手無し娘
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11.決別
時折どくんと波打つ血潮を抑えて、噛み締めるは娑婆の甘い一時。
巨体からは想像し難いあたたかい香りが部屋いっぱいに広がり、吸い寄せられる。
あたたかい家庭そのものの香りが愛おしくてたまらなくて、呼ばれてもいないのにリビングへと顔を出した。
母親のごはんが待ちきれずに覗き見をする子供のような仕草に、男は優しく微笑み手招く。
心が、弾んだ。
「…今日は、なんですか?」
「うん、今日は小松君のセンチュリースープを僕なりに再現してみたものだよ、ほら」
「…すごい。すごく透き通っていますね」
小松の提案したそれとはもちろん比べ物にはならないが、ココの作ったスープもなかなかの透明度を誇っている。
周囲には数々の食材の香りが充満し、食欲をそそった。
スープに使用された食材は全て、リンが出かけている間にココが捕獲した食材ばかりだ。どこか誇らしげに胴鍋の中で踊っている。
ココに促され、テーブルの席に着いたリンであったがどこか気持ちは落ち着かない。手足がぶらぶらとテーブル下で揺れた。
質素な部屋だ。何度見渡してもそう思った。
かつて己が過ごした部屋はゴミの堆積する不潔な路地であったり、煌びやかな天蓋の下であったり天と地ほどの差があったように思う。
けれどどれも誂えられたその場限りの情景であり、そこから主が思い浮かぶことなどなかった。
この素朴な部屋は暮らすには不便が溢れている。けれども、なぜかリンにはあたたかい象徴そのものだったのだ。
「さあ、できたよ」
ことん、と器が目の前に差し出される。ふわりと上がる湯気と香りが鼻をかする。
手を合わせ、感謝を述べてスープを口にした。もちろん、味は、分からないけれど。
「…うん、小松君のスープには程遠いね」
「……私には味は分かりません、でも」
ココさんらしい味がする気がします。
そう告げれば、虚を突かれた表情を見せたがすぐに優しく微笑んだ。
スープを飲み干した後、いくつかの料理とメインとを差し出されどれも適量口にした。
たわいもない話を交わし、微笑みあう。感じたことのないあたたかさに戸惑いながら、それでも終始二人は笑顔であった。
離れたくない、この人と共にありたい。決心が、そう、鈍ってしまうほどに。
「――――ココさん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
扉が閉まる。ココの姿が完全に消えた。
いつもならば眩しいくらいに瞬く星は、厚い雲に覆われ姿を見せない。
部屋の外、キッスの姿を伺えば既に眠りの世界に入っているようで微動だにしない。どこかいつもよりも家に寄る形で休んでいるのはこの生憎の天候のせいかもしれないが、リンにとっては好都合であった。
おそらくあと数時間もしないうちに雨が降るだろう。
そうなればこちらの計画も実行が困難になる。リンはそっと時計に目をやり、空の様子と見比べた。
――――計画に支障は、ない。
さよならのカウントダウンが始まった。
かちりと時計の針が深夜を告げる。人里から離れたこの家は完全に静寂と漆黒の夜へと沈んでいる。
最小限の荷物を詰め込んだ鞄を持ち、ゆらりリンは窓際に立った。木枠と、露に濡れるガラスの埃臭さが香る。
雫の向こう、滲んだ視界の先に合図が見え、静かに部屋を出ていく。机の上には簡素な言葉を綴った手紙を添えた。
新しく職を見つけたこと。急な話で挨拶も出来ないまま去ることを許してほしいということ。
そして、手紙の末に綴った恋い慕った気持ち。気付いてほしかったと、名残の心を綴ったその手紙を、去り際に振り返る。
曇天の空はそれでも部屋よりは明るく、机の上の手紙をぼんやりと浮かび上がらせる。リンを思い止まらせるには十分であった。
「(未練がましい…)」
立つ鳥跡を濁さず――――断ち切らねばならない。最後の最後まで爪あとを残そうだなどと、なんて薄汚い精神なのだろうか。
胸を渦巻く闇に蓋をする。
開封した手紙の半分から下を千切り、ポケットに詰め込んだ。
