手無し娘
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09.恋心
崩壊してしまった幸せな食卓の夢が時折視界を過ぎ去り、目頭を熱くさせる。
現状とは気が遠くなるほどの落差が生じてしまった、その夢の場所は優しく、甘く、そして何よりも心を抉る恐ろしい夢であった。
綿菓子のような心躍る時間に癒されれば癒されるほど、その後に訪れる時間が苦痛となる。何度見れどもそれは決して変えられない過去の真実であったのだ。
伸ばした手を拒否されるのが怖い。
叩き落され行き場を無くしたのは手か、それとも心であったのだろうか。
生まれ落ちた事を苛忘れる事を許されない。幸せになる事を許さない。
そう言わんばかりに訪れ苛む悪夢に、ただただ時が過ぎるのを待つことしかできなかった。
重い瞼が開く。もったりとした瞼の鈍さは昨晩の涙を思い出させ、より目覚めを悪くさせる。
軽い音を立ててブランケットが落ちた。見覚えのない品に首を傾げる。
答えの出ぬまま、まだ薄暗い空を見上げてまどろんでいると、不意に外から床の軋む音が聞こえた。無意識に体が強張る。
足音は部屋の前でぴたりと止まり、続きドアを叩く音がした。
「…はい」
「ああよかった、起きていた」
足音の主はココだった。
この家には自分と彼しか住んでいないのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
ドアを隔てて、彼がいる。そう思うと更に心が沈むようなそんな重苦しさを感じずにはいられなかった。
昨晩、危うく醜い気持ちを爆発させかけたのだ。こちらの心の、重いの醜さの破片を晒し、迷惑をかけた。リンは少なからずそう感じている。
夢を、悪夢を見るほどに昨晩のシーンは、リンにとって大きな失態だった。今、ココの顔を正面から見る勇気はない。
けれども、こちらの思惑などお構いなしとばかりに、彼はドアを叩き入室を乞う。言わずもがな、家主は彼だ。抗う理由などどこにもない。
どんな視線を、言葉を投げられても、悲しんではならない、顔に出してはならない。
自分にきつく言い聞かせ、観念したようにリンは扉を開け、ココを迎え入れたのであった。
「おはよう」
「…お、はようございます」
「ああ、ブランケットは邪魔だったかい?」
するりと、ブランケットが攫われる。どうやらそれは彼がかけたもののようであった。
まさか、という驚きと疑問が交差して困惑となる。動揺が見て取れたのか、彼は苦笑しつつそれを片付けていた。
「…かけて、下さったのですか」
「うん、勝手に入らせてもらったよ。シーツ一枚で眠るには昨晩は少し冷えていたし」
「……、」
「ん?」
「…いえ、いいえ、何もありません」
慣れているとはいえ、昨晩は嫌な夢を見ていた。何か余計な言葉を口走っていたかもしれない。
尋ねようと開けられた口は、けれども勇気の押しが足りず閉じられるだけであった。沈黙が、痛い。
「昨日、君は食事をしていないからね。お腹がすいているだろう。…食べたくなくても食べなきゃいけない」
「そう、ですね。…後で、ゆっくり頂けたら、」
「いや…片付けもあるし、今一緒に食べよう。もう出来るから、支度が終わったら降りておいで」
「え、あの、ココさん…!」
遠ざかる音が聞こえた。初めて見るココの態度に、別の意味でリンの体中に困惑が走っている。
昨晩までのあの距離感は何だったのだろうかと、疑わざるを得ない、男の態度に気持ちの整理が追いつかないようだ。
好転だなどと、自分に都合よく考えるのは苦手だ。幸せの後には必ず落日が待っている。そう、過去が執拗に囁き制す。
知っている。あの男の優しさを。その慈悲深さを。そして、抑制の強さを。
「(可哀相な私を、放っておけなかった、それだけよ)」
そう言い聞かせなければ、希望を見出してしまいそうだった。
「やあ、もう出来ているよ」
身支度を整え足を進めた先に用意されていたのは紛れもない二人分の食事であった。
