海賊さんの拾いもの
木漏れ日が揺れる森の中。
のどかな静けさを突き破るように、甲高い叫び声が響く。
まるで女性の悲鳴と犬の鳴き声を混ぜ合わせたような声。
そう聞くと、犬女などという妖怪めいた存在でもいるかのように感じられるが、何のことはない。
キツネの鳴き声である。
しかし、そんなキツネの声に驚きおののく女がいた。
「イーーッ!キツネッ!!」
あばたはその声を聞くやいなや青ざめて、遮るように両耳を手で塞いだ。
「なになに。もしかしてあばたちゃん、キツネ嫌いなの?」
「そうですけど!?悪いですか!?」
逆ギレ気味に答えるあばたに気後れすることなく、海賊は続けざまに「なんで?」と聞き返す。
「だって、不気味じゃないですか。やけに人っぽい声で鳴くし、手足はヒョロっとしてて細長いし、耳も鼻もとんがってるし、あの鋭い目なんて心の底を盗み見られているようで……」
思い浮かべるだけで身の毛がよだつと言わんばかりに、あばたは体をブルっと震わせた。
「ちょっと大げさじゃない?まぁ、いいけどさ。ほら、向こうへ行ったみたいだぜ」
海賊の言う通り、けたたましい叫び声はどんどん遠ざかって小さくなっていく。
あばたはホッと胸を撫でおろし、額の冷や汗を拭った。
森を抜けてたどり着いたのは夕張の町。
着いてすぐ、あばたは風呂屋を見つけると、るんるんとはずむ足取りで向かっていった。
野宿生活ではせいぜい沸かした湯にタオルを浸し、体を拭くぐらいしかできない。
海賊は「水浴びすればいいじゃん」と言うけれど、彼のように屈強な筋肉で守られているわけではない女子の体はめっぽう寒さに弱いのだ。
そんな海賊は墨入りなので留守番だが、彼にせがんで出させた入浴代であばたは湯に浸かる。
たっぷりの温かい湯に体を沈め、「はあ、極楽極楽」と息を吐く。
包帯も鉢巻きも外しているのだが、湯けむりで視界が不明瞭なおかげもあり、人に注目されるようなことはなかった。
こんなにも気持ちいい風呂に入れないなんて、とあばたは海賊のことを哀れむ。
海賊だけではない。
他の囚人たちもきっと肌を見せないよう、風呂屋などとは無縁の脱獄生活を送っていることだろう。
人の目を避け、いつ現れるか分からない追手に脅え、寒空の下で必死に生きる彼らのことを思うと、その背負わされた運命に同情してしまいそうになる。
だが、忘れてはいけない。
彼らは極悪非道の凶悪犯罪者たちなのである。
だめだだめだ一般常識的な感性を忘れるな、と湧きかけた情を振り払い、あばたは湯から上がった。
風呂屋を後にしたあばたは、海賊の姿を探す。
近くで待っているはずなのだが、どうにも見当たらない。
まあ、あんなに背の高い人だからすぐに見つかるだろう、とあばたは町の中を適当に散策し始めた。
すると、何やら騒がしい人だかりが目に入る。
何だろうと近づいてみると、それは1人の女を中心に集まった人の群れであった。
女はアイヌの装いで、妖しい魅力のある不思議な雰囲気を醸し出している。
その鮮やかな赤色をした着物や、ガラス玉を繋げた首飾りなど、いかにもあばたが喜んで飛びつきそうなものだが、それをかき消してしまうほどに彼女を動揺させるものがあった。
女の首に巻かれたキツネの毛皮である。
「おや、素敵なマタンプシをつけたお嬢さんですね。あなたのことも占ってあげましょう」
女はあばたに気がつくと声をかけてきて、「どうぞいらっしゃい」と自分の前に来るよう手招きした。
キツネは嫌いだが、占いには惹かれる。
あばたは毛皮は見ないようにしてその指示に従った。
「わたしはインカラマッ、アイヌ語で“見る女”という意味です。ほらこうすれば、あなたのことも見えてきましたよ」
インカラマッは片手を前に出すと、手のひらを上にして指先を透かすようにあばたの顔を見る。
