【OP夢】泡沫人【シャンクス】

「さて、改めてよろしくお願いいたしますわ。船に乗せていただいている以上、私も1クルーとして働きますわ。無駄な謙遜はやめてくださいまし、どうかダイとお呼びくださいませ」
 ダイアナをずっと捉えていたピアリスから出航した後、ダイアナはクルー全員の前で堂々と宣言した。宣言するダイアナにクルーたちは若干戸惑ったが、働く気力に満ちているダイアナに、ぎこちなく頷くことしか出来なかった。
「分かった。まずダイ、お前は何が出来る?」
「宝石鑑定、交渉、あとは航海図を読んだり書いたり、海の風を呼んだりすることですわ」
「……掃除、洗濯、食事の準備は?」
「…………」
 ベックマンの問いにダイアナは無言で黙りこくってしまった。ベックマンはスネイクと顔を見合わせた。呆れ返っているライムジュースにベックマンは目をつけ、ライムジュースを指差した。
「ライム、ダイに仕事を教えてやれ」
「え!?おれが!?」
 頼んだぞ、とベックマンはライムジュースの肩をポンと叩き、持ち場へ戻っていった。他のクルーも同じように持ち場に戻っていき、残されたのはライムジュースとダイアナだけになった。
「…………包丁は、触ったことあるか?」
 ライムジュースの問いかけにダイアナは申し訳なさそうに首を横に振った。

「包丁も持ったことすらねェ、箒も見たことしかねェ……ホントにお前、お嬢様なんだな」
「ちょっと黙っててくださいまし!集中しているのです!」
 ジャガイモの皮剥きをすることになったダイアナは、目の前の包丁とジャガイモと格闘していた。ライムジュースは本気で呆れながら、慣れた手つきで皮を剥いていく。ライムジュースが半分終わったときには、ダイアナはまだ四分の一も終わっていなかった。
「まあ、そのうち慣れるだろ。手は怪我してねェか?」
「ええ、大丈夫ですわ。心配してくれてありがとうございます」
 んじゃこれをルゥのとこに、と腰を上げたライムジュースは、少し気まずそうな顔を浮かべたダイアナに気がついた。
「ん、どうかしたか?」
「いえあの……ルゥさんってあの緑のお召し物を着た方ですわよね?私、というか女性が苦手なご様子だったので、あまり関わるのは彼の心境的によろしくはないのかと……」
 自分勝手ですわよね、と笑うダイアナに、ライムジュースは口をあんぐりと開けた。レッド・フォークス号のコック、ラッキー・ルゥが女性苦手なことを初対面で見抜く者は中々いない。それをダイアナはほぼ二日間で見抜いてしまったのだ。
「でもそれじゃあ互いに生活しにくいだろ。一回ルゥにおれが聞いておく」
「ありがとうございますわ、ライムジュースさん」
 ダイアナに礼を言われ、ライムジュースは小っ恥ずかしくなってしまった。堂々としておりながらも、不慣れなことには謙虚である姿勢が刺さったのか、どんどん魅力に落ちてしまいそうだ。
「(落ち着け、これはお頭の女、お頭の女……)」
 そう自分に言い聞かせるように、ライムジュースは心の中で唱えることしか出来なかった。

 そうして家事が全くやったことないダイアナに、ライムジュースは次々と仕事を教えていった。全く慣れない仕事にダイアナはライムジュースの後ろを小鴨のようについていくのに精一杯だった。だが……
「ライムさん!今朝の洗濯と次の食事の下準備ができましたわ!」
「お、おう。早いな」
「仕事を覚える速さは得意ですの。スネイクさんから少し呼ばれているので、失礼いたしますわね」
 いってらっしゃい、とライムジュースとルゥは呆然とその背中を見送った。
「……なあ、ライム。ダイが船に乗ってからどれくらい経った?」
「今日で確か、七日目だな……」
 二人は顔を見合わせてため息をついた。ダイアナが乗船してからほんの少ししか経っていないはず、なのに一週間で完璧にやったことのない仕事を完璧にこなしてしまうようになったのである。その覚えの早さと手際の良さに、皆舌を巻いたものだった。教育係に任命されたはずのライムジュースはもうお役目御免である。
「任せた仕事はすぐ終えちまうし、手際が良すぎるな」
「一週間前、はじめてジャガイモの皮剥きをしたとは思えねェぞ」
「悪い、ダイはいるか?」
 ライムジュースとルゥが話していると、ベックマンが声をかけてきた。
「スネイクんとこ行ったぜ。副船長もダイに用事か?」
「あァ、この間の経理のことでな。ちょっと聞きたいことがあったんだが……先を越されたか」
 首尾よく仕事を終えたダイアナは、ちょくちょくベックマンやスネイクの手伝いさえするようになっていた。領地運営をしていた経験は嘘ではないらしく、いつも大量の書類に囲まれているベックマンとスネイクを文字通り救出したのだ。ベックマンやスネイクが知らない方法で爆速で書類を片付けたダイアナに、二人がその手段を聞き入っているのである。
「服船長まで虜にする腕とは……恐れ入ったぜ」
「領地経営なんて嘘かと思っていたが、まさか本当だったとはな。でなければあの手腕はおかしい」
「え、服船長疑ってたのか?」
「……お頭がああだから、女でも怪しむのは当然だろう。言っていたことが全部本当で、おれも驚いている」
 そんな雑談を交わしていると、今度はシャンクスが顔を出した。
「おい、ダイアナはどこだ?」
「スネイクんとこだ、お頭。ダイは今じゃ引っ張りだこだぜ」
 ダイアナを褒めるクルーたちにそうだろうそうだろうとシャンクスは笑う。
「おれが欲しいわけが分かっただろ、ベック?」
「あァ、あんだけの器で働き者は誰でもほしい」
「けどおれのだからな!おれが落とすんだからな!」
「ホントにできんのかよお頭!今、ダイはお頭に見向きもしてねェぜ?」
 これから落とすんだよ!とシャンクスはガハハハッと笑う。そんな様子をスネイクとの用事を終わらせたダイアナは遠くから眺めていた。

