海賊さんの拾いもの
「あばたちゃんはさ、夢とかないの?」
唐突にそんなことを聞かれ、あばたは迷うことなく即答する。
「ついこの間まで死のうとしてた人間にそんなものあるわけないじゃないですか」
「なんだ、つまんねえなぁ。よし、じゃあ小樽に着くまでに何でもいいから1つ考えとけ」
あばたは「はいはい」と適当に返しながらも、この人は本当に自分を小樽まで連れて行くつもりなのか、と内心驚きの思いであった。
屈斜路湖を離れて数日、2人は釧路の町の近くまでやってきていた。
山中ではヤマブドウやサルナシの実がよく熟し、食べられるのか食べられないのかよく分からないキノコがあちこちから顔をのぞかせている。
「それにしても、本当にアイヌの埋蔵金なんてあるんですかね。壮大な作り話だったりしないんですか」
「いや、俺は確信してるぜ。でなきゃ自分自身は動けないのっぺらぼうが、わざわざ他の囚人たちに墨を入れて逃がす意味が分からない。そうまでして外の仲間に伝えたいことがあるってことだ」
更に海賊は続けて推理する。
「埋蔵金は存在しないどころか、囚人たちが聞かされた量よりも遥かに多いんじゃないかと俺は思う。10倍、いや100倍か、それ以上かもしれねえ」
仕掛けが大がかりで回りくどいほど、その先にあるものの大きさが信憑性を持つ。
「夢が膨らむだろ~」と海賊はにこにこ顔だ。
「しかもだぜ、監獄や警察、軍の人間にも金塊を追ってるやつらがいる。これだけ多くの人間が噛んでるとなると、そいつらを動かす何かしらの根拠があるんだろ。どっかから噂を聞きつけて画策する連中が出てくるかもしれないし。まさしく“争奪戦”って感じだな」
「そんなぁ……。めちゃめちゃ難易度高いじゃないですか」
もうやめましょうよとあばたは泣きごとをこぼすが、海賊は豪胆にも諦める気などさらさらないのであった。
「何言ってんだよ。いいか?幸せはな、自分で掴みに行くもんなんだ。そんな連中から金をブン取って、俺は自分の国を作るぜ」
海賊はそう言って笑う。
夢を語る彼の顔は、いつも純真な少年のように輝いていて、凶悪犯とはまるでかけ離れて見える。
あばたには少しまぶしいくらいだった。
もし自分が脱獄囚人だったら埋蔵金など狙わずに何処かでひっそり隠れ住んで余生を過ごすだろうな、というのがつまらない女の思考であるからだ。
突如、そう遠くない距離でダァァンと爆発音が響き渡った。
あばたはビクっと肩を上げたまま硬直し、「な、なんですか?」とキョロキョロ辺りを見回す。
「銃声だ」
そう答えた海賊は的確に音がした方向を捉え、何かがやって来る気配を察知した。
それは、熊笹藪の中をガサガサ音を立てながら猛スピードで接近してくる。
藪を突き抜けて現れたのは、黒々とした毛におおわれた巨体であった。
「く、クマだぁー!!」
野生のヒグマと初めて遭遇したあばたは、素っ頓狂な声を上げて尻もちをつく。
その力強い体躯に恐怖を感じずにはいられない。
「邪魔だ!」と言うかのようにヒグマは「ヴオオオッ!」と声を上げると、進行方向に立つ海賊に向かって腕を振りかざす。
鋭い爪がすれすれに、海賊はそれを「危ねっ」とかわすと、荷物の中から素早く銛を抜き取り、木刀よろしくその柄をヒグマの鼻頭へ叩きつけた。
「ヴオッ」と少しひるんだヒグマだったが、背を向けることはせず、自らの大きさを更に見せつけるように後ろ足で立ち上がる。
その隙を逃さず、海賊はとっさに腰の拳銃を構えると、心臓の位置に目がけて全弾を撃ち込んだ。
ヒグマは大きく体勢を崩し、それでもまだ絶命はしていない。
最期の力を振り絞り、海賊に襲い掛かろうとする。
その心臓に、海賊はとどめの銛を突き立てる。
ヒグマが倒れ込む勢いと海賊の剛腕とで、本来の用途とは大きく外れてはいるものの、銛はズッポリとヒグマの胸に突き刺さった。
「はッ!やったぜ、見ろよあばたちゃん!」
ズゥゥンと横たわるヒグマの屍の前で、海賊は両拳を掲げて勝利の宣言を上げる。
「す、凄い……」
あばたは腰が抜けたまま、あっけにとられて目をまんまるくしていた。