「あなたはお姉さんを病で亡くしている。顔の傷もその病のせいですね。しかし、今は似た境遇の過去を持つ男性と出会い、一緒に旅をしている。違いますか?」
「あ、当たってます!」
どうなっているのか、初対面であるはずの女に自分のことをピタリと言い当てられ、たちまちにあばたはその力が本物であると信じ込む。
「では、お次はその旅の運勢を見てみましょう」
インカラマッはそう言うと、今度は何やら動物の頭骨らしきものを取り出した。
「“シラッキカムイ”といって、アイヌが占いに使う道具の1つです。これはわたしの先祖代々伝わるもので、特に霊力が高い白狐の頭骨なんですよ」
「キツネ」という言葉に反応し、あばたの目はついついインカラマッの毛皮の方へと向いた。
そんなことあるはずがないのだが、その毛皮と目が合ったような気がして、包帯の奥であばたの顔から血の気が引いていく。
「どうやらキツネが苦手なようですね」
インカラマッは心の底を盗み見るような目つきであばたを見る。
「そうですね、それもまたお姉さんに関係しているようです」
あばたは恐れ入った。
全くもってその通りなのである。
「よければ話してみては?少しは胸のつかえが下りるかもしれませんよ」
辺りの観衆は払ったようにいつの間にか散り失せていて、しんと静まった空気に緊張が走る。
誰にも話す気などなかったのだが、彼女の言葉がとても心地よくて、不思議と聞いて欲しくなってしまう。
インカラマッに誘われるがまま、あばたは口を開いた。
「姉はキツネに喰い殺されました。疱瘡で弱った体を、抵抗もできないまま襲われて」
山小屋での療養中、先に良くなったあばたは外に出て洗濯や薪拾いなどをしていた。
姉はそんなことはいいからと言ったが、いつも頼ってばかりだった姉に何かしてあげられることが嬉しくて、あばたは毎日朝から晩まで外に出て仕事をした。
山の中では繁殖期を迎えたキツネがよく鳴き声を交わしていて、その日もぎゃおぎゃおと大きな声が聞こえていた。
少し遠くまで出ていて、いつもより遅くなってしまったあばたが家に戻ると、そこには変わり果てた姉の姿と、それを喰らうキツネの姿があった。
そこからの記憶は曖昧だ。
ただ、喰い散らかされた姉の遺体と、こちらを見据えるキツネの顔だけが脳裏に焼き付いている。
もし自分があのとき傍にいてあげられていたら、姉はあんな惨い死に方をせずに済んだのに。
そんな抱えきれないほどの後悔と自責の思いが、あばたにキツネへの嫌悪感を抱かせていったのである。
「それはそれは、さぞかしお辛かったことでしょう」
インカラマッは気の毒そうな顔を作り、ゆっくり頷いて聞いていた。
「でもご安心を。わたしのシラッキカムイは良いカムイです。きっとあなたたちの旅に役立つことを示してくれるでしょう」
そう言ってまた元の笑顔に戻ると、インカラマッはその下顎の部分を頭にのせ、ゆっくりと頭を下げてそれを落とした。
骨は歯を下にして着地する。
「歯が下を向きました。これは良くない兆しです。残念ですが、あなたたちの道行には暗雲が立ち込めることでしょう」
「そんな……」
占いの結果を真に受けて顔を曇らせたあばたに、インカラマッがすかさず「でも大丈夫!」と言葉をかける。
「そんなあなたに、いいものがあります」
インカラマッが取り出してあばたに見せたのは、“エカエカ”というアイヌのお守り。
手首につけておくと火の神様の庇護を受けることができ、災難除けの効果があるのだという。
そして、“イケマ”という植物の根。
これはあばたも釧路のコタンで見たことがあった。
イケマの根を噛んだ後の息を顔に吹きかけられたりもした。
それはとてつもなく強烈な臭いであったが、もちろん嫌がらせなどではなく、魔よけの意味を持つとのことだった。