促されるまま席に着き、差し出された一つのカップには温かいスープがなみなみと注がれていた。食欲をそそる香りに強張った表情がほぐれる。
きっと、味は分からない。けれど、飲んでみたい。そう感じさせる料理だとリンは思った。
ふと、ココの方へと視線を向ければ、彼は不自然に固まっている。不思議に思い、眺めていると正気を取り戻したのか、他の料理をリンの前へと並べた。
何一つ疑問は解決しなかったが、リンはココの準備が終わるまでを見届け、食事の幕開けとなったのであった。
温かいスープだった。けれどやはりリンには味を感知することは出来なかった。
それでも、じわりと心に染み入るような温かさを湛えた食事がただ優しい。誰かが、料理は愛情なのだと言っていた。
愛情がどのように関わるのかは知ることは出来ないが、この並べられた食事全てにココの思いが込められているのだという事は伝わる気がした。
何を考え、彼が食事を共にしてくれているのかは分からない。ただの気まぐれなのかもしれない。
けれども、この時間はささくれた気持ちを埋めるのには十分すぎたように思う。温かい食卓だった。
不意に、涙が溢れて落ちた。
「ごめんなさい、違うんです、違うんです」
慌てて顔を逸らしたのだが、一度箍が外れた涙腺は留まることを知らず、クロスに染みを作る。
そんなリンを責めることなく、ココは言った。
「…昔を思い出したのかい」
やっぱり。と思った。
やはり昨晩自分は悪夢に魘され、かつてを懐かしみ、乞うていたのだ、と。
隠し切れない思いが溢れて、息が詰まるようだった。
あたたかい食事に、あたたかい食卓。
あたたかい気持ちに、己の醜さが許されてしまう気がして、許しを願ってしまう気がして、リンは小さく震えていた。
けれど、止めることは出来なかった。
「…あたたかかったの、ずっと、ずっと。続くんだって、思ってた。”美味しい”って魔法の言葉みたいで、口にすれば、みんなが笑って、幸せそうな顔になったんです。…言葉の、意味も、知らなかった、のに」
「うん」
「壊して、しまった。あんなに、あたたかかったのに。嘘をついて、壊してしまった」
「うん」
「こんな、顔なんか、身体なんか、いらないの、いらない、から。寒いだけなの。誰も、誰も」
誘惑なんかしていなかった。見捨てないでほしかった。あたたかい腕に包まれていたかった。手を、伸ばしたかった。
何一つ叶うことはなかったけれど、あきらめることも出来なかった、愚かな自分だけれど。
与えられた優しさが、たとえ哀れみから来ているのだとしても、今が幸せでならなかった。
「おいしいです、ほんとうに、とても……とっても」
リンは心からそう思った。
これが女の本質であるとすれば、なんて悲しいのだろうと男は思った。
純粋であるがゆえに他人を憎む事を出来ず、己を責めて責めて、己の長所であった優しさを落としていたのだとすれば、それが悲しくて仕方がない。
女の生き様は万人に受け入れられるものでは決してなかっただろう。
それでも傷を作り生き抜いたその魂は、器の美しさなど関係ない。強く強く噛み締める。
「(気付けてよかった)」
本当は、もしかしたら、この姿さえも術の一つなのかと疑わなかったわけではない。けれども、ココは信じていたいとそう思った。
「これからは、食事は二人で採ろう。…一人は、味気ないから」
リンの目が間開かれた。
その眼には希望は見当たらず、不安気に揺れ、眉が下がっている。明らかなる怯えの表情だった。
気付かぬ内にこれほどまでに怯えさせてしまっていたのか、とココは再度苦笑したが、引き下がることなく今後の約束を取り付ける。
少しずつで構わない。信頼を取り戻していけたらそれでいい。硬く握った拳と心と。
ココは、今度こそ本心から笑うことが出来たのだった。
疑心暗鬼に駆られるままココと食事を共にするようになり、幾日、幾週が過ぎていった。
時を重ねる毎に二人の間に流れる空気は和らいでいき、今では他愛無い会話を楽しめる程度にまで回復していた。