海賊の手を借りてやっとこさ立ち上がると、尻についた土をぱんぱんと払う。
「ですけど、これどうするんですか。でかいし死んでるし刺さってますし」
「どうしようね」
とりあえず銛を抜くか、と2人がかりでヒグマをひっくり返そうとしているところに、銃を持った人影が近づく。
「おい、あんたたち」
背後から声をかけられ、振り返った海賊の顔は警戒の色に切り替わっていた。
もし追手であれば容赦はしない──
しかし、その必要はなかった。
声の主はアイヌの男だったからだ。
「そのヒグマ、旦那が仕留めたのか。やるなぁ、マレクでヒグマを獲ったやつなんて初めてだ」
アイヌの男はやや目深にかぶった鉢巻きの下から、興味深そうにジロジロと海賊を見る。
そんな彼をまた、包帯の隙間から興味深そうにあばたがジロジロと見る。
「うわぁ!びっくりした、なんでこっちのメノコは包帯ぐるぐる巻きなんだ?」
「まぁ、ちょっと色々あってね。顔の傷をこれで保護してる」
「驚かせてすみません。アイヌの方を見るの初めてで」
あばたは驚かれたショックより、北方の民族に対する興味の方が強いようだった。
あばたが男の身に付けたものに興味津々に見入っているので、男は「ずいぶん変わったシサムたちだ」と不思議そうに口元を結んだ。
アイヌの男はキラウシといって、聞こえた銃声は彼のものだった。
彼が手負いにしたヒグマが逃げる進行方向にたまたま居合わせてしまい、追い詰められて混乱したクマの攻撃を受けたようである。
キラウシは祈りの言葉を唱えると、鮮やかな手さばきで次々とヒグマを解体していった。
血塗れの銛も返ってきた。
「俺がヒグマを仕留め損ねたせいで驚かせて悪かったな。マレクでヒグマ獲るニシパと、包帯ぐるぐる巻きのメノコ。ずいぶん変わった2人組だが、こんなところで何してたんだ?」
「ああ、こいつは本州の方から来た親戚でね、北海道の自然が物珍しいらしくて色々案内してやってんだ」
正体を悟られないために咄嗟についた嘘だったが、キラウシは「へぇ、そうなのか」と納得してくれたようだ。
「そうだ、良かったら俺のコタンに寄っていけ。あんたが獲った獲物だ。ヒグマ料理を食べていくといい」
「えっ、ヒグマって食べれるんですか」
そのお誘いに、海賊より先にあばたが反応する。
「行きましょうよ海賊さん!」と海賊の大きな背中をぐいぐい押す。
「カイゾク?」
あばたちゃんの言葉を聞き、キラウシがそう繰り返したので、2人はギクッとする。
正体がバレるのではないかと肝が冷えた。
が、それは杞憂で、キラウシは「カイゾクってなんだ?ニシパの名前か?」と首を傾げている。
「あ、えっと。いや、カイゾクっていうのはこの人のあだ名みたいなもので、泳ぎが得意で銛を持たせると獲れない魚はないっていうので、そう呼ばれてるんですよ」
苦し紛れの嘘だったが、「確かに、あの銛さばきは凄かった」と頷いてくれたのでほっと胸を撫でおろす。
もっと気をつけろ馬鹿、と言いたげに海賊はあばたの頭をこっそりはたき、あばたはいでっと声をもらした。
コタンはすぐ近くにあり、キラウシが経緯を説明すると村長たちは2人を歓迎してくれた。
村人たちは“カムイホプニレ”という儀式の準備に忙しそうである。
何か手伝おうかと聞いてみたが、客人なのだからゆっくりしているといい、と言われたので家の中で大人しく待つことにした。
その間、あばたは家の中を見渡してみたり歩き回ってみたり、そわそわと落ち着かない様子であった。
「どうしたの、あばたちゃん。便所なら外にあるらしいけど」
「違いますよ!アイヌの生活をこんなに間近で見れるなんて思っていなかったので、今のうちに色々と目に焼き付けておこうとしてるんです。どれもこれも初めて見るものばかりで、とてもおもしろいと思いませんか」
「果てしない浪漫を感じるッ!」とあばたは鼻息荒く語るが、海賊は「うんうん、そうだネ」と棒読みの返事を返すだけである。
「チッ……。まったく分かってないですね、海賊さんは」
