手無し娘
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10.失速
決まった時間があるわけではない。
けれどいつも男の相棒は、日が暮れる前には約束の場所付近の空を羽ばたいていたし、姿を捉えれば多少離れたところへも飛んで来るような性格だ。
飼い主の心配性が移っているのかもしれない、とリンはしばしば思う。
男―――ココも大層心配性な男であった。
そう思ったのは多少打ち解けあった後の話ではあったが、とにかく男は心配性であった。
例を挙げればきりがないが、気を遣われているというよりは持ち得ている年長気質とでも言うべきか、とにかく甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
それが、若干不満でもあるのは事実だった。
かつて隣に立っていた異性は皆、自分が傍を離れていかぬように見張っているという言葉が正しく、独占欲全開で縛り付けていたようなものであった。
それが当たり前の日常であったし、多少不便な事ももちろんあったが、それよりも必要とされている喜びが、優越感がどこかにあったような気がする。
しかし、ココはそうではない。
かつての男達としていることに差異はないが、必死さがそこにない。
まるで、ペットでも可愛がっているかのような扱いなのだ。いや、あしらわれているとかそういう扱いではないのだが。
一対一の大人としての扱いではない、言い方を変えれば幼子相手に対応しているかのような態度なのだ。
リンはふと、空を見上げた。
待ち合わせの場所として利用している町外れの一本木の上空に、影はどこにも見当たらない。
オレンジソースのように鮮やかな橙が一面に広がっているだけだった。
沈み行く夕日がその速度を上げる。足元に視線を落として、リンは再度思考の世界へと戻っていった。
「(信用ならないのは、分かっているけれど…)」
未だに自分は触れることを許されていない。
確実に、居候するようになった頃よりも互いの距離は近づいているのは分かる。
初めは目を合わされることもなかった。小さな家の中なのに、すれ違う事すら滅多になかった。
今では向き合って同じ時間に食事を採り、茶を嗜み時間を過ごすまでになったのだから。
一人でいる時間は無駄に思考を巡らせてしまう。
ココと二人でいる時は不安に感じることなど何もないのに、いざ一人になって冷静になると、不安ばかり押し寄せてくる。
何度も何度も同じことを考えて結論を出しては納得させているのに、たった一言言葉を交わすだけでもその結論は覆されてしまう。
期待なんてしてはいけない。自分が彼の中にいるだなんて、思いあがってはいけない。
そう、言い聞かせているのに。納得も、理由も、たくさん思い当たるのに。
「……ずるい」
たった一言、言葉をもらうだけで気持ちは舞い上がり、幸せな気持ちになるのだ。
生きる理由を、人に委ねてはいけないのに。
「……………本当、ばか」
握り締めた紙袋が手汗でふやけていく。くしゃりと潰された持ち手が手のひらで音を立てた。
結局、キッスが迎えにやって来たのは日が完全に暮れて星が瞬き始めた頃で、そこにはやっぱり、ココの姿は、なかった。
家に戻っても、ココの顔を見ることが出来なかった。
自分の中の全てが、自分の自信を食い尽くして、今は顔を作ることも出来ない。
そんな醜さが、唯一誇りを持っている顔にまで滲み出ているような気がして、怖くてたまらなかった。
手に握り締めたクッキーが滑稽で仕方がなくて、昼間の浮かれていた自分が恥ずかしくて、リンは咄嗟に俯いた。
心配性の彼が、そんな自分の様子に気がつかないはずがない。けれど、頭では理解できていても心がついていけなかったのだ。
「…何か、あったかい?」
かみ締めた唇が引きつる。
ああ、また心配をさせてしまった。
押し寄せる負の感情を制御できずに自分を責めることで無理やり納得させて。笑うことも出来ないで。