「買いますッ!」と言ってからあばたは気づく。
自分は今、無一文はおろか何の荷物も持ち合わせていない。
入浴中に盗難に遭うのを防ぐため、全て海賊に預けておいたままなのである。
「お金が無いのなら、物で支払ってもらっても構いませんよ」
「あ、いやでも。今、荷物も持ってなくて……」
あたふたするあばたを手のひらで転がすように、インカラマッはその妖しい笑みを崩さないまま、あばたの懐を指して言う。
「あるじゃないですか。その素敵な櫛。それで手を打ちましょう」
あばたはドキリとする。
確かにそこに櫛はあり、それを言い当てられたこともそうだが、何よりそれは彼女が肌身離さず、それこそ風呂場にまで持ち込むほど大切にしているものであったからだ。
それをカタにするような形で手放すなどあり得ない。
しかし同時に、あばたは今ここでこれらを買わなければいけないような焦燥感にも似た感覚に襲われた。
インカラマッの力にそれだけの信憑性があるのか、それとも彼女の言葉にそう思わせる魔力があるのか。
どちらにしても、あばたには“買う”以外の選択肢は無いように思えた。
「あれ、あばたちゃんじゃん。何やってんの?」
悩みに悩むあばたの頭の上から声が降ってきた。
それはもう振り返らずとも分かるほどに、あばたにとって聞き馴染みのあるものになっていた。
「あぁっ!もう、何処行ってたんですか」
「だってあばたちゃん全然出てこないから、待ちくたびれてさ」
海賊はあばたとインカラマッの顔を見比べると、「で、これはどういう状況?」と首を傾げた。
「アラ、そちらがお連れの方ですか。背の高い素敵なニシパ。顔に傷が無いのが残念なくらい」
「傷?」
「わたし、顔に傷がある男性に弱いんです。まあ、それはさておき、今わたしはこちらのお嬢さんと取引しているところなんですよ」
経緯を聞いた海賊は「本当にこんなのが欲しいの?」とあばたに聞き、あばたがウンウンと頷くので「仕方ないなぁ」とため息をついた。
「代わりに俺が払う。これで足りるか?」
海賊が差し出した大金にインカラマッは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに元の妖しい笑みを取り戻すと「ええ、大丈夫です」と全額受け取り、しっかり代金分の商品と引き換えた。
「気前の良いニシパですねぇ。たくさん買っていただいたお礼です。あなたのことも占ってあげましょう」
インカラマッはまた頭に骨をのせ、ゆっくりと落とす。
あばたは心の中で歯が上を向くよう念じたが、虚しくも歯は下を向いて着地した。
「おや、これは……。残念ですが、あなたが求めるものは手に入りそうにありません。早々に諦めるのが吉でしょう」
彼女の言葉の間が、あばたには何だかとても不吉なものに感じられた。
そんなあばたの不安をよそに、海賊はあっけらかんとしている。
「そりゃどうも。だが、生憎諦める気はないぜ。運命を捻じ曲げてでも、俺は自分の夢を掴むからな」
いつも通り、何一つ変わらない調子でそう言うのだ。
本当にぶれない人だと、もはや感心すらしてしまう。
「なるほど。運命を捻じ曲げる、ですか。おもしろい。本当にそんなことが可能なら、わたしも見てみたいものです」
インカラマッは目を細めて、「では、あばたさんに1つ助言をしましょう」と言ってこう伝えた。
「あなたにとって大切なものを失わないために何ができるか。それをよく考えて行動することです。シラッキカムイは“札幌に行くと良い”と示しています」
「ずいぶんふわっとした助言だな」という海賊の指摘を、インカラマッは「あくまで占いですから」とのらりくらりかわす。
「さて、今日はたくさん売れたので店じまいです。それではお2人ともお気をつけて」