 今日も今日とて船は海の上を進む。朝日が登って、ようやく海賊船も朝を向かえるのだ。
「ふわあああ……」
 レッド・フォース号の胃袋を支えるルゥは、今日も夜明け過ぎにキッチンへ向かった。電気をつけ、シンクを見渡すと、いつも準備されているはずの食材がない。ルゥより基本早起きのダイアナが、女性苦手のルゥのために接触しないようやってくれているのだ。今日は珍しく寝坊したのか、と思いながらルゥは食糧庫に向かうと、食糧庫の扉が開きっぱなしになっていた。誰かが深夜内緒で何かくすねたのか――今日問い詰めなけりゃいけねェな、と思いながらルゥは食糧庫に足を踏み入れた。
「!」
 か細い朝日に照らされて、細見の女性がぐったりと食糧庫に倒れていた。今のレッド・フォース号で女性と言えばダイアナしかいない。思わずルゥは倒れているダイアナに駆け寄った。
「おい!ダイ!しっかりしろ!」
「……っ、はぁっ……はぁっ……」
 ルゥの呼びかけにも反応することなく、ダイアナは顔を真っ赤にして荒い呼吸を繰り返している。胸を大きく上下させて苦しんでおり、額からは尋常じゃない汗が噴き出している。ルゥは周囲を見渡しグッと唾を飲み込むと、悪いな、と一声かけてから震える手でダイアナを小さなダイアナを掌いっぱいに抱えた。
「ホンゴウ!起きてくれ!ダイが大変なんだ!」
 ダンダンダン!と大きな足で床を踏みつけながら男部屋の前で叫ぶと、慌ただしい音と共にホンゴウが飛び出してきた。
「どうした!って、ルゥ!?」
「ホンゴウ!はやく!」
 寝起きのホンゴウは扉の前にいたルゥとダイアナを二度見すると、医務室へ!とルゥを促した。

「ありゃあ、疲労だな。慣れない船生活でずっと気張ってて、溜まっちまってたんだろうな」
 朝からルゥの大声に全員が跳ね起き、医療室へ駆けこんだ。心配なのは分かるが出ていけ!というホンゴウの鶴の一声によって、図体がデカい男たちは甲板に追い出されてしまった。治療を終えたホンゴウは報告を続けた。
「解熱剤飲ませたから、朝のピーク時からは大分熱は引いてる。暫く安静だな」
「――分かった。ありがとうな、ホンゴウ」
 シャンクスが礼を言うと、いやいやとホンゴウが被りを振る。
「礼ならルゥに言ってくれ。一番最初に見つけて、医務室まで運んできてくれたんだ」
「お前が!?よくやってくれたな、ルゥ」
 信じられない、といった目で皆ルゥを見るが、当の本人はしょげてしまっていた。どうした?とシャンクスが優しい声色で聞く。するとルゥは振り絞った声で話し始めた。
「……おれの、せいだ。ダイがよくやってくれるからって仕事を任せすぎた。調子悪いって分かっていたなら、おれが頼まなかった仕事がなけりゃあ、寝れてたんだろうな」
「……」
 ルゥの答えに皆黙ってしまった。とてもよくできる新入りとはいえ、不慣れな生活。体力に自信がある者たちからすれば、ダイアナのキャパシティはとても小さいことが頭から抜けきっていた。
「――そうだな。ダイアナに頼りすぎちまったおれたちが悪かった。ありがとうな、ルゥ」
 その後、シャンクスからの指令により、ダイアナの仕事量が見直されることになった。全然顔に出していなかっただけで、本当にたくさんの雑用という雑用をこなしていたことが発覚した。それぞれ皆少し反省した後、持ち場に戻っていく。風邪はうつしては駄目だからという理由で、医療室は立ち入り禁止となった。シャンクスは一人、呆然と海を眺めていた。

