも請うた迎えが、今はこんなにも胸を刺して苦しくてたまらない。
この感情に名前があるのならばどれほど楽になれるのだろうか。
崩れ落ちるように雪崩れたベットの上、飽きもせず溢れる雫を幾粒も吸わせた。張り詰めた感情の糸が切れるや否や意識が遠のく。
窓の外輝く星だけが飽きもせずにただこちらを見下ろしているようであった。
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昨日の淀みが嘘のように晴れ渡った思考で目が覚める。冷静になり辺りを見渡せば、この部屋にはかつて置き去りにした私物がきちんと整理されて置かれている。
昨晩思った部屋の手入れだけではなく、捨て去ったはずの全てのものがそこに並べられていたのだ。まるで、大切な物だと言うかのように。
そんなココの優しさをリンはいとおしく思っていた。だからこそ惹かれたのだ。自分から初めて欲しいと願った。
身支度を整え下へと降りれば、リビングには昨晩とは打って変わった日常があった。朝日差しこむ柔らかな空気と、ささやかな朝食と、少し困った笑みを浮かべた家主と。
「おはようございます」
「おはよう。もう朝食は出来ているよ」
まともな返答が返ってきたことに安堵し、リンは椅子に座った。人間というのはゲンキンなもので、受入れられると途端素直になれたりするものだ。
リンは素直にココへ向き合うことが出来たのだ。
昨日の言葉を詫び、簡単な経緯を説明する。素直に説明する勇気こそ出たが、肝心の付随する気持ちは一言も添える事叶わず、淡々と状況説明をするに留まった。
ココは何度か頷きながら、最後までそれを遮ることなく聞き終えると少し考えるような仕草を見せてから、じっと押し黙る。
言葉を選んでいるような、でも決して悪い感じはしない。リンとて今、責め立てられるのは受け入れがたいものがある。
じっと、ココの言葉を待った。
「……ここが嫌になったわけではないんだね?」
不意を突いた想定外の質問に、呆けた顔になるのは仕方が無かった。
慌てて顔を正してそれを否定すると、やっと緊張がほぐれたのか、ココが薄く笑う。それにつられてリンも淡く微笑んだ。
あんなにも悩み苦しんだ時間がバカバカしいほどに晴れていく。こうして少し素直になって吐き出したらば、相手も受け入れてくれただろうにと、リンは昨日までの己の行いを反省した。
あと少しで自分は、またかつての爛れた生活へと戻ってしまう所であったのだ。
やっと、あの生活から抜け出し、救われたというのに自らそこへ逃げようとしていたのだ。そう思えば思うほどに、自分の行いが軽率で恥ずかしい。
情けない顔を隠すべく俯いたリンの頭上で柔らかな声が発せられる。本当は、もっと追及して聞きたかったと話すココの顔はやはりどこか淋しさを含んでいて、そうさせている己をまた責めてしまいそうになった。
気持ちを伝えてもいいのだろうか、とどこかで囁く声が聞こえる。それでも、まだ、吐き出すだけの勇気は持てなかった。
結局、互いに昨晩に至る本質的な部分には触れられないまま微笑んで時は過ぎた。
言いたい事も聞きたい事も宙に放ったまま、それでもここに戻られた事をどこか安心している自分がいるのは間違いない。
「ココさんは…私を助けてくれました。それだけは、私にとって何よりも真実です」
ありがとう。そう告げると、複雑そうではあったがココは頬笑みで応えた。それが今の二人の精一杯であった。
手のひらを返したように健全な生活が舞い戻った最中、かくも人とは勝手なもので、ほんの少し前に晴れない思考を巡らせ闇へ闇へと潜っていった己の行動などなかった事のように笑い振舞う。
芯にそうした負の思考が全くないわけではない故に何度でも躓いては沈む未来が見えるのだが、それでも目の前の幸せな時間に満たされ、リンは次第に元気を取り戻していった。
癒されるのは心ばかりではなく意識も同じで、目に映らなかった花が、風が、空が色彩を放ち、一層華やかせては胸へと落ちていった。
良い方へ良い方へと誘うここ数日の暮らしはあっという間にリンを舞いあがらせるには十分で、家出―――少なくともココはそう呼んでいる。あの一件以前よりも人が変わったように明るくなったと彼女を見る人間が言うほどであった。
当の本人は胸に溢れる幸せの蜜に酔いしれている自覚はあった。先にもあるが、根は所詮根暗と呼ばれるものである。
この幸せが続くはずが無いと何度も不安になるし、幸せすぎるこの時間が怖いと感じる夜もあった。
それでも今日まで毎日笑顔で過ごす事が出来たのは、ひとえに経験した「気持ちを口にする事」を実行してきたからに違いない。
大切な事を学んだ、リンはそう感じていた。
ふと耳を澄ませば微かに聞こえるのは生活音だ。住人が二人へと戻ったこの家は相変わらず静かなままであったが、一人きりとなってしまった幾日前を思えば、やはりどこか人というぬくもりを感じるものでココは微かに破顔した。