知らなくていい。どうせ叶わぬ夢に浮かれていただけなのだから。
「(…さようなら、ココさん)」
消え去るように。
足音なくリンはココの家を去って行った。
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広い部屋に突如響いたのは破壊音だった。近くを飛び交っていた鳥ですら、その振動に飛行を妨げられるほどの果てしない音波だ。
ぱらぱらと木片が埃と共に降下し、周辺は再度静けさを取り戻す。ただ一人の胸の内を除いて。
硬く握りしめられた拳には木片が突き刺さりじわりと血が滲んでいた。けれどもそれはすぐに別の液体で覆われていく。
毒が、回った。
「…一体っ……何を…っ」
見ていたというんだ。
掠れた声が虚しく響くがその言葉に応える声はもうない。
男は粉々となった机を見下ろし、握りしめた手紙を開く。よれた紙に綴られていたのは悲しいほどに淡白な別れの言葉であった。
紛れもない、リンの筆跡。約束を果たす旨、機械的に綴られた言葉たちが何よりも胸に痛かった。
ココはこの数日、リンの様子が不安定である事を知っていた。
それは彼女の一挙一動を見れば一目瞭然であった上、発している電磁波に覇気が見られなかったからであった。
この家にやってきてから何度も不調を訴える電波は見てきており把握しているつもりであった。彼女はここを安息の地とは思っていないという事を、苦くも理解していたのである。
それでも、彼女を守っていきたいと決心したあの日以降、彼女の心情の揺れは落ち着いてきたと思っていた矢先の出来事である。
その変化に、ココは納得も、理解もする事ができなかったのである。
「……僕は君にとって重荷でしかなかったのか」
指の隙間から擦り抜けて落ちていく砂のように、注がれた愛情は形などなくて、言葉にして紡ぐ前に失われてしまった。
行き場なく失われていく思いを机にぶつけれど、受け止められずそれは壊れて朽ちるだけだ。先ほどまで痛んでいた右手も既に、痛みの痕跡などどこにもない。
じわり滲んで再生する身体は、酷く渇望した。水を求め、体中が湧き立つ。腕を抱いた。
食い込む爪先から溢れるのは血であり、薬であり、そして紛れもなく毒であった。
宙を漂う、中身を伴わない謝罪の言葉が耳に届いた。空疎なそれは星屑のように視界を埋めては降り注ぐ。
質の良さが分かる肌さわりのよいシーツを背にして、リンは宙を見上げた。視界に広がるのは線の細い、若い男だった。
「ごめんよ、ごめんよ、僕にもっと力があったなら君をそんな風に使ったりしないのに」
乾ききった言葉が何度も滑る。数が放たれるだけの価値のない謝罪は拾うことすら必要ないとリンは思った。
ざりざりと男の髪が胸の上で擦れて鳴る。無意味な温もりが不快だった。
反応のない事に不安を煽られたらしい男は、リンの背に手を回し、掻き抱いては謝罪を述べ続けた。
「怒っているのかい?でも僕は、それでも僕は君と添い遂げたいんだ。本当だ。本当に結婚したい」
「怒ってなんかないわ。貴方の事はよく知っている。理由があるのも理解しているわ」
「ほ、本当かい…!そうだとも、君は僕の可愛い恋人なんだ!絶対に離したりなんかしない」
同じような言葉を繰り返して男はさらに強さを増してリンを抱きしめた。
拾いベットがぎしりと軋んで天蓋が揺れる。男がこれ以上を望まない事を知っているリンは、そっと男から身を離し微笑んだ。
何も知らぬ男はその笑顔に頬を染め、うっとりと無言の時をかみ締める。
甘いシロップに浸かっているかのような甘い視線を独り占めしているという高揚感に男はひたすら酔いしれていた。
覚めた目で見つめるリンに気付きもせずに。
冷たい心をひた隠し、リンは男の手にそっと己のそれを重ねて囁いた。
「…私が、大切?」
少し眉を下げて瞳を濡らせば、不安げな表情の出来上がりだ。壊れた人形のように男ががくがくと頷く。
特別、リンもそれ以上を望まない。望むのは名声でも、金でも、宝石でもない。
ただ、永遠の愛を望むだけであった。