 頭が割れるように痛い。身体が思い通りに動かすことができない。獣のような荒い呼吸が耳元で聞こえる。縛られている手足に縄が食い込んでくる。己の身体中が熱を持つ質量に触れていて、酷く気持ちが悪い。叫ぼうが、猿轡をされているせいで声が出ない。
 誰か、誰か、助けて……!
「たす……け、て……」
 自身の出したか細い声で、ダイアナは目が覚めた。ぼんやりとした視界に入ってきたのは、少し見覚えのある天井。ここはどこであるのか、今の自分が何をしているのか、熱に魘された頭でゆっくり理解したダイアナは身体を起こした。サイドテーブルには、己の診断結果と明日もゆっくり医務室で休むように、とホンゴウからの置き手紙があった。
 ダイアナはか細く息を吐いた。久しぶりに風邪を引いた身体は、寒くて一人が嫌で仕方がない。外は真っ暗だから誰もいないだろう。だが医務室に一人いるのはどうしようもなく心が苦しくて、ダイアナはふらつく身体を起こしてベッドから降りた。
 医務室を出て明かりの灯る部屋に導かれるよう、ダイアナは歩く。まるで蛾のようだ、と思いながらも、重たい扉を開けた。
「――ん、あァ、ダイアナか」
 食堂で一人、晩酌をしていたのはシャンクスだった。フラフラしているダイアナの肩を抱くと、椅子に座らせてくれた。
「こんな夜更けに起きちまうとは、随分と疲れているみたいだ。水いるか?」
 シャンクスの優しい声がさっきまで冷え切っていた心臓に染みわたっていく。降り積もった雪を溶かしていくかのような、温かい陽射しのようなシャンクスの眼差しに、ダイアナは目が離せなくなった。太陽のように暖かくて、頼りになって、一番の友人。手を伸ばして掴みたくなる、そんな人に、ダイアナは目を囚われてしまった。うんともすんとも言わないダイアナに苦笑しながらも、頬を指で優しく撫でてくれる。自分より低い体温が心地よくて、思わず頬を摺り寄せた。
「一人で寂しかったのか?全く、可愛い奴だな」
「……しゃ、んくす……」
「ん?」
「……むかしの、ゆめを、みましたの。はじめて、ふねにのせられて……すきにさわられたひのことを」
「…………」
「それがいやで、わたくしは……うぅ、ひっく……」
 熱に魘されて情緒不安定になっていたダイアナは泣き出してしまった。何のことを話しているのかなんとなくでも察することができる。それがいい思い出でないことは、ダイアナの涙から痛いぐらい伝わってきた。
 ダイアナの頬に触れていた指を顎、首につたわせ、背中に手を這わす。決して力は込めないで、あやすようにトントンと叩いてやると、ダイアナはシャンクスの胸元に頭を押し付けてきた。
「――怖かったな、辛かったな、苦しかったな」
「はい……」
「だが、もう大丈夫だ。お前の嫌なものは全て跳ねのけてやる。だから、安心して寝ちまえ」
 背中を優しく摩ってくる手に、ダイアナは懐かしくて心地よい感触を思い出した。遥か昔、テトリーについたばかりのとき、抱きしめてくれた手を。どうやっても涙はとめどなく溢れてきて、シャンクスの服を濡らしていく。それでいい、とシャンクスは手に力を込めてダイアナを抱きしめた。
 ダイアナが泣き終えると、シャンクスは片腕でダイアナを優しく抱き上げた。ゆっくりゆっくりと廊下を歩き、医務室のベッドにそっと降ろしてくれた。
「さあもう夜も遅い。嫌なことは全部涙で流しちまったからもう寝ちまえ」
 おやすみ、とシャンクスはタオルケットをダイアナにかけてくれた。もうトロンと眠くなってきているダイアナを見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。
 だが。
「……そんなことされちゃあ、晩酌の続きができねェな」
 ダイアナにぎゅっと腕のない方の袖を握られてしまった。いかないで、という小さな彼女の願い。そんなもの無下にできるはずがない。仕方ねェな、とシャンクスは嬉しそうに笑うと、寝転ぶダイアナの横に腰かけた。
「寝付くまで傍にいてやるさ。もう目を閉じろ」
「しゃん、くす」
「ん?」
「て、を……」
 手?とシャンクスは腕をダイアナの方に寄せてくれた。普段は剣を振るう太く強く逞しい腕。伸ばしてくれた腕を両手で抱え、ダイアナは目を閉じてしまった。
「…………」
 暫し脳がショートしたシャンクスは大きなため息をつくと、これじゃ寝れねェな、と一人笑った。ならば、とシャンクスも身体を横たわらせ、一緒のベッドに転がった。もうダイアナはすーすーと規則的な寝息をたてている。仕方ねェな、とヘラヘラ笑いながら、シャンクスも目を閉じた。

「言い訳はいい、なんでダイと一緒に寝てるんだお頭」
 おれは立ち入り禁止だっつったよな?とホンゴウはシャンクスに問い詰める。ダイアナが倒れた日の翌朝、様子を見にきたホンゴウは、ダイアナと一緒にグースカ寝る我らがお頭を発見した。ダイアナに異変がないかだけを真っ先に確認し、無事なことが分かると、シャンクスだけを器用にベッドから引き釣りだし、冒頭の説教にうつった。
「おれの言い分を聞いてくれホンゴウ!誓って何もしてねェし、ダイアナが……」
「そんなこと信用できると思うか?」
 ホンゴウに詰められ、シャンクスはタジタジである。廊下に正座されて公開説教が始まろうとしたときだった。
「お、お頭は、悪くありませんわ!」
 医務室の扉が開き、、ダイアナが出てきた。昨日より幾分か血色はマシになっている。説教お放置して、ホンゴウはダイアナに駆け寄った。
「大丈夫か!?起き上がってもつらくはねェか?」
「ええ、大丈夫ですわ。それよりも、ホンゴウさん」
「あ、お頭のことか。心配するな、大丈夫だから」
「いえ、そうではなくて……私が無理を言って朝まで隣にお願いしたのです」
 ダイアナの弁明に全て同意し、シャンクスは激しいくらい首を縦に振った。
「…………なら、そういうことにしておいてやるよ」
 ダイはまだベッドにいろ、と指示しホンゴウは去っていった。ホンゴウが去った後、ダイアナはシャンクスに向かって深々とお辞儀をした。
「昨晩は、その……動乱していた私にお付き合いいただきありがとうございましたわ」
「ん?あァ、いいんだ。一人の夜は寂しくて当たり前だ」
 でも、と反論しそうになるダイアナの頭を優しくなでる。
「おれに零したことは内緒にしてやる。また一人が耐えきれなくなったら、いつでもおれのところに来い」
 もう少し寝とけ、とシャンクスはダイアナを促し、ベッドに入らせた。目を瞑ったことを確認すると、シャンクスは足音を消して医務室を後にした。
「…………」
 また一人きりになった医務室のベッド。熱はもう引いているので、身体はもう元気なのだが。別の要因でダイアナの心臓は煩く跳ねていた。昨晩の己の失態に加えて、それに真摯に対応してくれたシャンクスの優しい言葉と、その眼差し。思い出すだけで心臓は酷く高鳴り、頬が赤く染まっていく。
「(な、なんで……!こんなことで私が……!)」
 簡単に動いてしまいそうになる己と、抑えられない気持ちを発散したくて、ダイアナは枕に頭を埋めて、足をバタバタさせた。
 この感情の正体は知っている。だが、決して向けない、向かうことはないものだと思い込んでいたものだ。
「(あの、シャンクスに……まさか、私が、私という人間が……!)」
「惚れ込んでしまう、なんて……」
 ダイアナの小さな小さな独り言が医務室にポロリと溢れた。

