戀―REN―
雨は私を探して貴方を連れてくる
雨が降る早朝の往来は人影がなかった。しかし、人々は涼暮月の短夜から目覚め始めているらしく、立ち並ぶ住宅からは時折生活音が聞こえてきた。太宰はそんな朝の風景を楽しむように、合羽を着込んで歩いていた。
時刻は午前六時前。朝寝坊が日常茶飯事である彼がこのような時間に起きて行動しているのは酷く珍しい。朝の散策に出たのはほぼ思い付きで、それは昨夜から降り頻るさらさらとした雨音に誘われたからかもしれなかった。
太宰は特に何をするでもなく、雨の中を歩む。濡れた空気は透って涼しい。雨粒がビニールの合羽を滑り、水溜まりに雫が落ちて緩やかに波紋が広がる。
雨は何時も憂鬱を連れてくるが、今朝に限っては雨天もまた情緒があってなかなか良いものだなとひとり微笑む。
道端に咲いている淡い色彩の紫陽花を認めて太宰は足を止めた。萼に雫を宿した青や紫の紫陽花は玻璃 細工のようで美しい。色合いも凛として見目に涼やかだ。清涼感のある紫陽花に、ふと恋人の面差しを重ね合わせる。この花のように可憐ではないけれど。だけれど、彼はとても美しい人だ。
――国木田君はまだ寝てるかなあ。
彼に黙って床を抜け出してきたのである。国木田は寝付きも良いし、一度寝たら深く眠るので、きっと太宰の不在には気が付いていないだろう。彼が起床する前に部屋に戻れば良い。それまではまだ朝の雨情を楽しみたかった。
紫陽花の萼を指先でなぞる。上質な天鵞絨 のような手触り。良く見ると葉の上に蝸牛がいた。のろのろと動いている。
「君は何処に行くんだい?」
思わず話しかけると、「お前は何処に行くんだ」 背後で聞き慣れた声がして太宰は振り返った。国木田が傘をさして立っていた。ジーンズとTシャツと云う軽装 な格好で。太宰のためだろう、左手に閉じた傘を握って彼は眉間に皺を刻み、渋面を作っていた。慌てて出てきたのか、平素から身なりをきちんと整えている彼なのに、前髪に寝癖がついたままだ。そのことに太宰は小さく笑う。
「やあ、国木田君。おはよう」
「おはよう、ではないわッ! この唐変木ッ!」
にこやかに答える太宰に向かって国木田は怒鳴る。
「あれ、何で怒ってるの?」
太宰は小首を傾げて、不思議そうに目を瞬かせる。
「何でって。貴様は莫迦か? 目が覚めてみればお前がいない。携帯電話も置きっ放しだし、てっきり朝から川に流れているのかと……探し回ってみたら、こんなところで何をしている?」
「早朝から川に流れる程、酔狂じゃあないよ。只、散歩してただけ」
へらりと笑ってみせれば、国木田は呆れたように溜め息を吐く。
「全く、お前と云う奴は。目を離したら直ぐ勝手にふらふらといなくなりおって。こうなったら首輪でもつけておくか」
「わあ、それ素敵。赤い首輪買ってつけてよ。鎖は国木田君が持っていてね」
太宰が愉快そうに云うので国木田はがっくりと首を項垂れた。駄目だ此奴につける薬はないのだと思い知って。
「まあ、でも。首輪はなくても大丈夫かな」
「何故だ?」
「だって。国木田君が私を探して見つけてくれるもの」
何処にいても、何をしていても、必ず。私を探し出して見つけてくれるから。
太宰はそう云って柔和に笑った。
国木田は彼の笑顔に鼓動を跳ねるのを感じながら、悟られまいとして敢えて難しい顔をする。
「あのなあ。少しは俺の労力を考えろ」
「うふふ。ごめんね、国木田君」
「お前、全然反省していないだろう」
国木田はギロリと睨んでから、太宰の手を掴む。
「もう帰るぞ。帰って朝飯を用意せねばならん」
「うん。あ、ねえ国木田君。傘に入れてくれ給えよ」
合羽の頭巾 を脱ぎ、ひょいと頭を潜らせて傘の下に収まる。彼等を隔てるものは最早何もない。ふたりだけの小さな世界。太宰が満足気に微笑むと国木田も少しだけ笑った。揃って歩き出す。指を絡めて手を繋ぎながら。
「国木田君。今日の予定は?」
問われて彼は頭の中で愛用の手帳を広げて中身を諳んじる。今日は共に公休日であった。
「午前中は掃除と買い出しだな。お前も手伝え。洗濯は……どうだろうな。天候次第だな」
「午後は?」
「……お前と、逢引 だな」
「そっかあ。何処に行こうか」
「何処へでも。お前が行きたいところに」
「このまま、誰も知らないところへ行ってしまいたいね」
半ば冗談めかして云うと、国木田は酷く真面目な顔をして告げた。
「そうだな。お前を連れて世界の果てにでも行くか」
誰もいない、何もない、ところへ。
閉じた楽園へ。
国木田がこのような戯言を口にするとは思わず、太宰は信じられない気持ちで隣の恋人を見遣った。すると国木田は少し照れている様子で、視線を外しながら云う。
