戀―REN―
火刑
天国も地獄も信じていなかった。
しかし、私は自身の身を以てこの世に地獄があることを知った。
そして今現在、私は地獄の業火に身を焼かれ続けている。
私が地獄に堕ちたのは――地獄に突き落とされたのは、二年前の夕焼けが美しい或る秋の日だった。落日が真赤に燃えながら空を灼いて、夜を連れてこようとしていた。鮮やか過ぎる秋陽は残忍な、一種異様な印象でヨコハマを照って血汐の如く染め上げていた。
私はずぶ濡れになりながら、歩き慣れた土手をのろのろと歩いていた。と云うのも、川に入水したところを相棒に引き上げられたからである。
冷たい水の中をゆらゆら揺蕩 揺蕩って心地よく深く沈み込んでいく、聴覚が死んでいきながら、意識が遠のいて死の際に溺れていく――その瞬間に力強い腕が私を掬い上げた。水底から浮上した時に見た眩しい光は眸の底を射て、太宰と私の名を呼ぶ彼の顔は恐ろしい程、真剣だった。初めて見る表情だった。
歩く度にぐちゃぐちゃと濡れた靴が鳴る。自業自得とは云え、結構気持ちが悪い。それに寒い。私は慄 えながら先を歩む国木田君の背をぼんやりと瞳に映した。彼も私を引き上げる時に水に浸かった所為で、袖や腰から下が濡れていた。歩き方が如何にも不快そうだ。少し、笑ってしまう。
――まだ怒っているのかな。
国木田君は川から私を引き上げた時、激しく嗔 った眼をしていた。何時ものように怒り狂って怒鳴り散らすかと思っていたのに「この莫迦者」只、低くそう云っただけだった。正直、肩透かしを喰らった気分だった。だけれども彼が充分、怒っているのは解かった。静かに、深く深く、彼は怒っていた。嗚呼、国木田君は本気で怒っているのだ―― 予 め用意していた戯言は胸の裡で粉々に砕け散った。
「これではもう仕事にならん。帰るぞ」
国木田君はそう云い捨てて、呆けている私の手を引きながら歩き出したのだった。束の間、繋いだ手がとても温かくて、一瞬、私は本当はもう死んでいるのではなかろうか?と錯覚した程だ。
彼は何も訊かず、何も問わず、真っ直ぐな背を私に向けて黙々と歩む。茜色の斜陽に長い後ろ髪が煌めいて、その眩 さに思わず眸 を眇める。死の際から覚醒した時、眸の底を灼かんばかりに射抜いた光はきっとこの輝きだ。旭光の如き、黄金に透った光。生まれ変わる朝の光。
「――ねえ、何も訊かないの?」
私が死に向かう理由を。
皆が知りたがる、その訳を。
その蔭で卑しい野次馬根性が舌を出して嗤っているのを、私は知っている。
自殺の理由。
それを知って、何になる。
「訊いて欲しいのか。聞いて欲しいなら、聞いてやる。だが、貴様は何も喋る心算はないだろう」
国木田君は振り返りもせずに告げる。と、僅かに歩調が緩む。保っていた距離が崩れる。彼の背が近くなる。手を伸ばせば触れられる――触れる? 彼に?