ココが笑えばリンは顔を赤くし俯き、リンが微笑めばココは照れくさそうに顔を逸らした。微笑ましい食卓がそこにはあった。
味覚がないというハンディキャップが、どれほど彼女を苛み生きる幅を狭めてきたのか、食事を通して得た会話で幾度も体感させられた。
その度に顔を歪め悲しげに笑うリンを見ると、複雑な思いが心に芽生えている事をココはもう否定することが出来なくなっていた。
それでも、それに気付きなお踏み出すことが出来ないのは己の忌々しい身体のせいだ。重い枷が幸せを遠ざけてしまう。
少し考えて、ココは静かに考える事を放棄する。
初めから分かり切っていた事であり、望んだとてどうにかなる問題ではない。
それより今は刹那のこの時を噛みしめればいい。これも、永遠に続く事は、ないのだから。
まともに行き先も告げられぬまま連れてこられたのは広大な広場だった。
その中心に一つ、いや、一軒の…家が建てられている。言葉に迷うのはその姿が全てお菓子で出来ているからだ。
風で飛ばさぬよう、キッスは家から離れた場所に着地したのだが、その地点まで甘い香りが漂うその体積に戦慄する。
蟻とか大丈夫なのか、いやそれ以前にお菓子の家って。
色々と突っ込みが追いつかないリンをよそに、ココは気にした様子もなくその家へと近づいていく。後を追うしかなかった。
近くに寄れば寄るほどその大きさに圧倒される。見上げれば頂が見えないほどの大豪邸だ。
チョコレートからクッキー、キャンディなど馴染みあるものから、見知らぬ菓子まで、あらゆる菓子類の甘い香りがダイレクトに漂ってくる。
ここ、本当に人が住んでんのか。
初めて見た瞬間はその可愛らしさに華やかな気持ちになったが、現実的な目で見ればこの光景は異様以外の何物でもない。
明らかにげっそりした様子のリンにココは笑い、ドアをノックし、住人を呼んだ。
これから起こりうる光景はおそらく目をそむけたくなるものばかりだろう。何があっても動揺すまい。
そう心に決めたリンは、ドアを叩いたココの手にねっとりとチョコレートが付着していたのを見て見ぬふりをしたのだった。
どこもかしこも甘ったるい香りで充満していた。
住人に促されるまま席に着いたのだが、入室前に覚悟を決めておいてよかったとリンは心底思った。
菓子で埋め尽くされていたのは概観のみに留まらず、内装、家具に至るまで全ての材料が菓子で出来ているらしい。
これしきの事で驚いてなるものか、と変な意地があったのだが、茶菓子に、と大量の菓子盛り合わせとココアが出てきたときは正直泣きそうになった。
「しっかし驚いたぜ、ココが同居人の存在を許すなんて思ってもなかったからな!」
豪快に笑う男――――この屋敷の主人、トリコが言う。青い髪をたてがみのように靡かせ、からからと笑う姿はどこか獣染みた野生を彷彿とさせる。
表裏のない正直な人柄が見て取れるが、如何せんその強面と巨体が玉に瑕である。
また、先日のセンチュリースープ実食会にてトリコに触れられた事もあり、リンはやや警戒気味に構えていた。
そんなリンの姿を緊張だと取ったココがフォローを入れるが、その表情は簡単には晴れず、たわいない話にも遠慮がちに微笑むばかりであった。
トリコとココは美食屋であり、その肩書きに四天王というそうそうたるものを携えている。
リンにとってはその肩書きの高名加減を量りかねているのが事実だ。実際、目の前で交わされている会話についていくことが出来ない。
頭上を飛び交う食の話題は、慣れているとはいえ取り残されたような、寂しい気持ちを呼び起こすには十分で、次第にリンは相槌を打つこともなくなっていく。
けれどもそれとは対照的に、ココの表情は晴れやかであった。
普段、リンと二人でいる時には決して見せない、素のままの表情―――無邪気な笑顔がそこにはあった。
知己であるトリコと己では会話レベルや興味の対象が異なるのは当たり前で、それを寂しいだなどと思う方がおかしい。
