戀―REN―

キスできない餃子

 帰宅した国木田は川水に浸かってずぶ濡れになった泥臭い躰を即刻、風呂場で清めた。部屋着に袖を通し、濡れた髪を乾かすと後ろ髪を結わえて休む間もなく黒いエプロンを身に着けて台所に立った。その間、洗濯機を回すことも忘れない。
 出勤前に仕掛けていた炊飯器のスイッチを入れ、冷蔵庫から豆腐となめこを取り出して味噌汁を拵える。次は副菜の法蓮草ほうれんそうの胡麻和えを手際よく作って、最後の工程に取り掛かった。
  作り置きの冷凍していた餃子をフライパンに並べているところで呼び鈴が鳴った。国木田は洗った手をエプロンで拭いながらいそいそと玄関へ向かう。ドアを開けると軽装ラフな服装の太宰が立っていた。彼は少しはにかんだふうに笑いながら「これ、一応お土産」右手に提げていたビニール袋を家主に差し出す。中を見ると缶麦酒ビールが六本。国木田は礼を云いつつ受け取り、上がるように促した。
 お邪魔するよ――靴を脱いで足を踏み入れると「何だか良い匂いがするね」鼻先をすんとさせながら部屋の奥を覗き込むように目を向ける。温かな食事の匂いが平素は鈍い太宰の食欲を刺激した。
「腹が減ったろう。今餃子を焼くから少し待ってろ」
「はーい」
  間延びした返事をして居間へ行こうとすると国木田が引き留めた。
「うん? 何?」
 振り返ると仏頂面が溜め息を吐く。
「お前、何で髪の毛を濡れたままにしてるんだ。風邪ひくだろうが」
「だって髪の毛乾かすのが面倒なんだもの。別にこれくらいで風邪なんかひかないよ」
「全く、物臭太郎だな」
 居間で待ってろと国木田はぶつぶつと何やら呟きながら一旦奥へ姿を消すと、今度はドライヤーを手にして現れた。太宰がぱちくりと目を瞬かせている傍で国木田はコンセントを差してドライヤーの電源を入れた。ブオォォォンと云う音と共に熱風が吐き出される。
「え、ちょっと、国木田君?」
  戸惑う相棒――恋人を他所に、国木田はさも当然と云ったふうにして彼の濡れた頭に熱風を当てた。髪に手櫛を入れながら乾かしていく。太宰は借りてきた猫の如く大人しくしていた。内心、胸を騒がせながら。
 髪を撫でる手が心地良い。時折、耳殻を指先が掠めて、その度に膚の下で漣立さざなみだつものがあった。何の意図も含まない彼の手に妙に過敏になってしまうのはどう云う訳だろう――太宰は髪の毛を乾かされながら解からないふりをしていた。この心地良さをずっと味わっていたいと望みながら。一方、国木田は柔らかい蓬髪の感触を楽しむような手付きで髪を撫でながらドライヤーを操っていた。熱風に乗って清潔な香りが漂う。 程なくしてドライヤーの音が止んだ。
「ほら、出来たぞ」
「え、もう終わり?」
 背後を振り返って咄嗟に出てしまった言葉に太宰は自分で驚いた。国木田も眼鏡の奥で鋭い目を見開く。手にしたドライヤーが滑り落ちそうになっていた。
 刹那の沈黙を挟んで「あー、うん、ごめん、何でもない」太宰は取り繕い、くるりと正面を向いて視線を外す。国木田は曖昧に頷きながらドライヤーのコードを巻き「飯の支度をしてくる」と座を立った。居間を出ていく広い背をちらりと一瞥して、急激に顔が熱くなるのを感じた。熱を振り払うようにして太宰は座卓の上に置かれていたリモコンでテレビの電源を入れた。しかし今の彼には映像も音声も只無意味に流れ続けるだけであった。
 瓦斯ガス台の前に立って餃子を焼く国木田もまた、ひとり顔を赤らめていた。

