海賊さんの拾いもの
札幌の街に見慣れた頃には、結構な重症だったであろう海賊の傷もすっかり塞がって跡形もなくなっていた。
医者の腕が良かったからか、患者の回復力が優れているのか、はたまた両方か。
何にしても喜ばしいことである。
「やっぱ札幌といったらビールだよな」
「まだ治ったばかりなんですから。飲みすぎないでくださいよ」
アルコールの摂取は治療の妨げになると医者に禁じられていたのだ。
久しぶりの酒がよほど美味いのか、海賊は上機嫌に酒器を傾けている。
「あばたちゃんも飲めばいいのに。美味いぜ」
「結構です。お酒なんてただの苦い水じゃないですか。どこがいいのか私にはさっぱりです」
「お子様だな」
はは、と鼻で笑われたが、あばたは気にしない。
海賊に子ども扱いされるのにもいい加減慣れてきた。
さすがに居心地が良いとまでは言わないが、なんだかそれくらいの調子の方が落ち着く気がする。
すっかり行きつけになった料理店を後にした帰途。
向こうから1人の男が歩いてきた。
それも酷い千鳥足で、ふらつきよろけながら今にも転びそうだ。
遠くからでもわかる酩酊っぷりである。
あばたは内心みっともないと毒づきながら、絡まれたら厄介そうなので距離をとってすれ違おうとした。
にもかかわらず、その酔っぱらいが大きく進路を傾けて近づいてきたものだから、見事に肩と肩をぶつけることとなってしまった。
「いだっ!」
「あーあ、何やってんの。気をつけろよな」
「ええ?今の私が悪いんですか。そりゃちゃんと謝りますけども……」
体勢を崩した酔っぱらいは、道のどまんなかに尻もちをついてしまっている。
「すみません。大丈夫ですか」と声をかけてみるが、あばたのことなど目にも耳にも入っていないようで反応なし。
起き上がろうともせず、ただうわ言のように何かをブツブツと繰り返し唱えているだけだ。
「……ダメです。完全につぶれちゃってますよ、この人。なに言ってるかもよく分からないですし」
「ったく、しょうがねえな」
海賊は溜息をつくと、座り込んだままの男の腕を首に回してなんとか立ち上がらせてやった。
「お〜い、あんた。しっかりしろ。呑まれるんなら飲むんじゃねえよ」
「……がいねえんだ」
「あ?誰がいないって?」
「お銀が、お銀がいねえんだよどこにも!!」
男が真っ赤な顔で叫ぶ。
その顔に海賊は見覚えがあった。
「おいなんだよ、稲妻強盗じゃねえか。久しぶりだな〜」
「んあ?そういうお前は海賊房太郎か。こんなところで何してんだよ」
「それはこっちの台詞だぜ。お前、監獄から出たらかみさんを迎えに行くって言ってたじゃねえか。なんだってこんなところで独り飲んだくれてんだよ」
「ああ、ああ、そうなんだ。聞いてくれよ。お銀がいねえんだ。どこ探しても見つからねえ。一体どこに行っちまったっていうんだよ、お銀〜ッ!!」
雷鳴のようにビリビリと響く大声で愛する妻の名を叫ぶ稲妻。
通行人の視線が刺さって痛い。
ひとまず荒ぶる稲妻を落ち着かせ、適当な居酒屋に入って話を聞くことにした。
「まだ飲むんですか……」
男というのは何かに託けて酒を飲みたがる。
久々の再会だとか、悩みの相談だとか、腹を割った話がしたいだとか。
そんな理由を持ち出して、酔いなら散々回っているはずなのにまだ杯を合わせるのだ。
あばたには到底理解できないことである。
稲妻の話を聞くところによると、彼は待望の脱獄を果たして以降ずっと妻を探し続けているのだという。
捕らえられる直前、夫婦は落ち合う場所を約束したらしいのだがそこに彼女の姿はなく、自慢の脚力で北海道中を巡り巡ったが見つからない。
途方に暮れてやけ酒に溺れていたところ、2人と出くわしたというわけだった。
怪我や病にかかったのかもしれない。
事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。