インカラマッは両手をパチンと打ち鳴らして終了の宣言をする。
2人もその場を立ち去ることにしたが、インカラマッが呼び止めるのであばたは少し立ち戻ってその言葉に耳を傾けた。
「本来、キツネはとても賢くて警戒心が強い生き物です。いくら病人とはいえ、自ら人に近寄って襲うとは考えにくい。きっとお姉さんはその前に息を引き取っていたのだと思います」
それはつまり、姉は生きたままキツネにかじられたのではなく、病によって逝去した後、その遺体を喰われたのだろうということであった。
「人の死とは悲しいものですが、あまり縛られすぎてはいけません。あなたが自分を責めれば責めるほど、お姉さんの魂は報われない。悪霊のように扱っちゃかわいそうですよ」
その言葉はあばたの心にすっと溶け込んだ。
それでも、姉を独りきりで死なせてしまった罪の意識が消えるわけではないが、少しだけ救われたような気がした。
あばたは礼を言って軽くお辞儀すると、駆け足で海賊の元まで戻った。
「なに話してたの?」と聞かれて「何でもないですよ」と、いつもよりやや晴れやかな調子で答える。
「にしても占いねぇ。アコギな商売だな」
そう呟く海賊の後ろで、占い師は妖しい笑みを浮かべる。
「それはお互い様ですよ」
その言葉が2人に届くことはなかった。
海賊はあばたに荷物を返すと、ついでにお小遣いもくれた。
欲しいものがあったら自分で買いな、とのことだった。
しかし、あばたは知っている。
そのお金がどうやって手に入れられたものなのかを。
インカラマッに大金を払った時点で察していたのだ。
海賊が待ち時間に暇つぶしがてら“一仕事”終えていたことを。
「でもこれ、他人様のお金ですよね」
「おう、あたりまえだろ」
悪びれる様子もないその返事に、怒るでも恐れるでもなく「ですよね~」と受け取ってしまう辺り、もうあばたは引き返すことができないところまで毒されているのかもしれなかった。
のどかな静けさを突き破るように、甲高い叫び声が響く。
まるで女性の悲鳴と犬の鳴き声を混ぜ合わせたような声。
そう聞くと、犬女などという妖怪めいた存在でもいるかのように感じられるが、何のことはない。
キツネの鳴き声である。
しかし、そんなキツネの声に驚きおののく女がいた。
「イーーッ!キツネッ!!」
あばたはその声を聞くやいなや青ざめて、遮るように両耳を手で塞いだ。
「なになに。もしかしてあばたちゃん、キツネ嫌いなの?」
「そうですけど!?悪いですか!?」
逆ギレ気味に答えるあばたに気後れすることなく、海賊は続けざまに「なんで?」と聞き返す。
「だって、不気味じゃないですか。やけに人っぽい声で鳴くし、手足はヒョロっとしてて細長いし、耳も鼻もとんがってるし、あの鋭い目なんて心の底を盗み見られているようで……」
思い浮かべるだけで身の毛がよだつと言わんばかりに、あばたは体をブルっと震わせた。
「ちょっと大げさじゃない?まぁ、いいけどさ。ほら、向こうへ行ったみたいだぜ」
海賊の言う通り、けたたましい叫び声はどんどん遠ざかって小さくなっていく。
あばたはホッと胸を撫でおろし、額の冷や汗を拭った。
森を抜けてたどり着いたのは夕張の町。
着いてすぐ、あばたは風呂屋を見つけると、るんるんとはずむ足取りで向かっていった。
野宿生活ではせいぜい沸かした湯にタオルを浸し、体を拭くぐらいしかできない。
海賊は「水浴びすればいいじゃん」と言うけれど、彼のように屈強な筋肉で守られているわけではない女子の体はめっぽう寒さに弱いのだ。
そんな海賊は墨入りなので留守番だが、彼にせがんで出させた入浴代であばたは湯に浸かる。
たっぷりの温かい湯に体を沈め、「はあ、極楽極楽」と息を吐く。
包帯も鉢巻きも外しているのだが、湯けむりで視界が不明瞭なおかげもあり、人に注目されるようなことはなかった。
