そんな人だから結婚したくなった。

 自分が考えていたような道筋ではなかった。
 だけど、それは決して悪い進行方向でもなかった。
 自分の小さい世界で計算していたよりも遥かに大きな収穫もあった、ってこと。

「正直、今も続けてる自分のこと、結構好きなんだ。だから……」

 なんて言い掛けたわたしの身体を、後ろから包み込む両腕。
 雪路の髪の毛が、わたしの頬を掠めていた。
 え、と吃驚しているわたしに、雪路は暫く何も言わず、そのままでいた。
 時々何度か、ぎゅ、と抱き締める腕に力を込め直しながら。

「……え、なに? 何?」

 久々に雪路に抱き締めてもらっている、と認識したわたしは、急にドキドキしてしまった。
 だって抱き締めてきたわりには何も言って来ないし。
 何だ何だと考えていると、雪路は大きく息を零した。

「……ほんと、凄いよな。亜紀って」

 雪路が感心したように呟く。
 それから、右手を持ち上げて、わたしの頭を撫でる。
 そのままその手で、わたしの頭を自分の方へ寄せて。

「俺なんか雑務程度の仕事で愚痴ってるってーのに……お前はどんだけよく出来た人間なんだよ……」
「いや、雪路……比べちゃ駄目だよそういうのは」

 褒められたことは嬉しいけど、何だか複雑。
 わたしは、雪路がこうやってしてくれるようには、雪路に対して出来てないから。

 結局は、プライベートを犠牲にして、仕事に逃げているようなもんだもの。

 わたしには、自信がないんだと思う。
 自分の気持ち――本音を最優先に、自分の望みをより多く貫いて生きる自信が。
 覚悟、とも言えるのかな。

 仕事はある程度結果がすぐに分かることだ。
 給料という生活に直結する対価があるから、のめり込んでいてもとやかく言われることはない。
 それに何だかんだ言って、正解も責任も総て会社側――「他者」にあるから。

 でも自分の生活には、それがない。
 自分で決めなきゃ、何も手が付けられない。
 自分の本音に向き合って、ちゃんと話を聞いてあげないと、対価も結果も発生しない。

 つまんない人間だったんだ、わたし。

「わたし、は、雪路の方が凄いと思うの。結局仕事に明け暮れてるわたしみたいのに、飽きずに付き合ってくれてるし……」
「そりゃ俺は亜紀のこと好きだから。そこは別に凄いとかそういうのじゃないよ。強いて言うなら、こう」

 申し訳なさを抱きつつ、わたしがそう呟くと、雪路は意外とあっさりとそう答えた。
 好き、か。
 なんてその雪路の想いにも負けそうになっているわたしと、雪路はしっかりと視線を合わせる。
 どき、として、視線を逸らそうとしたわたしに、こら、と軽く叱って、雪路は続けた。

「亜紀、俺はさ、お人好しでも我慢強いわけでもない。ただ、好きな相手とはそう簡単に関係を終わらせたくないだけ」

 だから時間を作って会いに来る。
 欲しいものがあるのなら与えたい。
 それが今の雪路にとっては、わたしのこと、なんだって。

「雪路……」

 何だろう。
 泣きそうになったわたしの顔に気付いて、雪路は今度は、真正面からわたしを抱き締める。
 表情からして、見ない方がいい、と判断したようだ。

 わたしも自分で気付いていた。
 嬉しいとか、安堵とか、そういう感情じゃなかったことに。
 何だろうか、よく分からない。

 わたしに、これからもこんなに素敵な男性を、自分に繋ぎ止めておく権利はあるんだろうか。

 だめ。
 駄目だよ雪路。

 わたしだって、雪路のためになりたいのに、そのための手立てが思い付かないの。
 考えあぐねて、今の今まで来ちゃったの。
 わたしが雪路に出来ることが、ない、ってことが、分かってしまったから。

「……雪路、わたし、これ以上はこのまま雪路とは会えないよ……申し訳、なく、て」

 別れたいなんて微塵も思ってないのに、好きな気持ちはわたしだってあるのに。
 雪路のこれからのことを、考えると、それが最適な判断だと。

 やっぱり疲れてるのかな。
 涙が出て来た。
 雪路がこうして抱き締めてくれてるのに、寂しいの。

 ぐすぐすと鼻を啜るわたしの頭を静かに撫でながら、雪路は黙っていた。
 ごめんね、雪路。
 こんなに優しくしてもらったのに、何も返せないなんて。

「……いいよ、亜紀」

 雪路のこの言葉は、間違いなく終焉だと思った。
 でも、雪路はあやすようにわたしの背中を叩きながら続ける。

「俺に気ィ遣わなくていいよ。俺は亜紀の世話が出来るんなら、それは嬉しいし幸せだと思ってる」

 ……?
 予想外の雪路の言葉に、思わず涙が止まる。
 何だ、と吃驚して顔を上げた。

 雪路がちょっと照れたようにこちらを見ている。
 え、ん、と反応に困っているわたしに、雪路は顔を紅くしながら視線を外し、言う。

「……分かりやすい理由が欲しいのなら、亜紀がそれを受け入れてくれるのなら、俺は、亜紀との結婚を申し出たいと思う」

 すっと、わたしの左手を取り、軽く掴んだ指先を、自分の口元に運ぶ。
 薬指に、キスを、落とした。

「結婚してください」

 俺に、亜紀のことを、支えさせて欲しい。

 ……すぐには、何も考えられなかった。
 夜勤明けだし、空腹だし、睡魔は酷いし、洗濯物は溜まってるし。
 それに、何より。

「わたし」みたいな存在でも、ただ生きているだけで、誰かのためになっていたという事実に、思わずフリーズしてしまった。

 あ、と馬鹿みたいな反応しか取れない。
 いいの、わたしでいいの、わたしみたいのが、雪路みたいな男性をもらっていいの、って。
 そんな挙動不審なわたしに、雪路は笑う。

「俺は、亜紀が奥さんだなんて贅沢だなって思ってる」

 そこまで、言って、くれるのなら。

「……はい……」

 結婚、して、ください。

 わたしからもお願いをして、途端に膝から崩れ落ちた。
 亜紀っ、と慌ててわたしの身体を支える雪路。
 急に睡魔が猛襲を掛けて来た……。
 今ベッドに、という雪路の慌てた様子が段々遠のいて行って、そこからは一旦記憶が途切れた。

 後々考えてみると、色々我慢していて、張り詰めていた緊張の糸が、ぷっつり切れた瞬間だったんだろう。
 その間に「外側」に留まっていた数多の「幸せ」が、堰を切って雪崩れ込んできた、そんな感じだった。


2018.6.3
6月の第1日曜日は「プロポーズの日」なんだそうだ。
ネット検索してて偶然見付けた、個人的に気に入ったプロポーズの言葉
→「ダメやったら、7日以内にクーリングオフしてや。」
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