***

「綺麗に焼けてるね」
 美味しそうだと太宰はにんまり笑う。大皿に円を描くように盛られた餃子は狐色にこんがりと焼けて香ばしい匂いを立てていた。味噌汁、法蓮草の胡麻和え、炊き立ての白いご飯――何てことはない夕食であったが、太宰の目には充分に豪勢な料理に映った。温かな気配を纏った手料理は食欲をそそった。
 ――しかし、その前に。
「国木田君、麦酒ビール頂戴」
「駄目だ。先に飯を食ってからだ」
 要求は間髪入れず却下された。にべもない。
 太宰がしおらしく缶麦酒を持ってきた魂胆を知って国木田は抜け目のない奴だと半ば呆れつつ、彼の前に箸を置いた。てきぱきとした動作で二枚の小皿に醤油、酢、辣油とを注いでいく。
「どうせ普段も酒ばかり食らっているのだろう。うちに来た時くらい、きちんと飯を食え」
「そう。じゃあこれから夕食は毎日国木田君の家でご馳走になることにするよ」
「ああ」
「え?」
「は?」
 ふたりの間に奇妙な沈黙が落ちる。音もなく立ち上る温かな食事の匂いと時を刻む秒針の微かな音が無言を深めた。時計の針の音はこんなにも大きな音だったかと国木田は場違いな思考を巡らせていた。
 気拙くお互いの顔を見交わした後、先に口を開いたのは太宰だった。視線を彷徨わせて、おずおずと云ったふうに。今日は調子が狂いっぱなしだと胸裡で苦く思いながら。
  ――上手く自分を保てない。装った軽佻浮薄な上っ面を引き剥がされているみたいに。
「……いや……えっと……人にたかるなって怒るかなって……思ってたんだけど……?」
 国木田もうろうろと定まらぬ視線で呟くように云う。太宰の顔を真面まともに見ることが出来なかった。
「――別に。別に、一人分作るのも二人分作るのも大して変わらんからな」
「そう?」
 ちらりと向かいに座る彼を見遣る。と、視線が交差する。国木田は何かを観念したかのように肩を落として脱力した。
「まあな。――さ、冷めないうちに食え。酒はその後、出してやる」
「うん。――いただきます」
 箸を手にして大皿へと伸ばす。一つ餃子を取り、タレに浸して一口齧った。パリッとした皮から熱い肉汁が溢れ、滴る。
 国木田はもぐもぐと咀嚼する太宰を見守って「どうだ? 美味いか?」問う。この瞬間、彼の胸を高鳴らせ、緊張させる。食が細い割に舌が肥えている太宰である。彼の「美味しい」と云う一言が聞きたかった。 太宰は目を輝かせて破顔した。国木田は満足そうに首肯して、箸を手に取った。