こんなにも気持ちいい風呂に入れないなんて、とあばたは海賊のことを哀れむ。
海賊だけではない。
他の囚人たちもきっと肌を見せないよう、風呂屋などとは無縁の脱獄生活を送っていることだろう。
人の目を避け、いつ現れるか分からない追手に脅え、寒空の下で必死に生きる彼らのことを思うと、その背負わされた運命に同情してしまいそうになる。
だが、忘れてはいけない。
彼らは極悪非道の凶悪犯罪者たちなのである。
だめだだめだ一般常識的な感性を忘れるな、と湧きかけた情を振り払い、あばたは湯から上がった。
風呂屋を後にしたあばたは、海賊の姿を探す。
近くで待っているはずなのだが、どうにも見当たらない。
まあ、あんなに背の高い人だからすぐに見つかるだろう、とあばたは町の中を適当に散策し始めた。
すると、何やら騒がしい人だかりが目に入る。
何だろうと近づいてみると、それは1人の女を中心に集まった人の群れであった。
女はアイヌの装いで、妖しい魅力のある不思議な雰囲気を醸し出している。
その鮮やかな赤色をした着物や、ガラス玉を繋げた首飾りなど、いかにもあばたが喜んで飛びつきそうなものだが、それをかき消してしまうほどに彼女を動揺させるものがあった。
女の首に巻かれたキツネの毛皮である。
「おや、素敵なマタンプシをつけたお嬢さんですね。あなたのことも占ってあげましょう」
女はあばたに気がつくと声をかけてきて、「どうぞいらっしゃい」と自分の前に来るよう手招きした。
キツネは嫌いだが、占いには惹かれる。
あばたは毛皮は見ないようにしてその指示に従った。
「わたしはインカラマッ、アイヌ語で“見る女”という意味です。ほらこうすれば、あなたのことも見えてきましたよ」
インカラマッは片手を前に出すと、手のひらを上にして指先を透かすようにあばたの顔を見る。
「あなたはお姉さんを病で亡くしている。顔の傷もその病のせいですね。しかし、今は似た境遇の過去を持つ男性と出会い、一緒に旅をしている。違いますか?」
「あ、当たってます!」
どうなっているのか、初対面であるはずの女に自分のことをピタリと言い当てられ、たちまちにあばたはその力が本物であると信じ込む。
「では、お次はその旅の運勢を見てみましょう」
インカラマッはそう言うと、今度は何やら動物の頭骨らしきものを取り出した。
「“シラッキカムイ”といって、アイヌが占いに使う道具の1つです。これはわたしの先祖代々伝わるもので、特に霊力が高い白狐の頭骨なんですよ」
「キツネ」という言葉に反応し、あばたの目はついついインカラマッの毛皮の方へと向いた。
そんなことあるはずがないのだが、その毛皮と目が合ったような気がして、包帯の奥であばたの顔から血の気が引いていく。
「どうやらキツネが苦手なようですね」
インカラマッは心の底を盗み見るような目つきであばたを見る。
「そうですね、それもまたお姉さんに関係しているようです」
あばたは恐れ入った。
全くもってその通りなのである。
「よければ話してみては?少しは胸のつかえが下りるかもしれませんよ」
辺りの観衆は払ったようにいつの間にか散り失せていて、しんと静まった空気に緊張が走る。
誰にも話す気などなかったのだが、彼女の言葉がとても心地よくて、不思議と聞いて欲しくなってしまう。
インカラマッに誘われるがまま、あばたは口を開いた。
「姉はキツネに喰い殺されました。疱瘡で弱った体を、抵抗もできないまま襲われて」
山小屋での療養中、先に良くなったあばたは外に出て洗濯や薪拾いなどをしていた。
姉はそんなことはいいからと言ったが、いつも頼ってばかりだった姉に何かしてあげられることが嬉しくて、あばたは毎日朝から晩まで外に出て仕事をした。
