手無し娘
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04.実食
時折自分が自分でないような不思議な感覚に襲われる。それは何よりも耐え難い恐怖の時間だった。
誰だったか、手を伸ばしたのは。誰だったか、手を振り上げたのは。
閉じた“蓋”は、まだ、開かない。
「僕は忠告したはずだけど?」
冷ややかに放られるココの声が届く。
そんな程度で怯むわけでもないのだが、一方的に決め付けられるのは面白くない。
視る事ができるココにとって、視えたそれが真実であるのは分からなくもないとは理解はしている。
「んだよ、人がせっかく」
「残念だけど、僕はサニーほどあの子に興味はないし、できる事なら関わりたくないんだ」
「別に関われなんて言ってねーし。ちょっと可愛い弟分の話くらい聞いてやってもよくね?」
誰がかわいい弟分だ。ココは盛大にため息をついた。
あの子、とは先日トリコとの待ち合わせで偶然出会った女性だ。名前をリンと名乗っていた。
容姿に優れた美しい女性で、物腰も柔らかく気立て良く、悪い印象のない魅力的な女性ではあった。
しかし、同じ場を共有し、話を交わすごとに感じたのは言葉にできない違和感だった。
それは今でもココの胸に引っかかっている。どれだけ目を凝らして見ても視えなかった謎の影の正体。
それが、気にならないといえば嘘である。それだけは認めざるを得なかった。
「…で?僕に伝えたいのは何だい?サニー」
「前の予知、多分一つは当たってるぜ。完全な確証はないけど」
「…やはりそうか。それは…気の毒だな」
「そこで、前に頼みがあんだけど」
「内容は、分かった。………だが、それをすることに何の意味があるんだ」
答えは出たのだ。そしてそれを得たからといって、彼女の生活にも己の生活にも何か変化があるわけではない。
ただ日常のふとした疑問が解決しただけの、それだけの話でしかない。
それなのに、男はさらにそれに確信を追い求める。
「そんなに、彼女が気に入ったのか?全てを手に入れないと気がすまないのか?」
「んなんじゃねーし。ただ、なんか、」
その先をサニーが続けることはなかった。
しばらくの沈黙が続いた後、もう一度大きなため息をつき、ココが伝書の支度を始めた。
「…小松君に頼んでみるよ。連絡先は彼女でいいのか?」
ぱあ、と明るくなったサニーを見て、どこか安心する自分はやはり根っからの年長者気質だ。
悔しいがこればかりは自分でもどうすることもできないのだろうな、と諦めたように肩をすくめると
小松へ連絡を取るべく、ココは筆を走らせたのであった。
「“センチュリースープが完成したら、飲ませたい人がいる”」と。
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女々しい男だった。
男はそれを恥じていたのか、常に小奇麗な服を身にまとい眉間に皺を寄せ、徹底した誠実振りを貼り付けていた。
一目見て虚勢だと見抜いてしまった。それが悪かったのかもしれなかった。
甘えを許してしまったのだろう。赦しを与えてしまったのだろう“私の前ではありのままでいてもいい”のだと。
手に入れた許される場所を手放したくないと、次第に男の凶暴性が表に出るようになり、
気づけば周囲を蹴落としてでも自己防衛を優先するようになってしまった。
近づく男は誰一人許さないと地位と権力を利用し、邪魔者を排除し続けた男の周囲にいた人々は次々と離れ、
皆が口をそろえて罵った。
毒婦に狂わされた男、だと。
やがて周囲を排除しきった男は、過剰に研ぎ澄まされた五感による防衛の刃をリンへと向けるようになった。
「…う、」
体中の節という節がぎちぎちと悲鳴をあげるようだ。指ひとつ動かすのさえ痛みを伴う。
選択を誤った、とリンは思った。たとえ反対されたとしてもサニーと出かけることを話すべきだったのだ。
逃げ出したサニーとの会食。
掻き乱された酷い精神状態で、やっとの思いで駆け込んだ砦の中には今一番会いたくない人物が待ち受けていた。
僅かに残った気力で対応しようと顔を上げた瞬間、リンは男にその場に張り倒された。
肉体的にも精神的にも疲労困憊だった体に、その衝撃は受け切れなかったらしい。