吐き捨てるように言うあばたに、「おい、今舌打ちしただろ」と海賊は苛立った。
キラウシが準備が整ったことを知らせに来たときには、家の中にまで外の賑わいと美味しそうな匂いが流れ込んできていた。
あちこちから「オホホホホーイ!」とか「オノンノオノンノ!」といった掛け声が聞こえてくる。
あばたにはそれがどういう意味なのか分からなかったが、ちょっと恥ずかしいので小声で、自分も真似て口にしてみるのであった。
ヒグマの肉は山菜や野菜などと共に鉄鍋で煮られ、立派な“カムイオハウ”ができあがった。
“オハウ”はアイヌの食生活に欠かせない、いわば主食のようなもので、ヒグマで作ったオハウを特にそう呼ぶらしい。
ヒグマ——“キムンカムイ”が彼らの生活にとっていかに重要なカムイかが見て取れる。
醤油でも味噌でもない不思議な味付けだったが、肉の臭みなどは全く感じず、美味しいものであった。
内臓を叩いたものや脳みそなどは塩で味付けされ、生で食べるよう供された。
海賊は遠慮したが、あばたは迷わずいただいた。
美味しかった。
海賊はすぐに男衆たちと打ち解けたようで、色々と盛り上がって話をしていた。
煙草は肺に良くないからと断っていたが、酒は喜んで受け取り、すっかり顔を赤くしている。
あばたは酒は飲まなかったが、酔っぱらって絡んでくる海賊が酒臭くてちょっと気持ち悪くなった。
そのうちに酔っぱらいたちは静かになり、赤い顔のまま眠りこけていった。
翌日、2人はキラウシに案内されながら森の中を歩いていた。
あばたがアイヌの文化に関心があることを伝えると、自分たちの生活について色々教えてくれるというのだ。
狩りの仕方や自分たちが信仰するカムイ、様々な言い伝えなど、どれもあばたは熱心に聞いていた。
「それにしても、アイヌも銃を使うんだな。毒矢を使うってのは聞いたことがあるけど」
海賊がキラウシの銃を指して言う。
「まぁな。銃の方が遠くの獲物まで狙えるし、威力もある。今どき毒矢ははアマッポくらいにしか使わない」
「アマッポって何ですか?」
「アイヌが使う仕掛け弓矢だ。間違って引っかかると大変なことになる。近くにはきちんと目印があるから、コタンの近くの森を通るときは十分注意することだな」
「なるほど」と頷くあばたが、何かにつまづいて「ぐわっ」と体勢を崩すまではほんの数秒のことだった。
近くの藪からビュッと何かが飛び出し、あばたの右太腿後部を掠め去る。
何が起きたのか分からず、ただ「いだいッ!!」と傷口を押さえながら悶え転げまわることしかできない。
「アマッポだ!傷口を見せてみろ」
傷口はぱっくりと深く切り裂かれていたが、幸いなことに鏃は刺さっておらず、矢は反対側の木の幹に当たって落ちていた。
念のために急いで傷まわりを洗い流して応急処置を施す。
「気をつけろって言われた傍から何やってんだよ、馬鹿だなぁ」
「す、すみません……」
何も言い返せず、痛みと情けなさと申し訳なさにあばたはほとほとと涙した。
動けないあばたを海賊が担いでコタンまで戻ると、女衆が種々の薬草を使って手当してくれた。
やはり若干の毒の作用を受けたのか、あばたはしばらく灼熱感に脂汗を浮かべてうなされていたが、今は落ち着いたようで静かに眠っている。
「色々世話になっちまって悪いな。あいつが動けるようになったらすぐに出ていくよ」
「気にするな。あのアマッポは村のやつが仕掛けたものだし、怪我人を追い出すほど俺たちは冷徹じゃない」
「その代わり」とキラウシは続ける。
「ボウタロウニシパは銛を使うのが得意らしい。滞在する間、漁の手伝いをしてはどうだ。自分たちの食料を自分で用意すれば誰も文句を言わないし、あばたちゃんも気兼ねなく療養できるだろ」
海賊は「そりゃいいや」と、その提案に了承した。
2人が話していたところ、あばたの様子を見ていた女のうちの1人が家の中へ駆け込んできた。
女は海賊の方をチラチラと伺いながら、焦った様子でキラウシに何かを話している。
海賊にはアイヌ語で交わされるその会話がさっぱり分からなかったが、聞こえてきた“パヨカカムイ”という言葉だけが何故か耳に残った。