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カレンダーが時間の経過を知らせる事に寂しさを感じなくなりつつあった。
それでも忘れられない、あの決別の日。
ひらりと紙が剥がされ、月が変わり、数字が席替えしてもそれは変わらずに心に刻まれている。
雨の降る中、密かに部屋を飛び出し、崖の端から飛び降りて脱出を図った。
前もって町で声をかけておいた数名の共犯者の力を借りて行った無謀な脱出計画。
崖から落ちるリンを受け止める男、逃亡用の運送手段を持ちえていた男、一晩の宿を提供した男。
計画に付き合わせた数名の男達は周囲にはいない。彼らの役目は脱出が成功した瞬間に終えたのだ。
今頃、何も言わずに姿を消したリンを探しているのだろう、それでも共にあった期間は限りなく短い故に、きっと彼らは忘れられる。
リンはそう納得させていた。
無事に脱出を済ませた後の行き先など考えるまでもなかった。
引き寄せられるように進んだ道と、街の先にあったのは薄汚い路地とネオンが煌く夜の街―――歓楽街。
歓迎されているかのように、瞬時に溶け込んでしまったその街ですぐにあった運命の出会い。新しい宿だ。
気弱な外見に、おぞましい嗜好を携えた下種た男――――それがこの町での最初の“恋人”となったのだった。
「じゃあ、支度しよう。今日も店にはたくさん蝿が来るから」
蝿―――男は客をそう名付けては貶し、嘲笑った。やせ細った体からは想像し難い攻撃的な思考が不安定で、笑いがこぼれる。
それを同調を取った男は愛おし気にリンを引き寄せ、体を撫でた。そうして丁寧にリンを扱ったかと思えば、次の瞬間リンの衣服は音を立てて破り裂かれる。
白い肌が露になった。
「支度、始めるよ?」
「…酷いわ、これお気に入りだったのに」
「また買えばいいだろ。ほら、足開け」
男は手際よく支度を進めた。リンを商品にすることを差している。
鳴れた手付きで体を縛り、箇所にテープを貼り、番号を振る。あっという間に商品のディスプレイが完成した。
「寒い…」
「すぐに暖房のきいたとこに行くから、少しガマンしててくれよ。…ああ、でも今日は蝿が酷く集りそうだから、長引くかもな」
「……風邪引いちゃう」
「本番しない程度に暖めてもらってこればいいだろう。ヤったら殺す」
「どちらを?」
「蝿」
「まあ、物騒」
狂気染みた会話はいつものことだ。半分冗談で、半分は本気の趣味の悪い戯言の応酬。
ぞんざいに扱われたり、慈しまれたりとアンバランスなこの男との同棲は良くも悪くもスリリングで退屈しないとリンは思う。
何より、男の愛を乞うていない自分が、人知れず優位に立っているという優越感がたまらない。
男は可哀想だとリンを手中にしていると錯覚しているが、紛れもなく男が蝿であり、リンの方が捕食者であった。
綺羅綺羅しいビル街の一角、黒と灰色で立てられた簡素な軒が男とリンの店であった。
看板はなく、呼び込むスタッフもいない、知る人ぞ知る異空間。
一目見た印象には若者向けのスタイリッシュな居酒屋かと思われるような外観のそこは、悲しいかな所詮は風俗店であった。
「皆さんお待たせいたしました…! この哀れな娘をどうか解放して下さるお客様はどうか、どうかこちらへ…!」
白々しいマイクパフォーマンスに沸き上がるロビー。そこに犇めくは、店に似合わぬ高級スーツの男達ばかりだ。
質のよい衣服を纏った男らはマイクの示す方向へと一斉に視線を向ける。
赤黒いカーテンの向こう、しばらくして出て来たのは大きな鳥かごに入れられた娘―――リンであった。
恋人の手によって商品化されたリンは、目も口も閉ざされ、芋虫のように籠の中で蠢き助けを乞うた。
その姿を見て、男らは一層どよめきを濃くする。耐え切れず声を上げる者まで出るほどであった。
明らかに目の色を変えてマイクの続きを待つ男達に、店主はほくそ笑んだ。全てはシナリオのまま。
そう、これはゲーム。人身売買…そういうイメージプレイだ。
「さあ!今宵も抽選を開始致します!娘を解放する鍵は全部で5つ…どうか皆様の幸運を娘へと分け与えてやってください!」
地が振動するほどのどよめきと同時に、部屋中に高額紙幣が舞い始めたのであった。