 二日間の療養を終え、ダイアナがまた船内っで働く姿を見るようになった。変わったことと言えば、ルゥとの距離が適切なものになったこと、そして――
「……はぁ」
 不意に出るため息が増えたことである。理由は分かっているのだが、解決策が見当たらない。いつものダイアナであれば、策が見つかるまで奔走するのだが、今回ばかりはそうも言ってられなかった。
「そんなため息ばかりじゃ、飯が不味くなるぞ」
 いつものようにジャガイモの皮剥きをしていると、ライムジュースがダイアナに話しかけてきた。ダイアナの横に腰掛けると、自分も皮剥きを始める。
「そんなに出ておりましたか?」
「あァ、随分と悩んでいるみたいだな」
「そう、ですわね……」
 ダイアナはまたため息をつくと、皮剥きに集中し始めた。が、単純作業になってしまうとまた考え事をしてしまう。よくないサイクルだと、ダイアナは頭を振った。
「お前がそこまで悩んでるのは珍しい気がするな。頭の切れるアンタなら、すぐ解決策を練りそうなもんなんだが」
「普段だったら、ですわ。今回はそうともいかないのです」
 ふうん、とライムジュースは返事すると、最後のジャガイモを箱に放り投げた。すぐにキッチン持っていかず、それで?とダイアナに続きを促すように首を捻った。
「?何をなさるおつもりですの?」
「お前、人に相談とかしたことないタイプ?」
 そんなことないと首を横に振り、なんでそんなことを?と心底不思議そうにライムジュースを見つめ返した。
「だーかーら、ちょっとは話聞いてやるっつってんだよ!そんなにおれが信用ならねェのか!」
 若干キレ気味に宣言したライムジュースに、ダイアナは意表を突かれた猫のような顔になる。誰かに相談する、という選択肢がダイアナの中になかったのだ。
「信用ないことはありませんわ。ただ、その選択肢が思いつかなかっただけなのです」
 聞いていただけますか?と恥ずかしそうにお願いするダイアナにおう話せや、とライムジュースは先を促した。
「ライムさんは、《ノブレス・オブリージュ》という言葉を聞いたことがありますでしょうか?」
「いや、聞いたことねェ」
「なんだそれ、新種の調味料か?」
 知らないと首を横に振ったライムジュースに、様子を見に来たルゥも加わった。そのまま立ち去る様子もなく、ライムジュースの隣に腰を下ろす。ダイアナは気にする素振りは見せず、そのまま話を続けた。
「《ノブレス・オブリージュ》とは、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという道徳観のことですわ。今思えば、私は物心ついたときから、この考えを突き通してきましたの」
 ダイアナは今までの半生を振り返るようにスラスラと話し始めた。ライムジュースもルゥも遮ることなく聞く姿勢をしている。
「どんなことがあれど、私は貴族――ランカスター家であるというのが全ての行動指針でしたわ。自分の思考、人間関係、そして嗜好。自分の意志ではあるものの、半分は違ったようなものでしたの。だからこうして、全ての意志が私のものである時間ははじめてなのですわ」
「おれからしちゃあ、そっちの方がちょっとずれてる気もするが……貴族ってのは全員こうなのか?」
「そうではありませんから、日々世界中で争いが絶えないのですよ。勿論それだけではないはずですが」
 それで、とダイアナは話を戻した。
「つまりは、その……はじめて私の自由意思で……んん……」
「もう言っちまえよ、悪いが全員知っているぜ」
「え!?」
「おれでも分かったぞ。めちゃくちゃ顔に出るタイプだな、ダイは」
 言おうか言うまいかで口をもごもごさせていたダイアナは、予想外のライムジュースの指摘に分かりやすく動揺した。ルゥにまで知られていたのなら、とダイアナは覚悟して続きを口にした。
「私は、その……私自身で、はじめて人を……好きになったのです……うぅ、恥ずかしい……」
「それは知ってる。んで何を悩んでるんだ?その何とかブリージュ?ってやつに関係あるのか?」
 ライムジュースの問いにゆっくりとダイアナは頷いた。
「こんな全てを投げ出してしまいたくなるほど、強烈な衝動に駆られるのははじめてのことです。それこそ、その先の旅路まで、ずっとこの船にいたいとまで思ってしまうほどに」
「「!!!」」
「でも、それは《ランカスター・ダイアナ》からすれば、決して許すことができないこと。勿論、私は自由意思でテトリーに帰りたいのです。でも、この痛みをずっと打ち明けぬまま、テトリーまで過ごすのは、痛くて苦しくて……仕方がないのです」
 今のダイアナは、テトリー領主である《ランカスター・ダイアナ》と何者でもないただの《ダイアナ》の間で揺れ動いている。この葛藤はダイアナにしか解決できない問題でもあるのだ。
「……悪いが、おれはお頭に身を誓っている身だ。だから《ランカスター・ダイアナ》には協力できねェな」
 おれもだ、と頷くルゥに、存じております、とダイアナは返した。何かアドバイスが返ってくるとは思ってない。ただ話を聞いてくれるだけで少し心が軽くなった気がした。
「お頭はアンタを酷く気に入ってる。もし両想いだってお頭に分かっちまったなら、どんどん誑し込まれちまうぜ。《ランカスター・ダイアナ》を守りてェなら気をつけろ」
「ええ、あの方の人誑しっぷりは私もよく存じておりますから……というか、何故お、お頭が今話題に」
「だってダイの好きな人ってお頭だろ。これで副船長でしたーなんてことがあったら、解散させられるぜ」
「飯のときは隣を絶対確保したり、隙を見つけては二人っきりになろうと口説いてたりしてたもんな、お頭」
「え、あ……え?」
「……もしかして、気づいてなかったのか?」
 ライムジュースの信じられんといった目線からダイアナは目線を逸らした。ダイアナが思っていたより鈍感であることが分かったライムジュースよルゥはあんぐり口を開けることしか出来なかった。