執念深い警察に追われているのかもしれない。
あるいは、他の男に拐かされたのかも……。
すっかり打ちひしがれている稲妻は後ろ向きな想像ばかり働かせては弱音を吐いている。
独特な髪型をへにゃりと萎れさせ、だらしない無精髭を生やし放題にした彼の姿は憐れなものだ。
「まぁ、何年間も待っていたんじゃ、そういうことも有り得ますよね。女心と秋の空って言いますし。あれ?男心でしたっけ」
うっかりそんなことを口走ったばかりに、あばたはいきなり胸ぐらを掴まれ揺さぶられるはめになった。
おっかなさのあまり口から心臓が跳び出そうになる。
「お銀がそんな薄情な女なわけねえだろうが。ぶっ殺されてえのか、あ゛あ゛?」
「いやあのホントすみません。そんなわけないですよね。きっと今頃そのお銀さんも稲妻さんのこと探し回ってますよ、はい」
「そうか、そうだよな。ああ、早く迎えに行ってやらねえと」
逃れたい一心からの出まかせだったが効いたようだ。
稲妻はあばたを払い除けると、再び麦酒を煽って長い息を吐いた。
にしても、自分で言ったくせにこの仕打ちとはあまりにも横暴だろう。
そのくたびれた様子から忘れてしまいそうになるが、彼も網走に収監されていた凶悪犯罪者の一人なのである。
機嫌を損ねると本当に殺されるかもしれない、とあばたは肝に深く銘じた。
「そんだけ愛の深い夫婦ならよ、奥さんの方もすっかり意気消沈しちまってるのかもな。だからまずは、お前が出てきたってことを知らせてやる必要があるんじゃねえか」
「居場所が分からねえってのに、どうやって知らせるんだよ」
「その人の耳にも届くくらいでけえ事件を起こしてやればいい。新聞にデカデカと載るくらいド派手なのをさ。どうだ?やるなら俺も手伝うぜ。ちょうど懐も寂しくなってきたところだったしな」
「ほう。そりゃ悪くねえ考えだ。いいぜ、のった」
男たちはガシッと固い握手を交わす。
海賊と強盗という最恐かつ最凶な二人組が誕生してしまった。
トントン拍子で進む展開がよく飲み込めないまま、あばたはすっかり置いてけぼりだ。
「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
そんな一言だけを残し、海賊は稲妻と連れ立って店を出て行ってしまった。
それから暫く、あばたは居候中のホテルでいつ帰るのかどこへ行ったのかも知れぬ海賊を待つ日々を過ごしていた。
「ほら、早くッ!もっと強く圧迫しないと失血死してしまうわよ。頑張ってッ!」
「そそそそんなこと言われたって!!ああ、血が……!!うぅぅ!!」
地下室で拷問にかけられているのは宿泊客もとい家永の獲物。
切断された動脈から一定間隔でドクッドクッと鮮血が吐き出される。
懸命に傷口を抑えるあばたであるが、上手く力がこめられずなかなか止まってくれない。
とめどなく溢れ出す赤色を見てますます力が抜けてしまう悪循環。
必死に拍動するその人の心臓より、自分の心臓の方が早鐘を打っているのが分かる。
心を落ち着かせようと大きく深呼吸をしたら、むせ返るような血の臭いが脳裏まで染み渡って吐き気を催した。
もうやめたい。
逃げ出したい。
全て忘れてふかふかのお布団にもぐりこんでしまいたい。
それができればどんなに幸せだろう。
だが、あばたに与えられた選択肢は二つに一つ。
一刻も早く止血を成功させるか、このまま無力さに苛まれながら彼の最期を見届けるのか。
そんなもの、前者が良いに決まっているではないか。
喉の奥へ込み上げてきた酸っぱいものを胃の中へ送り返し、あばたは死に物狂いの処置を続けた。
「はい、よくできました。時間はかなりかかってしまったけれど、彼はなんとか一命を取り留めたわ。次もまた頑張りましょうね」