こんな駄目な自分が、一対一の大人の扱いを求めるだなんて、滑稽にもほどがある。
こうして飽かずに優しく話しかけてもらえるだけでも、十分すぎるのに。
ああ、ほら、また。
質問の答えをほったらかして思考の底へと沈んでいく。けれども、十分な会話は出来そうもなかった。
「話したくなければいいよ。それより、手に握ってる、それ…」
「…あ、これ、は」
差し出がましいとか、押し付けがましいとか。
悪い感情が先走って素直に手渡す事が出来ない。
握り締められ崩れた紙袋は、中を見ずともその惨状が手に取るように分かる様であった。
本心はこんなにも目の前に象られているのに、それを言葉にして投げることが恐ろしくてかなわない。
差し出すことも出来ず、硬く握り締められた手を見おろす。なんて、なんて迷惑なのだろう。
背を向けて逃げ出してしまいたい。
たかだか、クッキー一つ手渡すことも出来ないなんて、上手に振舞うことも出来ずに困らせてしまっている。
何か言葉をと心が急かすが、動く様子のない唇は硬く結われたままで喉も振るうことが出来ない。
静かに続く沈黙を裂いたのはココだった。
「もしかして、僕のために買ってきてくれたのかな。…あ、思いあがりだったかな」
「そんなこと…!……あ、」
「なんだ、やっぱり僕のために買ってきてくれたんだね。ありがとう、お茶の時間にふたりで食べよう」
手のひらが風で冷える。
何事もなかったように、手から攫われた紙袋はふきんの山の傍に添えられた。
そんな何気ない仕草一つで、霧が晴れる。彼にとっては何の意味もない言葉に、その行動に、光が差したように視界が晴れた。
きっと彼にはわからないだろう。そんな些細な仕草一つで、救われる魂がある事を。
深い深い自責の霧を晴らすことが出来る力がある事などを。
雨上がりの広場に降り立ったような、晴れやかな心と視界とが眩しすぎて、泣き出してしまいたい。心底、そう思った。
「実は僕も用意してたんだ」
そう言って目の前に差し出されたのは、見たこともない不思議な形をした植物の実であった。
優しい甘い香りが漂う。ココの説明によれば、これらは全てフルーツの一種とのことであった。
自分だけではなく、ココもお茶の時間の事を考えていたということが嬉しくて、リンは顔を綻ばせた。
ぴたり、と会話がやみ、ココが顔を逸らす。
「…ココさん?」
「いや、なんでもないよ。それより、」
説明によれば、このフルーツはどれも、いつも飲んでいる紅茶に合うものだとのことであった。
いつもよりもどこか早口で説明を続けるココの耳はほんのりと赤く、悪友がいたならば咄嗟に突っ込まれたほどであっただろう。
悟られぬように作られたポーカーフェイスも、リンは惜しくも見破ることが出来ず、ココの説明に紛らわされてしまったのであった。
不安はあるが、幸せな日々が続いていた。
目を向けなければいけないことはたくさんあった。
これからの生活のこと、ココとの約束のこと、そして何より、彼が自分に全てを許しているわけではないということ。
それは時に酷く暗くリン自身を責め、爪を立てて心を切り裂いた。
今までの男達のように、自分に群がってこないその姿に、どこか焦る気持ちもあったのだろう。
繋ぎとめて置くことが出来ない。伸ばす手を諦めてしまえば簡単に綻んでしまう絆の脆さが恐ろしくて、一人で過ごす時間はいつでも震えていた。
その日も、リンは街を歩いていた。
ココと親しくなればなるほど、職探しに支障を来たしていくのだ。職が見つかれば、約束の通り出て行かなくてはならない。
彼がそれを望んでいるのは百も承知していたが、それでも共に過ごした時間と思い出が、リンの歩みを邪魔していくのだ。
離れたくない。もっと一緒にいたい。ずっと、一緒にいたい。けれど、それを後押しするだけの自信がリンには残っていなかった。
今日も今日とて、同じような思考を巡らせては力なく街を巡っていた。
街の明るさに徐々に元気を取り戻すところまで予定調和だった。活気のある人々の暮らしに、沈んだ心が徐々に元気付けられていく。