「やっぱり大入り大成功」
「…それはよかった」
「なに、不機嫌じゃん。よかったでしょ、アソコの鍵は当てられなかったんだし、リンも蝿も血を見なくて済んだわけだし」
ケタケタと恋人が笑う。
嫌気さえ差す笑い方に溜息を投げつけ、リンはソファへと体を放つ。
ぼふんと音を立て、山盛りの綿に受け止められるのと同時に埃が舞う。気だるげにそれらを払いながら、リンは恋人へと視線を向けた。
ふんふんと鼻歌を奏でながらギスギスの指先で札束を数えては微笑む男だ。不健全以外の何物でもないその姿に無意識に顔をしかめてしまう。
夢のような時間を過ごしたココの家を飛び出してから、リンは知らぬ間に変化していた己の姿を感じていた。
以前ならば言い寄る男に縋るように存在価値を求め続けていたが、今はさして相手にそれを求めていないのだ。
もちろん全く乞わない訳ではない。けれども、以前の底の見えぬ執着心が薄れているのに気がついたのだ。
だからこそ、面前の恋人と肉体関係を結ぶことも、必要以上に密着することもなく過ごしている。それはリンにとっては救いとなった。
「(ココさんに…変えられちゃったのね)」
それが本当に自分にとって喜ばしいことなのかどうか、その判断はまだ出来ない。けれども、男に先立たれ置いていかれる恐怖を感じにくくなったことは心の安定に繋がっていた。
今思えば、良くも悪くも“諦める”ことを知ったのかもしれない。
けれどもそれを追求すればするほど、行き着く答えはリンの気持ちを曇らせるばかりだ。
――――諦めなければいけなかった。
今でもその事実は酷くリンを悲しませた。どうすることもできないと知りながらも、願うことを捨てきれない証拠なのだろう。
瞳を閉じれば、今も浮かぶ、陰のある優しい笑顔。触れることを許されなかった逞しい胸、腕。
一度でいいから、包まれてみたかった。色情にまみれたおぞましい身で望むには過ぎた願いだとしても。
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リンが恋人と経営するは紛れもない風俗店。リンはその身を一晩、“商品”として客へ売り渡し対価を得る。
縄やテープで諸所を隠され値札を下げ、部位ごとに“蝿”―――もとい“客”に売り渡すというシステムであった。
蝿は競りにかけられた“商品”の落札価格を提示し、抽選権を購入する。抽選の対象は、“商品”の開封箇所――すなわち、リンの拘束を解く場所だ。
そして一晩買うことの出来る部位。
今晩の客は見事胸部の開封権を得た。店主が客を“蝿”と称する理由はこの先にある。
リンという商品にすっかり魅了され渇望した蝿は、抽選で得た部位に歓喜に狂った勢いのまま貪りつくのだ。
全身が目の前にあるのに、抽選で得られた場所だけを律儀に守りあらゆる角度から堪能しようと、方向を変え、みっともなく飛びつく姿があまりにも滑稽で、いつしか店主は客の事を蝿という蔑称で呼ぶようになったのだった。
「乳首は触らせなかっただろうな」
「……ええ」
ケタケタと耐え切れずに男が噴出した。下品な笑いがこだまする。
そう、今夜の客が得た開封権は胸部だった。それは胸部全体を指しており、その先端は含まれていない。
自由にする権利を得た乳房を揉み掴み、舐め、吸い、時に己の象徴を擦りつけ、挟み、果てた。
「必死だよね、本当に!目すら隠されてて顔も分からない女の胸を触るだけにこんな金払って!」
「…そんなこと、ないわ」
軋む心があるのに驚いた。リンは胸に手を当ててそっと瞳を閉じる。
昔だったらどうだっただろうとそっと思考の海へと意識を浸した。
少し前まではこうして、現実が怖くて思考の世界へと逃げ込んでいた。そんな私に気付いたあの人は、そっと声をかけて何度も引き上げてくれた。
「(いつだって、私は自分のことしか考えていなかった)」
相手のことを思いやっているようで、結局全ては自分が楽になるための言い訳をしているだけに過ぎない。
恋人達が贈ってくれる愛の言葉に溺れ、その気持ちの上に胡坐をかいて正当化し続けたのは紛れもない、わたし。