 悩み事がどんどん大きくなることで、中々寝付けないことが多くなってきた。タオルケットに包まっているだけでは、どうにも気を紛らわすことができない。またベッドを抜け出して、ダイアナは甲板に出てきた。夜の海風が吹き付ける甲板は少し寒い。風除けを持ってこればよかった、と思いながらダイアナは淵に寄り掛かった。
 暗い空には月が浮かび、満天の星空が広がっている。テトリーでもスーニュエでもピアリスでも見ることがなかった景色にダイアナは思わず息を吐いた。
「一人が耐えきれなくなったらいつでもおれのところに来いって言ったのに、空を相手に選んじまうんだな、ダイアナ」
 いつの間にかダイアナの背後に現れたシャンクスは、後ろからすっぽりとダイアナを包み込んでしまった。少し冷えた身体と想い人と距離が急接近し、ダイアナの頬は一気に赤くなる。可愛いなァ、と思いながらシャンクスはダイアナの肩に手を置いた。
「あの、私は一人が耐えきれなかったから、ここに来たのではなくて……その、考え事をしておりましたの」
「考え事?悩みか?」
「…………ええ」
 ダイアナがコクリと頷くと、更にシャンクスは身を寄せてきた。酔っぱらっているのか?と思ったら口は酒臭くない。こういうのを《あぴーる》というのだろうか、とどこか他人事のようにダイアナは思った。
「悩みなんて珍しいな。テトリーのことか?」
「……そうでもあってそうでもないですわ」
「おれに話せることか?」
 優しくも真剣な声色で聞いてくるシャンクスに、ダイアナは暫し返答を迷った。ライムジュースから警告をもらったばかりだというのに、でも、という想いが止められない。ならば、とダイアナは覚悟を決めて口を開いた。
「…………私は、今はじめて|私《ダイアナ》でいるのです。こんな時間、この船に乗るまではありませんでしたわ」
「そんな不自由な世界で、ずっと暮らしていたのか」
「不自由ではありませんのよ。ただ、方針が全て《ノブレス・オブリージュ》に即していただけですわ」
「…………」
「ここに来て、いっぱいはじめての体験をしましたわ。知らないことがまだまだあるとも、思い知らされました。そして――はじめて、恋をしたのもここですわ」
「!!!」
 シャンクスの目が大きく見開かれる。ダイアナはするりとシャンクスの腕から離れると、正面からしっかりとシャンクスを見つめた。
 それは意思が籠ったはじめての色が込められた瞳だった。本来の彼女の瞳は、夜の中で光り輝いている。月光の中、ダイアナは一歩シャンクスに近づいた。
「生まれてはじめて、私は|私《ダイアナ》の意思で、貴方を好きになりました。どうしようもなく焦がれて、もっと先を見てみたいとまで思ってしまうほどに」
 とめどなくダイアナの口から本音が零れてくる。シャンクスは目を逸らさず、ダイアナを見つめ続けた。
「テトリーにつけば、私は《ランカスター・ダイアナ》になってしまうでしょう。それをずっと、八年間望み続けていたのですから。ですが、今この短いひと時だけを、|私《ダイアナ》に残された最後の時間を、シャンクス――貴方を心から愛することに誓ってもよろしいでしょうか?」
 どんな取引や発表の場より、緊張していた。紛れもないダイアナの本心で、真っ直ぐな答え。そして、シャンクスが渇望してやまなかったもの。限られた時間ではあるが、望んだ時間がそこになるのならば――
 シャンクスは俯いてダイアナに近づき、しっかりと抱きしめた。片腕なのにしっかりと守られている気分になり、ダイアナは幸福感に包まれた。
「――――本当にお前はズルいなァ、ダイアナ。おれが好きだって言っておきながら、ちゃんとテトリーに着くまでって決めている。ずっと、おれの傍にいりゃあいいのに」
「最初からそれはできないと分かっておりましたの。だからこそこの短い時間を」
 答えようとしたダイアナの口を、シャンクスはもういい、というように唇で塞ぐ。触れただけでシャンクスはすぐ離してしまった。
「時間なんて気にするな。あァ、可愛いダイアナ。おれのところまで、やっと来てくれた」
「シャン、クス……」
「時間の制限はあるが、おれに愛を誓ってくれた。それが何より嬉しい。だからおれも誓おう。お前の全てを手に入れるための愛をな」
 月夜に昼間とは全く違う顔で笑うシャンクスに、ダイアナは目を輝かせた。自分からシャンクスの胴体に身体をこすりつけ、逞しい背中に腕を回す。これだけで幸福で仕方がない。
「もし、《ランカスター・ダイアナ》を捨てた私を手に入れたのなら、どうするおつもりですの?」
「……そうだなァ。そん時は永遠の愛を誓おうか」
 月明かりの逆光を浴びたシャンクスは、再びダイアナの唇にキスを落としたのだった。