山の中では繁殖期を迎えたキツネがよく鳴き声を交わしていて、その日もぎゃおぎゃおと大きな声が聞こえていた。
少し遠くまで出ていて、いつもより遅くなってしまったあばたが家に戻ると、そこには変わり果てた姉の姿と、それを喰らうキツネの姿があった。
そこからの記憶は曖昧だ。
ただ、喰い散らかされた姉の遺体と、こちらを見据えるキツネの顔だけが脳裏に焼き付いている。
もし自分があのとき傍にいてあげられていたら、姉はあんな惨い死に方をせずに済んだのに。
そんな抱えきれないほどの後悔と自責の思いが、あばたにキツネへの嫌悪感を抱かせていったのである。
「それはそれは、さぞかしお辛かったことでしょう」
インカラマッは気の毒そうな顔を作り、ゆっくり頷いて聞いていた。
「でもご安心を。わたしのシラッキカムイは良いカムイです。きっとあなたたちの旅に役立つことを示してくれるでしょう」
そう言ってまた元の笑顔に戻ると、インカラマッはその下顎の部分を頭にのせ、ゆっくりと頭を下げてそれを落とした。
骨は歯を下にして着地する。
「歯が下を向きました。これは良くない兆しです。残念ですが、あなたたちの道行には暗雲が立ち込めることでしょう」
「そんな……」
占いの結果を真に受けて顔を曇らせたあばたに、インカラマッがすかさず「でも大丈夫!」と言葉をかける。
「そんなあなたに、いいものがあります」
インカラマッが取り出してあばたに見せたのは、“エカエカ”というアイヌのお守り。
手首につけておくと火の神様の庇護を受けることができ、災難除けの効果があるのだという。
そして、“イケマ”という植物の根。
これはあばたも釧路のコタンで見たことがあった。
イケマの根を噛んだ後の息を顔に吹きかけられたりもした。
それはとてつもなく強烈な臭いであったが、もちろん嫌がらせなどではなく、魔よけの意味を持つとのことだった。
「買いますッ!」と言ってからあばたは気づく。
自分は今、無一文はおろか何の荷物も持ち合わせていない。
入浴中に盗難に遭うのを防ぐため、全て海賊に預けておいたままなのである。
「お金が無いのなら、物で支払ってもらっても構いませんよ」
「あ、いやでも。今、荷物も持ってなくて……」
あたふたするあばたを手のひらで転がすように、インカラマッはその妖しい笑みを崩さないまま、あばたの懐を指して言う。
「あるじゃないですか。その素敵な櫛。それで手を打ちましょう」
あばたはドキリとする。
確かにそこに櫛はあり、それを言い当てられたこともそうだが、何よりそれは彼女が肌身離さず、それこそ風呂場にまで持ち込むほど大切にしているものであったからだ。
それをカタにするような形で手放すなどあり得ない。
しかし同時に、あばたは今ここでこれらを買わなければいけないような焦燥感にも似た感覚に襲われた。
インカラマッの力にそれだけの信憑性があるのか、それとも彼女の言葉にそう思わせる魔力があるのか。
どちらにしても、あばたには“買う”以外の選択肢は無いように思えた。
「あれ、あばたちゃんじゃん。何やってんの?」
悩みに悩むあばたの頭の上から声が降ってきた。
それはもう振り返らずとも分かるほどに、あばたにとって聞き馴染みのあるものになっていた。
「あぁっ!もう、何処行ってたんですか」
「だってあばたちゃん全然出てこないから、待ちくたびれてさ」
海賊はあばたとインカラマッの顔を見比べると、「で、これはどういう状況?」と首を傾げた。
「アラ、そちらがお連れの方ですか。背の高い素敵なニシパ。顔に傷が無いのが残念なくらい」
「傷?」
「わたし、顔に傷がある男性に弱いんです。まあ、それはさておき、今わたしはこちらのお嬢さんと取引しているところなんですよ」
