戀―REN―

終わりと始まり

 ――終りと始まりは同じかおをしている。

 長患いのように居残っていた残暑も愈々いよいよ燃え尽きようとしていた。微かに秋の気配を孕んだ空気の中を泳ぐように赤蜻蛉が飛んでいた。薄い翅が斜陽を受けて煌めき、暫しその場に留まって音もなく空高く飛翔する。
  西空が血汐の如く真紅に染まった夕刻。
  国木田は仏頂面で人気ひとけのない土手を足早に歩んでいた。まだ衰えを見せない西陽の眩しさに一層、目許を険しくさせながら土手の下方――穏やかに流れる川面に視線を注ぐ。相棒がこの辺りに流れていやしないかと。国木田はやや歩調を緩めて目を凝らし、つぶさに川の流れの中を探る。と、落日に照る水面に黒い影のようなものが見え隠れするのが認められた。
  ――あれは恐らく。
「あの莫迦……ッ!」
 舌打ちをして土手の斜面を一息に駆け降りた。膝丈程ある半ば枯れた草地を突っ切り、川岸へと急いて「おい! 太宰!」川を漂っている黒い影に叫ぶ。しかし反応はなく、虚しく己の怒号が響くだけであった。冷たい戦慄が国木田の背に走って怖気立つ。
「クソ……ッ」
  こうしてはおれんと流れていく影を目指して躊躇なく泥臭い川水の中へ入ってゆく。水の流れが穏やかなのが幸いだった。
 腰の上辺りまで水に浸かりながら水温に色を失くした顔色の太宰の細腕を掴んだ。それから弛緩した痩躯を背後から抱えて、ゆっくりと川岸へ向かう。固く閉ざされた太宰の白い目蓋に焦燥感と不安とを募らせつつも、国木田は冷静を欠いてはならないと己に云い聞かせて水に重たくなった相棒の躰をどうにか岸辺に引き上げた。
彼の身を横臥させると蒼褪めた唇から水が吐き出された。国木田は咳込んで苦しげに水を吐き出す太宰の肉の薄い背を擦ってやりながら「おい、大丈夫か?」彼の顔を覗き込んだ。と、睫毛がふるえて薄く瞳が開く。
「……ん……あれ……」
覚醒しきらない声が小さく洩れた。無事に意識を取り戻した彼に国木田は密かに安堵の息を吐くと、それと気取られぬように眉間に深く皺を刻み、渋面を作った。
 幾度か瞬きをした後、はっきりと意識を取り戻した太宰の瞳が茜色に染まった国木田の精悍なかおを捕らえた。がばりと勢い良く半身を起こすと、傍らに膝をついていた相棒は「うおわあ⁉」驚いて身を仰け反らせた。まるで吃驚箱を開けた子供みたいな反応だと太宰は内心で苦笑しつつ、にっこり微笑む。
「やあ、国木田君。おはよう」
「おはよう、ではないわッ! この唐変木ッ!」
「あれ、国木田君、びしょ濡れだね?」
「誰の所為だと思っているッ!」
「もしかして私の所為?」
 きょとんと首を傾げる太宰に国木田は胸倉を掴んでがなり立てる。
「もしかしなくても貴様の所為だッ! ド阿呆ッ!」
「えー、私別に助けてって云ってないけど?  あともう少しだったのになあ。君の所為で、台無しだよ」
  鳶色の双眸を冷ややかに眇めると、国木田は太宰を突き放すように解放して睨み付けた。
  不意に陽が翳る。
 太宰の整った右の半顔が夕暮れに黒く沈む。謎めいた微笑を浮き彫りにして。
 赤蜻蛉が静かに二人の間をつ、と滑空していく。
 夜が、迫る。
 憤りに染まった眼に反して国木田の口調は静かだった。
「ほざけ。前も貴様に云っただろう。俺の眼前で誰も死なせんと。お前を死なせては、お前が喜ぶだけで癪に障るとな。それから、こんなことは、これっきりだと――」
 やや俯いて固く拳を握る。何かを悔いているかのように。
 太宰は彼の言葉を聞きながら、夕焼けが美しい或る秋の日――今日のように入水したところを引き上げられた二年前のあの日――彼に心奪われ、報われぬ恋を知ったあの日を苦く思い出していた。

  ――今もこうしてまだ身を焼かれ続けているのに。
  ――死ねば、凡てを終わりに出来るのに。
  ――陽が落ちるように死ねたら。

 太宰は口を噤んだままの国木田から顔を背けるようにこうべを巡らせて背後を振り返る。
  川の対岸、更にその向こう――残照が熾火の如く棚引く雲を赤く染めていた。あんなにも美しく燃えている、混じり気のない紅色は高潔な彼の血汐のように思えた。
 国木田は何も知らない。
 どんなに激しい恋情を抱いているかを。
 しかしそれも当然であった。太宰自身が本心を隠していたのだから。
  彼の前で真情が口を突いて出そうになる度に太宰は平素のようにおどけて巫山戯ふざけ倒してきた。国木田は飽きもせず「いい加減にしろ」と怒鳴り散らしては、それでも太宰を突き放しはしなかった。こうして遂げられぬ自殺を繰り返している自分を怒りながら、その実、言葉にはせぬ労わりがあった。国木田は優しいのだ。面倒見の良さも彼の性分なのだろう。
  彼の優しさを、もっと云えば愛情が欲しいと思った。夜空に掛かる綺麗な月を欲しがる頑是ない幼子のようだと自嘲しながら。
 こんな思いを一体何時まで抱えていれば良いのか――全く自分らしくないと太宰は遣る瀬無い溜め息を人知れず吐くのだった。