「ねえねえ、国木田君」
「何だ」
「国木田君」
「だから、何だ」
「ふふ、呼んでみただけ」
「さては貴様、酔ってるな?」
「うふふふ」
 太宰は座卓の上にぺたりと突っ伏した。彼の目の前には麦酒ビールの空き缶が二つ並んでいた。粗方食事を終えたところである。
「もう一本」
「駄目だ。飲み過ぎだ」
「えー、何で。あれ私が持ってきたのに。国木田君のケチ」
「何とでも云え。駄々を捏ねてもやらんものはやらん」
「ちぇッ」
「それから、眠いのなら家に帰って寝ろ」
「やだ。もうちょっと」
「あのなあ」
  国木田は口をへの字に曲げながら僅かに残っている缶麦酒を卓の上に置いて、姿勢を崩した。大して飲んでいないのに今日は随分と酔っているような気がした。疲れが酔いに拍車をかけているのかもしれない。
 太宰は本当に寝てしまったのか、突っ伏したまま動かない。顔を両腕の上に伏せているので表情も窺えなかった。国木田が手を伸ばして揺り起こそうとすると突然くぐもった声がした。手が行き場を失って惑う。ふと、温度のない声音に手を握られたような気がした。
「国木田君はさ、何時から私のこと好きだったの?」
「帰れ、酔っ払い」
 宙で止まった手で頭を引っ叩いてやろうかと思った矢先に太宰が顔を上げた。
「酷い言い草だね。私は真面目に訊いてるのに。――ねえ、どうなんだい?」
 じっと見据えられて国木田はたじろいだ。呼吸いきごと言葉を詰まらせて慌てたように手を引く。
 ――何時から。
  何時からだっただろう?
 国木田は沈思して己の心裡を探り、過去を眼差す。
 入水だ心中だと騒いでは、業務を放り出して勝手にふらりといなくなる。遅刻、居眠りも朝飯前の常習犯。国木田を揶揄からかって遊ぶことも忘れない。好き勝手に振り回して滅茶苦茶に日々の予定を乱す太宰に何度怒鳴り散らしたか解らない。相手にするだけ莫迦らしいと思ったことも無い訳ではなかった。だが、国木田には出来なかったのだ。太宰の振舞に何か危ういものを感じ取ったので。平素、人前で戯けて巫山戯倒すのは生きるための擬態なのではないか――そんなふうに考えるようになるにつれて目が離せなくなってしまったのだ。真逆、この男に抱いた感情が色恋に結び付くとは思ってもみなかったが。
 国木田が押し黙っていると太宰は卓に身を突っ伏したまま、細い顎を腕に載せて気怠げな仕草で左手の指先を空き缶の縁に滑らせていた。鳶色の瞳も何処かものうげだった。酷く退屈そうな、冷めた瞳が、云いようのない不安ともつかぬ焦慮を国木田の裡に呼び起こす。乱れる心に衝かれて彼は立ち上がると太宰の隣へと腰を下ろした。と、急に近付いてきた気配に「国木田君?」太宰は半身を起こす。
「――お前は、どうなんだ」
「え? 私?」
「だから、お前は、何時から、その――」
  云いながらじわじわと顔が熱くなる。視線を目の前に並んでいる空き缶に転じて細かな字で印字された成分表示を無意味に追う。血が上った頭を文字が滑ってゆく。太宰は血色を濃くしている国木田の横顔を一瞥する。電灯に潤む彼の目が妙に心をざわつかせた。しかし普段の態度を貫く。
「何時からだと思う?」
「質問に質問で返すな」
「国木田君が教えてくれないなら、私も教えなーい」
「おい、太宰」
  再び卓に身を突っ伏す太宰にがなり立てながら国木田は痩せた肩を掴む。此方を向かせようとして、力加減を誤った。
「わっ!」
「うおッ⁉」
  勢い余って二人して床へと倒れ込んだ。図らずも、国木田が太宰を押し倒すような形で。
「す、すまんっ」
 顔を真っ赤にして慌てて身を起こそうとする国木田を、ねえ――細腕が引き留めた。広い背を撫でるように手を這わせて指先に金糸を絡ませる。切なげに揺れる太宰の瞳に吸い寄せられるようにして国木田は顔を近付けた。床についた手で無造作に投げ出された左手の手首をそっと掴む。ぴくりと白い指先が反応する。色素の薄い睛眸せいぼうから放たれる真剣な眼差しは何処までも真っ直ぐに相手に迫った。
  受け止め切れない熱視線に太宰はゆっくりと長い睫毛を垂れ、薄く唇を開いてその時を待った。しかし期待は裏切られた。気配が遠のくのを感じて目を開けると国木田は顔を赤らめたまま、所在なげに胡坐をかいてそっぽを向いていた。太宰も身を起こす。
「――餃子は、失敗だったな」
 ぽつりと呟くように云う彼の言葉の意味を解して太宰は苦笑した。
 ――餃子のせいでキスがお預けになるなんて。
「君ってさ、本当に肝心なところで締まらないよねえ」
 くつくつと笑うと国木田は噛み付きそうな目で睨む。
「う、五月蠅いっ」
「ふふふ。でも、そう云うところも私は好きだよ」
「酔っ払いめ」
却説さて、酔っ払いはそろそろ帰るよ」
  ご馳走様と太宰は立ち上がって居間を出てゆく。国木田も彼を追って腰を上げた。
 背を向けて靴を履いている彼に言葉を投げる。
「明日、遅刻するなよ」
「それはどうかなあ」
 のんびり答えながらくるりと身を反転させると家主は普段と変わらぬ仏頂面だった。内心、先程の気拙さをまだ引き摺っているのかもしれない。
「阿呆。少しは真面目になったらどうなんだ。大体貴様は何時も」
「はいはい。解りましたよっと。善処します」
 ややもすると直ぐ説教モードに入る国木田の言葉をひらひらと手を振って遮ると、彼は呆れたように全く貴様と云う奴は――今日何度目かの大きな溜め息を吐いた。
「それじゃあ、国木田君。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
  にこりと微笑む太宰は静かにドアを開けて立ち去った。国木田は少しの間、その場に立ち尽くしていた。

 太宰は自宅の玄関のドアを開けて身を滑らせるように三和土たたきへ足を踏み入れた。後ろ手にドアを閉じて、そのまま背を預けてはあと息を吐くと脱力してうずくまった。
「……参ったね。本当に参った」
  ――あの時の国木田の眼と云ったら。
 灼けつくような眼差しを思い出すだけで鼓動が早くなる。顔が熱い。
 ――彼は、どんなふうに。
 太宰は指先で下唇を軽くなぞりながら、触れなかった彼の唇を想うのだった。
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