「――テトリーに着くまで、ねェ……」
 ため息が少なくなったわけをダイアナに聞いたライムジュースは、またもや呆れたように呟いた。以前警告はしたはずなのに、いつの間にか堕ちてしまっているのである。どうしようもねェな、と思う一方でお頭の人誑しは公爵令嬢でさえ堕としてしまうのか、と舌を巻いた。
「この先這いずり上がるのは難しいぜ、おれは言ったからな」
「ええ、勿論です。私もこのことを人様のせいにするつもりは一切ありませんので」
「そういうところは、本当にそのままなんだな」
 よく分からねェ、とライムジュースは零した。彼女がいう《ランカスター・ダイアナ》の人物像は見えないが、このままずっといりゃあいいのに、とどこかでそう思うライムジュースであった。

 機嫌が最高潮にいいお頭と、ため息が少なくなって顔が明るくなったダイアナを見て、クルーたちはようやっと二人が一緒になったことを察した。だが特に特段何か変わったわけではなく、いつも通りの日常が過ぎていった。だが時が過ぎていくことは、時間が擦り減っていくのと同じ。テトリーに着くまで刻々と時間は擦り減っていった。
「――なァ、ダイアナ。本当にずっと船に乗らねェか?」
「乗りません、と申しておりますでしょう」
 自身の部屋にダイアナを招いたシャンクスは、自分の胡坐の上にダイアナを座らせて甘えることが多くなった。最初こそ戸惑ったダイアナだったが、二人だけならと日々慣れていき、今や新聞を読む余裕すらある。
「本や新聞ばっか読んでねェで、おれを構ってくれ」
 甘えたなシャンクスは、ぐりぐりと頭をダイアナの肩に押し付ける。仕方がない、とダイアナは新聞をたたみ、シャンクスの頭を撫でた。嬉しそうに目を細めるシャンクスは、あの賞金首の海賊とは思えない。子犬のような愛らしささえ覚える。だがそれは、ダイアナの前だけに限っての話ではあるが。
「お前に撫でられるのが一番落ち着くな」
「そんな子犬のようなことをおっしゃって……」
「好きな女に触られるのは心地がいいんだ」
「……それは、私もです」
 ダイアナが照れくさそうに言うと、シャンクスはニンマリと笑って、おりゃあ!とダイアナを抱き上げた。くるりと自分の方を向かせて、胸元に顔をぐりぐり埋める。両想いになってからも、シャンクスとは性的な接触はない。キスでさえも触れるだけであった。それがダイアナが決めた最終ライン。この一線だけは越えては駄目だ、と心に誓っていた。
「――ダイアナ」
 シャンクスははしゃぐのをやめて真剣なトーンの声でダイアナを呼んだ。どうしましたの?とダイアナは何事もなかったかのように聞く。
「あと三日で最後の補給地に着く」
「ええ、テトリーとも取引でお世話になっている島ですわ」
「――何かやりたいことはねェか?なんでもいい、お前が言うなら何でも叶えてやるさ」
 何でも、とダイアナは息を飲む。これが最後、とシャンクスもどこかで思っているはずだ。だからこそ、こうして真正面から真剣に聞いてくるのだ。
「……そうですわね。まずデート、というものをしてみたいですわ。人の目を気にせずにシャンクスと町を歩いて、気にいるものがあれば買ってもいいですわね」
「あァ、しよう」
「それと、安いものでいいですからイブニングドレスが必要ですの。もう八年も経っているので、テトリーには私のものは残っていないでしょうから」
「気にいるのを存分に探せばいいさ」
 他には?とシャンクスが聞けば、ダイアナは首を横に振った。我慢しているのではなくて、本当にないことはその視線でもう理解できる。
「じゃあ、最後に二人で晩飯にでも行こう」
「最高ですわね」
 シャンクスの提案にダイアナはとても無邪気に微笑み返した。

 航海士スネイクの読み通り、予定の日程でレッド・フォース号はテトリーに着くまで最後の補給地についた。到着したばかりの船はせわしなく、皆バタバタと動き回っている。ダイアナも例外ではなく、船内を駆け回っていた。
「おう、ダイ。ちょっといいか?」
「副船長、どうしましたの?」
 ふと廊下ですれ違ったベックマンがダイアナに声をかけてきた。どうしたのだろうと足を止めると、重たそうな小袋をダイアナに手渡した。
「この間話していた、まあまあいい宝石たちだ。換金しようと思うんだが、どれくらいの値段になるか予想はつくか?」
 ダイアナは渡された小袋からいくつか宝石を取り出し、じっと眺める。ランセンダでの上層取引できるものはないが、まあまあいい代物たちだ。
「そうですわね。少し雑用がありますから……一時間ほど待っていただければ」
「分かった。ウチも財源が無限じゃねェからな、金はあるだけ有り難いんだが……」
 ベックマンは分かるよな?とダイアナに目線を寄越してくる。その意味を悟ったダイアナもこれまた悪い笑顔を浮かべた。
「おいくらほど、ご入り用ですの?」
「……できるだけだ」
「分かりましたわ。一時間後、甲板でよろしくて?」
「あァ、頼む」
 最初で最後になるであろう大仕事にランセンダルの元総合運営役であるダイアナは、珍しくワクワクした気分になった。

