3ページ


俺が越野宏明という野良犬を介抱したのが、ちょうど一週間前。
あの夜、宏明を東京から鎌倉まで送り届けた俺は、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。
それがなんだ。宏明の通う陵南高校までわざわざ出向き、奴の部活の練習風景を見学し、結果またこの犬をお持ち帰り……

目的は、久しぶりに恩師を訪ねにいくことだった。
こんな貴重な休日に何故、俺は……

隣りの助手席に座る宏明の顔を横目でチラリと確認する。彼はよだれをたらして爆睡していた。
いきなり静かになったと思ったら、これか!
俺は一つ大きな溜め息をつくと、車のアクセルを強く踏み込んだ。


それから30分程して、宏明は自分のいびきに驚いて目を覚ました。

「はがっ……!!」

鼻をすすりながら、まだ眠たそうな目を擦っている。そのお粗末な光景に俺は耐えきれず笑いながら、意地悪そうに声をかけてやった。

「おはよう、寝太郎君?」

「は?あきら、何でここに?」

寝ぼけるのも大概にしろよ。お前が自分で乗り込んできたくせに。

「あー、そっかあ!」

ようやく宏明は今の状況を理解できたようだ。

「なあ、俺けっこう寝てた?」

「ああ、よだれ垂らしてな」

宏明は、へへっと照れ臭そうに笑った。


そう言えば、家を出てから今まで何も口にしていなかったことに気付く。
さすがに腹の虫がうるさくなってきたか……

「おい宏明、腹減ってるか?」

「おうよっ!」

先程まで爆睡してたヤツが、食い物の話でピンピンしている。

「うむ、この辺りだと、あそこのイタリアンがいいか……」

行き着けの会員制イタリアンレストラン。あそこならゆっくり食事をしながらくつろげるだろう。
ま、コイツには少々敷居が高いかもしれ……

「あ~~っ!」

突然の大声で俺の思考はかき消された。

「マックがある!入ろうぜ!!」

「ま、マック??」

な、なんだ?

「おい早く~!通り過ぎちまうぞっ」

宏明の威勢の良さに負けた俺は、素早くハンドルをきって仕方なく"マック"の駐車場へと入る。
俺の、"レストランでゆっくり…"という構想は一瞬にして崩れ去った。

「いらっしゃいませ~」

落ち着かない……

「てりやきバーガーの、ポテトMセット……はい……あ、オレンジジュースで」

宏明は慣れた様子で会計を済ませ、「先に席とっとくぜ」と、さっさと階段を上がっていってしまった。

ファーストフード……か。入ったのは高校の時以来かな。まさか今日のディナーがここだとはな。
くくっと俺は苦笑した。

「あの、ご注文お決まりでしたらお伺いいたします」

女性店員が少し顔を赤らめながら俺に話しかけてきた。

「あ?ああすまない。ええと、君がお勧めのものは何かな?」

「はっ?……今は期間限定のコロッケバーガーがお勧めでございます」

「じゃあ、それにしよう。あとフレンチフライ……じゃなかった、フライドポテトとホットコーヒーで」

「それではセットの方がお得ですので、そちらでよろしいですか?」

「ああ、ありがとう。すまないが……さっきの少年の、てりやきバーガーの支払い。取り消してくれないか?」

「えっ?」

財布からクレジットガードを取り出した。

「これでまとめてお願いする」


「お~い、こっちこっち!」

狭い階段を上がると、奥の4人掛けの席を宏明は陣取っていた。

宏明はさっそくハンバーガーにかぶりつき、フライドポテトも一緒に口の中へ放り込むと、オレンジジュースで一気に流し込んだ。

「おいおい、そんな急いで喉につまらせるぞ」

そう言えば、オレンジジュース飲むのいやに早かったよな……

つい一週間前、初めて宏明と会った夜のことを思い出してしまった。
そうだ、今日はまだ二回目じゃないか。
なのにコイツは、昔から知っているような、懐かしい気分にさせてくれる。
一緒にいて飽きないのは、自分がバスケに熱中していた青春時代を思い出させてくれるからか……。
何てガキだ、と一週間前は出逢った事に後悔していたが、今は少しばかり関わってやってもいいか、なんて思っている自分に驚いている。

必死にハンバーガーに食らいつく宏明を笑顔で見つめながら、決して旨いとは言えないコロッケバーガーを口に運んだ。


「宏明、親に連絡しとけ」

自分の携帯を宏明の膝の上にポンと投げてやる。

「なんだよ、携帯くらい持ってる」

食い物で膨らんだ頬をさらに膨らませて宏明は応えた。

「今日親父と母さん出掛けてるからさ~」

ふうと 俺は溜め息をついた。

「しょうがない、お前今日は俺んち泊まれ。だから連絡して来い」

渋滞にはまって、東京到着が予想以上に遅くなってしまった。
真夜中に鎌倉まで送り届けるのはごめんだ。いったい何往復すりゃいいんだ。
すると膨れっ面が途端に笑顔にかわっていく。