自然と、顔や視線も上へと向かっていった。
気付けば街のガラスに、自分の姿を映し見るほどにまで元気になったのだが、不意にガラスの色が変わったのに驚く。
「よう!こんなところで何してんだ?」
「トリコさん」
声をかけてきたのはトリコであった。
豪奢な空色の髪を日に透かせ、きらりと笑う表情が眩しい。
いつも傍に控えている小松の姿が無いことを尋ねれば、夫婦じゃねえんだから、と冗談を飛ばし、笑われる。
表裏の無いその姿に、つられて笑ってしまう。トリコという男には周囲を明るくさせる強いパワーがあった。
くすくすと笑っていたリンであったが、ふと、トリコが鼻を押さえているのに気付き、声をかける。
先程までの明るい笑顔とは一転、やや表情を硬くした、厳しい視線を向けられ委縮する。
この瞳は、少し前までのココと同じ。“警戒”の視線だ。
「…あ、………私、その、何か…」
粗相をしたでしょうか。
続けられなかった言葉の代わりに、トリコは言った。
「この甘い匂いが原因か」
「?」
甘い匂いがする。
そう、トリコは告げた。
しかし、リン自身には自覚はない。
恋人が生きていたころは身だしなみの一環として香水を使用する事もあったが、現在は使用していないし、菓子類を持っているわけでもない。
顔を背けさせるほどの甘い香り。けれども周囲の人間は誰一人として避けるといった反応は見せていない。
けれども、目の前の男はどこからか嗅ぎ付けた“甘い香り”を指摘した。それも、まるで何かの災いを起こしているとでも言いたげなニュアンスで。
「お前自身は自覚ないのか?…まあ、周囲も殆ど無意識の内に、って感じだろうが」
「…ご、ごめんなさい…あの、本当に、何の話をされているのか」
「…本当に、無意識なんだな」
「(あ………)」
困った顔。ココがよく見せる、諦めたような、呆れたような、眉の下がった頼りない笑顔。
すっと、心が冷えていく。ココだけではなく、トリコにまでそんな顔をさせている原因は自分自身にあるのだ。
トリコは自覚が無いのかとこちらに問うた。何度思い返しても何か人の妨げになるような事柄を持っているような、そんな自覚はない。
だからこそ、自分だけが気付いていない欠陥があるのだと、リンはずっと気に病んでいた。
ココはそれを指摘しない。優しいあの男は、指摘することでリンが傷ついてしまうのではないかと思っているに違いないのだ。
じわじわと不安がまた、押し寄せて、言葉を殺していく。
何が、いけないのだろう。何が、そんな顔をさせてしまうのだろう。やっと、元気になれた、気がしたのに。
震える喉を絞りだして、言葉を紡いだ。
「ご迷惑を………おかけ、しているんですね」
ごめんなさい。ごめんなさい。…ごめんなさい。
震える手を握りしめて、何とか絞り出したのは謝罪の言葉だ。原因も分からないまま、形だけの謝罪が滑った。
「小松シェフを…連れられていないのは、私が、原因だった、んですね」
会わせたくなかったのだ。きっと。こんな有害な女に。
そう結論付けて言葉を放てば、トリコはその表情を一層困惑に歪めた。ああ、やっぱりそうなのだ、と思うと同時に胸の奥が抉られるような痛みが走る。
否定してくれるのではないかという希望の塔が、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。責め立てる声と嘲笑と共に。
あまりにも絶望的な表情をしていたのだろう、トリコが何かを必死に叫んでいるが全て耳を通り抜けてどこかへ消えていく。
もう、いいんです、黙って。
気休めの言葉なんて、いらない。フォローさせてしまっている、と、また自分を責め出す前に、どうか。もう。
「…死んでしまいたい」
いつしか、前にもこんな言葉を吐いて誰かに縋ったような気がする。
甘い若草色のあの人は今、元気でいるのだろうか。
届かぬ言葉とトリコを振り払って、リンは街のはずれへと逃げて行った。
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「…もういいぞ小松」