「つ、次って、またやるんですか!?こんな惨たらしいことを?……うぅえっ」
緊張の糸が切れたところにつきつけられた、これで終わりではないという事実。
こらえきれない嘔吐きがあばたの口から漏れた。
「あら、あなたから言ってきたのでしょう。医学知識を学びたいと」
「それはそうですけども……」
あばたが知りたかったのは応急手当の心得的なものであって、血みどろの実践教育など望んでいない。
人選を誤っていることは明白なのだが、とは言え他に頼れる人もいないわけで。
結局のところ、あばたはこの猟奇的な医師に教えを乞うしかないのである。
「さぁて、ここからは解剖学の時間よ」
あばたは耳を疑った。
「え。解剖って、何するつもりですか?」
「人体の構造を知るには実際に開いて見た方が早いでしょう」
家永は医療用ナイフを手に取り、今さっき出血が止まったばかりの人間の腹に添えた。
「そんなことをしたらこの人今度こそ死んじゃいますよ!?」
「ええ、そうね。でも、結局食べるのだし、別に問題ないじゃない」
「そんな……。じゃあさっきのは何だったんですか。私は一体何のために」
「まさか本気で助けようとしていたの?こんなことをしておいて生かして帰せるわけないのに。馬鹿みたいに素直な子ね」
彼の言うことは倫理にこそ反しているが、道理にはかなっている。
少し考えれば分かることである。
しかし、それに気づける余裕などあばたにはなかったのだ。
これでは自分も殺人鬼の仲間入りではないか。
「安心して。あなたが行ったのは立派な救命措置だった。そして、これから起こることも、あなたはただ傍に立って見ているだけ」
再び吐き気が込み上げてきたあばたの心情を読み取ってか、家永が諭すようにそう言った。
しかしながら、そんな暗示めいた言葉で払拭できるほど生易しい胸糞の悪さではない。
けれども、どうだろう。
その言葉に甘えて無垢なふりをしたとして、あばたの一線がとっくに不明瞭であることに変わりはないはずだ。
思えばあの日、あの人に拾われたときからずっと、その境界はあやふやになり続けている。
自らあちら側へ踏み込むつもりはないが、いつまでもこちら側にいられるとも思っていない。
それほどに染まりすぎていることはあばた自身も重々承知していた。
この期に及んで曖昧な境界線にしがみついても窮屈なだけ。
ならいっそ、思い切りは早い方が楽なのかもしれない。
これから先もあの人についていくなら、いつか。
染まり切るときがくるかもしれないから。
「いいですよ、始めてください。しっかり学ばせてもらいますから。言い逃れするつもりもありません。私たちは立派な共犯者です」
「覚悟を決めた、って感じ。素敵な目。でもあんまり素敵になられると、食べたくなっちゃうわよ」
あばたの瞳を覗き込みながら舌なめずりをする家永。
「ちょ、勘弁してくださいよ……」
「ふふ、冗談よ」
彼が言うと冗談に聞こえない。
なぜなら、解剖し終えた後の一部も彼は食する気でいるのだから。
あなたもどう?と勧められたが、もちろんお断りだ。
さすがのあばたでも、目の前で処理された人肉に食欲など湧こうはずがない。
それどころか、今後しばらく肉類は口にできないだろう。
ただし、彼の理屈にほんの少しだけ気が触れかけたのは認めなくてはならない。
人間は他の動物を食べるために殺す。
殺生を悪とする中、それだけは切り離して考える。
そして、その死骸を“食べる”ことを“食材への感謝”とする。
たとえその相手が人間に置き換わったとしても彼にとっては同じこと。
ただそれだけのことなのだ。
その考え方は弱肉強食、いわゆる自然界の掟に近いのかもしれない。
しかし、人間が人間である以上、従うべきは人間界の掟である。
つまるところ、やはり食人は肯定できない悪であるべきだ。
そう結論づけたあばたの倫理観は、まだ正常と言って良いだろうか。