「えっ、いいの?じゃあ電話してくるよ」

宏明は俺の携帯をスッとテーブルの上に戻すと、自分の携帯を握りしめ店の外へ出て行った。

食事の席においては相手の前で電話はしない……よく俺達がマナーとしていることが、あの非常識だと思っていた宏明にも身についていたということか。行動は相変わらずよめないが、よく考えると受け答えは素直だし、部活の様子から礼儀正しさも感じられた。
まぁ、今さっきの行動は、単に会話を聞かれたくなかった、というのが正解かな。

宏明は2、3分するとすぐにこちらに戻って来た。

「お待たせ~」

「なんだ、もう終わったのか?」

「うん」

「何て言ったんだ?」

「へっ、内緒」

宏明はニヤリと笑う。

「なんだそりゃ」

ふっ、きちんと連絡したのか怪しいもんだな。

「おい、もう食い終わったな。帰るぞ」

宏明の手を引っ張り店の出口へと向かった。

「あ~っ、あきら全部食べてないじゃん!」

「むっ、いいんだよ……」

やはり美食家の俺の口には合わなかった。どうも使用している油が悪い。少し胃がもたれ始めている。
うぷっ……

もったいねぇな、とぶつぶつ言っている犬を、半ば強引に車へ押し込んだ。

「俺の家に行く前に、一つ付き合ってもらうぞ」

「えっ?どこどこ?」

「ふっ、内緒」

「あ~、エロいこと考えてやがるな~?」

「何言ってんだ、バカ」

今日第2の目的地へと向かって車を走らせた。



「彰様、お久しぶりでございます」
「ようこそお越しくださいました、彰様!」

ロビーには従業員全員が集結し俺を出迎えていた。その特異な光景に、宏明はあんぐり口を開けまま立ち尽くしている。

「やあ、久しぶりだな。連絡した例の場所、使わせてもらうぜ」

「はい伺っております。ささ、こちらへ彰様」

「……お、おい、あきら」

宏明は俺の上着の端を掴んで不安気な表情で尋ねてきた。

「ここ普通じゃねえな、何だよ?」

「心配するな、ここはうちのジムだ」

六本木のど真ん中にある会員制スポーツジム。
一高校生の宏明が驚くのも無理はない。ここは政界、芸能界、大企業の重役等が利用する、年会費数百万の高級ジムで、俺の叔父が経営する言わば仙道グループの持ち物。
俺が学生の頃は、よくこのジムで身体を鍛えていた。現在は自宅マンションにジムが併設されているのですっかり利用する事はなくなったが、ここを訪れたのは何年ぶりだろう。

「あっ、あの人俳優のっ!」

「こら宏明、ここはプライベートな場所だ。あれこれ詮索はするなよ?」

挙動不審の宏明は、まだ俺の上着をしっかりと掴んだまま、返事もろくにせずに瞳を輝かせていた。

「後は覚えているから大丈夫だ。どうもありがとう」

エレベーターの前にたどり着くと、俺は従業員の付き添いを断りカードキーを受け取った。

「はい彰様、かしこまりました。……それでは、ごゆっくり」

従業員は深々と頭を下げると、チラリと横目で宏明を見やり微笑んだ。何やら誤解されたようだが、そんな細かい事を今気にしていてはしょうがない。

これから宏明を案内するのは、ある意味俺の青春の場所でもある。そこに当時の部員以外の人間を招き入れるのは、初めてかもしれない。
偶然出逢った同門の後輩……
まあ特別に見せてやるよ、俺の気が変わらないうちにな。

「宏明、こっちだ」

少し置いて行かれた格好になった宏明は、急いで俺の元へ駆け寄ってくる。それを待って、俺はカードキーを差し込み重い扉をゆっくりと開けた。

「なんだ?ここ……小さめの体育館、みたいだな」

「ここは、俺が高校時代にプライベートな練習場として使ってた場所だ。宏明、上見てろよ?」

壁にあるスイッチを押すと、天井からバスケットリングが現れ、部屋はあっという間にコートへと変身した。

「すっ、すんげぇ~~!!」

瞳を輝かせコートを見回す宏明に、俺は覇気のある声で話しかけた。

「宏明っ!バスケやるか」

「……えっ?」

「ほら、こっちにボールあるし使ってていいぞ。じゃ、俺着替えてくるから」

「あっ……」

突然のことに戸惑っている様子が、なかなか可愛らしい。
しかし、俺は何をやってるんだ?ただアイツにこの部屋を見せてやるだけだと。
本当はバスケをやろうなんて、さらさら考えてはいなかったんだ。

