海賊さんの拾いもの
「病気が治ったら、2人で逃げましょうよ」
隣の布団に横たわる姉がそう言った。
「逃げるって、婚約はどうするのさ」
姉には婚約者がいる。
親が泣いて喜ぶほどの裕福な家庭の人だ。
姉が嫁に入れば、きっと貧しい家の暮らしも少しは楽になるだろう。
「本当はね、私、結婚なんてしたくないのよ」
「そんなこと言ったらダメだよ。父さんも母さんも許すわけない。怒られちゃうよ」
「だから逃げるのよ。病気が治っても家には帰らない。このまま2人でいなくなっちゃうの。誰も追いかけてこられない遠くまで」
姉がそんなことを言うのは初めてだった。
いつも明るくて優しくて人思いで、泣きごとひとつ言わない人だ。
「やっぱりダメかしら」と悄然と笑う姉が、何だかとても不憫に思えた。
これまでずっと耐え忍んできた彼女にとって、それは最初で最後のわがままだったのかもしれない。
「ううん、ダメじゃない。いいよ、一緒に逃げよう!」
それを否定することは彼女自身を否定するようで、とてもそんな非道いことはできなかった。
それに自分自身もまた、あの家に帰りたいとは微塵も思えなかった。
姉と一緒に逃げたい、と心から思ったのである。
「良かった」と目を細めた姉は本当に嬉しそうで、自分も自然と頬が緩んだ。
「行き先は北海道にしましょう!東京まで行って、列車で青森まで行くの。そこからは季節労働者の船に紛れて北海道に渡ればいいわ」
まるであらかじめ計画していたかのように姉は語った。
「漁場で働きながらお金を貯めて2人で暮らすの。色んな美味しいものを食べて、色んな綺麗なものを見て。それからね、できることならアイヌの人々に会ってみたいわ」
「アイヌ?」
「北海道に住む先住民族よ。彼らの文化、伝統、暮らし、そのどれもがとても尊くて興味深い。……なんて、私も話で聞いたことしかないのだけどね」
ふふっと笑う姉は、夢に胸を膨らませていつもより少し顔色が良く見えた。
「うん、行こう!アイヌの人たちにも会いにいこう!それでさ、本を書いたらいいよ。もっとたくさんの人にアイヌのことを知ってもらえるように」
「本か。いいわね、それ」
2人で顔を見合わせて笑った。
病さえ治れば、自由になれると思った。
とても素敵な毎日になると——
何か騒がしくて、あばたは目を覚ます。
同時に、忘れていた太腿の痛みも戻ってきて、思わず眉をひそめる。
ここはアイヌの家で、自分は確か治療を受けていたはず。
なのだが……。
何故か周りは宴会状態であった。
大勢の人が集まり、ご馳走が用意されている。
節のついた唄のようなものをうたっている人がいる。
炉縁を拍子木で叩いて拍を取り、時折周りから合いの手のようなかけ声が入れられる。
「おっ、あばたちゃんが起きた」
横向きに寝た姿勢のまま顔だけを動かして見ると、もぐもぐとご馳走を頬張る海賊の姿が目に入った。
「これは一体……」
「なんかあばたちゃん神様扱いされてるみたいだぜ。良かったな」
「神様?」と訝しげな表情を浮かべるあばたに、キラウシが「パヨカカムイだ」と補足して説明する。
なんでも、あばたの看病をしていた老女が汗で濡れた包帯を取り替えようとしたところ、その顔中に残る跡に驚いてちょっとした騒動になってしまったらしい。
パヨカカムイは村中を歩き回って病を撒いたり、放った矢の音を聞いた者を病にかけたりする、いわば“疱瘡神”である。
村人の中には「パヨカカムイが人間の姿をしてやってきたのではないのか」と脅える者や、そうでなくても「病が感染するのではないのか」と疑う者もおり、あばたの処遇をどうするか会議がなされた。
「そんな、私は疱瘡神なんかじゃ……」
「ああ、分かってる。ボウタロウニシパがちゃんと説明してくれてみんな落ち着いた。あばたちゃんから疱瘡が感染ることはない、だろ?」
あばたの病はとっくに完治しており、今あるかさぶたは全て自分でひっかいた傷によるものである。
