ドルあんlog



 ◆◆◆


「あんずちゃん、今日は目一杯に甘えていいからね?」
「……はい?」

 それは、本当に突然だった。
 日和先輩はいつものように私の家に遊びに来ていて。
 私が応接用の紅茶セットを準備して先輩の居る部屋へ戻った矢先で、この発言だ。しかも両手を広げて、いつでもウェルカムな状態で。私はあまりに急すぎるその発言に呆気を取られてしまう。
「だーかーら、甘えていいよ?」
「あの、どういう事でしょう?」
 私はあまりに気味が悪くて、思わず本音を漏らしてしまった。
 日和先輩は、「ん?」と純粋に私の反応をに不思議に思ったらしい。
「何って、あんずちゃんを甘やかしたいだけ」
「突然ですね」
「突然じゃないね? ずーっと前から、そうしたいと思っていたんだよね」
「はぁ」
 ずっと前から。果たして、いつから私を甘やかしてくれようとしていたのだろう。
 そもそも私は今でも十分に甘やかしてもらってると思っているし、これ以上に甘やかされたら、もう戻れなくなってしまう気がしている。
「さぁ、あんずちゃん?」
 両手をもう一度広げて、私がそこへダイブするのを待ち構えている日和先輩。
 紅茶セットをテーブルに置いて、じっと彼の瞳を見つめてみる。
「……」
「……」
 日和先輩は瞳を輝かせながら、私が甘えるのを嬉々として待ってくれている。
 その気持ちを無碍にはしたくないけど、でも。やっぱり他人に甘えるのは得意じゃない。
「ぼくの事、嫌い?」
「いえ、……好きですけど」
 あの熱帯夜の出来事から、私はなるべく日和先輩に『好き』とストレートに伝えるようにはなった。だけど、だからと言ってそのまま抱きついたりとか、そういう事までしてしまって良いのか。何より、私が私の行動に対して羞恥心がある。
「じゃあ、来て?」
「………………………じゃあ」
 日和先輩の眩しいオーラとその甘美な声音に負けてしまって、私は少しずつ距離を縮めていく。
「その距離じゃ、全然だね?」
「日和先輩が、抱きしめてくれても」
「それじゃあ、ダメ。あんずちゃんが抱きついてくれる事に意味があるの」
「……今回だけですよ」
 私はドキドキしながらも、先輩のせっかく好意を無駄にしたくないとゆっくり、ゆっくりと近づいていく。
「はい、あと一歩」
「……すぅ、……はぁ」
 最後の一絞りの前に、深呼吸。目の前には日和先輩の端正な顔が。
「じゃあ、失礼します」
 言って、私は日和先輩の首に腕を回して、軽く抱きつく。先輩は耳元でクスクスと笑っている。
「な、何がおかしいんですか」
「いやね? あんずちゃん、こないだはかなり積極的だったのに、今日はそれを忘れたかのように引っ込み思案だなと思って」
「あ、あれは」
 顔から湯気が噴出したかのような感覚。そういう事もあった。でも、あれは夢のせいであって、私が愛情表現不足なのもあって、たまにはしておかなくちゃと思ってした事で。
「あれは本意だったの?」
「ほ、本意ですよ?」
「じゃあ、良かった」
 すると日和先輩も私の腰に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくれる。
 ひょっとして、今の言葉で安心してくれたのかな。
「でも、あんなんじゃ全然足りないね?」
「え」
「もっと甘えてくれなきゃ」
「も、もっと、ですか?」
 どの程度が、日和先輩の満足してくれる『もっと』なのだろう。私としては、これで十分甘えているつもりなのだが。
 
「キス、してくれる?」
「えっ⁉」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「ひ、日和先輩はキスをご所望なのですか?」
「何だったら、最後までしてもいいよ?」
「さ、最後まで!?」
 目を見開き、驚き過ぎたのか頭がクラクラする。日和先輩はキスだけに留まらず、最後までと仰るか。私はぱくぱくと口を閉じたり、開いたりしてしまう。
「い、いえ。さすがにこの時間に最後まで、というのは……」
「冬の夕方は暗いから、もう夜だね?」
 笑顔で返してくる、日和先輩。
「え、えぇっと」
 戸惑いを隠しきれず、私は言葉を失う。
 
 日和先輩はそんな私をじっと見つめて。
 そっと指先で私の顎を持って、口づける。
「……ん」
 一度だけで止まらず、二度、三度。
 甘やかで、それでいて熱い吐息が、二人から漏れる。
 日和先輩は体重に任せ、私を床に押し倒す。
 
 苦しいのに、止めたいのに。
 こんなにも幸せに感じるのは、何故だろう。
 
「せ、せんぱ──んんっ」
 解放されたと思ったら、また甘いキスを落とされる。
唇を離すその瞬間、ゆっくりと目を開けると先輩とばっちりと目が合って。
 日和先輩はいつもの明るい笑顔とは違う、優しくも艶やかな笑みを見せる。
 