薄れいく視界の端に映ったのは嫉妬に歪んだ恋人の顔と、微かに届いた憎悪の叫び。
ああ、どんどん堕ちていく………。もう、終わりなのかもしれない。
「(君の病気は私が、きっと)」
そう言って柔らかく微笑んだ彼は、もういない。かつて交わしたあの記憶が、ただただ遠く、悲しかった。
軋む体を奮い立たせ、起き上がる。鈍痛が走る手首を見れば真っ赤に腫れあがっていた。
無論、それだけではなく全身に噛み跡や掠り傷があるのを見ると随分と手酷く扱われたらしい。
男を受け入れた場所もズキズキと痛む。これにはさすがに恨み言の一つでも言ってやろうと、隣へと体を向けた。
男は小さく丸まり、身を守るかのように両腕でその体を包み込み、眠っていた。
「(涙の、跡…この人はいつも、そう)」
泣くくらいならば、後悔するくらいならば、いっそ。そう願わずにはいられない。
「(衰弱は激しい、この人も、もって、あと)」
男の弱弱しい姿を眼に映し、怒りはすっかり失われていた。代わりに芽生えたのは哀れみだった。
リンは静かに首を振る。哀れみなど不要だ、この人は幸せだった。
もう一度軽く首を振り、思考を振り払うとリンはベット脇に置かれた一枚の手紙を手に取り、男を揺さぶる。
「…起きて下さいな、今日は小松シェフからのご招待の日ですよ」
たったこれだけの動きで全身が痛む。泣き出したいのはこちらも同じだった。
ーーーーーーーーーー
身支度を整え、自宅を後にしたのは予定時間よりも1時間ほど後の事であった。
男が車を飛ばす。今からどれだけ急いだところで、約束の時間には間に合わない。
恋人と、小松シェフなる人物とどのような接点があるのかは知らないが、聞くところによると今をときめくホテルグルメの料理長らしい。
一方恋人は医療関係では知る人ぞ知る名医者だと聞いている。その辺りの縁かコネ…で呼ばれただろう事は想像がついた。
どうであれ、こちらとしては初対面なのだ。第一印象を悪くしたくないのだが、今更足?いたところで結果が見えている。
リンは焦る気持ちを抑えつつ、助手席から外を眺めていた。
「(どうせ、行ったところで意味なんてないのだし)」
高速で走り抜ける街の風景がいつも以上に色なく感じられた。
しばらく飛ばしてようやくホテルに着いたときには、約束の時間から半刻ほど経過していた。
ホテルロビーの上質な真紅の絨毯の上に群がるのは、噂を聞きつけ集まった一般客とマスコミだ。
ごった返しという表現がこれほど似合う場はないだろう。収まりきらない来客に、ホテル従業員がせわしなく誘導をしていた。
そんな連中を尻目に、招待状をかざし、優雅にリンと恋人は指定階へ向かうエレベーターに乗り込み上を目指した。
「すごい人ですね」
「時の人な小松シェフが新作を…しかもあの美食人間国宝、節乃のフルコースの一つ…“センチュリースープ”だというのだから、
注目しないほうがおかしいだろう。…なぜ私達が招待されたのかまったく分からないが」
「…え? 小松さんとあなたは知り合いではないの?」
「小松」その男の名を口にした瞬間、男の目元がぴくりと動くのをリンは逃さなかった。慌てて訂正をする。
「私はてっきり、シェフとあなたが知り合いで…それで招待されたとばかり思っていたわ。違うの?」
「面識はない。テレビや噂で知っているくらいだ。…まさか、お前」
「ち、違うわ、私も面識なんてないもの!知ってるでしょう、私が最近連絡を取ったのはサ…あの、美食屋だけよ」
「…お前はすぐに都合の悪い男の存在を隠すからな」
「そんな…」
「ああ、でも、料理人がお前と知り合うことなんてないな。ありえない。ははっ、そうだ、ありえない、そうだろう?リン」
「…………」
言い返す言葉はなかった。下唇を噛み、悔しさがにじむ顔を見せたくなくて顔をそらした。
しかし、それを許さないといわんばかりに、男が顎を持ち上げ無理やり顔を合わせさせられる。
痛みに歪むリンとは対照的に、その顔に浮かぶのは愉悦。
「お前は私の力が必要だ。…そんな顔しても誘っているようにしか見えんぞ」
「…冗談。意識のない私をあれだけ貪っておいてよくも」
売り言葉に買い言葉。ギスギスとしたやりとりが解かれることのないまま、エレベーターの扉が開く。