彼女から感染が広がることはあり得ない。
あばたはコクリと頷きながら、「じゃあこれは?」と周りの異様な空気感について問う。
「形式的なまじないだと思ってくれればいい。パヨカカムイは病を与えるカムイだが、手厚くもてすことで病を防いでくれる話もある。こうすることで老人たちも安心できるみたいだ。居心地は良くないかもしれないが、少し辛抱してやってくれ」
「はあ……」
複雑な心境ではあるが、追い出されなかったことをありがたく思う気持ちが何よりであった。
でも正直なところ、ご馳走やお供物などをいただくのは騙しているようではばかられる。
そんな胸中を察してか、海賊がこんなことを言った。
「今までその顔で散々苦労してきたんだろ。たまには良い思いしても罰はあたらないんじゃない?」
ご馳走の椀と箸を離す様子のない海賊を見て、あばたもそう受け取ってもいいのかもしれないと思い始めてきた。
というかそもそも、自分のために用意されたご馳走を何故この男は迷うことなくもりもりと食べているのだろうか。
何だかだんだん馬鹿らしくなってきて、そしたらお腹がぐぅと鳴った。
「ほら、あばたちゃんも腹減ってんじゃん。まあ、ご馳走要らないなら俺が全部食べちゃうけど」
「た、食べますよ!折角作ってもらったものだし、海賊さんに全部食べられるのは癪なので」
「なんだ、全然元気そうじゃねえか」
座ると傷が痛むので、あばたはうつ伏せの姿勢になって飯を食べた。
いつの間にか酒を飲んで酔っぱらった海賊が、「これ美味いぜ。食えよ」と言って匙ですくった料理を口に突っ込んできたときはイラっとしたけれど、豆や野菜を柔らかく煮たその料理は何か苦味のある香辛料的な味付けが効いていて、確かに美味しかったので黙って食べた。
それからしばらく、2人はコタンに滞在した。
海賊は漁の手伝いをし、たくさんの魚を楽々と獲るのでアイヌの男たちを驚かせた。
「ボウタロウニシパの手にかかれば、この辺りの魚を獲りつくしてしまえそうだ。前に一緒に猟をしたクマ撃ちのニシパも凄かったが、シサムの中にも恐ろしいやつがいたものだ」
などと言われるほどである。
一方のあばたは傷を癒しながら、アイヌの女たちに刺繍を習ったり料理の手伝いをしたりして過ごしていた。
初めはあばたを怖がって遠巻きに見ていたアイヌの子供たちも、最近では一緒に遊ぶほどまでに打ち解けた。
子供たちの好奇心は旺盛で、海賊の髪を弄っては結ったり編んだりして遊んだりもしていた。
あばたが座ったり立ったりできるまでに回復した頃には、もう雪がちらつき始めていた。
そろそろ潮時かと出発の日和を見ていた折、こんな話を持ち掛けられる。
「イワン オンネチェプ カムイを獲りにいかないか」
“イワン オンネチェプ カムイ”はアイヌの民話に登場するイトウの主である。
ここ数年、冬になると釧路川の河口付近に巨大イトウが現れるらしく、その怪魚になぞらえてそう呼んでいるらしい。
その大きさ故に大層な悪食で、他の魚や水辺の若鳥などを食らってしまうのだとか。
今までにも捕獲を試みたが上手くいかず、今年こそはとみんな張り切っているのだった。
「ボウタロウニシパがいれば百人力だ。ぜひとも協力してほしい」
「長い間泊めていただいたんですし、協力しましょうよ!」
「あばたちゃんはイトウ食べたいだけでしょ」
誰のせいで長居することになったと思っているんだと多少の苛立ちを感じたが、食事や寝床を提供してもらって助かったことは確かなので、海賊もそれに了承した。
釧路川の流れを追って、湿原の中を一行は進む。
遠くに野生のタンチョウヅルが舞い降り、雪の中にその紅一点がよく映えていた。
「すごい!見てください海賊さん、野生のツルですよ!」
「おお~本当だ。綺麗だね」
湿原の冬景色に盛り上がる2人に、アイヌの男が忠告する。
「危ないからあまり勝手に歩き回るなよ。谷地眼に落ちるぞ」
谷地眼とは湿原のあちこちにぽっかり開いた水溜のことで、深いものでは3mを超すものもあるという。