彼が、そう言うから。彼が、必要とするから。そんな言い訳ばかりして、自分のことばかり考えていた。
こうして不幸になる人を見てもそれに気付くことも出来なかったのである。
このやり方を選んだのは自分自身だ。人を食い物にして生きて行こうと、恋人を唆し立ち上げたのは色を食わせる飲食店。
「(…もう、他の人に抱かれることなんて、きっと出来ない)」
…ココさん。
彼の人を呼んだが、応える声が返ってくることはなかった。
“味覚がなかったら”
その問いかけに対する答えを出せずに、小松は胸の中で持て余していた。
意識を没頭させると途端に相手との距離を離されてしまう。気付いた小松は先行く男を小走りで追った。
歩幅の音を聞き分け、男が振り返る。
「ああ、悪いな。早かったか」
「いえ、すみません。考え事をしてて」
へへへ、と軽く笑えば男は小さく返事を返してまた先へと進んだ。一人では決して踏み込めない夜の歓楽街。
そこを小松と男――グルメマフィアのマッチは歩いていた。
グルメ界一の規模があると言われるこの街は一人で歩くにはやや危険が付きまとう、正真正銘の夜の街であった。
一つ道を違えて路地を行けば、辺りに転がるのは無法者であり、秩序のない不埒なものばかり。
けれどもこんな街にも有名店というものは存在するもので、小松はそこの煮付けを学びにやってきたのである。
今までの人生では悲しいかな縁遠い、夜の街を往かねばならない不安から小松はマッチに道案内を依頼し、今に至る。
その道中でふと思い出したのは、リンの事であった。
「味覚がないって…どんな感じなんでしょうね」
「…リンのことか?」
「答えが出なくって。考えたところで答えが出るわけじゃないんですけど…味が分からなくて、おいしいって伝わらないなんて…今後、僕はリンさんを料理で笑顔に出来ないんだと思うと…なんだか…」
小松は自分の言葉に落ち込んだ。
トリコに同行し、複雑な味を兼ねた珍しい食材や高度な捕獲レベルを誇る食材を手にし、実際に食し、以前と比べ確実に料理人としての力をつけていることを自負している。
それは全て料理でみんなを幸せにしたいという自分の目標の元、重ねた経験であるが、目の前に計らずも立ち塞がったのは味覚障害という壁。
けれども小松はただその壁を打ち破りたいのではなかった。
壁となってしまった人物―――リンに、何とかしておいしいものを食べるという幸福を感じて欲しかったのだ。
「…まだ会ったのはたったの2回ですけど……なんだか、いつも寂しそうで」
「……悪い事は言わねえ。あいつに懸想すんのだけはやめておけ」
「そ、そんなじゃないですよ!…確かに、綺麗な人だとは思いますが!…僕はただ、料理人として……………あれ?リンさん?」
「え?」
指を差した細道の向こう、黒いコートに身を包んだ華奢な背中が目に入った。足早に過ぎ去っていくその姿を二人が追えば、振り向かれた横顔は間違いなくリンその人であった。
小松とマッチは顔を見合わせ、言葉なく戸惑う。
繰り返すがこの街は夜の街だ。ココの家に住んでいる聞くリンが一人で出歩くような街では決してない。
二人は再度顔を見合わせ、リンの後を追うことを決めた。
尾行はすぐに終わりを迎えた。リンが二人に気がついたためである。
その顔色はみるみるうちに悪くなり、それでも二人に声をかけることなく足早に場を去ろうとする。
明らかに態度がおかしいと感じた小松が走り出せば、マッチも後を追い走り出した。
「リンさん!なんで逃げるんですか!!」
「小松!あんま名を呼んでやるな」
制された発言を怪しむ間もないまま、必死で二人はリンの背を追い走り続ける。
どれだけ彼女が足が速かろうが、常人よりも秀でた体力を持つ得るマッチから逃げられるはずもない。リンはほどなくしてマッチにより捕らえられたのだった。
まずい、と思った。
いつもならば周囲に意識を払い街を往くのだが、執拗に脳内を掠る恋心に遮られそれを怠っていたのが運のつきであった。
じたばたと抵抗すれど、男の力は強く、振りほどくことが叶わない。触れられることに嫌悪感を感じないのは、男が少なからず一般人とは異なるためであろうか。
