遠く、迅雷の聞こえる
その姿を見つけた時も彼はスリーピースのスーツを着ていた。荒れた天候に見舞われた空港の薄暗い空を背景に、それは際立って仙道の目に飛び込んできた。
次々に欠航が表示される電光掲示板に重ねて、丁寧ながら緊張感が伝わる放送が続き、出発を待つ乗客で混雑していただだっ広い出発ロビーは落ち着きなくざわめいていたのに、静かに左手首に嵌めた腕時計に目を落とす彼の周りだけは違う時間が流れているようだった。
自分の性的指向はもう心得ていて、だがプロバスケットボール選手という職業柄、慎重には慎重を重ねて生きてきた。それでも、どうしても彼から目を離すことができなかった。仙道は立ち尽くし、窓際に立つ姿が雷鳴に浮かび上がる様を息を詰めて見つめていた。
雷の大音響でロビーがまた揺れるようにざわつく。腕時計から上げた顔が不意に自分を見た。実際には仙道の立っていた背後の電光掲示板を見たのだろうが、それでも心臓が一瞬止まったようだった。
精悍な面差しが見上げたことから緊張感が抜けて見えて、自身の乗る便名を探しているのだろう、瞳が揺れる様はどこか心許ない幼ささえ感じられる。僅かに開いた唇からは白い歯が見えた。美しく灼けた肌の色合いと対照的で、それは何か特別なもののように仙道の目に映った。端正に整えられ綺麗に撫でつけられた髪。だが切れ上がった目尻と力強い眉が人に懐かぬ美しい獣のようだ。
彼の姿は仙道に学生時代の苦く切ない片恋を思い起こさせた。佇む彼の姿がどことなくその人間に似ているように思われるのは、過ぎた日々をより美しく慕う欲目なのかもしれない。手を伸ばせば届くほどにすぐ近くにいる時もあったのに、どうしても思いを伝えることができなかった。ただ見つめるだけだった人。
ロビーがまた大音響に揺れた。視線の先の、彼のかけている眼鏡にガラスに広がった稲妻が反射して、その表情を一瞬隠した。ふっと息を吐いたように見えた次の瞬間には、窓際から離れ、彼は歩き始めていて、どうすることも出来ないのに仙道は焦った。と、その姿があった場所の床に落ちているものに目がいった。カバーのかけられている文庫本のように見えて、仙道は声をかけてくる同僚を振り切って迷わず足を向けた。
大股に歩み寄って、まず落ちていた本を手に取る。思い切って、真っすぐ伸びたスーツの背に「すみません、」と声をかけると、周囲を見回すような仕草の後、背後の自分に気づき、彼は振り向いてくれた。
「これ、落ちてましたよ?」
言って差し出すと、驚いた顔が手に持った本ではなく、自分を見上げてきた。この反応は慣れていた。プロバスケットボールリーグの選手だから、ではない。悲しいことながらこの国ではプロバスケットボールリーグの認知度は低い。そうではなく、190を超す長身と、それから主に異性から褒められることの多い外見。普段の一般生活では面倒なことを連れてくることも多いこれらの自身の特徴も、今はなんでもいいから何か彼の興味を引いてくれ、と仙道は祈った。
「あ…りがとうございます」
驚いたようにどこか呆けたように見上げてくる彼も、仙道ほどではないが長身だった。人を見上げるということに慣れていないのかもしれない。眩しそうに瞬きして、それからやっと差し出された仙道の手にある本に視線を落とした。少し下にあってまた自分を見上げてくる瞳は予想した通り少し色素が薄く、ロビーの照明を受けて眼鏡のレンズ越しに琥珀色に光った。見惚れそうになる自分を叱咤して、何か会話に繋がる糸口を必死で頭の中で探す。
俄かに周囲のざわめきが大きくなった。動き出した群衆に押され目の前の体がよろけた。倒れ込みそうになった体を仙道は咄嗟に支えた。ふわっと鼻を擽った香りに慕わしさが増幅して目眩がするようだった。
何の香水だろう。靄がかかったような頭で辛うじて、「大丈夫ですか?」と聞くと、「あ、ああ、すみません」と仙道の胸についた手を、慌てて彼は引っ込めた。肩を彼に当てた人間は謝りもせずにカウンターへ駆けていく。
「振替か、払い戻しが始まったのかもしれませんね」
「ああ…そうですね」
「あ、すみません、急ぎますよね?」
「いえ、もう今日は諦めました」
「俺もっ…その、今日はここに足止めで」
自分の名を呼ぶ声に気づいて振り返ると、同僚が腕を振り回して移動を促している。それへ「ラインして!」と叫んで返した。
「すみません、お引き止めして」
「いえ! あ、いや…そのー…迎えが! 迎えを待っているんで時間を潰さないといけなくて」
「ああ、俺もです」