池のような状態のものならまだしも、底なし沼とも言える泥状のものにはまれば、いくら泳ぎの得意な海賊といえども飲み込まれてしまうだろう。
「馬や鹿までも飲み込んでしまう、自然が作った落とし穴。恐ろしさを通り越して神秘的ですね」
呑気にそんなことを言っているあばたの腕を海賊はぎゅっと握った。
「え?なんですか急に」
「いや、あばたちゃんならまたやりかねないなと思って」
アマッポの件で前科があるあばたは、海賊の中で完全にドジ踏み認定されていた。
目を離した隙に谷地眼に落ちる姿が容易に想像できてしまうのである。
あばたは「子供じゃないんですから」と口を尖らせながらも大人しく従って歩いた。
河口付近まで来ると男たちは丸木舟を出し、手分けして川へと入っていく。
あばたは例のごとく川辺で火を守る役である。
さすがの海賊も寒中水泳には限度があるので、舟上から魚の姿を探し、見つけ次第潜って獲るという作戦だ。
「それにしても、服を着たままでよくあんなふうに泳げるものだ」
海賊はアイヌの前で泳ぎを披露する際、いつも服を着たままの姿であった。
それはもちろん刺青を見られないようにするためであり、濡れた服が透けて見えないように、先日強奪した羽織も着込んでいる。
当然、脱いだ方が泳ぎやすいに決まっているのだが。
海賊は適当に「まあね~」と相槌を打ち、それ以上深く追及されないようにはぐらかした。
近くの舟が近づいてきて「あっちで大きな魚が出たらしい」というので示された方へと向かう。
すると、舟の下を大きな影が横切り、水面がゆらりと揺れた。
「イワン オンネチェプ カムイだ!」
同乗していたアイヌが叫ぶと同時に、海賊は銛を持って飛び込んだ。
マレクよりも大型の魚を狙うための銛で、獲物に刺さると銛頭が離れ、柄と繋がった縄を引き寄せて獲る仕組みになっている。
水中で魚の全貌を目の当たりにした海賊は驚く。
そのイトウの主とは、2mほどもある巨大魚であった。
突如現れた天敵に驚いたイトウは逃げようと泳ぎを速める。
海賊はそれを逃がすまいと泳ぎ追いつき、銛を放った。
銛は見事に命中し、その刃先だけを魚の身にしっかりと残す。
銛の柄を握る海賊は、真冬の川を引きずり回されるように獲物にしがみついた。
しばらくの格闘の後、体力が尽きてきたのか巨大魚が水面近くまで浮かび上がる。
そこをすかさず、舟上からアイヌの男たちがなづち棒を叩きつけた。
アイヌ語で“イサパキクニ”と呼ばれるその棒はサケ漁のときにも用いられ、頭を叩かれた魚はそれをお土産にくわえて喜んでカムイの国へ帰っていくという。
イワン オンネチェプ カムイが舟に揚げられると、みんなその大きさに目を見張り、歓声と喝采が巻き起こった。
岸に戻った海賊は「さみ~」と火にあたり、アイヌに教えられた背中あぶりの方法で暖を取った。
早く乾くようにと、あばたは海賊の髪を櫛で梳いてやる。
水中でもみくちゃになったはずのその長い髪は、不思議と絡まることはなく、するすると櫛を通した。
「どうしたらこんな綺麗な髪になるんですか」
あばたは髪を短く切っていたが、女としてその髪の艶やかさを羨まずにはいられない。
なので、「生まれつきだからなぁ」という海賊の答えに「全世界の女子に謝ってもらえますか」と苛立って返した。
獲れたイトウはその場で捌かれ、その様子を食い入るように見ていたあばたは目玉をもらった。
2つあるうちの片方を海賊にあげようとしたら丁重にお断りされたので、1つは村の子たちに持って帰ることにして1つだけ食べた。
ゆでだこみたいな味がして美味しかった。
持ちきれない肉はその場でオハウにしてみんなで食べた。
冬のイトウは寒さに耐えるためによく肥えていて、春の産卵前のものより脂が乗っているという。
とても濃厚で美味しく、寒空の下で冷え切った体も腹の底から温まった。
コタンへ帰るまでの道のりも、海賊はあばたの腕を握り、監視を怠らなかった。