唐突にそんなことを聞かれ、あばたは迷うことなく即答する。
「ついこの間まで死のうとしてた人間にそんなものあるわけないじゃないですか」
「なんだ、つまんねえなぁ。よし、じゃあ小樽に着くまでに何でもいいから1つ考えとけ」
あばたは「はいはい」と適当に返しながらも、この人は本当に自分を小樽まで連れて行くつもりなのか、と内心驚きの思いであった。
屈斜路湖を離れて数日、2人は釧路の町の近くまでやってきていた。
山中ではヤマブドウやサルナシの実がよく熟し、食べられるのか食べられないのかよく分からないキノコがあちこちから顔をのぞかせている。
「それにしても、本当にアイヌの埋蔵金なんてあるんですかね。壮大な作り話だったりしないんですか」
「いや、俺は確信してるぜ。でなきゃ自分自身は動けないのっぺらぼうが、わざわざ他の囚人たちに墨を入れて逃がす意味が分からない。そうまでして外の仲間に伝えたいことがあるってことだ」
更に海賊は続けて推理する。
「埋蔵金は存在しないどころか、囚人たちが聞かされた量よりも遥かに多いんじゃないかと俺は思う。10倍、いや100倍か、それ以上かもしれねえ」
仕掛けが大がかりで回りくどいほど、その先にあるものの大きさが信憑性を持つ。
「夢が膨らむだろ~」と海賊はにこにこ顔だ。
「しかもだぜ、監獄や警察、軍の人間にも金塊を追ってるやつらがいる。これだけ多くの人間が噛んでるとなると、そいつらを動かす何かしらの根拠があるんだろ。どっかから噂を聞きつけて画策する連中が出てくるかもしれないし。まさしく“争奪戦”って感じだな」
「そんなぁ……。めちゃめちゃ難易度高いじゃないですか」
もうやめましょうよとあばたは泣きごとをこぼすが、海賊は豪胆にも諦める気などさらさらないのであった。
「何言ってんだよ。いいか?幸せはな、自分で掴みに行くもんなんだ。そんな連中から金をブン取って、俺は自分の国を作るぜ」
海賊はそう言って笑う。
夢を語る彼の顔は、いつも純真な少年のように輝いていて、凶悪犯とはまるでかけ離れて見える。
あばたには少しまぶしいくらいだった。
もし自分が脱獄囚人だったら埋蔵金など狙わずに何処かでひっそり隠れ住んで余生を過ごすだろうな、というのがつまらない女の思考であるからだ。
突如、そう遠くない距離でダァァンと爆発音が響き渡った。
あばたはビクっと肩を上げたまま硬直し、「な、なんですか?」とキョロキョロ辺りを見回す。
「銃声だ」
そう答えた海賊は的確に音がした方向を捉え、何かがやって来る気配を察知した。
それは、熊笹藪の中をガサガサ音を立てながら猛スピードで接近してくる。
藪を突き抜けて現れたのは、黒々とした毛におおわれた巨体であった。
「く、クマだぁー!!」
野生のヒグマと初めて遭遇したあばたは、素っ頓狂な声を上げて尻もちをつく。
その力強い体躯に恐怖を感じずにはいられない。
「邪魔だ!」と言うかのようにヒグマは「ヴオオオッ!」と声を上げると、進行方向に立つ海賊に向かって腕を振りかざす。
鋭い爪がすれすれに、海賊はそれを「危ねっ」とかわすと、荷物の中から素早く銛を抜き取り、木刀よろしくその柄をヒグマの鼻頭へ叩きつけた。
「ヴオッ」と少しひるんだヒグマだったが、背を向けることはせず、自らの大きさを更に見せつけるように後ろ足で立ち上がる。
その隙を逃さず、海賊はとっさに腰の拳銃を構えると、心臓の位置に目がけて全弾を撃ち込んだ。
ヒグマは大きく体勢を崩し、それでもまだ絶命はしていない。
最期の力を振り絞り、海賊に襲い掛かろうとする。
その心臓に、海賊はとどめの銛を突き立てる。
ヒグマが倒れ込む勢いと海賊の剛腕とで、本来の用途とは大きく外れてはいるものの、銛はズッポリとヒグマの胸に突き刺さった。
「はッ!やったぜ、見ろよあばたちゃん!」
ズゥゥンと横たわるヒグマの屍の前で、海賊は両拳を掲げて勝利の宣言を上げる。
「す、凄い……」
あばたは腰が抜けたまま、あっけにとられて目をまんまるくしていた。