地獄の特訓は連日にわたって続いた。
部屋の隅に乱雑に積み上げられた人骨も、床に飛び散った血飛沫も、ネズミに齧られている肉片も。
悲しいことに見慣れてしまって、あばたがいちいち悲鳴を上げることはなくなった。
それは最早ただの“モノ”に過ぎない。
それよりも恐ろしいのは、そこから抜け出た魂が死霊となって現れることである。
ただでさえそういった心霊の類は苦手だというのに、日に日にすり減っていく精神がそれをより悪化させる。
あまつさえ幻覚や幻聴の症状まで表れる始末。
そんなあばたを見兼ねて、家永が叱咤激励を飛ばす。
「いいですか、あばた様。科学的に考えて幽霊など存在しないのです」
「どうしてそう言い切れるんです。見えないからいないとは限らないじゃないですか」
「確かにそれは仰る通りです。しかし、もし存在するとしたらどうでしょう。私も海賊も、今までに殺してきた人々の怨霊にとっくに呪い殺されているはずです」
家永は演劇の役者のように大袈裟な身振りで自分の正しさを示す。
「それだというのに、私は今もこうして生きているではありませんか。これが何よりの証拠でございますよ」
あばたはハッと息を飲む。
妙に納得できてしまったのだ。
それからというもの幻覚や幻聴に悩まされることはなくなった。
それが良いことなのかどうかは分からない。
まるで罪悪感を欠損してしまったようにも感じるのだ。
はてさてしかし、暗闇への恐怖は晴れて消え去ったはずなのに、未だに独りの部屋を“怖い”と感じるのは何故なのか。
理由も分からず、あばたの心には苛立ちばかりが募っていく。
それもこれも、あの人が早く帰ってこないのが悪い。
帰って来たら散々文句を言ってやろう。
なんて思うと、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
医者の腕が良かったからか、患者の回復力が優れているのか、はたまた両方か。
何にしても喜ばしいことである。
「やっぱ札幌といったらビールだよな」
「まだ治ったばかりなんですから。飲みすぎないでくださいよ」
アルコールの摂取は治療の妨げになると医者に禁じられていたのだ。
久しぶりの酒がよほど美味いのか、海賊は上機嫌に酒器を傾けている。
「あばたちゃんも飲めばいいのに。美味いぜ」
「結構です。お酒なんてただの苦い水じゃないですか。どこがいいのか私にはさっぱりです」
「お子様だな」
はは、と鼻で笑われたが、あばたは気にしない。
海賊に子ども扱いされるのにもいい加減慣れてきた。
さすがに居心地が良いとまでは言わないが、なんだかそれくらいの調子の方が落ち着く気がする。
すっかり行きつけになった料理店を後にした帰途。
向こうから1人の男が歩いてきた。
それも酷い千鳥足で、ふらつきよろけながら今にも転びそうだ。
遠くからでもわかる酩酊っぷりである。
あばたは内心みっともないと毒づきながら、絡まれたら厄介そうなので距離をとってすれ違おうとした。
にもかかわらず、その酔っぱらいが大きく進路を傾けて近づいてきたものだから、見事に肩と肩をぶつけることとなってしまった。
「いだっ!」
「あーあ、何やってんの。気をつけろよな」
「ええ?今の私が悪いんですか。そりゃちゃんと謝りますけども……」
体勢を崩した酔っぱらいは、道のどまんなかに尻もちをついてしまっている。
「すみません。大丈夫ですか」と声をかけてみるが、あばたのことなど目にも耳にも入っていないようで反応なし。
起き上がろうともせず、ただうわ言のように何かをブツブツと繰り返し唱えているだけだ。
「……ダメです。完全につぶれちゃってますよ、この人。なに言ってるかもよく分からないですし」
「ったく、しょうがねえな」
海賊は溜息をつくと、座り込んだままの男の腕を首に回してなんとか立ち上がらせてやった。
