そんな人だから結婚したくなった。

 自分で選んだ仕事だから、後悔はしない。
 なんてことは、はっきり言って無理だ。
 だって人間は日々一刻と変化を続けている。

 進路として決めたとき、その思いが本物だったことは事実だけど、それは永遠ではない。
 気持ちは変わる。
 環境が、時間が、誰かが、わたしに作用すれば、余程のことがない限りは変化する。

 幸い、わたしの身体は結構頑丈に出来ているらしく、今はまだ何とかなっている。
 激務にも対応出来ている。
 看護師という仕事柄、技術や判断力を得ていくのと引き換えに、年齢を重ねてしまうわけだけど。

 この職に就いて、そろそろ6年が過ぎるのかな。
 病院の玄関から外へ出る。
 初夏の日差し。

 一応「夜勤明け」というシフトにはなっているけど、もうお昼に近い時間だ。
 お腹も空いてるけど……めっちゃ眠い。
 どっちも満たしたい。

 なんて半分動いていないわたしの頭の回路にスイッチを入れるかのように、軽めのクラクションが鳴らされる。
 見慣れた車を見付けて、わたしはそちらへ向かった。

「お疲れ亜紀」

 助手席のドアを開けると、運転席からにっこりと笑って、雪路がわたしを出迎えた。

「ありがと雪路~……ごめんね、折角の休みなのに」

 ドアを閉めて、わたしは雪路にそう謝る。
 わたしの夜勤明けが休日の場合は、こうして雪路が迎えに来てくれることがある。

 雪路は一般的なサラリーマンなので、大体週末が休み。
 それに対してわたしは看護職。
 基本的に日勤、夜勤、早勤の3交代の上、急患が運ばれてくると呼び出されたりする。

 ……雪路とは付き合ってもう8年くらい?
 仕事を始めたらすれ違いが増えて別れるんじゃないかなぁ、なんて心配していたわたし。
 ただでさえ看護師なんかになっちゃったし。
 でもそんなわたしの心配とは裏腹に、雪路とはまだ続いている。

 さすがに会う頻度は落ちたけど、こうして、時間作って、わたしを助けてくれる。
 ……何か、悪いなぁ、って思っちゃう。

「ご飯済んでる? 今ならまだどの店もすぐ入れると思うけど」

 取り敢えずわたしの住んでいるマンションへの道を走りながら、雪路はそう訊ねてくる。
 確かにお昼にするなら今がいいタイミング。
 でも、わたしはぐでーっと背凭れに沈み込みながら、ごめん、と呟く。

「ちょっと……外食する元気はないかも。ご飯は食べたいけど……」
「そっか、じゃあ弁当でよければテイクアウト買ってこ」

 雪路の提案に、うん、と頷く。
 マンションまでの道すがら、チェーン店の弁当屋に寄った。
 肉食いたい、とのわたしのリクエストに、雪路は唐揚げ弁当とチキン南蛮弁当を買って来る。

「あー、洗濯物も溜まってる……家に帰るのもつらい……」

 出来立てのお弁当のいい香りにぼんやりしながら、わたしは自分の部屋の状態を思い出す。
 一応片付いてはいる方だけど……まぁ物を溜めて置けるほど買い物にも出てないのが実情だ。

 仕事はしてるからその関係の洗濯物は山のよう。
 ……それを雪路に見られるのも憚れるなぁ……。

「亜紀、本当に無理してないか? 疲れ過ぎてて感覚鈍ってない?」

 右折しながら雪路がわたしに訊く。
 わたしは目を瞑って、ん~~、と曖昧な反応。
 無理はしているつもりはない。
 でも、確かに最近、表情が乏しいような気もする。

「……それ心配になるんだけど」

 赤信号で停止する。
 雪路がやや不安そうな目でわたしを見て来た。
 というか、それもはや黄色信号(ギリアウト)では、と呟く雪路に、あー、としか答えられなかった。

「もうちょっと勤務時間減らすとか、何とか調整出来ないのか?」

 青信号に変わり、ゆっくり走り出す車。
 わたしは溜め息を吐き、ちょっとねぇ、と肩を落とす。

「毎年一定数新人は来るんだけど、予想以上に激務だったり、マナーの悪い患者にキレて辞める子も多くてね……」
「……その皺寄せが中堅に来るんだね」

 はい、と魂の抜けかかった顔で返事をするわたし。
 みんな、期待とやる気を胸に、キラキラした瞳で就職してくる。
 わたしもそうだったから、その時の気持ちはよく分かる。
 それに、同時に嬉しくなる。
 わたしもああやって、自分で選んだ仕事に誇りを持って頑張ろう、という初心を持ってたことを、思い出させてくれるから。

 でも、日々の業務は恐ろしいほど容赦がない。
 イレギュラーなことばかりで、予定通りになんか進まない。
 カルテの入力ミスとか、医療機器の不備、ごねる患者に、診察料の未払い……。

 キツイことも分かってたし、決して華々しい世界ではないことも、優しさだけでは務まらない現実があることも、知ってて決めたこと。
 でも。

「時代の変化は怖いよね……ほんと」
「亜紀はすぐ寝た方がいいような気がするぞ」

 フフフ、と謎の抑揚のない笑い声。
 雪路の緊張感のある声すらも受け流してしまった。

 それから間もなく、マンションに到着する。
 雪路がわたしの荷物まで持ってくれた。
 エレベーターの待ち時間に、雪路がぽつりと呟く。

「……辞める、のは、悪いことじゃないぞ」

 無意識に下を向いていた顔を上げる。
 わたしはきょとんとした視線を雪路に送っていた。
 雪路は神妙な面持ちで、まっすぐに前を見据えていた。

「仕事は何らかの手段であって、目的じゃないはずだ。自分の生活の殆どを仕事に食われてしまうなんてこと、本来あってはならないと俺は思ってる」

 出来る範囲で、やればいいものじゃないかと。

 エレベーターの扉が開く。
 わたしはすぐには何も答えずに、エレベーターに乗り込んだ。
 雪路も乗ったことを確認して、階数ボタンを押す。

 ……それは、雪路の考えは、勿論分かる。
 でも、この大変で苦しくて、変化の目まぐるしい業界を見て来たからこそ、思うんだ。

「確かに、仕事の激務のせいで、わたしの生活が機能してないなんて、意味分からないことだと思うよ。でも……だからって、辞めたいとは考えてないんだ」

 エレベーターを降りる。
 え、と反応する雪路に、わたしは続ける。

「そりゃ確かに、こんなにキツくて馬鹿みたいに色々消耗される業務が殆どだなんて分からなかった。仕事に慣れれば慣れるほど業務は増えるし、内容には責任が伴ってく」

 カバンから鍵を取り出して、わたしは玄関の施錠を開ける。
 部屋に入ると鍵を掛けて、はぁー、と溜め息を零した。

 なーんか久々に帰宅した気分。
 そして靴を脱ぎながら、独り言のように続けた。

「それが、面白いと言えば面白いし、同時にプレッシャーであることも事実なんだ。だから、その、悪い面の予想外だけじゃなくて、期待以上の思いがけない良い予想外も多かったの」
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