そう言い聞かせてはいるが、それでも胸がざわめいては悲しいと、声にならぬ声で告げている。
「(寂しい、だなんて)」
ふと、自分の心に問いかけた。なぜそんな風に思うのだろうかと。
あれほど言い聞かせ、納得したのだ。ココが優しいのは彼の優しさと、私を見捨てる選択肢を良心が咎めたからであって、それ以外の理由などないと。
触れるな、と言われたのが確かな証拠であった。実際、徐々に気を許してくれているとはいうものの、触れる許可だけは頑なに拒否され続けている。
変な期待など、してはいけないのだ。あの温かそうな腕に包まれたら、などと、叶わない夢ほど惨めなものはない。
けれど、夢見るくらいは自由だろうと悪魔のような囁きがやまない。
いっそ、冷たくあしらわれているままでもよかったのだ、と贅沢な言い分が首をもたげて意識を苛む。
けれど、許されるのであれば。そこまで考えて、リンははっとする。
「(……ああ、これが)」
まるで掴み潰されるように痛む心臓やちりちりと焦げる目の奥、煩く脈打つ体中の血管。
胸へ手をやれど外傷などどこにもないし、体中を巡る熱が収まるわけでもない。
歓喜に震えたその顔は恐ろしいほど華やかに、艶やかに輝き魅了する。
甘い香りの中でひっそりと女は震えた。それは、幾人と交わり渡った女にとって信じがたくも、生まれて始めての恋の味であった。
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家の中に篭っていては退屈だろうという気遣いからの外出だった。
リンへの接し方を変えると決めた日から、少しずつではあったが二人の関係は穏やかなものへと変化を遂げつつある。
しかし、取り巻く環境が変わったからといって彼女の体質が変わるわけではない。街へ一歩繰り出せば男達の視線は彼女に注がれ注目の的となる。
ココが隣に立っているため声をかけようとする猛者はなかったものの、一瞬でも一人の時間を作ろうものならば女はあっという間に姿を消してしまっただろう。
そこまで考えて、己の変化に苦笑する。ただの同居人でしかなかったのだ。そしてその立ち位置は今でも変わらない。
それでも、男の心には女の為のスペースが存在していた。それは決して欠けてはならないと思わせるまでに意味を成してしまったのだ。
約束を取り付けたのは己だった。
女はいつか必ず巣立ちを迎える。
それが1日でも遅くあればいいと願わずにいられない己の女々しさに頭を抱えた。
男の中には問題が幾重にも層を作り、容易に足を踏み出せぬ立場を作り出している。
それが意地や建前で出来ているものならばよかった。しかし、男を取り巻く問題は決定的な欠陥を含んでおり、男を悩ませる。
―――――僕が毒人間でなかったのならば。寂しさをひた隠すあの人を包み、癒すことも出来たのだろう。
愛おしい。その気持ちだけが溢れて止めることが出来ない。それなのに。
続く言葉はいつも同じだ。けれどどうすることも出来ないジレンマに押しつぶされてしまいそうだ。
せめてもっと笑ってほしい、僕といた時間が彼女にとって安らぐ時間であったと。過去にしかなれなくてもいい。この先に隣にあるのが自分でなくてもいい。ただ、彼女の心の片隅に残る光る記憶として留まれたのならば。
「…さん、…コさん」
出口のない思考から呼び戻す声で意識が覚める。目の前にはこちらを伺う女の姿があった。思わず微笑む。
「…ああ、すまない。少し考え事をしていてね。…もう、支度は済んだ?」
「はい、問題ありません。…もしかして、お疲れですか」
「そんなことはないよ。じゃあ、帰ろうか」
ぐるぐると渦巻く自分勝手な感情を伝えたいわけではない。みっともない懇願をするような、そんな器の小さな男だと思われたくない。
ただでさえ人の感情の変化を細かく捉える彼女に、変な動揺や接し方は却って悪い結果を招くことになるという事はすでに身を持って体験している。
手短に会話を済ませ、キッスの背に乗り飛び立ったのだった。