「どうでも良いことはぺらぺらと喋り倒す癖に――」
「――癖に? 何?」
思いの他、尖った声が出てしまって自分でも驚いてしまう。詰問されるべきは私の方なのに。国木田君は僅かに俯く。地面に長く伸びたお互いの影の一部が重なり合う。間もなく夕刻は燃え尽きようとしていた。赫 い彼岸花が急速に枯れていくみたいに。
「……兎に角。真面目に仕事をしろ。こんなことは――これっきりだ」
静かな彼の語調は何処か悲しそうだった。何故かそれが、悲しい。彼の悲しみは私の悲しみではない。まるで無関係であるのに。
心の臓がじくじく痛むのは、何故か。覚えのない痛みは甘ったれた感傷を駆り立てる。自分でも反吐が出る。けれど、言葉は勝手に口を突いて出てしまう。私は私が解らない。
「私が死んだら、悲しい?」
国木田君が振り返る。眉間に皺を刻み、険しい顔をして。何時もの表情に安堵する。彼はその問いは成り立たないとにべもない。
「俺の眼前で誰も死なせん。それにお前を死なせては、お前が喜ぶだけだ。癪に障る」
「だから私を助けたの?」
「それ以外に何がある」
仕返しだと云わんばかりに断言する。潔い。清々しい。単純で解り易くて嘘が吐けない――偽ることが下手な国木田君。
私はふと微笑みかける。
「君は――」
「俺が? 何だ?」
きょとんと勁 い眸を瞬かせる。僅かに首を傾げる仕草が少しだけ彼の鋭さを殺 ぐ。厳しさの中に、その激しさの中に見え隠れしているのは何時だって優しさだ。彼は本当は、とても優しい人なのだ。
しかし私には素直に伝えられるだけの度量もなければ、其処までの関係性は、彼との間にまだ無い。だから私は意味深長に笑って誤魔化す。寒くなってきたから何か温かい物が食べたいなあと空惚けてみせる。
「御田 でも鍋焼き饂飩 でも好きに勝手に食え」
「え? 国木田君、作ってくれるの?」
「誰がお前に作って食わすと云った。お前の頭は派手な飾りか? 耳は餃子か何かか?」
「あ、餃子も良いねえ。焼き餃子、作ってよ」
ねえ?――精一杯、媚びてみせる。にっこり営業スマイル。が、彼には通用しなかった。思い切り胸倉を掴まれてがくがくと揺さぶられる。
「だから! 俺の話を! 聞けッ! この唐変木ッ!」
「ちょ、く、苦しいって。国木田君。ぐえッ」
大袈裟に苦しがってみせながら、顔が近いなあと思う。綺麗な顔しているなあ、だなんて。うん、凶悪な目付きも悪くない。全ての光を集めて凝 めたような眸が、一等美しい。
見惚れていたら、突然突き放された。国木田君はこれ見よがしに大きな溜め息を吐く。
「ふん。全く、お前と云う奴は。そんなに餃子が食いたいなら、作るのを手伝え」
「嘘、本当?」
驚いて反射的に訊き返す。
「はあ? お前が食いたいと云ったんだろうが」
「そうだけど……本当に良いの?」
すると国木田君は、可笑しな奴だな――薄く笑った。その微笑は私の中に長く残ることになる。心に鮮やかに焼き付いて何時までも色褪せずに。一枚の写真のようにして。
「ほら、さっさと帰るぞ。濡れたままではいい加減、風邪をひく」
そう云って彼は踵を返して歩き出す。私の手を無造作に掴んで。
「…………とう、」
「? 何か云ったか?」
僅かに国木田君が此方へ視線を寄越す。
「お腹減ったなあって云ったの」
「そうか」
相槌は柔らかく、優しかった。
――嗚呼、私は私を解かってしまった。
彼に恋したことを。
彼を愛し始めてしまったことを。
だけれども、この恋は結実しない。
光と闇は出逢っても婚姻は出来ない。
それが摂理であり、真理だ。
私はこの日以来、ずっと彼に身を焦がし続けている。
終わりのない神罰のように。
彼が有する聖なる光、浄化の焔に火刑に処されたまま。
天国も地獄も信じていなかった。
しかし、私は自身の身を以てこの世に地獄があることを知った。
そして今現在、私は地獄の業火に身を焼かれ続けている。
私が地獄に堕ちたのは――地獄に突き落とされたのは、二年前の夕焼けが美しい或る秋の日だった。落日が真赤に燃えながら空を灼いて、夜を連れてこようとしていた。鮮やか過ぎる秋陽は残忍な、一種異様な印象でヨコハマを照って血汐の如く染め上げていた。
私はずぶ濡れになりながら、歩き慣れた土手をのろのろと歩いていた。と云うのも、川に入水したところを相棒に引き上げられたからである。
冷たい水の中をゆらゆら
歩く度にぐちゃぐちゃと濡れた靴が鳴る。自業自得とは云え、結構気持ちが悪い。それに寒い。私は
――まだ怒っているのかな。
国木田君は川から私を引き上げた時、激しく
「これではもう仕事にならん。帰るぞ」
国木田君はそう云い捨てて、呆けている私の手を引きながら歩き出したのだった。束の間、繋いだ手がとても温かくて、一瞬、私は本当はもう死んでいるのではなかろうか?と錯覚した程だ。
彼は何も訊かず、何も問わず、真っ直ぐな背を私に向けて黙々と歩む。茜色の斜陽に長い後ろ髪が煌めいて、その
「――ねえ、何も訊かないの?」
私が死に向かう理由を。
皆が知りたがる、その訳を。
その蔭で卑しい野次馬根性が舌を出して嗤っているのを、私は知っている。
自殺の理由。
それを知って、何になる。
「訊いて欲しいのか。聞いて欲しいなら、聞いてやる。だが、貴様は何も喋る心算はないだろう」
国木田君は振り返りもせずに告げる。と、僅かに歩調が緩む。保っていた距離が崩れる。彼の背が近くなる。手を伸ばせば触れられる――触れる? 彼に?