口をついたでまかせに、そう言って柔らかく綻んだ笑顔に勇気をもらった。
「よかったら、」
仙道は今まで細心の注意を払ってきた慎重さを忘れていた。踏み出した足はもう止められなかった。
「待ってる間、その、お茶でも、」
途端、目の前の男が笑い出した。吃驚して動けない仙道の前で、一分の隙もなくスーツを着こなした男がおかしくて仕方がない、というように身を折って腹を抱えて笑い続けている。
「おま…おまえ…ははっ! 仙道? だよな?」
「…え…?」
「俺、覚えてないか? 高校の頃に何度か手合わせしたんだがな。国体でも同じチームになった」
「…あ…え…?」
覚えていないわけがない。今も目の前の姿を見て懐かしく切なく思い出していたのに。
「え…牧さん?!」
「当たり」
ようやく笑いを納め、眼鏡を取って涙目になった瞳で悪戯そうに見上げてくる。左頬の黒子。綺麗に撫でつけられた短めに揃えられた髪が、洗いざらしたままの茶色に透けて、若い日の彼の姿が瞬間目の前に蘇った。
ああ…、あんただ。
仙道はただ目の前の人を呆然と見つめるしかなかった。
あの時と同じスーツではないにしても、まるで奇跡のように再会できた空港を思い出していたのは、窓の外に激しく降る雨の音と、体の線に綺麗に添うスリーピースのベストのためだった。上着はすでに脱がれて、仙道が寝そべっているソファの背に雑に掛けられていた。牧は洋服でなくともこんな風に物をぞんざいに扱うことはしない。自分の仕業だ。思いもかけずに会えたことに舞い上がって抑制が効かない。少し苦しそうに寄せた眉をそのままに、牧は振り切るように仙道から顔を持ち上げた。離れていく唇に光る自分の衝動を痕を見上げて、仙道は幸せに頬を緩めた。
「今週は帰国できないって聞いてたから」
開口一番、言い訳のようなセリフに、牧はネクタイのノットに指を差し入れて緩めながら片眉を上げた。そんな仕草すらセクシーでチャーミングで、見惚れて顔の緩みが止まらない。
牧の仕事のスケジュールを聞いてはいたけれども、もしも、と考えて電子チケットを送っていた。自陣の向かいのコート沿いの座席に、タップ前にはその姿を見つけられず肩を落としていたのに。一番見られたくない時に牧はその姿を現した。
「シャワーぐらい使わせてくれ。空港から直行してきたんだ」
「うん、ごめん」
怒ったような口ぶりすらもうれしくて笑みを深くすると、牧は腕を伸ばし、ふっと表情を険しくして仙道の額に触れた。ガーゼが貼られたそこにもう痛みはない。
「大丈夫だよ。目の上は軽い傷でも出血するから」
それでも牧の眉間の縦皺が消えない。アリーナでその姿を見つけた時よりはマシかもしれないけれど。
リバウンド争いに競り勝って、ボールをタップしてポイントに繋げたまではよかった。その後に降ってきた外国籍選手の肘を避ける間もなくモロに額に受けて、気が付けば仙道はコートに転がっていた。ベンチに下がって、止血のためのタオルで包んだ氷嚢越しに、場違いにも見えた完璧なスーツ姿の男が通路に立っているのを見つけた。その視線は今まさに繰り広げられているコート上の戦いではなく、ベンチの自分に真っすぐに向けられている。怖いほどのきつい眼差しは、牧を知らない人間であれば怯えてしまうだろう強さの光を放っていて、だが自分の心を掴んで離さないそれに思わず見惚れてしまう。するとその顔の眉間の縦皺がますます深くなったように感じられて、まずい、と思いつつ、仙道はとりあえずニッコリと笑って手を振ってみせた。
「何してんの?」
治療に当たっていたトレーナーに突っ込まれて、へらっと笑って誤魔化し、通路に立っていたはずの男に目を戻すと、牧は大きく溜息をついたように顔を伏せた。
「顔が見れてうれしくて。まさか試合観に来てくれるなんて思ってなかったから」
「…俺も…」
「なに?」
「…会いたかったのはおまえだけじゃない」
顔を背けてそんなことを言って、背を向けた人の手を思わず取って捕まえた。
「会いたかった?」
「うるさい。離せ」
「ねえ、牧さん。お願い、もう一回言ってよ」
この人がここにいることがうれしくて仕方がない。無理だと諦めていたことが、実現してしまったことが、未だに夢のようだから。今夜だけでなく、これからも自分のそばにいてくれるのだということが。
「夢じゃないんだって信じさせてよ」
「おまえ…」
あの日、空港で牧は笑いの残る顔で自分に付き合ってくれた。迎えを待っている、と言ったのは嘘だと白状すれば、「自分もだ」と明かしてくれた。自分には下心があったわけだが、なぜ牧まで嘘をついたのか。