経緯を聞いた海賊は「本当にこんなのが欲しいの?」とあばたに聞き、あばたがウンウンと頷くので「仕方ないなぁ」とため息をついた。
「代わりに俺が払う。これで足りるか?」
海賊が差し出した大金にインカラマッは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに元の妖しい笑みを取り戻すと「ええ、大丈夫です」と全額受け取り、しっかり代金分の商品と引き換えた。
「気前の良いニシパですねぇ。たくさん買っていただいたお礼です。あなたのことも占ってあげましょう」
インカラマッはまた頭に骨をのせ、ゆっくりと落とす。
あばたは心の中で歯が上を向くよう念じたが、虚しくも歯は下を向いて着地した。
「おや、これは……。残念ですが、あなたが求めるものは手に入りそうにありません。早々に諦めるのが吉でしょう」
彼女の言葉の間が、あばたには何だかとても不吉なものに感じられた。
そんなあばたの不安をよそに、海賊はあっけらかんとしている。
「そりゃどうも。だが、生憎諦める気はないぜ。運命を捻じ曲げてでも、俺は自分の夢を掴むからな」
いつも通り、何一つ変わらない調子でそう言うのだ。
本当にぶれない人だと、もはや感心すらしてしまう。
「なるほど。運命を捻じ曲げる、ですか。おもしろい。本当にそんなことが可能なら、わたしも見てみたいものです」
インカラマッは目を細めて、「では、あばたさんに1つ助言をしましょう」と言ってこう伝えた。
「あなたにとって大切なものを失わないために何ができるか。それをよく考えて行動することです。シラッキカムイは“札幌に行くと良い”と示しています」
「ずいぶんふわっとした助言だな」という海賊の指摘を、インカラマッは「あくまで占いですから」とのらりくらりかわす。
「さて、今日はたくさん売れたので店じまいです。それではお2人ともお気をつけて」
インカラマッは両手をパチンと打ち鳴らして終了の宣言をする。
2人もその場を立ち去ることにしたが、インカラマッが呼び止めるのであばたは少し立ち戻ってその言葉に耳を傾けた。
「本来、キツネはとても賢くて警戒心が強い生き物です。いくら病人とはいえ、自ら人に近寄って襲うとは考えにくい。きっとお姉さんはその前に息を引き取っていたのだと思います」
それはつまり、姉は生きたままキツネにかじられたのではなく、病によって逝去した後、その遺体を喰われたのだろうということであった。
「人の死とは悲しいものですが、あまり縛られすぎてはいけません。あなたが自分を責めれば責めるほど、お姉さんの魂は報われない。悪霊のように扱っちゃかわいそうですよ」
その言葉はあばたの心にすっと溶け込んだ。
それでも、姉を独りきりで死なせてしまった罪の意識が消えるわけではないが、少しだけ救われたような気がした。
あばたは礼を言って軽くお辞儀すると、駆け足で海賊の元まで戻った。
「なに話してたの?」と聞かれて「何でもないですよ」と、いつもよりやや晴れやかな調子で答える。
「にしても占いねぇ。アコギな商売だな」
そう呟く海賊の後ろで、占い師は妖しい笑みを浮かべる。
「それはお互い様ですよ」
その言葉が2人に届くことはなかった。
海賊はあばたに荷物を返すと、ついでにお小遣いもくれた。
欲しいものがあったら自分で買いな、とのことだった。
しかし、あばたは知っている。
そのお金がどうやって手に入れられたものなのかを。
インカラマッに大金を払った時点で察していたのだ。
海賊が待ち時間に暇つぶしがてら“一仕事”終えていたことを。
「でもこれ、他人様のお金ですよね」
「おう、あたりまえだろ」
悪びれる様子もないその返事に、怒るでも恐れるでもなく「ですよね~」と受け取ってしまう辺り、もうあばたは引き返すことができないところまで毒されているのかもしれなかった。