隣の布団に横たわる姉がそう言った。
「逃げるって、婚約はどうするのさ」
姉には婚約者がいる。
親が泣いて喜ぶほどの裕福な家庭の人だ。
姉が嫁に入れば、きっと貧しい家の暮らしも少しは楽になるだろう。
「本当はね、私、結婚なんてしたくないのよ」
「そんなこと言ったらダメだよ。父さんも母さんも許すわけない。怒られちゃうよ」
「だから逃げるのよ。病気が治っても家には帰らない。このまま2人でいなくなっちゃうの。誰も追いかけてこられない遠くまで」
姉がそんなことを言うのは初めてだった。
いつも明るくて優しくて人思いで、泣きごとひとつ言わない人だ。
「やっぱりダメかしら」と悄然と笑う姉が、何だかとても不憫に思えた。
これまでずっと耐え忍んできた彼女にとって、それは最初で最後のわがままだったのかもしれない。
「ううん、ダメじゃない。いいよ、一緒に逃げよう!」
それを否定することは彼女自身を否定するようで、とてもそんな非道いことはできなかった。
それに自分自身もまた、あの家に帰りたいとは微塵も思えなかった。
姉と一緒に逃げたい、と心から思ったのである。
「良かった」と目を細めた姉は本当に嬉しそうで、自分も自然と頬が緩んだ。
「行き先は北海道にしましょう!東京まで行って、列車で青森まで行くの。そこからは季節労働者の船に紛れて北海道に渡ればいいわ」
まるであらかじめ計画していたかのように姉は語った。
「漁場で働きながらお金を貯めて2人で暮らすの。色んな美味しいものを食べて、色んな綺麗なものを見て。それからね、できることならアイヌの人々に会ってみたいわ」
「アイヌ?」
「北海道に住む先住民族よ。彼らの文化、伝統、暮らし、そのどれもがとても尊くて興味深い。……なんて、私も話で聞いたことしかないのだけどね」
ふふっと笑う姉は、夢に胸を膨らませていつもより少し顔色が良く見えた。
「うん、行こう!アイヌの人たちにも会いにいこう!それでさ、本を書いたらいいよ。もっとたくさんの人にアイヌのことを知ってもらえるように」
「本か。いいわね、それ」
2人で顔を見合わせて笑った。
病さえ治れば、自由になれると思った。
とても素敵な毎日になると——
何か騒がしくて、あばたは目を覚ます。
同時に、忘れていた太腿の痛みも戻ってきて、思わず眉をひそめる。
ここはアイヌの家で、自分は確か治療を受けていたはず。
なのだが……。
何故か周りは宴会状態であった。
大勢の人が集まり、ご馳走が用意されている。
節のついた唄のようなものをうたっている人がいる。
炉縁を拍子木で叩いて拍を取り、時折周りから合いの手のようなかけ声が入れられる。
「おっ、あばたちゃんが起きた」
横向きに寝た姿勢のまま顔だけを動かして見ると、もぐもぐとご馳走を頬張る海賊の姿が目に入った。
「これは一体……」
「なんかあばたちゃん神様扱いされてるみたいだぜ。良かったな」
「神様?」と訝しげな表情を浮かべるあばたに、キラウシが「パヨカカムイだ」と補足して説明する。
なんでも、あばたの看病をしていた老女が汗で濡れた包帯を取り替えようとしたところ、その顔中に残る跡に驚いてちょっとした騒動になってしまったらしい。
パヨカカムイは村中を歩き回って病を撒いたり、放った矢の音を聞いた者を病にかけたりする、いわば“疱瘡神”である。
村人の中には「パヨカカムイが人間の姿をしてやってきたのではないのか」と脅える者や、そうでなくても「病が感染するのではないのか」と疑う者もおり、あばたの処遇をどうするか会議がなされた。
「そんな、私は疱瘡神なんかじゃ……」
「ああ、分かってる。ボウタロウニシパがちゃんと説明してくれてみんな落ち着いた。あばたちゃんから疱瘡が感染ることはない、だろ?」
あばたの病はとっくに完治しており、今あるかさぶたは全て自分でひっかいた傷によるものである。
彼女から感染が広がることはあり得ない。