「今日は、気分転換になったかい?」
「あ、はい。…それで、連れてきて下さったのですか」
「うん、あの家は殺風景…というか、必要最低限しか揃えていないから娯楽がないだろう。少しでも気分転換になればいいと思ってね」
「トリコさんは少し怖い方でしたけど、とても豪快で、素敵な方ですね。楽しかったです」
「…そう、よかった」
地平線の彼方へと太陽が沈み、辺りに星の輝きが満ちていくのを見送りながらキッスは帰途を急ぎ進む。
ココは見慣れた空を眺めながら、心を落ち着かせる。
友人の名を読んだだけのその仕草さえ胸を妬かし苦しむが、それよりも苛むのは己が心の狭さだ。
ちりりと焦げる胸の片隅に気付けども、ココはただひたすら見て見ぬふりをする事しか出来なかった。
「では、行ってきます」
華やかな声がそう告げれば、程なくこの家は静けさを増す。ココは飛び立つ相棒とリンを見届けると、マントを翻し中へと戻った。
ぎくしゃくとした関係が改善されるのに比例し、室内には華やかさが増していく。
もともと責任感が強かったらしい彼女は、慣れぬ動きではあったが食事以外の家事を健気にこなし、生活を支えている。
男に軟禁まがいの生活を強いられてきた彼女に、最新鋭ではないこの家の設備には苦労の連続であったが、持ち前の努力で今では殆どの家事を的確にこなすまでになっていた。
そして家事の一通りを片づけた彼女は、今度は職を探すため街へと飛び立っていく。
その背を見届けては複雑な思いが胸の内でざわめく。
けれどもココは静かに首を振り、繰り返す後ろ向きの考えから意識を逸らした。
気分転換とばかりに、棚からティーセットを取り出し支度をする。
己の足で踏み出す彼女に出来る事と言えば、何もないのだ。ならばせめてこの家にいる間だけは、幸せな気持ちで過ごせるように。
「(…何か、甘い物を)」
作るばかりではなく、たまには狩ってもいいだろう。
たとえ味が分からなくても彼女ならばきっと、この気持ちを汲み取ってもらえるはずだ。
答えに行き着けば自然と唇が弧を描く。
食べるために狩るのは久しぶりだ。ココは高鳴る胸を沈めつつ、相棒キッスの帰りを待つ事となった。
賑やかな街の風景と相反するように、とぼとぼと力なく女は歩いていた。
恋を自覚してからというもの、ただ共に生活しているというだけで処々の細かな事が気になって仕方がなくなってしまう。
ココからの拒絶に泣き崩れ嘆いていた時間が、その心配が失われたばかりにぽっかりと空いてしまって行き場がない。
ぼんやりと時間を過ごすのが苦手で、強引に家事などを始めてはみたものの、回数を重ねれば腕があがるのも当然で、今では効率よくこなせるまでに成長した。
しかし、再び時間を持て余すことになってしまうのだ。
時間があると余計な事を考えてしまう。自分の事、過去の事、体の事、ココの事。そして、これからの事。
歩み寄る。その言葉を耳障りのいい言葉だと決め付け、距離を置き、素直に受け止めることが出来ない己の心を諌めるが、見えない不透明な未来が何より怖い。
素直に言葉を受け止めたとて、果たして未来は望む華やかさを手に入れるのだろうか。気持ちが自然と降下していく。
そんな確実な断言などできはしないのだ。答えは出ている…そしてそうして自分を納得させ、未来への可能性を踏み潰していることにも。
人とは欲張りなもので一つ手に入れてしまえば、次を、そして質を求め始めてしまう。
すっかり板についてしまった思考の雲散を行う。はらりと髪が揺れた。
考えても答えは出ない。全ては時が赴くままに。何度言い聞かせても直らない考え癖に、後ろ向きな逃避方法。
そんな自分が嫌いでならなかった。
ふと甘い香りが鼻腔をくすぐる。香りを頼りに周囲を散策すれば、曲がった角の先に小さな洋菓子店がリンを出迎えた。
軒先に置かれた小さなボードには、可愛らしい手書き文字で“週末のみのクッキー屋さん”と書かれている。
改めて見返すと確かに、洋菓子店というにはやや小規模な構い気のない佇まいだ。