笑ったのも束の間、その端正な顔に不意に皺が寄り、表情が強張る。未だ解決しない問題は山積みでそれらは彼の心を曇らせる。
結局あの日、小松はココの元へと向かったのだ。トリコを連れずの訪問にココは面食らったまま、小松を宅へ招き入れ話を聞けば、それは酷い顔をしていたらしい。冷静さを取り戻した時、面前にあった小松の顔が深海よろしく冷え青ざめる程に。
湧いたのは悲しみよりも怒りであったが、何に対してなのかは淀んでいて見通せない。だが同時にその報告は胸を抉るように打ち抜いたのだ。放置するという選択肢など選ぶ余地もないほどに。
今となり冷静に物見れば、彼女が二度とここへ戻らぬ覚悟があった上での選択であることなど言わずもがなだが、当時はそんな判断を出来る余裕もなく、怒りに任せ現地へ突入した己の行動は少しばかり恥じない事もない。
それでも、そうでもしなければきっと、今頃ここに彼女がいないのは事実だ。その一点については自身をほめてやりたい。
よくもあの時、周囲の人間に手を出さなかったものだ。
加減を違えば体中のこの毒素が漏れ出たとも限らないのに。それほどまでに怒りで我を忘れていたのだから。
ココは己が手を見下ろし、内心毒づいた。禍々しい。吐き捨てるように呟いた言葉は跳ね返り胸を突く。それが、何より忌み嫌っているそれが、自分自身である事を誤魔化せやしないのだから。
聞きたい。彼女の口から。
言いたい。己の全てを。
もし、だめだったら。もし、突き放されてしまったら。
考えすぎて一歩を踏み出せないのは昔からだと、悪友と悪弟分がケタケタ笑う声が聞こえるような気がした。
そうだよ僕は誰より臆病者で情けない男さ。低い笑いが漏れて消える。同時に今はまだいいのだと自分に言い聞かせ、コントロールする。
奪うように連れ返した彼女は、それでも笑っている。それだけがココの救いであった。
そう、今はまだいい。時間を重ね、ゆっくり紐解けばいいのだ。『思い立ったが吉日。それ以外は―――』聞こえてくる声に耳を塞ぐ。
僕たちは僕たちのペースで。その考えが、全てをこじらせていくだなどと、思いもせずに。
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手のひらで潰された紙きれをそっと開く。それはこの家を出る際に書き置いた手紙の末部……未練の言葉を綴った紙きれであった。
あの日、未練がましいと破り捨ててポケットにねじ込んだものの、どうしても捨てられなかったものだった。
すっかり毒気の抜けたらしい自分を振り返れば、恥ずかしくなるほどの乙女な振る舞いが目につく。
言い訳をするならば、と思ったが程なくして思考の口が閉じた。言葉で逃げても空しいだけだからである。それを、リンは深く知った。
今日は家主はサニーと会うと言って、先ほどここを飛び立っていった。
同行するかと問われたが丁寧に断ったのは、サニーに会いたくないとかではなく、純粋に家事を行いたかったという事がある。
何を隠そう、ここへと戻ってから以前のように職探しを行っていないからであった。ならば己に出来ることはここで培ったささやかな家事のみで、それ以上に出来ることはない。
もとい、「職」に関する話題に触れることがまだ怖かった。
住人がいなくなったこの家は酷く静かだ。家主の意向で人里離れた崖の上にあるのだから当然といえば当然なのだが、それが急に孤独を感じさせることになるとは。
寂しさを払うように、リンは床を拭く手を早める。寂しくなどない、味気ないだけだ。そう自分に言い聞かせれば何もかも平気になる。
あらかた家の中を綺麗にしたところで、小休憩と、リンは窓のある部屋へと移動した。その途中差し掛かったココの部屋に踏み入ったのは、今となっては仕方のないことだったのかもしれない。
部屋の中は想像通り、簡素なものであった。目を引いたのは書籍の数。お世辞にも広いとは言いがたい部屋の中に、びっしりと並べられている。
さした目を引くものはなかったが、ひとつだけ。明らかにここ最近の間に移動させたのであろう、本が棚から飛び出しているのに目が行った。
そっと取り出し、中を見やれば小難しい言葉、図式の数々と、本の最後にそれはあった。
「(…私の手紙)」
ここを飛び出したあの日に書き置いたあの手紙であった。久しぶりに眺めたそれは、やはり書末が乱雑に破られており、申し訳ない気持ちが広がる。
これを、ココはどんな気持ちで見たのだろう。そして、なぜ、捨てずにこんなところに挟んだのか。
あの一文を添えていたら、どうだったのだろうか。聞きたくても聞くことが出来ない言葉達が脳内に溢れる。諦めたように、リンは本を閉じ元へ戻した。