あばたはコクリと頷きながら、「じゃあこれは?」と周りの異様な空気感について問う。
「形式的なまじないだと思ってくれればいい。パヨカカムイは病を与えるカムイだが、手厚くもてすことで病を防いでくれる話もある。こうすることで老人たちも安心できるみたいだ。居心地は良くないかもしれないが、少し辛抱してやってくれ」
「はあ……」
複雑な心境ではあるが、追い出されなかったことをありがたく思う気持ちが何よりであった。
でも正直なところ、ご馳走やお供物などをいただくのは騙しているようではばかられる。
そんな胸中を察してか、海賊がこんなことを言った。
「今までその顔で散々苦労してきたんだろ。たまには良い思いしても罰はあたらないんじゃない?」
ご馳走の椀と箸を離す様子のない海賊を見て、あばたもそう受け取ってもいいのかもしれないと思い始めてきた。
というかそもそも、自分のために用意されたご馳走を何故この男は迷うことなくもりもりと食べているのだろうか。
何だかだんだん馬鹿らしくなってきて、そしたらお腹がぐぅと鳴った。
「ほら、あばたちゃんも腹減ってんじゃん。まあ、ご馳走要らないなら俺が全部食べちゃうけど」
「た、食べますよ!折角作ってもらったものだし、海賊さんに全部食べられるのは癪なので」
「なんだ、全然元気そうじゃねえか」
座ると傷が痛むので、あばたはうつ伏せの姿勢になって飯を食べた。
いつの間にか酒を飲んで酔っぱらった海賊が、「これ美味いぜ。食えよ」と言って匙ですくった料理を口に突っ込んできたときはイラっとしたけれど、豆や野菜を柔らかく煮たその料理は何か苦味のある香辛料的な味付けが効いていて、確かに美味しかったので黙って食べた。
それからしばらく、2人はコタンに滞在した。
海賊は漁の手伝いをし、たくさんの魚を楽々と獲るのでアイヌの男たちを驚かせた。
「ボウタロウニシパの手にかかれば、この辺りの魚を獲りつくしてしまえそうだ。前に一緒に猟をしたクマ撃ちのニシパも凄かったが、シサムの中にも恐ろしいやつがいたものだ」
などと言われるほどである。
一方のあばたは傷を癒しながら、アイヌの女たちに刺繍を習ったり料理の手伝いをしたりして過ごしていた。
初めはあばたを怖がって遠巻きに見ていたアイヌの子供たちも、最近では一緒に遊ぶほどまでに打ち解けた。
子供たちの好奇心は旺盛で、海賊の髪を弄っては結ったり編んだりして遊んだりもしていた。
あばたが座ったり立ったりできるまでに回復した頃には、もう雪がちらつき始めていた。
そろそろ潮時かと出発の日和を見ていた折、こんな話を持ち掛けられる。
「イワン オンネチェプ カムイを獲りにいかないか」
“イワン オンネチェプ カムイ”はアイヌの民話に登場するイトウの主である。
ここ数年、冬になると釧路川の河口付近に巨大イトウが現れるらしく、その怪魚になぞらえてそう呼んでいるらしい。
その大きさ故に大層な悪食で、他の魚や水辺の若鳥などを食らってしまうのだとか。
今までにも捕獲を試みたが上手くいかず、今年こそはとみんな張り切っているのだった。
「ボウタロウニシパがいれば百人力だ。ぜひとも協力してほしい」
「長い間泊めていただいたんですし、協力しましょうよ!」
「あばたちゃんはイトウ食べたいだけでしょ」
誰のせいで長居することになったと思っているんだと多少の苛立ちを感じたが、食事や寝床を提供してもらって助かったことは確かなので、海賊もそれに了承した。
釧路川の流れを追って、湿原の中を一行は進む。
遠くに野生のタンチョウヅルが舞い降り、雪の中にその紅一点がよく映えていた。
「すごい!見てください海賊さん、野生のツルですよ!」
「おお~本当だ。綺麗だね」
湿原の冬景色に盛り上がる2人に、アイヌの男が忠告する。
「危ないからあまり勝手に歩き回るなよ。谷地眼に落ちるぞ」
谷地眼とは湿原のあちこちにぽっかり開いた水溜のことで、深いものでは3mを超すものもあるという。