「俺はすぐにおまえがわかったから」
疑問に思って訊ねれば、そんな答えにならない返事をかえして、どうしてか牧は少し顔を歪めた。
「牧さん、俺あんたのことが好きでした」
一緒に食事を摂り、その後半ば強引に誘ったバーにも付き合ってもらえた喜びで舞い上がっていた。再会したばかりの牧に、気付けばそんな風に長年隠していた言葉がすんなり口をついて出た。それでも重大決心をしたことは確かなのに、牧は心外だとでもいうように眉を上げた。
「…過去形か?」
「え…? や、あの!」
「だよな。知らない俺をナンパしようとしたもんな」
揶揄うような笑顔が憎くて愛しくて仕方がなかった。
「あんたに似てるって! そう…思って…」
何とかそう返すと、横に並んで杯を傾けていた牧の瞳が大きく瞠られた。
「また、会えませんか?」
半ばやけくそになって畳み掛けた。やっちまった感は否めないものの、だからこそもう今更何を取り繕うこともなかった。
連絡先を強請って、仕事や練習の合間を縫って飯に誘い、どうにかこうにか自分でも見苦しい程に手を尽くして、今この腕の中に長い間焦がれ続けてきた牧がいるのだ。未だにこの幸運を信じられなくても当たり前だと仙道は思う。
牧はゲイではなかった。だからなぜ自分といてくれるのか。あまりにしつこいから折れてくれたのか? 聞きたくても聞く勇気が自分にはまだない。その代わりに腕を伸ばせば、仕方ないというように息を吐いて抱き留めてくれる。
「どうした?」
「うん。牧さんが好きだなーって」
「うん」
「…牧さんは?」
「嫌いなヤツの家には来ないな」
答えにならない牧の言葉に少しだけ胸のもやもや感が増した。腕を引いてバランスを崩した体を自分の下に抱え込む。首に鼻を埋めると、あの時と同じ香りが鼻の奥に届いて胸が苦しい。
「おい」
「好きです。俺、本気です」
牧はのらりくらりと仙道の言葉を躱す。今も体の合間に入れた腕で自分の胸板を押して突っぱねようとしている。が、次に続いた言葉に仙道は体の動きを止めた。
「あれは俺の本じゃなかったんだ」
「…え?」
「空港で再会した時。おまえが拾った文庫本」
「そう…だったの?」
あの時のことを思い出そうとしても、自分がとにかく必死だったことしか思い起こせない。本、そういえばどうしたのだったか。
「おまえ…高校の頃は他人行儀だったから」
今日の牧の話しはポンポンと話題が飛ぶ。はぐらかそうとしてるわけでもなさそうな表情で、仙道は手を止めて黙って言葉の続きを待った。
「国体の合宿の時も大学の試合で会った時も。あからさまに避けられてるから嫌われてるのかと思ってたら、バカにしてんのかってぐらいに態度は丁寧で、それでいて振りかえればすぐに目が合った。…鈍い俺でも気付く」
仙道は目を瞠り、それから下に抱いた牧の胸に額をつけた。
バレてた。
若い未熟な自分を突きつけられたようで、顔を上げれば火を噴き出しそうだ。
「でもおまえは何も言ってこなかった。そのまま…なかったことにしようと決めたのだと思った。それなら…だから俺も…」
「…え…」
それって。
目の前の牧のシャツを掴んで、顔を上げると、今度は牧が顔を逸らした。
「本はトイレに立った時に、拾ったと言ってインフォメーションに預けてきた」
「牧さん、」
「もう自分は忘れたと思っていたのに。おまえの顔を見たら一気にあの頃を思い出した。本は俺のじゃないと言えばそれでもうあの場は終わっちまうかと思って。なのにおまえは俺がわからずに、あまつさえナンパまでしてきやがって」
ポコンと裏拳で軽く鼻の頭を叩かれて、思わず目を瞑った拍子に体を牧の下に反転させられていた。
「もう少し反省してろ」
自分を置いてさっさと立ち上がって廊下に向かった後ろ姿を、仙道は呆然と見つめた。
「え、待って…待って待って!」
慌てて立ち上がり、後を追う。いろいろと頭が追いつかないけれど。
「牧さん、俺ずっと! あんたが好きでした! ずっと…。忘れられなかったんだ…。もちろん今も」
「…遅せーぞ」
掴まえて後ろから腕ごと抱き締めて、頑固にこちらを向かない頭にかき口説くと、かわいい恨み言が返された。
「…うん、うん、ごめん。ごめんね」
10年近く経って再会できてやっと言えた言葉。
「あの時本当に会えてよかった。俺も…おまえのことが」
小さく、だが確かに聞こえた「好きだ」の言葉に、仙道はくしゃくしゃにした顔を腕の中の牧の髪に押し付けた。
end