集まっていた招待客が一斉にこちらを向いた。こちらは顎を持ち上げられた、屈辱的な姿だ。さっと、頬が熱を持つ。
ぱん、と男の手をはたき、拘束を解いた。そのまま勢いで外に出ようと頭を返したのだが、
「…っ!」
引き戻され、押し付けるようなキスをされた。まるで、集まった客に見せ付けるかのように。
「いい加減に…っ、」
「ひゅーひゅーお熱いじゃねーかーカップルさんよぉ」
「ひっ!」
拘束を振り払った先に広がっていたのは鼻腔を刺激する芳しい香り、鮮やかな色彩の美しいオーロラ。
…そしてだらしなく鼻の下を伸ばした招待客の群れだった。
「な、なんなの…」
「皆センチュリースープを飲んだんだよ」
「! ココさ…………ん?」
「………。おっと、すまない。失礼、見苦しい姿を見せたね」
先ほど茶化してきた青い髪の大男とまではいかないが、だらしなく歪ませた顔で現れたのはココだった。
あまりにも前回と異なるその表情に、確信が持てず疑問系になってしまったがどうやら彼で間違いないらしい。
恥ずかしそうに咳払いをして、再び顔を合わせたときには以前の綺麗なあの顔に戻っていた。
以前会った時と変わらない涼やかな視線に射抜かれ、胸が微かにざわめく。
記憶と寸分変わらない、やはり彼はいい男だ。
そんなリンの変化を目ざとく嗅ぎ取った男はすかさず二人の間に割って入り、ココから隠すようにリンを背に隠した。
その目はギラギラと怪しく光り、あからさまな敵意を向け、威嚇している。
「この女に近寄るな!なんなんだ馴れ馴れしい…! リンお前、まだ男を隠していたのか!」
「ちょっ…」
ぎゃあぎゃあと男の癇癪が始まる。周囲はスープに夢中になっているのか、あまりこちらに視線を向けられないのが幸いだ。
それでもこんな席で騒ぎだなどと場違いにも限度というものがある。
リンは男を諌めるべく片手を振り上げたが、部屋の奥より飛んできた静止の言葉で振りとどまった。
声の飛んできた先を見れば、現れたのは白いコック服を纏った小柄な男性。凛とした声で続けた。
「ち、痴話喧嘩ならロビーでお願いします。失礼ですが今のお客様のご様子では、他の方のご迷惑になりかねません。
…申し訳ありませんがお客様には別室でお出ししますから、あちらの部屋にてお待ちください」
丁寧な対応だが問答無用で言い放つと、コック服の男は目配せをし、男をフロアから退場させた。
見苦しく捨て台詞を吐き続ける男に、リンは恥ずかしさで顔を赤くする。
居た堪れず、足早に男の向かう先へ着いていこうとしたリンを、コック服の男が止めた。
「あ、あなたはいいんですよ、だって招待されたのは…」
「え?」
「ですよね?ココさん!」
「ああ」
コック服の男は親しげにココと話している。この親しげな様子と、先ほどの権限を考えれば行き着く答えは一つだった。
「あなたが…小松シェフですか?」
「はいそうです!今日の事は、サニーさんとココさんから話は聞いています。あなたがリンさんですよね?」
「ココさん?」
「小松君のセンチュリースープが完成したら、ぜひ君にも食べさせてやってほしいって、サニーに頼まれたんだよ」
「…はあ」
絶体絶命とはこのことを言うのかもしれない。引きつる頬を止めることができない。
余計な事を、とサニーを恨めど当の本人はここにはいないようであった。
状況を上手く処理しきれないリンの姿を、困惑ととった小松は丁寧にその経緯を話し始めた。
美食屋四天王と呼ばれる美食屋界のカリスマがいる。以前、その一人であるサニーが話していた存在だ。
その一人であるトリコという男が、幻のセンチュリースープという食材を手に入れたと。
正確には、小松シェフがその味を再現し、新たなるセンチュリースープを作り出したらしい。
美しいオーロラが立ち上がり、口にしたものは至福の笑みを零すという幻のスープ…。
「ぜひ、リンさんにも召し上がって頂きたいです!」
「…あ、でも、そんな貴重なものを…頂くわけには」
きらきらと輝く小松の瞳には損得や、立場であるとか濁った感情は一片も見当たらない。
ただ純粋に、まっすぐ。料理人として客へ美味しいものを提供したいというその気持ちしか見つけられなかった。
「…私はここに集まった皆さんのように、それが完成されるまでに何か役に立ったわけでもありません。頂くとすれば、ロビーにいる一般客と同じ、きちんと手順を踏んで頂くべき立場…きゃっ」