「フガッ!ちょっと!あんまりじゃないですかトリコさーん!僕だってリンさんに会いたかったのに!!」
少し離れたところに投げ転がされていた麻袋。紐を緩めたそこから出てきたのはトリコのコンビ、小松だった。
扱いの酷さに、小柄な体を揺らして全身で抗議するが、当のトリコは上の空である。不審に思った小松は尋ねた。
「…リンさんに僕を会わせたがらないのは、何か理由があってのことですよね?僕、トリコさんが意味なく行動に制限をかけるとは思えません」
今までトリコと命をかけた食材の捕獲にも同行した。初めこそは同行を拒否されたり、互いの信頼もなく危険な目にあったりもしたが、今ではお互いに信頼を重ね徐々に力をつけている。
けれども、そんなトリコがそれでも、と強引な手段まで用いて小松とリンの接触を回避しようとしたのだ。小松とてそれが何を意味するのか分からないほど愚かではない。
「あいつは危険な奴だからだ」
「…その説明じゃ納得できるわけないじゃないですか、見た目だけなら今まで会ったどんな相手よりも優しそうで…危険なんて言葉の似合わない綺麗な人です!トリコさん、僕には話して下さい。僕だって、自分自身冒険を重ねて、経験を積んできていると自負しています。リンさんが危険だと言うのなら、僕自身で察知して、回避する事だってできるはずです!」
トリコは小松の眼を見た。まっすぐに、自分を射るような鋭さを湛えた瞳だ。
小松に話すのを渋るのは、危険だからとかそういう単純な問題ではない。
トリコは自分を見つめる黒い瞳に、若干の不安を見つけて噴き出した。すかさず小松に抗議されたが、笑いは止まらない。
「バッカ、お前を信じてねーとかそういうんじゃねえよ。俺がお前に話さないのはあいつの名誉のためだ」
「あいつって…リンさんの名誉、ってことですか?」
「ああ、少なくとも、この問題に介入するのは…野暮ってやつだろうよ。これを解決できるのは、ココだけだろうからな」
分からねえなら、いいんだよ、そう笑いながらがしがしと小松を撫でれば子供扱いするなとの抗議が飛んだ。
同じ年齢とは思えない体系の二人だとトリコはしみじみ思う。生まれも、見ている物も、似ているようで全く異なる。
偶然と必然が織り成す運命の中で出会って、色々な経験・人の輪を通して数え切れないほどの経験を積んだ。今では素直にこの出会いに、相棒と出会えた事に感謝できる。
「(あいつが、そうだったらいいよな、ココ)」
崩れ落ちそうになりながら自らの死を望み、それでも生きながらえるあの娘が。
あの娘を救うのは俺の役目ではない。いつもどこか逃げ腰な悪友が、その手を伸ばし、つかみ取ってやればきっとうまくいくだろう。
そんな未来を夢見ながら、トリコはいつまでも空を見上げていたのだった。
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私の人生などこんなものと、どこか他人事のように自分を見つめるようになったのはいつ頃からだろうか。
そしてそれを仕方がないのだと諦め始めたのはいつ頃だっただろうか。
何度温かい言葉に励まされても、たった一つの表情でそれは突き落とされ意味をなくし、忘れてしまう。
大切な言葉を長く覚えていられない。
それは信じていないのと同等なのだと、分かっていてもどうすることも出来ない。
リンは草むらに転がり込むように身を投げ出した。陽の光を吸い込んだ葉がどこか温かく肌を撫でる。
いつもなら楽しめるそんな些細な自然の優しさも、打ちひしがれ歪んだ心では何一つ心には響いてこない。
先ほどのトリコの言葉を、表情を思い出しては自分を責め、ぽたりぽたりと涙を流した。
どうして、その四文字は疑問ではなく叱責だ。どうしてうまく、振舞えないのだろう。
恋を知り、そしてその加護に甘え、ほしいものは手に入りそうになっているのに、なぜこの幸せは簡単に壊れてしまうのだろうか。
問いかけては消えていく、見えない答えが酷く悲しくもどかしい。