それとも、古くからの知り合いであるが故か。如何せん、担ぎ上げられたみっともない姿から脱出したく、リンは無駄とは知りつつも抵抗を繰り返すしかできなかった。
「…リンさん、なんで逃げるんですか」
「知らない人たちに追いかけられたら、誰だって逃げるでしょう?ここはそういう街なのよ」
「知らない人って…な、何を言っているんですかリンさん!僕のこと忘れちゃったんですか?」
「忘れたも何も…初めてお会いしますよね?いい加減、離してくださいません?」
「お前嘘つくときって唇噛むよな、リン」
「………」
茶番にしかなり得ない下らないやり取りであった。無論、こんな嘘で逃れられるとも思っていなかったのは事実であるが。
抵抗をやめ、観念したそぶりを見せればマッチは脇に抱えた体制から解放してくれた。身なりを正して、彼らと向き合う。その目が貫くように鋭く感じられた。
疑問にまみれたその視線は責めているようにさえ見える。そういう目が嫌いだった。
「…何かご用ですか。私、急いでいるんですが」
「色々聞きたいことはあるが、返答次第ではこのまま連れ去られるのも覚悟しろ」
「ちょっとマッチさん!そんな脅迫みたいな………リン、さん?」
小松の戸惑う声にはっとし、リンは意識を戻す。これ以上時間を引き延ばすのは色々と不都合だ。
手早く立ち去るべくマッチに質問を促せば、投げられた想定内のひねりのない質問に辟易とする羽目となる。
リンはマッチのそういった兄貴風を吹かせる所が有難くも疎ましく思っていたのだった。
「何です?…私、急いでいるんですが」
「お前ココって奴の家に住んでいると聞いていたがなぜこんな場所にいる?ここで働いているのか」
「あの人のお宅に住まわせてもらう条件で、就職したら出ていくという約束があったんです。それを果たしたからここにいるまでです」
「…普通の店だろうな」
「もちろん。普通の飲食店ですよ。ここが夜の街とて普通の居酒屋だってありますもの。…もういいですか?仕込時間に遅れると叱られるんです」
「あ、リンさん!」
これ以上彼らに関わると不利になると判断したリンは、小松の制止を振り払いそのまま喧騒へと去っていった。
小松やマッチの胸に、疑問の種だけを残して。
リンが去った場に、立ち尽くす二人に言葉はなかった。けれど二人の胸に渦巻くのはリンの言葉を疑う気持ち、それが一致している。
「…飲食店だなんて、嘘でしょう………リンさん」
悲しげに呟かれた言葉にマッチは無言の同意を返す。否定を待った気持ちが砕けて落ちた。
ココへ伝えるべきか否か、小松は酷く迷った。
リンの口からはっきりとどこで働いているのかを聞いたわけではない。けれど、味覚のない彼女が飲食店で、しかも仕込みに携わる職についているとは考えにくい。
夜の街、魅惑的な女性。二つの言葉が導きだした職種は決して健全なものとは言い難かった。
彼女とココがどのような約束を交わしたのかは小松には分からない。
けれどその真実よりも何よりも、小松の胸に引っ掛かっているのはトリコからの釘であった。
「(…トリコさんの言っていた事が本当なのであれば)」
自分の出る幕はどこにもない。けれども小松は、釈然としない意識の中で答えを探し彷徨うしか出来ないのが酷く歯がゆくて、たまらなかった。
お節介だと言われるかもしれない。自分で自分の身も守れないくせに無謀だと言われるかもしれない。
けれど、小松にはリンを放っておく事ができなかったのであった。
胸が痛かった。優しい記憶が心を苛み続けている。
どうすればいいのか、リンは自分を見失いかけていた。
仕事を終え、疲れた体をバス停のベンチへと放り投げた。客に手酷く扱われた左手が痛み、思わず顔をしかめる。
見れは手首には痛々しい赤い跡ができており内心舌打ちをしては痛みを誤魔化してみる。
思い返せば今日は散々な日であった。小松らとの出会いから、遅刻への叱咤、粗雑な客取りに、自力での帰宅。
そんなリンに追い打ちをかけるかのように、雨が降り出した。冷えていく気温に、ため息が白く色づく。
整備が生き届いていないバス停のシートカーテンの隙間から雨水が漏れ、体を濡らした。生憎雨具など持ち合わせておらず、体はどんどん冷えていく。