池のような状態のものならまだしも、底なし沼とも言える泥状のものにはまれば、いくら泳ぎの得意な海賊といえども飲み込まれてしまうだろう。
「馬や鹿までも飲み込んでしまう、自然が作った落とし穴。恐ろしさを通り越して神秘的ですね」
呑気にそんなことを言っているあばたの腕を海賊はぎゅっと握った。
「え?なんですか急に」
「いや、あばたちゃんならまたやりかねないなと思って」
アマッポの件で前科があるあばたは、海賊の中で完全にドジ踏み認定されていた。
目を離した隙に谷地眼に落ちる姿が容易に想像できてしまうのである。
あばたは「子供じゃないんですから」と口を尖らせながらも大人しく従って歩いた。
河口付近まで来ると男たちは丸木舟を出し、手分けして川へと入っていく。
あばたは例のごとく川辺で火を守る役である。
さすがの海賊も寒中水泳には限度があるので、舟上から魚の姿を探し、見つけ次第潜って獲るという作戦だ。
「それにしても、服を着たままでよくあんなふうに泳げるものだ」
海賊はアイヌの前で泳ぎを披露する際、いつも服を着たままの姿であった。
それはもちろん刺青を見られないようにするためであり、濡れた服が透けて見えないように、先日強奪した羽織も着込んでいる。
当然、脱いだ方が泳ぎやすいに決まっているのだが。
海賊は適当に「まあね~」と相槌を打ち、それ以上深く追及されないようにはぐらかした。
近くの舟が近づいてきて「あっちで大きな魚が出たらしい」というので示された方へと向かう。
すると、舟の下を大きな影が横切り、水面がゆらりと揺れた。
「イワン オンネチェプ カムイだ!」
同乗していたアイヌが叫ぶと同時に、海賊は銛を持って飛び込んだ。
マレクよりも大型の魚を狙うための銛で、獲物に刺さると銛頭が離れ、柄と繋がった縄を引き寄せて獲る仕組みになっている。
水中で魚の全貌を目の当たりにした海賊は驚く。
そのイトウの主とは、2mほどもある巨大魚であった。
突如現れた天敵に驚いたイトウは逃げようと泳ぎを速める。
海賊はそれを逃がすまいと泳ぎ追いつき、銛を放った。
銛は見事に命中し、その刃先だけを魚の身にしっかりと残す。
銛の柄を握る海賊は、真冬の川を引きずり回されるように獲物にしがみついた。
しばらくの格闘の後、体力が尽きてきたのか巨大魚が水面近くまで浮かび上がる。
そこをすかさず、舟上からアイヌの男たちがなづち棒を叩きつけた。
アイヌ語で“イサパキクニ”と呼ばれるその棒はサケ漁のときにも用いられ、頭を叩かれた魚はそれをお土産にくわえて喜んでカムイの国へ帰っていくという。
イワン オンネチェプ カムイが舟に揚げられると、みんなその大きさに目を見張り、歓声と喝采が巻き起こった。
岸に戻った海賊は「さみ~」と火にあたり、アイヌに教えられた背中あぶりの方法で暖を取った。
早く乾くようにと、あばたは海賊の髪を櫛で梳いてやる。
水中でもみくちゃになったはずのその長い髪は、不思議と絡まることはなく、するすると櫛を通した。
「どうしたらこんな綺麗な髪になるんですか」
あばたは髪を短く切っていたが、女としてその髪の艶やかさを羨まずにはいられない。
なので、「生まれつきだからなぁ」という海賊の答えに「全世界の女子に謝ってもらえますか」と苛立って返した。
獲れたイトウはその場で捌かれ、その様子を食い入るように見ていたあばたは目玉をもらった。
2つあるうちの片方を海賊にあげようとしたら丁重にお断りされたので、1つは村の子たちに持って帰ることにして1つだけ食べた。
ゆでだこみたいな味がして美味しかった。
持ちきれない肉はその場でオハウにしてみんなで食べた。
冬のイトウは寒さに耐えるためによく肥えていて、春の産卵前のものより脂が乗っているという。
とても濃厚で美味しく、寒空の下で冷え切った体も腹の底から温まった。
コタンへ帰るまでの道のりも、海賊はあばたの腕を握り、監視を怠らなかった。