「ふふ。結局、ぼくからしちゃってるね?」
「いえ、その方が私はありがたいんですが……」
 恥ずかしいけど、温かいこの雰囲気が心地好くて。
「あんずちゃんの今の火照った表情は、ぼくしか見られないね」
「……やめてください、恥ずかしいので」
「表情はその気になってくれてるから、次は──」
先輩の目が、ぎらりと鈍く光った。
 そう思った瞬間、感じたことのないような感覚が溢れた。


 気がつくと、日和先輩が愛おしそうに私の髪を梳いていた。
「どう? こうしてぼくに甘やかされるのも、悪くないでしょう?」
「どうなのでしょう……」
 私は後悔と反省という気持ちで、心を支配されつつあった。
 何故あんな甘い事をされて、あんな恥ずかしい反応をしてしまったのだろう、と。
「もしかしてあんずちゃん、ああいうのは苦手?」
「当然です。私はああいうのを好む人の気持ちが分からないです」
 私は思いのままに、感情をぶつけてしまう。
 だけど日和先輩はそっか、と一切責めることもせず、私の髪を弄ぶ。
「……怒らないんですか」
 すぐさま自らの発言を反省し、おそるおそる私は日和先輩に話しかける。
「怒らないね。今日はめいっぱいに甘やかすって言ったからね」
「いえ。ここは叱るべきところだと思います」
「でもあんずちゃん、今ちゃんと心で反省したよね」
「そ、それは」
 何故か、先輩に心境がバレてる……?
 まさか、表情にでも出てしまっていたのだろうか。
「ぼくはあんずちゃんをずっと見てるからね。些細な動きで判るよ」
 その言葉に、顔をぺたぺたと私は触って確認する。
 その行動に日和先輩はくすくすと笑う。
「いつものプロデューサーなあんずちゃんでは見られない、レアな行動だね?」
「もう、何なんですか……」
 日和先輩はうーん、と唸りながらも答える。
「まだまだ、あんずちゃんと意思疎通するには時間が掛かりそうだね?」
「えっ」
「って、思っただけだね」
 もしかして先輩、今のやり取りで傷ついたのかな。
 そんなつもりは全くなかったのだけれど。
「あの」
「あんずちゃん、もう一度訊くね」

 ぼくのこと、好き?

 そう訊ねた時の先輩の顔は笑っているのに、とても哀しく見えて。
 あぁ。私、きっと先輩を無意識に傷つけていたんだと感じた。
 こういうところがいけないんだと、あの熱帯夜で認識したのに。
 どうして、同じ事を繰り返してしまうのだろう。

「……あんずちゃん、泣いてるの?」
「す、すみません。目から勝手に、涙が」
自然と目から雫が溢れて、次第に呼吸すらも自由に出来なくなって。
 自分がいけないと認識して、私は嗚咽を漏らしてしまっていた。
「あんずちゃん」
 そっと頬に触れようとした先輩の手から、私は後退る。
「優しくしないでください。また、私は」
「甘えてしまうから、って?」
 こくり、と私は頷く。
 これ以上甘えてしまうと、本当に戻れなくなる。
 先輩なら大丈夫だって、優しくしてくれるってずるずると怠惰に堕ちていくことだろう。
 そんなの、不公平だ。
 涙は止まらず、頬を伝い続ける。
「あーぁ、せっかくの化粧が落ちてしまったね?」
 それなのに日和先輩はさっきの私の言葉など聞かず、頬に手を添える。
「日和先輩。私、は」
「ぼくが優しくしたいって言ってる。少なくとも今のあんずちゃんに、それをどうこう言う権利は一切ないね」
 それに、受け入れられるよりも拒まれる方が何倍も、何十倍も傷つく。と先輩は強く言う。
「あんずちゃんは、どうやらとんだ勘違いをしているようだね?」
「勘違い……?」
「人の優しさに甘えるのは、全く悪いことじゃないね」
 それが恋人の優しさならなおさら、ね。
「……私は、これ以上に甘えて良いのでしょうか」
「甘えていいのかじゃなくて、むしろ甘えるべきだね」
「でも、明日もお仕事ですよね? それを考えるとあまり負担を掛けるワケには──」
「もう、あんずちゃんってば」
 ぽん、と私の頭に先輩の手が乗せられる。
「そういう余計なこと、今は考えちゃダメだね?」
 頭に乗せられた手は次第に後頭部を通って下に降りる。
 背中でその手にぐっと押された私は、日和先輩の胸に寄せられる。
「ぼくに限ってはもっとちゃんと、甘えて欲しいね」
 そう言った日和先輩の顔は本当に穏やかで。

 紡ぎ出される言葉はまるで、濃厚なミルクチョコレート。
 私は、それを口にせざるを得ないのである。 
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