どんなに優しくされても、触れることを許されないのが全ての答えだ。
責めるような自分の声が響き渡る。そう、未だ触れることは許されていない。また、触れられることも、なかった。
「…汚いから」
私が。
ぽつり呟いた言葉は拾われることなく散って消える。
近づけそうで近づけないこの距離がどうしようもなくもどかしいのは、二人とて同じであったのに。
「…あら、まさか」
「来たいって言って、聞かなくて。ごめんね。連絡できたらよかったんだけど」
「久しぶりだな、リン」
やたらと早い帰宅の音に誘われ庭に出た瞬間、視界いっぱいの極彩色に目が囚われた。
見上げればやたらに懐かしい、鋭い眼が見下ろしており目が白黒してしまったのは仕方のないことだ。急なサニーの訪問は確かに虚を突かれたのだが、既に昼間に家事は完了している。
臆することなく招き入れるに至った。
悲しいかなリンに食に関わるもてなしは出来ないため、お茶請けの準備に入ったココの代わりとしてサニーと向き合う。手伝いをする旨申し出たのだが、もともとサニーはリンを目的にやってきたらしい。やんわりと断られ、しぶしぶリンは席へとついたのである。
「元気そうでよかった」
「サニーさんも。相変わらずですね」
当然だし、といつもの独特な言い回しで返される。やや自信過剰な面はあると思うが、サニーのこの努力を怠らない上で重ねた自信はリンには眩しいのだ。
妬ましいというわけではなく、純粋に、尊敬している。会うチャンスはあれど会えずのまま時を過ごしていた。久々の再会となったのだが、色褪せる事ないサニーの姿にどこか安心した自分がいる。
高飛車で協調性のない男だと感じられることも多かろうと察するが、リンにとってのサニーの評価は異なる。表には出さないが優しい男だ、そう評価していた。
味覚を持たぬことを隠して会ったあの食事会は最悪な別れとなってしまったが、いざ会ってしまえば立場も環境も異なっている。
素直に彼と向き合えたことを、リンはどこか嬉しく感じていた。
たわいもない話が弾み、ココが茶を持ちやってきた。少し恐縮しながら、味の分からぬ茶を受け取り、そっと飲み干す。
サニーがどこか様子を伺うようにちらりと視線を向けるのがどこか可笑しくて、リンは笑った。
「もう、今は平気ですよ」
そう言葉をかければ「別に心配とかしてるわけじゃねーし」と分かりやすい強がりで返される。そんなやり取りも新鮮で、面白く感じられた。
「今日は私に何かご用でしたか?」
「ん、まあ、用といえば用だけど何ってわけじゃないな。久しぶりに3人で会うのも悪くないなと思っただけだし」
「あら…」
ココの話と若干かみ合わなかったが、さしたことでもなかろうと、リンは素直にその言葉を受け取ることにした。
事実、こうして3人で顔を合わせるのは初めて出会ったあの喫茶店以来だ。ほんの数ヶ月前の出来事のはずなのに、もうずっと前のように感じられる。
あの時は興味も示さなかった「飲料」も今はこうして口に含んでいる。それですら、大きな変化であろう。
それからしばらく世間話が続いた。美食屋の仕事から一歩引いているココとは異なり、サニーは現役の美食屋である。
話す内容は正直理解が追いつかない部分は多々あったが、ぽんぽんと語られる武勇伝は、一般人からしたらさぞ高度で手の届かぬ偉大な話なのであろう。
生き生きと、きらきらと、輝くように話すサニーの姿を見て、ちらりと隣の男を見やったのはリンなりの気遣いだったのだ。
リンはココが美食屋家業から身を引いている訳を知らない。美食屋四天王という肩書きをココが背負っているというのは、以前聞いた話で理解しているが、そういわれてみれば彼がその職を背負い生きているようには思えない。
事実彼の仕事は占い師だ。
「(もしかして、私がいるから遠慮しているのかもしれない)」
その結論に行き着いたとき、リンはいくつかの疑問がひとつに繋がったのを感じた。
あまり詳しくは分からないが、聞いた知識を集約するとこれ以上の答えが見つからない。
世界を飛び回り、食材を見つけ、狩る。ひとところに留まって成り立つような職業でないのは火を見るよりも明らかだ。
―――――まただ。
ココのことをひとつ知れば、また一つ、今のままではいられないのだという現実が襲い掛かる。
唯一できることだなどど、取るに足りない家事を行ったところで一体、彼の何を満たせるというのだろう。
ココがどれだけ優しかろうと、結局それは彼自身の首を閉めていることに他ならない。
私と彼は違う。何一つ釣り合わない。こんな形で痛感するだなんて。
泣くまいと、話に聞き入るふりをして閉じた瞼の奥で、人の良い小松の顔が浮かんでは消えていった。
「(私が、あなたみたいだったなら)」
ゆらりゆらりと不安定な電波を渦巻かせ、それでもリンはふわり微笑む。今出来る、精一杯の虚勢であった。