考えなくてもいい事を考えて、落ち込み、無理やりに答えを作り自分を責め、受け入れていく。
鈍器で叩き変えるように無理をし、器を作ったこの生き方を何度も何度も諭した、あの若草の彼は今、元気であるだろうか。
先日、薄れ行く意識の中でふと思い出した、かけがえのない存在。
「………鉄平兄様」
マッチとは違う優しさで包んでくれたあの存在。
死にたいと喚き嘆いていた面倒な私を、見捨てずにいてくれた唯一無二の存在。
「(……会いたい、でも)」
それは逃げているのだと意識が責める。そして他人事のように眺める私が勝手にしたらいいと見捨てる。
もう、どちらが本心かなどリン自身では判断できないところまで来てしまった。
甘えてはいけない、逃げてはいけない。自分ひとりで立ち上がり、歩んでいかなければならない。
優しい男の人たちに甘えてはいけない。悲劇のヒロインを気取ってはいけない。嘆いてはいけない。
生きていく答えは一つしかなかった。
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「……偶然って怖いな、まさかリンとお前が知り合いだったなんてな」
「………」
「………………何か言えよ」
急に黙り込んでしまった男にマッチが食って掛かるが、男はさして気にした様子もなくただ手を組むばかりで言葉を発しない。
癒しの国ライフ。ここに、男が身を寄せる再生所があった。
男――鉄平は再生屋を生業としており、つい数ヶ月前まで幻の食材、グルメショーウィンドウの調査に出たばかりであった。
グルメショーウィンドウでの調査の途中、このマッチと出会ったのだ。それは偶然といえば偶然だったが、マッチらにとっては不幸中の幸いという出来事であったに違いない。
グルメショーウィンドウの調査自体は結果として望まれた結果とはいかなかったが、その調査の途中で行動を共にした若き料理人―――小松の力により、グルメショーウィンドウから生み出される幻のスープ、センチュリースープが完成したという話は、風の噂に聞いていた。
鉄平は大きく息を吸い、吐き出した。
「偶然ってのは怖いねえ…」
ようやく吐き出された言葉が待ち望んだ答えではなかったため、マッチが顔をしかめる。
そんなマッチを尻目に、鉄平がまた黙り込んでしまったものだからその場を収拾させる手段はないのは言うまでもなかった。
腕を組みなおし、鉄平は考える。答えはない、ただの思考をめぐらせているだけのものではあったが。
知己から依頼を受け、グルメショーウィンドウの調査へ赴き、小松やトリコ、マッチらと出会った。
マッチらはグルメショーウィンドウの在処、アイスヘルで酷い負傷を負っており、ここ、癒しの国ライフで治療を行った。それが、数ヶ月前の出来事だ。
癒しの力であっという間に回復したマッチらはその後それぞれの場所へと戻っていき、その後の詳細は知らずにいた鉄平であったが、先ほどまでのマッチの話で全てが繋がった。
小松がその後完成させたという、センチュリースープ。その試飲会にリンがいたとマッチは言った。
その名を聞いた瞬間に、懐かしいような気持ちが胸を埋める。だが、同時に沸き起こったのは止め処ない不安でもあった。
「(…まだ、覚醒はしてないよな。こいつの話を聞く限りでは散々みたいだけど…はぁ…嫌だねえ、分かりきってというか割り切って再生屋してるつもりだけどさぁ…覚醒する前になんとかしてやりたいのは山々だけどっていうかそもそもリンがどこにいるかまでは俺も知らないし、探してもなかったし?)」
話が長いとよく指摘される鉄平であったが、口にしていない今、それをつっこむ人間はいなかった。
再度大きく息を吐き出す。飄々とした内面とは異なり、その瞳はこれから起こりうる未来を見据え、鋭さを増していた。
鉄平がマッチと向き合う。ふわり、と若草色の髪が揺れた。
「リンと会ったらここに来るよう言っといて?」
「お前っ…!いきなり喋ったと思ったらそれかよ!だいたいテメエとリンがどういう関係なのかも聞いてねえってのに!」