「俺とて、偶にはこんなことを考えたりするさ」
「……うん」
ときめきに胸が慄 えるのを抑え切れない太宰は小さく頷くのが精一杯であった。
「む。雨が止みそうだな」
国木田は傘を傾けて空を仰いだ。天を覆っていた雲が薄くなり、明るさを取り戻しつつあった。太宰も彼に倣って空を見上げる。
「虹が見られると良いね」
「ああ、そうだな」
纏った雫に旭 が反射して美しく照り輝く雨上がりの世界を思い描き、太宰は密かに笑みを深めたのだった。
雨が降る早朝の往来は人影がなかった。しかし、人々は涼暮月の短夜から目覚め始めているらしく、立ち並ぶ住宅からは時折生活音が聞こえてきた。太宰はそんな朝の風景を楽しむように、合羽を着込んで歩いていた。
時刻は午前六時前。朝寝坊が日常茶飯事である彼がこのような時間に起きて行動しているのは酷く珍しい。朝の散策に出たのはほぼ思い付きで、それは昨夜から降り頻るさらさらとした雨音に誘われたからかもしれなかった。
太宰は特に何をするでもなく、雨の中を歩む。濡れた空気は透って涼しい。雨粒がビニールの合羽を滑り、水溜まりに雫が落ちて緩やかに波紋が広がる。
雨は何時も憂鬱を連れてくるが、今朝に限っては雨天もまた情緒があってなかなか良いものだなとひとり微笑む。
道端に咲いている淡い色彩の紫陽花を認めて太宰は足を止めた。萼に雫を宿した青や紫の紫陽花は
――国木田君はまだ寝てるかなあ。
彼に黙って床を抜け出してきたのである。国木田は寝付きも良いし、一度寝たら深く眠るので、きっと太宰の不在には気が付いていないだろう。彼が起床する前に部屋に戻れば良い。それまではまだ朝の雨情を楽しみたかった。
紫陽花の萼を指先でなぞる。上質な
「君は何処に行くんだい?」
思わず話しかけると、「お前は何処に行くんだ」 背後で聞き慣れた声がして太宰は振り返った。国木田が傘をさして立っていた。ジーンズとTシャツと云う
「やあ、国木田君。おはよう」
「おはよう、ではないわッ! この唐変木ッ!」
にこやかに答える太宰に向かって国木田は怒鳴る。
「あれ、何で怒ってるの?」
太宰は小首を傾げて、不思議そうに目を瞬かせる。
「何でって。貴様は莫迦か? 目が覚めてみればお前がいない。携帯電話も置きっ放しだし、てっきり朝から川に流れているのかと……探し回ってみたら、こんなところで何をしている?」
「早朝から川に流れる程、酔狂じゃあないよ。只、散歩してただけ」
へらりと笑ってみせれば、国木田は呆れたように溜め息を吐く。
「全く、お前と云う奴は。目を離したら直ぐ勝手にふらふらといなくなりおって。こうなったら首輪でもつけておくか」
「わあ、それ素敵。赤い首輪買ってつけてよ。鎖は国木田君が持っていてね」
太宰が愉快そうに云うので国木田はがっくりと首を項垂れた。駄目だ此奴につける薬はないのだと思い知って。
「まあ、でも。首輪はなくても大丈夫かな」
「何故だ?」
「だって。国木田君が私を探して見つけてくれるもの」
何処にいても、何をしていても、必ず。私を探し出して見つけてくれるから。
太宰はそう云って柔和に笑った。
国木田は彼の笑顔に鼓動を跳ねるのを感じながら、悟られまいとして敢えて難しい顔をする。
「あのなあ。少しは俺の労力を考えろ」
「うふふ。ごめんね、国木田君」
「お前、全然反省していないだろう」
国木田はギロリと睨んでから、太宰の手を掴む。
「もう帰るぞ。帰って朝飯を用意せねばならん」
「うん。あ、ねえ国木田君。傘に入れてくれ給えよ」
合羽の
「国木田君。今日の予定は?」
問われて彼は頭の中で愛用の手帳を広げて中身を諳んじる。今日は共に公休日であった。
「午前中は掃除と買い出しだな。お前も手伝え。洗濯は……どうだろうな。天候次第だな」
「午後は?」
「……お前と、
「そっかあ。何処に行こうか」
「何処へでも。お前が行きたいところに」
「このまま、誰も知らないところへ行ってしまいたいね」
半ば冗談めかして云うと、国木田は酷く真面目な顔をして告げた。
「そうだな。お前を連れて世界の果てにでも行くか」
誰もいない、何もない、ところへ。
閉じた楽園へ。
国木田がこのような戯言を口にするとは思わず、太宰は信じられない気持ちで隣の恋人を見遣った。すると国木田は少し照れている様子で、視線を外しながら云う。
「俺とて、偶にはこんなことを考えたりするさ」
「……うん」
ときめきに胸が
「む。雨が止みそうだな」
国木田は傘を傾けて空を仰いだ。天を覆っていた雲が薄くなり、明るさを取り戻しつつあった。太宰も彼に倣って空を見上げる。
「虹が見られると良いね」
「ああ、そうだな」
纏った雫に