先程の宏明の顔を見るまでは……。


更衣室から戻ると、緩いドリブルをしながら歩く宏明がいた。
独り残されて少し寂しかったのだろうか、昼間の覇気のある彼とは正反対に大人しそうに見えた。

「宏明、待たせたな」

だが、Tシャツとジャージ姿の俺を見つけると瞬く間に笑みが戻り、頬を赤らめて走り寄って来た。

「いいよ、それ。すげぇ格好いいぜっ」

まるではしゃぎ回る子犬に懐かれているようで、反対にこちらが照れ臭くなってしまう。

ダムダムッと素早くボールを弾ませ、感触を確かめてみた。久しぶりのバスケットボール……心臓が高鳴っていくのが分かったが、これは緊張からではなく喜びから来たものだろうか。

「はっはっ……とりゃっ!」

宏明は俺を挑発するかのように、ドリブルからあざやかなジャンプシュートを決める。傍らで軽くドリブルをしていた俺に、宏明は笑顔でバスケットリングを指差してみせた。
俺にも決めてみろと言うわけか。
コートの後方へ移動すると、リングへ向かって全速力でドリブルを開始した。

「面白れぇっ!」

ボールを右手でつかみあげると高くジャンプした。
その瞬間、「あっ!」と驚く宏明の声が響いた。
俺はそのままリングにボールを……

ダーーンッ!!
叩きつけた。

暫くの間、リングが軋む音と自分の息づかいだけが聞こえていた。
まだ……出来た。そこまで衰えてはいなかったな。

「すっ……すごい、すごいよ!!」

宏明が腕に掴みかかってきた。

「はははっ、先生が言ったとおりだ。あきら、やっぱりすごかったんだ~!」

「あ?ああ……まぁ毎日ジムで鍛えてて、良かったよ……」

あまりにも素直な反応を見せるものだから、まともに宏明の顔が見られない。
顔が熱いのは先程のダンクのせい、だけではないのか……。

「前に田岡先生が俺達に話してくれたことがあるんだ。先生がバスケ部の監督になりたての頃、全国でもほとんど敵がいないくらいの凄いエースがいたって。その人は先生を初めて全国へ連れて行ってくれた天才プレーヤーだったって。やっぱりあきらだったんだな。俺……すごく嬉しいよ」

珍しく真面目な宏明の表情は、とても凛々しかった。

宏明……ありがとうな。

照れ臭くて言葉には出来なかったが、俺は心の中で礼を言った。

「よおし、この天才エースが指導してやろう。宏明っ、1ON1だ!」

「へへっ、自分で言ったな?よ~し、行くぜ!」


俺達は時を忘れ、必死でボールを追いかけた。

ああ、コイツは本当にバスケが好きで好きでたまらないんだろう。
……もし、もしもこのまま俺の歳が若くなって、高校生に戻ったら。こうしてお前と毎日汗かいて、一緒にバスケが出来たのかな。

俺はこの時、初めて今の自分を悔やんだ。


「ふー疲れたっ」

「まいったまいった」

俺達は同時に地べたにへたり込んだ。さすがに1ON1は体力を使う。尋常ではない汗のかきかただ。

「おう、これで汗ふけ」

更衣室から持ってきたタオルを宏明めがけて放ってやる。

「サンキュー」

「さぁて、そろそろ片付けるか」

重い腰を上げ、宏明にリングをしまうボタンを押すよう指示すると、疲れ知らずの彼は勢い良く立ち上がった。
とその時、汗を拭いたタオルが足に絡まりバランスをくずした。

「宏明、危ない!」

咄嗟に腕を伸ばし、宏明が頭から落ちそうになるのを必死に阻止すると、2人して床へ倒れ込んだ。


目を開けると、宏明の身体に覆い被さるようにして倒れており、至近に彼の顔があった。
まじまじと見つめると、一重の瞳は大きく睫毛も意外に長いことが分かる。
な、何をしてるんだ俺は……

「あ、危ねぇじゃねぇか」

「ごめんっ、あきら」

俺の汗がポタポタッと宏明の唇に落ちる。

「あっ」

「すまんすまん」

慌てて唇を拭ってやると、その柔らかい感触にドキリとした。
「しょっぱい」と言って、ペロッと舌を出し苦笑いされた時には、身体が一気に熱くなったのが分かった。一旦は落ち着いた鼓動が、また素早く波打っている。
汗に濡れた唇に吸い込まれるように、俺は顔を近づけていった。

宏明……

「え……あきら?」

プルルルル――!

突然の音に驚いてガバッと身体を起こす。
室内の電話が鳴っていたのだ。立ち上がって慌てて受話器をとりに走る。

「……ああ、ああ……分かった」

それはフロントから、予約した2時間が過ぎたという連絡だった。
受話器を静かに戻すと、まだ座り込む宏明に顔を向ける。

「あ……と、もう時間だそうだ。早く片づけないと、な」

「お……おう」

俺はさっき、宏明に何をしようとした?

俺は……


次へ→4ページ