けれど、今の自分にはその冷たさがちょうどいいとリンは思った。
「(……懐かしいな)」
初めて人が死んだのを見たあの日も、私はこんな風に雨に濡れていた。
目の前で血反吐吐き、崩れ落ちた男を目の当たりにして怯える事しかできなかった。
闇雲に走り、辿り着いたのは汚臭漂う薄暗い路地裏で、雨打たれて横たわった。忘れもしない、拾い上げてくれたあの人。
「……鉄平兄様」
「リンさん」
名を呼ばれて顔を上げた。
目の前には小柄な男が、丈に合わぬ大きな傘を差し出し、微笑んでいる。なぜ、ここに。リンの困惑を、男は人のよい笑顔で制した。
「やっぱり、気になっちゃって。それに、濡れたままでは風邪を引いちゃいますよ」
「…でも、このままでは貴方が濡れてしまいます」
返答の代わりに降ってきたのは笑顔。有無を言わさない陽気な否定に、リンはしぶしぶ傘を受け取り身を隠した。
響く雨音。どちらも言葉を発する気配はなく、ポツンポツンと傘に落ちる滴の音が、いやに大きく聞こえた気がした。
沈黙を破ったのは小松の方であった。ココの家を出た理由を問われたのである。
そう尋ねる小松に、深い意味などおそらく存在はしない。それでも、リンはその言葉を受け、どう返答してよいものかと悩んだ。
自覚はなかったが、ココの家に住まうきっかけとなった事件は、よく考えれば異常事態である。
それを伝えていいものか、判断が付かなかったのだ。仮にそれを避けて説明したところで、ココの家に住むに至る経緯は大の大人が大声で話せるようなものではない。
今になって己の甘さに、恥ずかしさが湧き上がってきたのだ。
「…情けないですよね、いい年して、行くあてもないなんて」
「そんなことないです。つらい時はつらいって言ったっていいんですよ!リンさんは頑張りすぎなんです、きっと」
「……頑張ってなんか、ないです、よ。いつだって私は、」
―――――誰かに、男に助けられて生きている。
寄生するように男に寄り添い、寵を得て…体を差しだす以外に何一つ、返す事も出来ずに。
混じり気のない、素直な男の心と瞳が、自分を責めているように感じられた。無論、一言だってそんな言葉はない。
純粋で美しいその瞳に、私はどのように映っているのだろう。自分の周りに張り巡らされている視線から逃れたくて体を抱きしめるが、冷えた体は温まりそうもなかった。
張り詰めた心から、言葉が溢れて落ちた。
「…私も、あなたみたいに、料理人になれたなら」
「…リンさん」
味覚があったなら。
外見なんかじゃなく、もっと内面に自信を持つ事ができたのかな。
普通の女の子らしく、生きる事ができたのかな。
「……ココさんのところに、ずっといられたの、かな」
「…リンさん………」
好きだって、想いを伝える事ができたのかな。
小さく、首を振る。
もしもの話なんて、惨めになるだけだ。
「……お願い、小松さん。ココさんには言わないで……」
あの瞳に拒絶されたら、きっと、生きていけない。
小松と別れ、リンは自宅へと戻った。
小松に、今の自分の状態を話さぬよう懇願したが、思い出してはこみ上げてくるのは自虐的な笑いだ。
何度も何度も、忘れる諦めたもういい、と口にしながらも結局は何も捨てられていない自分が可笑しくてたまらない。
自分の本当の願いとは何なのだろうか。もう、影が差してしまっている。
冷えた自宅の温度と体と、温かみを拾う事の出来ない暗い室内がちょうどよかった。分からない事は深く考えたくない。
リンはいつものようにソファに身を投げ、沈んでいく。
いつしか、あの大男が言っていたような気がする。
自分が悪いのだ。と、表面の言葉でわかったふりをして逃げてはいけない。と。
「(逃げてなんかない)」
誰にもわかってもらえない。誰にも分かってもらえなくていい。
相反する気持ちが葛藤する思考の喧騒に目眩が起きそうだ。どうしたいのかなどもう分からない。
繰り返す悩み、繰り返す言葉、繰り返す生活、繰り返す思い出。
突っ伏したクッションの下、じわり涙が溢れたが、その理由も分からない。
女はただ、哀れな生き物だったのだ。