「……………」
「黙るなよ!!!」
「ま、あんたと似たような関係だよ。決定的に違うのはアンタはヤクザだけど一般人。俺はどこまでいっても再生屋ってことかね」
本気なんだか冗談なんだか分からない様子で言い放つ鉄平に、マッチは呆れ顔をすることしか出来なかった。
結局その後、どれだけ問い直しても望む返答は得られず、根負けしたマッチは鉄平の再生所から姿を消したのだった。
マッチの去った再生所の中で鉄平は窓の外に目をやる。外はしとしとと控えめながら雨が降り続いている。
生憎の天気に、人の姿はまばらだ。奥に見えるいつもは人で溢れている温泉鯨のプールも今日は稼動していないようだった。
静かに降り続く雨を見て、思い出しているのは初めてリンと出会った日のことであった。あの日も、こんな小雨が降っていた。
狭い路地裏、並々ならぬ者の気配を感じて覗き込んだ薄暗いそこに、それはいた。ボロボロの雑巾のような衣服を纏い、荒れ果てた髪、傷だらけの華奢な足。
けれどもその異様な気配は間違いなくそれから出ていた。見るも無残なそれは、まだ幼い少女だと思った。断言できなかったのは、彼女が異常なまでに大人びていて年相応に見えなかったからだ。
鉄平が近づき声をかけても大きな反応はなく、その全身は離れて見ても分かるほどに震えていた。痙攣していたというのが正しいかもしれない。
それほどまでに彼女は何かに怯え、震えていたのだ。
尋常でないその姿を見て、警戒よりも保護を選択した体が咄嗟に彼女へ手を差し出すが、大人しく抱き上げられる娘ではなく――――暴れるわ叫ぶわ、とにかく手間の掛かる娘であった。
「人を、ころしてしまった」
小さい身体で彼女は何度も繰り返した。泣いては、悔いて、許しを請うた。見た目と中身とのギャップが著しい少女は、それでも話をすれば年相応の中身をしていた。
子供のたわごと、と片付けるには難のあるこの違和感。けれども、鉄平にはこの少女が嘘を言っているようには見えなかった。
哀れな少女を放っておけなかったのは鉄平と、再生屋の師匠―――与作も同様であったらしい。鉄平が面倒を見ることを条件に、滞在の許可が与えられた。
鉄平は少女の世話を甲斐甲斐しくも行った。初めは恐ろしいのだと距離を置いていた少女であったが、時間をかけてゆっくりとそれは解かされ、いつの間にか鉄平に触れられるまでになっていた。
恐る恐る手を伸ばし、抱っこをねだる少女は愛らしく、妹が出来たかのように鉄平も彼女を可愛がっていた。
――――彼女の正体を、知りながらも。それでも変わらず鉄平は彼女を加護し、大層可愛がっていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
錯乱する少女を一時でもその苦しみから救うために、与作と鉄平が施したのは“記憶の操作”だったのだ。
そして少女はその日から姿を消した。
彼女が鉄平のもとに戻ってくることは、なかった。
本能的に何か悟っていたのかもしれない。ここは再生所であり、鉄平も与作も再生屋だ。その任務内容を知れば逃げ出すのも無理はない。
再生屋。世界中の食を枯渇から守る食の救助隊、その仕事は食の保護に留まらず、全ての食に繋がる生物が絶滅の危機を迎えぬよう“危険生物”を隔離・排除する役目も担っている。
当時、少女だったリンが再生屋の職務を理解していたとは考えづらい。そして鉄平自身も再生屋としては未熟で、年齢もリンと大差はなかった。
リン自身、鉄平が自分に危害を加えるなどとは思いもしなかっただろう。
しかし、結果的にリンは記憶の操作という術を強制され、悟ったのだろう。ただでさえ、ここに来る前に己の所業に怯え責め、自分自身を見失っていたのだから、疑っても仕方のないことだったのだろう。
そう、彼女は間違いなく“危険生物”に該当するのだ。味覚を得た瞬間―――覚醒の瞬間に、それは確定してしまう。
こんな未来が来ることを師匠は知っていたに違いない。鉄平は深く溜息をつき、顔を覆う。