「おいおいねえちゃんそんな固い事言うなって。見たろ?この綺麗なオーロラに芳醇な香り!それをいち早く飲めるチャンスなんだぜ?自分の幸運に素直に感謝して食っとけって!小松!俺もおかわり!」
「わ…っ、私に触れては…」
肩に圧し掛かる圧倒的な質量。青い髪の大柄な男がだらしのない顔でもたれ掛かっている。
馴れ馴れしいこの男の正体は気になるが、それより今は触れられる背と肩が凍るように冷たい。今すぐに、離れて欲しい。
軽く身を捩り拒否を表すが、リンの抵抗など男を動かすに至らず、男はでれでれと顔を蕩けさせもたれ掛かっている。
どうやらスープの事で頭が一杯らしい。
お願い、気づいて、離して、と声にならない叫びは包まれる手の温かさに一層大きさを増した。
「…っ、触っては、わたし、は…っ」
「心配しなくても大丈夫です、落ち着いたら表情はすぐに戻ります。それに、トリコさんの言うとおりです!あのサニーさんがわざわざ連絡までしてあなたにスープを飲んで欲しいと仰ったんですから、これも何かの縁なんですよ。それに…」
小松が言葉を続けているが、もう耳には入ってこなかった。心臓がバクバクと音を上げ、視界が脈打つようだ。
どうして分かってくれないの、離して、お願い離して、私は、私は。
決して声にならない言葉があふれて、喉がヒューヒューと渇いた音を鳴らす。額には脂汗。
目尻に溜まった水分が、零れ落ちる寸前だった。ココが、男を引き剥がした。
「トリコ、彼女が困っているだろう。離してやれ。…まったくお前は――――」
遠くでココの小言が聞こえた。今のうちに、持ち直したいと思えど、手がみっともなく震えている。
動揺を見られたくなくて、リンは必死に己を包み込んだ。
小松が怪訝そうにこちらを見ているが、適当に理由を付けて受け流す。
大丈夫、大丈夫。何度も言い聞かせて、平常心を取り戻した。
結局、小松やトリコの押しに負ける形でリンはスープを食すことになったのだった。
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「(あの人が言っていた、刺激を与えることもきっと必要だと)」
目の前に広がる純白のテーブルクロスが酷く眩しい。
先ほどの取り乱した姿を見たからか、気を利かせた小松がリンのために臨時で用意した小さなテーブル席に案内され、スープを待っている。
右にトリコ、その次にココが並び、二人は口々に初めてスープを口にした時の感想を述べていた。
リンはというと、ただひたすら不安に支配されている。刺激が必要だと、そう言った恋人の言葉を繰り返しかみ締め奮った。
「来たぞ!」
トリコの言葉に弾かれたように顔を上げる。目の前に置かれた、白い皿には何もない。
リンの表情から何かを読み取ったのか、ココが言った。
「センチュリースープは透明度が高くて目で追えない。でも、そこにあるよ…ほら、上を見れば分かる」
「…オーロラ。…それに、とてもいい香り…」
いまだかつて見たことのない現象だった。食品がオーロラを発生させるだなどと、聞いたこともない。
それだけこの料理が特別だと言うのならば、もしかしたら。もしかしたら。
心臓がけたたましく鳴る。先ほどとは違う、期待に満ち溢れて。
「…いただきます」
見えないスープをすくい、口へ。こくん、と小さくのどを鳴らし、飲み込んだ。
「――――――――」
ぽたり、
「リン…さん…?」
ぽたり、ぽたり。
「…ごめんなさい、わたし、すこし、ごめんなさい、ごめんなさい」
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
なぜ期待なんてしたのだろう。答えなんて初めから分かりきっていたことなのに。
何に期待をしたのだろう。紛れもない、恋人のあの言葉だ。
止める言葉も聞かず、リンはテーブルから逃げ出した。
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「…どういう、ことでしょう……あのスープを飲んで、泣き出すなんて」
「………何か知ってるって顔だな、ココ」
トリコに指摘され、ココはばつが悪そうに眉をひそめた。こうなることは予測済みだ。ただ、実際に見た後味は最悪だ。