「いやあ、流石ダイアナだ!五十万ベリーが百八十万ベリーに化けちまうとはな!」
 鑑定所を後にしたシャンクスはニコニコ笑顔でダイアナに話しかけた。鑑定師は屈強な大男を二人従えたダイアナとその断言するような言い回しに負け、査定額をふんだんに持ってしまったのである。
「これくらいならば盛ってもよろしいかと。まあ、誤差で許される範囲ではないのですが」
「お前も悪いことするな、ダイ」
「まあ、副船長ができるだけとおっしゃいましたからですわ」
 悪い顔で笑うベックマンとダイアナに、シャンクスは声を上げて笑った。船を止めている港までくると、ここまででいい、ベックマンは足を止めた。
「ダイはこれからお頭とデートなんだろ?もう船の用事はねェし、めいいっぱい楽しんでこい」
 あとこれも、とベックマンはダイアナにずっしりした小袋を手渡した。先程鑑定所で手渡された換金全てである。
「何故これを私に……?」
「文字通り、お前が稼いだ金だ。ドレスが入用なんだろ、これくらいあれば好きなのを選べるはずだ」
 ベックマンの気遣いにダイアナはぱああっと顔が明るくなる。ありがとうございますわ!と九十度頭を下げた。
「お礼はお頭に言ってくれ。発案したのはお頭なんだ」
「シャンクスが……!?」
「いい案だったろ?これで心置きなくデートにいけるな」
 目の前でいちゃつきはじめるシャンクスとダイアナに、早く行けとベックマンは手を払った。ダイアナはもう一度頭を下げてから、シャンクスと楽しそうに町へ繰り出していった。

 町は活気にあふれていて、見る物全てが魅力的に見えてくる。それは隣にシャンクスがいる影響だろうか。その熱でもいいと思えてしまうほどに、心はすっかり絆されていた。
「いい町だな」
「ええ、そうですわね。人も多いし店も豊富、潤っている証拠ですわ」
 雰囲気もどこか懐かしい、生まれ育った港町を思い出させる。そう思うと、心の内側から温もりがじわじわと溢れてきた。つい見とれてうっとりと歩いていると、後ろからグイと手を引かれた。
「おっと、こりゃあ逸れそうだな」
 シャンクスは町に夢中になっているダイアナの手を取り、自身の手と互い違いになるように組みなおした。所謂恋人繋ぎにみるみるうちにダイアナの頬が染まっていく。ようやく自分の方を向いてくれたダイアナに笑いかけ、さあ行こうと足を踏み出した。
「町に見とれるのもいいが、おれにだって見とれてくれよ?」
「っ!」
「ハハハッ!さあどこへ行く?」
 はじめての町で、好きな人と歩く――御伽噺のような光景をダイアナは心の中めいいっぱいに噛み締めた。

 「ね、本当によろしいですの?」
 町一番の大きな服飾店に連れてこられ、ダイアナは何度もシャンクスに聞いている。船にいる間ならこうもならなかったダイアナがここまで何度も繰り返し問うのだ。
「別にいいって言ってるだろ、好きなの選べよ」
 それともおれが選んでいいのか?とシャンクスは笑う。じ、自分で選びますわ!とダイヤは頬を染めて何着もドレスを手に取る。いつもよりも真剣な顔をして、ダイアナはドレスを選んだ。その横顔をシャンクスは微笑ましく眺める。もうこうして彼女の顔を間近で見る機会もないのだ。
「ど、どうかしら」
 ようやくこれだ!と決めたドレスを来て、ダイアナはシャンクスの前に立った。デコルテと肩を露出させた大胆なデザインに、トップスから裾にかけて真紅から白のふんわりとしたグラデーションのイブニングドレス。
「いいじゃねェか、よく似合ってる」
 セットされたミルクベージュの髪をシャンクスは弄った。耳元に顔を近づけると、その色は分かってて選んだのか?と聞いた。
「……どういうことですの?」
「聡いお前のことだ、分かってるんだろ?」
 目の前の男の前で選ぶ色じゃねェよな、とシャンクスは自分の髪を触らせる。今まで平然を装っていたダイヤの頬がどんどん赤く染まっていく。
「どうだ、このままさらっちまおうか」
「ば、馬鹿言わないでくださいまし!」
「ハハハッ、分かってて選んだんだな」
「っ――!!!そ、そりゃあくれるのならば、思い出くらい込めて選んでもいいじゃっ、ないかしら?」
「ほぉぅ???」
「……何ですの」
 もはや逆ギレの域まであるダイアナの言い分。それを聞いたシャンクスはにまっと嬉しそうに笑った。
「そりゃあ余計に手放したくなくなるなァ」
 ラディアナ国の貴族の娘にとって、男にドレスを贈られるのはまた特別の意味がある。それは男が女に送る一種の誓いであり、約束だ。《もう貴女のことを忘れません》と誓う愛のものでもある。あともう少しで、シャンクスとはお別れだ。ドレスを送る意味は知らなくとも、この時間を与えてくれたシャンクスに、ダイアナは嬉しくなった。

