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愛車のアクセルを強く踏み込み、悶々とその事ばかりを頭の中で繰り返していた。

汗で濡れた唇を見たとき、身体の中の何かが疼いた。そして吸い込まれるように顔を近付けていった。
そう。あの行動はどう考えても……

一回りも年の離れたガキで、しかも男相手に。

確かに最近は仕事も忙しく、女性をお持ち帰りすることは少なくなっていたが、自分がこれほど欲求不満だとは思わなかった。
汗ばむ手で車のハンドルを握りながら、ちらりと隣を確認する。

「ぷは~っ、うまい!」

葛藤している俺をよそに、助手席に座る宏明は、のどが渇いたと言って途中の自販機で買ったコーラをグビグビと飲んでいた。
相変わらず飲みっぷりはいい。そんな様子に俺は少しホッとして、コーラと共に買ってきた缶コーヒーに口を付ける。

「うっ…香りが悪い」


自宅マンションに到着し、地下の専用ガレージに愛車を停めると、長いドライブが終了した。

「あ、隣に赤いベンツがある!」

「それは俺のだ」

「ひぇっ、さすが社長!」

宏明はバカでかい声を地下に響かせながら、俺の後ろに付いて歩く。

「少し食べ物でも買ってくか。上にスーパーがある」

「えー、さっきハンバーガー食べたのに?」

ニヤリと宏明が笑った。

「そっか。あきら全部食べられなかったもんね~」

痛いところをつかれた。
食べられなかった、というより食べたくなかったのだ。正直、もうファーストフードは二度と御免だな。
足早にスーパーへ入り惣菜コーナーへと向かう。

「うわっ、高ぇ~。惣菜でこんなすんの?もう少し待てば割引になるんじゃない?」

明らかに場違いな台詞に、近くにいた店員や客がくすくすと笑い出す。

「おい、声がでかいぞ」

チーズの盛り合わせと生ハムのサラダをカートの中に少し乱暴に放ると、宏明が覗きこんできた。

「なあなあ、そんなんじゃなくて、もっとおかずになるもの買いなよ。唐揚げとかさぁ」

「いいんだっ」

うるさい黙ってろ。今日はハンバーガーやらフライドポテトやらのジャンクフード、加えてさっきのクソ不味い缶コーヒーで俺の胃袋は悲鳴をあげてるんだ。少しは好物で浄化させたい。

会計を済ませてエントランスに移ると、油の臭いが辺り一面充満した。
うぷっ…
仕方なく買ってやった唐揚げを大事そうに抱える宏明は、爛々と目を輝かせていた。

「楽しそうだな、宏明」

「うん。東京の夜景を肴に唐揚げ!って一度やってみたかったんだ~」

「なんだそりゃ」

普通逆だろ。高校生の感覚は滅茶苦茶だな。


「よう、仙道」

その時、背後から突然聞き覚えのある声がした。

「あ…」

「あぁっ、牧紳一!」

慌てて宏明の口を押さえたが間に合わなかった。

「仙道、何だこのガキは?」

眉間にしわを寄せてこちらを睨みつける男――

牧紳一。
プロバスケットボール選手だ。
30歳を過ぎてもプロチームで活躍する、バスケをやっている奴なら誰もが知る名プレーヤー。
彼は俺の一つ年上で、高校時代に全国では殆ど敵なしと言われた俺の、唯一のライバルでもあった。インターハイ常連校、海南大附属高校出身で、未だ神奈川バスケ界で牧紳一は神のような存在である。

そんな彼に会ったのだ。神奈川に住む宏明としては、この上ない喜びであるに違いない。

「あ、握手してください!」

さすがに緊張しているのか、宏明は顔を紅潮させている。

「……ああ、いいよ」

「すいませんね、牧さん。コイツ陵南高校のバスケ部なんです」

「陵南?というと、田岡監督の」

「まぁ、俺の後輩みたいなもんです」

すると、牧の瞳が一瞬怪しく光った。

「ほう……後輩、ねぇ」

「なっ、何ですか、牧さん」

「ほほう……」

握手をしながら宏明を舐め回すように見ると、こちらに向き直った。

「お前、好み変わったな」

「な、何言ってるんですか! 」

確かに、同じマンションの住人である彼は、俺がお持ち帰りしてきた人物を何人も見て来ている。しかし、俺以上にプレイボーイであるこの男……。
直感的に、これ以上宏明を牧の前にさらしては危険だと思った。

「それじゃ。失礼します、牧さん」

ボーっと立ち尽くす宏明の腕を力強く引っ張って、この怪しい空気からそそくさと逃げ出した。


「しかしすげぇな~。牧紳一があきらと同じマンションに住んでるなんてさ。あっ、サインもらうの忘れた!」

「今度貰っといてやるよ」

苦笑しながら自宅のドアを開けると…

「うわ~、やっぱりここからの夜景は最っ高だな!」

予想通り、真っ直ぐに宏明はリビングの窓際へと駆け寄った。
満面の笑みで振り返る。

「あ、まだ電気つけないで。夜景がキレイに見えなくなっちゃう」

「まったく、しょうがないな」

生意気なガキだ…
そう思いながらも俺は、こういう遠慮のない物言いが結構気に入っている。社長という地位を全く気にせず素直に接してくれることが、たまらなく新鮮なのだ。
窓に貼り付いている後ろ姿を見つめ、ふと思う。