けれどもガラス越しに見える店内の籠の中にはこんもりと盛られたさまざまな種類のクッキーが見える。
ドライフルーツでめかしこんだおしゃまな搾り出し、幾何学的なアイスボックス、ころりと転がるスノーボールなど、知り得ている範囲だけでも数種類はありそうなラインナップだ。
「(…ココさん、好きかな)」
リンがココの家に身を置くようになってから、昼過ぎに茶を口にする習慣ができた。
言わずもがなリンにはその必要性など感じられなかったが、それでも用意される茶に口付けるのを日課にしている内に定着したらしい。
今ではそれが無いとどこかもの足りない気持ちになることもあるほどだ。
味覚の無い自分に変な遠慮をすることもなく、その日の茶葉の詳細まで伝えてくれるささやかな気遣いに感謝していた。
ならばせめて、と茶菓子くらい添えてもいいのではないかという気持ちに行きついたのだが、肝心の味が分からなければ選ぶ事も出来ない。
リンは洋菓子店の前で立ち尽くしていた。
「(…味覚が、あったら)」
知識でしかない「食材と食材とのマリアージュ」というものを理解し、差し出される茶を引き立てる菓子を選ぶ事が出来たのだろうか。
自信を持って、胸を張って、ココを好きだと言えたのだろうか。
美食屋―――――その職業が酷く恨めしかった。
そうしてしばらく難しい顔で立っていた為だろうか。目の前の人間に気が付かず驚く。
冴えた面前にはやわらかく微笑む女性があった。粉に汚れたエプロンを払いながらこちらを窺っている。
事情を説明すると、女性は嬉しそうに微笑み、山盛りのクッキーの山からいくつかのクッキーを取り出しカゴに入れていく。
伝えたのは紅茶の品種だった。
「これが、これ、これが、これに合うはずです」
選び終えたらしいクッキーを小分けに包み、店員の女性が説明を行う。
その声は喜色に彩られており、微笑む頬に紅が差している。魅力的な表情だった。
簡単な説明書きを添えたメモを受け取り、支払いを済ませ立ち去るその時、ふいに声をかけられた。
「大切な人へのおつかいだと嬉しいのですが、違いますか?」
どきりと胸が鳴ると同時に、カッと頬に熱が集まった。
見透かされるのは苦手だ。感情丸出しなのであろう今の自分の表情を読み取られたのが恥ずかしい。
恐る恐る店員を振り返ったが、彼女はさして変わる様子もなく、笑顔のままでそこにあった。
「あ、ごめんなさい。失礼な事をお聞きしましたか?…いえね、とても可愛らしい笑顔で受け取って下さったものですから。大切な方と食べてもらえるのかと思って」
恥ずかしさで顔が更に赤くなったのは言うまでもなかった。
ぷちり、と小さく音を立て樹液が散る。同時に甘い香りが周囲に広がった。
手に抱えた籠にはすでにいくつかの食材が入っている。色鮮やかな食材達はどれも茶請けとして愛されている食材だった。
食べられる物を食べきれる量で。という考えは悪友の教えだ。浮かれ、採りすぎになりそうな心を抑える。
捕獲レベルは1にも満たないような自然の食材。それでもこうして現地に赴き自らの手で確保し、食す。
長く美食屋と言う仕事から離れ、錆ついていたその気持ちを取り戻すきかっけとなったのはトリコと小松の依頼だったフグ鯨の捕獲の一件であったが、いざこうして人の為に狩りに出ると言う事の喜びは格別だ。
そう思わせてくれる存在が、彼女の存在が今はただ甘い。
大男が抱くには些か不釣り合いな、綺麗すぎるその感情に戸惑う。
けれども胸の内に広がる彼女への恋慕は日に日に増すばかりで、今やもう理屈などで抑えることなど出来なくなっていた。
どろりと指先に感じるのは毒の存在だ。警戒を解いてしまえば溶け滴る猛毒の滴が自分の正体で。それを決して忘れたわけではない。
人を避け身を隠し生きていく事に変わりはない。忘れる事も出来ない。
こんな、おぞましい身の男だけれど、どうか受け入れてほしい。
だらりと落とされた両腕の先で朽ちる地面が煮え立つ。陰る陽と共に去り行く温度がただ冷たかった。