 町を二人で歩いて、希望通りのドレスも手に入れた。日が落ちてくると、ここにしよう、とシャンクスが手を引いてくれる。重たい扉を開けてくれたら、そこは雰囲気のいい大人のバーだった。
 静かな音楽が流れ、客も疎ら。冷えすぎた冷房が心地いい。シャンクスはカウンターにダイアナを先に座らせると、マスターに適当なつまみとウイスキーを注文した。
「念願のデートはどうだった?」
「とても、楽しかったですわ。ずっとこの日が続けばいい、と思ってしまいそうになるくらいに」
「続けねェのか?」
 シャンクスがそう聞くとダイアナはやはり首を横に振った。その答えだけはダイアナはイエスと言ってくれないのだ。目の前にウイスキーが置かれたことで会話は自然に中断した。
「今日の一日を祝って、乾杯」
「――乾杯」
 静かなバーにグラスの音が響く。もうここからは違う世界だと薄暗い明かりが告げていた。

「この八年間は散々なものでしたわ。よくない思い出の方が圧倒的に多いのも事実です」
 ウイスキーを一、ニ杯飲み進めたダイアナは、頬と耳を赤くして珍しくしない己の話を打ち明け始めた。酔いが少し回ってきたのだろう、若干舌足らずな口先が可愛いと思いながら、シャンクスは耳を傾けた。
「でもこの最後の航海は、何事にも変えられないくらい楽しかったですわ。改めてお礼を言わなければなりませんわね」
「礼なんていい、それよりこの先もお前がついてきてくれればいいさ」
 酔っていてもそれは駄目だ、と首を振る。酔っていても駄目なのか、ダイアナの意思は岩のように固いようだ。
「出来ないご提案はするものではなくてよ」
「おれはできる提案をしているつもりだったんだがなァ」
 やっぱり駄目か、とシャンクスはへにゃりと笑う。耳を垂らした子犬のような表情に息が詰まる。駄目だと分かっていながらも、特別な空間とタイムリミットがダイアナを揺すぶらせてくる。シャンクスの切ない顔が何よりもダイアナの心に刺さった。
「……一つ、お願いがございますの」
 聞いていただけませんか?とダイアナは声を潜めた。内緒話を聞くように、シャンクスはダイアナにそっと近づいた。
「|私《ダイアナ》にはもう時間がないのです。ですからこの恋心を仕舞い込んでしまう前に、なるべく嫌な思い出は消してしまいたいのです」
「……どういうことだ?」
「私の、過去の男を、全て忘れさせていただけませんか?」
 震える声でダイアナはシャンクスに懇願した。駄目だと理性は分かっている癖に止まれない。シャンクスの手を取り、祈るように両手で握った。
「……何を言っているか、分かってるんだろうな?」
 シャンクスは決してダイアナには聞かせたことのなかった低い声で囁いた。頬を真っ赤に染めたダイアナは、握った手に頬を摺り寄せて頷いた。
「私のお願い、聞いていただけますか?」
 ここまで誘われて、断る男はいないだろう。シャンクスの手に顔を寄せたダイアナをぐっと手繰り寄せ、予告なしにキスを落とした。
「!」
 いつもする子供のようなキスではなく、口を開けさせ舌を絡める、全て貪られるようなディープキス。薄暗い店内だとは言え、見られてしまうかもしれないという背徳感。何度も何度もキスを落としたシャンクスは、ようやくダイアナから口を離した。
「――続きは、ベッドでしよう、な?」
 吐息たっぷりの大人の色気をふんだんに煮詰めたシャンクスの声に、ダイアナは頷くことしかできなかった。

 もう日の高い光で、ダイアナは目を覚ました。見覚えのない天井に、肌に直接掠れるシーツの感触。そして、気だるく働かない頭と身体。ぼーっとしたまま天井を見上げていたが、意識が覚醒したダイアナはばっと飛び起きた。が、腰の激痛に襲われて再びベッドに戻っていく。一人で寝るにしては広すぎるベッドに、散乱した男女の服、そして身体の気だるさと遠くから聞こえるシャワーの音。信じられない罪悪感とやってしまったという焦りが一気にダイアナに襲い掛かってきた。
「――あァ、起きたのか。おはよう、ダイアナ」
 シャワー室から戻ってきたシャンクスは、何も変わらないトーンでダイアナに挨拶した。顔面蒼白で震えているダイアナに気が付くと、仕方がねェな、という顔をして真横に座った。
「全く、朝からそんな顔して……怖い夢でも見ちまったか?」
「ち、がう……私、は」
「違う?じゃあそんな怯えるほどのことがあったのか?」
 ダイアナはそれも違うと首を横に振った。じゃあ何だ?と聞いてもダイアナは答えない。顔を下に向けて項垂れるばかりだ。昨晩の過ちが理由だとは一目瞭然、だが他人のせいにしないダイアナは自分を深く深く責めてしまっているのだろう。おれのせいにしてくれりゃあいい、と言っても響かないと分かったシャンクスはダイアナの肩に手を回した。
「全部、忘れられたか?」
「………………はい」
「ならよかった。ならもう泣いちまえ」
「!」
 肩に回した腕をそのままグッと自分の方へ寄せる。呆気に取られるダイアナだが、シャンクスは気にせず身体を密着させた。
「何がそんなに怖いのかは分からねェが、色々と吐き出しちまった方が楽だろ?それに、昨日は楽しかったと覚えていればいい」
 な?と頭を撫でられたダイアナの涙腺は決壊した。なぜこんなにもどうしようもなくシャンクスは優しいのだろう。こんなにも酷いダイアナをめいいっぱい甘やかしてくれるのだろう。その優しさが好きで、辛くて、離れたくなくて、愛おしい。ダイアナはシャンクスの胸に突っ伏し、涙が枯れるまで泣き続けた。
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