ここにいないサニーを恨むが、引き受けたのは紛れもなく自分。責任は自分にもある。軽く息を吐き、ココはトリコに向き合った。
「試したんだ。気になることがあって…予想は、的中してしまったけれど」
「予想?」
ココが頷く。言葉に少し悩んだ後、小さく呟いた。
「彼女には、味覚が存在しない」
二人が息を飲んだのが分かった。日常生活に関わる“食べること”に対する割合は日々上昇を続けていた。
経済の発展よりも先に目覚しく成長を遂げる“食の概念”。食べることとはこの世界では息をする事に等しい、そういっても過言ではない。
その中で味覚を欠いたまま生きるということがどれだけのハンディキャップなのか、トリコも小松も想像することができない。
ただ言えるのは味覚がなかったら、今の自分達はここに存在していない。
美食屋のトリコにとって、料理人の小松にとって、それは酷く恐ろしいことだと思った。
「…ごめん、少し席を外す」
言葉が見つからない。立ち尽くす二人にココはそれだけ言い放つと足早に席を立ち、部屋を後にした。
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美しいオーロラだった。それはエレベーターでフロアロビーに到着した瞬間から一帯に充満していた。
そして食欲をそそる芳醇な香り、人々の幸せそうな笑顔。どれも今まで数多くの料理を試した自分でも見たことのない光景だった。
たった一杯のスープ。それだけでこんなにも人を幸せな気持ちにしてしまう料理ならば、もしかしたら、
もしかしたら自分にも味が分かるのではないか、などと期待を持ってしまうほどに。
すれ違う招待客が不審な目でこちらを見るのが分かる。見知った顔が視界の端に映った気がしたが止まらず走り抜ける。
はしたなく取り乱し、涙を晒す見苦しい自分。それでも今はただ、泣きながら逃げ続けることしかできなかった。
ひとしきり走って、行き着いたのは隅に作られた喫煙コーナー。周りには誰もいない。
事切れたように、膝を折りその場に崩れ落ちる。絶望が身を支配していた。
「…………っ」
リンは縮こまって子供のように泣いた。なぜ自分はこんな時代に生まれたのだろう。
味覚さえあったなら、グルメ時代などなかったなら。行き場のない憤りが腕に爪を立てる。責められるのは自分だけだった。
なぜ、味覚を持って生まれてこなかったのだろう。なぜ、違う時代に生まれてこなかったのだろう。
人々が羨むこの美貌と引き換えに味覚を与えられなかったのならば、恨むのは神か産み落とした両親か。
食い込む爪より、決して救済の道ない現実に、引き裂かれた心が悲鳴を上げていた。
華奢な肩が大きく震えていた。細い体を小さく畳み、現実という刃から身を守るかのように抱きしめて。
か細い背中が哀れで弱弱しい。
加護、加虐、被虐…こんな時だというのに周囲に満ちた欲望の波動に思わずココは後ずさる。
蠢くように漏れ出したそれは彼女を初めて見た時に感じた違和感に似ていた。形のない、説明出来ない異質感。
けたたましく警戒音が鳴り響く。けれど、手を伸ばさずにはいられない衝動があったのだ。
気配に気づいたのか、ゆらり、と彼女は立ち上がり、こちらを振り返る。
大きな瞳に大きな涙の粒をためて、諦めたように微笑んだ。その可憐なおぞましさに背筋が甘く凍る。
「へいき、よ」
「…、君は」
「私は与えられた…極上の肉体に極上の顔、他の人には与えられなかった、極上の外見…………ただ、」
「ただ、たまたま、味覚が与えられなかった、…それだけ。みんな、平等、みんな、おんなじ」
「……っ!」
抱きしめたい、そう思った。受け止めるべく、腕を差し出す。
しかしココの腕が彼女に伸びる前に、いかづちの様な呼び声が場を引き裂き彼女に届いた。
「リン!」
弾かれるまま振り向いた先に彼女の恋人が立っていた。名を、叫んだその瞬間、ココの脇をすり抜けた一陣の風。
華奢な背中が男の胸に抱きとめられていた。男がきつく抱きしめる。
「だから、言っただろう、リン、お前を助けられるのは私だけだと」
ぎょろりと、気味悪く動く男の目玉がココを捉えた。
選ばれたのはお前じゃない。勝ち誇るそう言いたげな男の顔は、深く狂喜に歪んでいた。