「どうでも良いことはぺらぺらと喋り倒す癖に――」
「――癖に? 何?」
思いの他、尖った声が出てしまって自分でも驚いてしまう。詰問されるべきは私の方なのに。国木田君は僅かに俯く。地面に長く伸びたお互いの影の一部が重なり合う。間もなく夕刻は燃え尽きようとしていた。
「……兎に角。真面目に仕事をしろ。こんなことは――これっきりだ」
静かな彼の語調は何処か悲しそうだった。何故かそれが、悲しい。彼の悲しみは私の悲しみではない。まるで無関係であるのに。
心の臓がじくじく痛むのは、何故か。覚えのない痛みは甘ったれた感傷を駆り立てる。自分でも反吐が出る。けれど、言葉は勝手に口を突いて出てしまう。私は私が解らない。
「私が死んだら、悲しい?」
国木田君が振り返る。眉間に皺を刻み、険しい顔をして。何時もの表情に安堵する。彼はその問いは成り立たないとにべもない。
「俺の眼前で誰も死なせん。それにお前を死なせては、お前が喜ぶだけだ。癪に障る」
「だから私を助けたの?」
「それ以外に何がある」
仕返しだと云わんばかりに断言する。潔い。清々しい。単純で解り易くて嘘が吐けない――偽ることが下手な国木田君。
私はふと微笑みかける。
「君は――」
「俺が? 何だ?」
きょとんと
しかし私には素直に伝えられるだけの度量もなければ、其処までの関係性は、彼との間にまだ無い。だから私は意味深長に笑って誤魔化す。寒くなってきたから何か温かい物が食べたいなあと空惚けてみせる。
「
「え? 国木田君、作ってくれるの?」
「誰がお前に作って食わすと云った。お前の頭は派手な飾りか? 耳は餃子か何かか?」
「あ、餃子も良いねえ。焼き餃子、作ってよ」
ねえ?――精一杯、媚びてみせる。にっこり営業スマイル。が、彼には通用しなかった。思い切り胸倉を掴まれてがくがくと揺さぶられる。
「だから! 俺の話を! 聞けッ! この唐変木ッ!」
「ちょ、く、苦しいって。国木田君。ぐえッ」
大袈裟に苦しがってみせながら、顔が近いなあと思う。綺麗な顔しているなあ、だなんて。うん、凶悪な目付きも悪くない。全ての光を集めて
見惚れていたら、突然突き放された。国木田君はこれ見よがしに大きな溜め息を吐く。
「ふん。全く、お前と云う奴は。そんなに餃子が食いたいなら、作るのを手伝え」
「嘘、本当?」
驚いて反射的に訊き返す。
「はあ? お前が食いたいと云ったんだろうが」
「そうだけど……本当に良いの?」
すると国木田君は、可笑しな奴だな――薄く笑った。その微笑は私の中に長く残ることになる。心に鮮やかに焼き付いて何時までも色褪せずに。一枚の写真のようにして。
「ほら、さっさと帰るぞ。濡れたままではいい加減、風邪をひく」
そう云って彼は踵を返して歩き出す。私の手を無造作に掴んで。
「…………とう、」
「? 何か云ったか?」
僅かに国木田君が此方へ視線を寄越す。
「お腹減ったなあって云ったの」
「そうか」
相槌は柔らかく、優しかった。
――嗚呼、私は私を解かってしまった。
彼に恋したことを。
彼を愛し始めてしまったことを。
だけれども、この恋は結実しない。
光と闇は出逢っても婚姻は出来ない。
それが摂理であり、真理だ。
私はこの日以来、ずっと彼に身を焦がし続けている。
終わりのない神罰のように。
彼が有する聖なる光、浄化の焔に火刑に処されたまま。