海賊の手を借りてやっとこさ立ち上がると、尻についた土をぱんぱんと払う。
「ですけど、これどうするんですか。でかいし死んでるし刺さってますし」
「どうしようね」
とりあえず銛を抜くか、と2人がかりでヒグマをひっくり返そうとしているところに、銃を持った人影が近づく。
「おい、あんたたち」
背後から声をかけられ、振り返った海賊の顔は警戒の色に切り替わっていた。
もし追手であれば容赦はしない──
しかし、その必要はなかった。
声の主はアイヌの男だったからだ。
「そのヒグマ、旦那が仕留めたのか。やるなぁ、マレクでヒグマを獲ったやつなんて初めてだ」
アイヌの男はやや目深にかぶった鉢巻きの下から、興味深そうにジロジロと海賊を見る。
そんな彼をまた、包帯の隙間から興味深そうにあばたがジロジロと見る。
「うわぁ!びっくりした、なんでこっちのメノコは包帯ぐるぐる巻きなんだ?」
「まぁ、ちょっと色々あってね。顔の傷をこれで保護してる」
「驚かせてすみません。アイヌの方を見るの初めてで」
あばたは驚かれたショックより、北方の民族に対する興味の方が強いようだった。
あばたが男の身に付けたものに興味津々に見入っているので、男は「ずいぶん変わったシサムたちだ」と不思議そうに口元を結んだ。
アイヌの男はキラウシといって、聞こえた銃声は彼のものだった。
彼が手負いにしたヒグマが逃げる進行方向にたまたま居合わせてしまい、追い詰められて混乱したクマの攻撃を受けたようである。
キラウシは祈りの言葉を唱えると、鮮やかな手さばきで次々とヒグマを解体していった。
血塗れの銛も返ってきた。
「俺がヒグマを仕留め損ねたせいで驚かせて悪かったな。マレクでヒグマ獲るニシパと、包帯ぐるぐる巻きのメノコ。ずいぶん変わった2人組だが、こんなところで何してたんだ?」
「ああ、こいつは本州の方から来た親戚でね、北海道の自然が物珍しいらしくて色々案内してやってんだ」
正体を悟られないために咄嗟についた嘘だったが、キラウシは「へぇ、そうなのか」と納得してくれたようだ。
「そうだ、良かったら俺のコタンに寄っていけ。あんたが獲った獲物だ。ヒグマ料理を食べていくといい」
「えっ、ヒグマって食べれるんですか」
そのお誘いに、海賊より先にあばたが反応する。
「行きましょうよ海賊さん!」と海賊の大きな背中をぐいぐい押す。
「カイゾク?」
あばたちゃんの言葉を聞き、キラウシがそう繰り返したので、2人はギクッとする。
正体がバレるのではないかと肝が冷えた。
が、それは杞憂で、キラウシは「カイゾクってなんだ?ニシパの名前か?」と首を傾げている。
「あ、えっと。いや、カイゾクっていうのはこの人のあだ名みたいなもので、泳ぎが得意で銛を持たせると獲れない魚はないっていうので、そう呼ばれてるんですよ」
苦し紛れの嘘だったが、「確かに、あの銛さばきは凄かった」と頷いてくれたのでほっと胸を撫でおろす。
もっと気をつけろ馬鹿、と言いたげに海賊はあばたの頭をこっそりはたき、あばたはいでっと声をもらした。
コタンはすぐ近くにあり、キラウシが経緯を説明すると村長たちは2人を歓迎してくれた。
村人たちは“カムイホプニレ”という儀式の準備に忙しそうである。
何か手伝おうかと聞いてみたが、客人なのだからゆっくりしているといい、と言われたので家の中で大人しく待つことにした。
その間、あばたは家の中を見渡してみたり歩き回ってみたり、そわそわと落ち着かない様子であった。
「どうしたの、あばたちゃん。便所なら外にあるらしいけど」
「違いますよ!アイヌの生活をこんなに間近で見れるなんて思っていなかったので、今のうちに色々と目に焼き付けておこうとしてるんです。どれもこれも初めて見るものばかりで、とてもおもしろいと思いませんか」
「果てしない浪漫を感じるッ!」とあばたは鼻息荒く語るが、海賊は「うんうん、そうだネ」と棒読みの返事を返すだけである。
「チッ……。まったく分かってないですね、海賊さんは」
吐き捨てるように言うあばたに、「おい、今舌打ちしただろ」と海賊は苛立った。