もし、これが女だったら、どうだ?後ろから抱きしめて……

っておい!
今日の俺はやはりどうかしている。
自慢のツンツン頭をぐしゃりと掻いた。


「さ、夜食にしよう」

スーパーで買ってきたチーズと生ハムのサラダ、そして食べたくもない唐揚げを皿にのせ、テーブルに並べる。

「おっと、そうだ」

これを忘れてはいけないと、ワインセラーから料理に適当な赤ワインを一本選んだ。

「お前は、これな」

宏明には、この間のオレンジジュースの残りを出してやる。

「1人だけ酒なんてずるいぞ」

「何言ってんだ、ガキが。お歳暮で貰ったのがまだたんとあるんだ。どうせ残れば捨てるんだから片付けてくれよ」

「自分が飲まないからって捨てちゃうんだ?もったいね」

「好きだろ?」

笑いながらジュースを指さすと、「ふん、任せとけ」と言って宏明はいつものようにグビグビと飲み始めた。
相変わらず見ていて飽きない目の前の犬を肴に、俺はいつもより早いペースでワインを胃袋におさめていく。
そして2本目のワインに進み、徐々に気持ち良くなってきた頃だった。

「あのさぁ、あきら」

「ん?」

「やっぱり、何でもない」

珍しく勿体ぶった口振り。

「何だ、気になるな」

暫く沈黙が続いたが、宏明は静かに口を開いた。

「さっき、バスケして転んだ時……俺にキスしようとしただろ」

「……っ!ゲホッゲホッ!!」

ワインが気管に入って思わずむせてしまった。

「なっ、何のことだ」

やっとの事で声を絞り出す。今あの時の事を言われるなんて、まったく計算外だ。

「そ、そんなこと……するわけないだろう」

「そう、だよね。ごめん、忘れて」

そう軽く言って、宏明はオレンジジュースの残りを飲み干した。

俺はその後、言葉に詰まって無言でワインを飲むことしか出来なかった。宏明もそれ以上は何も聞かず、もぐもぐと唐揚げを頬張っていた。


何だか今日は色々な事がありすぎた。久々にバスケで汗を流した疲れと、今までずっと宏明に付き合って来た心労からか、早くも酔いがまわってきたようだ。
3本目のワインを取りにソファから立つと足元がおぼつかない。窓辺で夜景を眺めていた宏明が、そんな俺を見て溜め息をつく。

「ねえ、飲み過ぎじゃないの?」

「あ~?いいんだよ~」

ふらつきながらワインを品定めし、よしこれだと今夜に打ってつけの1本を引き抜くと、それは17年物のワイン……
ははは、宏明の歳にピッタリだろ。
って、何してんだ。これじゃあ、いつも女口説く時と同じ手、だな……

「あは、あははは」

「うわっ、何いきなり笑ってんだよ、この酔っ払い!気持ちわりいなっ」

10分後、とうとう酔いつぶれた。酒に強い俺がここまでベロンベロンになるのは珍しい。

「ほら、もう寝た方がいいって」

「あ~、わぁったよ」

宏明の肩にもたれる形で歩き、やっとのことで寝室へ辿り着いた。

こんな失態、誰にも見せられないが、今夜はしょうがない。
お前だけだぞ、お前だけ……
パタリとベッドへ倒れ込むと、瞬く間に眠気が襲ってきた。

「……きら」

微かに自分を呼ぶ声が聞こえる。

「ん~?」

「……あきら」

フッと頬に柔らかいものが触れた気がした。

「俺さ、あきらのこと……」

耳元で何かを囁かれたが、遠のく意識の中で聞き取ることは出来なかった。




「……ん」

カーテンの隙間から漏れる光で目を覚ました。

枕元に転がっていた腕時計を掴み、寝ぼけ眼で時間を確認する。

「……もう、7時か」

どうやら昨夜は酔っ払って、あのまま熟睡してしまったようだ。
8時過ぎには迎えの車が来る。シャワーを浴びて、コーヒーを入れて、髪をセットして。まだなんとか間に合う時間だ。

「うん……?」

二日酔いで、鉛のように重い身体を起こした時、俺の足が何かにぶつかった。
目を擦りながら焦点を合わせると、隣には小さく丸まった物体。ゆっくり上下に動いて、スースーと寝息をたてている。
恐る恐る布団をめくってベッドの中を覗き込む。そこにいたのは紛れもなく、
昨夜一緒にいた野良犬。

「あっ、ひっ!」

転げ落ちるようにベッドから脱出した自分の姿は……
パンツ一丁だった!

「宏明っ!?」

素っ頓狂な大声に、野良犬の瞳がパチリと開く。

「ひ……宏明、おはよう」

何も、してないよな?
そう訴えかけるように、引きつった笑顔で朝の挨拶。
すると、見窄らしい俺の姿を見つめていた宏明が、ゆっくりと口を開いた。

「あきら……」

「な、何だ?」

向けられた笑顔が意地悪そうに見えたのは、気のせいではなかった。

「責任、とれよな」


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