 太宰――酷く真剣な声で名を呼んで伏せていた顔を上げると、真っ直ぐに彼を見詰めた。振り向いた太宰の表情は残照に暗い。その顔を良く見ようとするように国木田はにじり寄って痩せた両の肩に手をかけた。
 突き刺すような眼差し、強く輝く月色の眸に太宰は一瞬にして呼吸ごと縫い留められた。心が、胸が、騒ぐ。
 刹那、国木田は眉根を寄せて泣き出しそうな顔をした。本当に泣くのかと咄嗟に思ったが、太宰に確かめる術はなかった。突然、抱き締められたので。
「……国木田君……?」
 信じられない思いで目を見開く太宰を国木田は強く抱いて告げた。
「お前はあの時、俺に訊いたな。死んだら悲しいかと。俺はお前が死んでしまったら――いなくなってしまったら悲しい。俺だけではない。探偵社の皆も……お前に関わりある人皆が悲しむ」
「いきなりどうして――」
「お前にどんな理由があるのか俺は解からんし、全く知らん。だが――太宰。俺が生きる理由では駄目なのか」
「え?」
  太宰の心臓が大きく慄えた。息が止まりそうになる。
「お前には生きていて欲しい。生きて、傍にいて欲しい。否、俺が太宰の傍にいたいんだ。だから、どうか」
 生きてくれ――真摯に継ぐ言葉は祈りを捧げるようで。
 太宰は国木田の襯衣シャツをきつく握り込み、目許を力ませていた。戦慄く唇を噛み締める。そうでもしなければ勝手に涙が出てしまうから。
 国木田は僅かに身を離して太宰の顔を見た。滑らかな白い頬にそっと手を触れて涙で潤んだ鳶色の瞳を深く覗き込む。心の裡側まで見詰めるように。注がれる視線は強く、しかし濃やかな情愛に充ちていた。
「――好きだ。俺は、お前が好きなんだ」
 その瞬間、太宰の右眼から雫がまろび出た。
「お、おいッ! 太宰⁉」
 ぎょっとして慌てふためく国木田を他所に参ったなあ――太宰は努めて明るく、軽薄な語調で云う。こてん、と濡れた前髪を貼りつかせた額を彼の肩に伏せて。
「本当に、参ったよ。君には。こんな……こんな、筈じゃなかったのに……」
  語末は滲んで、微かに慄えていた。
 国木田の手が僅かに惑った後、宥めるように、細い背筋をあやすように慰撫する。優しいその手付きにまた涙が熱く滲み出す。これ程に彼に想われていたのかと。しかしそれでも太宰の口調は変わらなかった。こんな時でも戯けてしまう。気持ちが通じ合った嬉しさよりも、涙を見られてしまった羞恥心の方が勝った。
「……君の所為で、死ぬ理由が一つなくなってしまったじゃないか」
「それは結構。どうせなら潔く全部なくせ。そして自殺ごっこは辞めて真っ当に生きろ」
「ふふ、やっぱり国木田君は厳しいね」
「云ってろ」
  素っ気なく云い捨てるも、相変わらず国木田の手は優しかった。彼の涙を拭う代わりに背中を撫ぜて涙を見なかったふりをする――そんな態度に太宰は堪らなくなる。胸が苦しいまでにいっぱいになって、溺れてしまう。彼に、国木田に。
「――餃子」
「へっ?」
 ぼそりと呟かれた言葉に思わず顔を上げて国木田を見た。と、国木田は慌てて目を逸らし、落ち着きなく視線を彷徨わせながら何処か気恥ずかしそうな様子であった。仄かに耳が赤いのは見間違いではないだろう。それから国木田はわざとらしく咳を一つして云う。まるで場違いな言葉を。
「あー、そのだな、その……、餃子、食うか?」
「え、うん」
 ほぼ勢いで頷いてしまった太宰に、国木田はそうかと独り合点して「ほら、帰るぞ。いい加減、このままでは風邪をひく」立ち上がると夕闇に包まれた河川敷を土手の斜面目指してすたすたと歩いてゆく。
 その場に取り残された太宰は少しの間、遠ざかる背を唖然と眺めていたが、急に可笑しくなって噴き出した。
「国木田君ってばさあ。本当に恋愛音痴だよねえ。あの場で普通、餃子だなんて云わないでしょ。雰囲気、台無しだよ。あれじゃあモテないのも道理だねえ」
  独りでけらけら笑っていると「太宰! 何をしてる!  帰るぞ!」少し離れた場所から国木田が大声で手招く。待って――太宰は彼の元へと足取り軽く駆け出した。
 追いついて肩を並べると国木田が遠慮がちに腕を伸ばしてそっと手を握ってくる。
 あの始まりの日と変わらぬ体温と優しさで。
 ずっと触れたかったものが、欲しかったものが今、此処にある。
  自然と太宰の頬が緩んだ。
「太宰?」
 独り笑む彼を国木田は不思議そうに見遣る。と、喜悦に細められた瞳と出逢った。幸福に綻ぶ貌が国木田の胸底にこれ以上ないまでの鮮烈さで焼き付いた。
「国木田君。私も君が好きだよ」
 太宰は笑顔で自分よりも大きな手を握り返した。

 ――願わくば、終わりの時までこの温もりが傍にあらんことを。
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