キラウシが準備が整ったことを知らせに来たときには、家の中にまで外の賑わいと美味しそうな匂いが流れ込んできていた。
あちこちから「オホホホホーイ!」とか「オノンノオノンノ!」といった掛け声が聞こえてくる。
あばたにはそれがどういう意味なのか分からなかったが、ちょっと恥ずかしいので小声で、自分も真似て口にしてみるのであった。
ヒグマの肉は山菜や野菜などと共に鉄鍋で煮られ、立派な“カムイオハウ”ができあがった。
“オハウ”はアイヌの食生活に欠かせない、いわば主食のようなもので、ヒグマで作ったオハウを特にそう呼ぶらしい。
ヒグマ——“キムンカムイ”が彼らの生活にとっていかに重要なカムイかが見て取れる。
醤油でも味噌でもない不思議な味付けだったが、肉の臭みなどは全く感じず、美味しいものであった。
内臓を叩いたものや脳みそなどは塩で味付けされ、生で食べるよう供された。
海賊は遠慮したが、あばたは迷わずいただいた。
美味しかった。
海賊はすぐに男衆たちと打ち解けたようで、色々と盛り上がって話をしていた。
煙草は肺に良くないからと断っていたが、酒は喜んで受け取り、すっかり顔を赤くしている。
あばたは酒は飲まなかったが、酔っぱらって絡んでくる海賊が酒臭くてちょっと気持ち悪くなった。
そのうちに酔っぱらいたちは静かになり、赤い顔のまま眠りこけていった。
翌日、2人はキラウシに案内されながら森の中を歩いていた。
あばたがアイヌの文化に関心があることを伝えると、自分たちの生活について色々教えてくれるというのだ。
狩りの仕方や自分たちが信仰するカムイ、様々な言い伝えなど、どれもあばたは熱心に聞いていた。
「それにしても、アイヌも銃を使うんだな。毒矢を使うってのは聞いたことがあるけど」
海賊がキラウシの銃を指して言う。
「まぁな。銃の方が遠くの獲物まで狙えるし、威力もある。今どき毒矢ははアマッポくらいにしか使わない」
「アマッポって何ですか?」
「アイヌが使う仕掛け弓矢だ。間違って引っかかると大変なことになる。近くにはきちんと目印があるから、コタンの近くの森を通るときは十分注意することだな」
「なるほど」と頷くあばたが、何かにつまづいて「ぐわっ」と体勢を崩すまではほんの数秒のことだった。
近くの藪からビュッと何かが飛び出し、あばたの右太腿後部を掠め去る。
何が起きたのか分からず、ただ「いだいッ!!」と傷口を押さえながら悶え転げまわることしかできない。
「アマッポだ!傷口を見せてみろ」
傷口はぱっくりと深く切り裂かれていたが、幸いなことに鏃は刺さっておらず、矢は反対側の木の幹に当たって落ちていた。
念のために急いで傷まわりを洗い流して応急処置を施す。
「気をつけろって言われた傍から何やってんだよ、馬鹿だなぁ」
「す、すみません……」
何も言い返せず、痛みと情けなさと申し訳なさにあばたはほとほとと涙した。
動けないあばたを海賊が担いでコタンまで戻ると、女衆が種々の薬草を使って手当してくれた。
やはり若干の毒の作用を受けたのか、あばたはしばらく灼熱感に脂汗を浮かべてうなされていたが、今は落ち着いたようで静かに眠っている。
「色々世話になっちまって悪いな。あいつが動けるようになったらすぐに出ていくよ」
「気にするな。あのアマッポは村のやつが仕掛けたものだし、怪我人を追い出すほど俺たちは冷徹じゃない」
「その代わり」とキラウシは続ける。
「ボウタロウニシパは銛を使うのが得意らしい。滞在する間、漁の手伝いをしてはどうだ。自分たちの食料を自分で用意すれば誰も文句を言わないし、あばたちゃんも気兼ねなく療養できるだろ」
海賊は「そりゃいいや」と、その提案に了承した。
2人が話していたところ、あばたの様子を見ていた女のうちの1人が家の中へ駆け込んできた。
女は海賊の方をチラチラと伺いながら、焦った様子でキラウシに何かを話している。
海賊にはアイヌ語で交わされるその会話がさっぱり分からなかったが、聞こえてきた“パヨカカムイ”という言葉だけが何故か耳に残った。