残された道はいずれも明るいものではない、ここにかくまったところでそれは、彼女にとっては監視であることに変わりはない。
こんなことになってしまうのならいっそ、歪みが生じる前だったあの頃に天寿を全うさせていた方が幸せだったのだろうか。
「……本当、難儀な事だよ」
遠い思い出だった。控えめに伸ばされた小さな手は純粋そのものだった。
過ぎ去る日と共に、心を溶かす変化が嬉しくて夢中になってその手を受け止め、身体を抱きしめてやった。
今はもう、それもきっと叶わない。
この手は、リンの首を絞めることしか出来なくなってしまった。その事実が悲しくて悲しくて、たまらなかった。
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あの人はとてもとても鋭い人だから、見なくていいものまで見てしまう人だから。
そして未来までも見てしまって、最善の選択をくれる。時にそれは、私の五体を締め付け苦しめる。
優しさが苦しいなどと思う日が来るなんて、貴方に会うまで知りませんでした。
ねっとりと舐めるように。時に密に絡まり蛇の様に。顔を傾け絡んだ腕に擦り寄る仕草は二番目の彼氏に教わった事。
引き寄せた腕に自慢の乳房を擦り付け、薄っすら口を開け、隙を見せる仕草は四番目の彼氏に教わった事。
ぺろり舌を舐め、赤く茹で上がった耳に唇を寄せる。少し息を吹きつけるように、か細く囁く、悪魔の言葉。
たった数十分で虜となった男は、鼻息荒く首を立てに振る。犬のようなその仕草に思わず蔑むような笑みが溢れ出たが、決して悟らせない。
にこりと妖艶に微笑んで、洗脳は完了した。絡んだ腕をそっと離し、去り際に念を押す。
「…手筈通りにお願いね。貴方が失敗しちゃうと私、死んじゃうんだから。ね、お願いね」
言い残してリンはそそくさとその部屋を後にする。男が何か叫んでいるが振り向きはしない。
急ぎ足で次の目的地へと進む。これは全て起動の手順だった。全てが上手く回らなければ、作戦は成功しない。
「…それにしても」
先ほどの板についた毒婦の振る舞いに苦笑する。ほんの数日前までクッキー一つ選ぶのに顔を赤らめた女の色など欠片も感じられない、下種な色だ。
とても寂しいことのはずなのに、胸を支配するのは妙な高揚だった。そして深く頷く。これが本性なのだと。
こうして男を渡り、操り、共存するのがお似合いな星巡りに生まれたのに、なぜあんな綺麗で温かい場所に留まったのか、身の程知らずにも程がある。
リンは自傷気味に笑った。今夜で別れを告げる、綺麗な男と綺麗なあの家に、平和をもたらすことが出来るのは、今は私だけ。元凶が己であるのにおかしな話だとは思うが、それでもそう思えば少し救われる気がしたのだ。
最後に訪れた屋敷を後にして、家へ帰る約束の木の下へと足を進ませる。
さあ、これで準備は整った。あとは、最後までいつも通りに振舞うだけ。
明日。目が覚めたら。
「ココさんは、きっと」
幸せな元通りの生活が待ってる。キッスと二人で、また美食屋の仕事を始めたらいい。
名残惜しげに話してくれた、彼の人生のフルコース。そのまだ埋まらぬメニューを探し、冒険を重ね、そして、見つければいい。出会えばいい。
「…ちゃんと正常な味覚を持った、料理人を、コンビに…パートナーに」
声が震えた。じわりと視界が滲んで、唇が痙攣する。
泣いてはいけない、普段どおり振舞わなければ気付かれてしまう。気を張って涙を押さえ込んで上を向く。
空は悲しいくらい晴れ渡り、透き通った風が流れていた。大丈夫、笑える。いつも通り、振舞える。
「(…大丈夫。ちゃんと、さよならできる)」
再度見上げた空に黒い影が見え、次第に羽音が周囲に響き渡る。
美しい漆黒の羽、毅然とした誇り高いその姿。見た目に恥じない知性ある仕草に、優しい瞳に。
「迎えに来てくれてありがとう、キッス。…さあ、お願いね」
高らかに声をあげ、空へ羽ばたく。
空の番長と呼ばれたエンペラークロウ・キッス。最後のフライトをひっそりとかみ締め、リンは空へと羽ばたいていった。