「お〜い、あんた。しっかりしろ。呑まれるんなら飲むんじゃねえよ」
「……がいねえんだ」
「あ?誰がいないって?」
「お銀が、お銀がいねえんだよどこにも!!」
男が真っ赤な顔で叫ぶ。
その顔に海賊は見覚えがあった。
「おいなんだよ、稲妻強盗じゃねえか。久しぶりだな〜」
「んあ?そういうお前は海賊房太郎か。こんなところで何してんだよ」
「それはこっちの台詞だぜ。お前、監獄から出たらかみさんを迎えに行くって言ってたじゃねえか。なんだってこんなところで独り飲んだくれてんだよ」
「ああ、ああ、そうなんだ。聞いてくれよ。お銀がいねえんだ。どこ探しても見つからねえ。一体どこに行っちまったっていうんだよ、お銀〜ッ!!」
雷鳴のようにビリビリと響く大声で愛する妻の名を叫ぶ稲妻。
通行人の視線が刺さって痛い。
ひとまず荒ぶる稲妻を落ち着かせ、適当な居酒屋に入って話を聞くことにした。
「まだ飲むんですか……」
男というのは何かに託けて酒を飲みたがる。
久々の再会だとか、悩みの相談だとか、腹を割った話がしたいだとか。
そんな理由を持ち出して、酔いなら散々回っているはずなのにまだ杯を合わせるのだ。
あばたには到底理解できないことである。
稲妻の話を聞くところによると、彼は待望の脱獄を果たして以降ずっと妻を探し続けているのだという。
捕らえられる直前、夫婦は落ち合う場所を約束したらしいのだがそこに彼女の姿はなく、自慢の脚力で北海道中を巡り巡ったが見つからない。
途方に暮れてやけ酒に溺れていたところ、2人と出くわしたというわけだった。
怪我や病にかかったのかもしれない。
事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。
執念深い警察に追われているのかもしれない。
あるいは、他の男に拐かされたのかも……。
すっかり打ちひしがれている稲妻は後ろ向きな想像ばかり働かせては弱音を吐いている。
独特な髪型をへにゃりと萎れさせ、だらしない無精髭を生やし放題にした彼の姿は憐れなものだ。
「まぁ、何年間も待っていたんじゃ、そういうことも有り得ますよね。女心と秋の空って言いますし。あれ?男心でしたっけ」
うっかりそんなことを口走ったばかりに、あばたはいきなり胸ぐらを掴まれ揺さぶられるはめになった。
おっかなさのあまり口から心臓が跳び出そうになる。
「お銀がそんな薄情な女なわけねえだろうが。ぶっ殺されてえのか、あ゛あ゛?」
「いやあのホントすみません。そんなわけないですよね。きっと今頃そのお銀さんも稲妻さんのこと探し回ってますよ、はい」
「そうか、そうだよな。ああ、早く迎えに行ってやらねえと」
逃れたい一心からの出まかせだったが効いたようだ。
稲妻はあばたを払い除けると、再び麦酒を煽って長い息を吐いた。
にしても、自分で言ったくせにこの仕打ちとはあまりにも横暴だろう。
そのくたびれた様子から忘れてしまいそうになるが、彼も網走に収監されていた凶悪犯罪者の一人なのである。
機嫌を損ねると本当に殺されるかもしれない、とあばたは肝に深く銘じた。
「そんだけ愛の深い夫婦ならよ、奥さんの方もすっかり意気消沈しちまってるのかもな。だからまずは、お前が出てきたってことを知らせてやる必要があるんじゃねえか」
「居場所が分からねえってのに、どうやって知らせるんだよ」
「その人の耳にも届くくらいでけえ事件を起こしてやればいい。新聞にデカデカと載るくらいド派手なのをさ。どうだ?やるなら俺も手伝うぜ。ちょうど懐も寂しくなってきたところだったしな」
「ほう。そりゃ悪くねえ考えだ。いいぜ、のった」
男たちはガシッと固い握手を交わす。
海賊と強盗という最恐かつ最凶な二人組が誕生してしまった。
トントン拍子で進む展開がよく飲み込めないまま、あばたはすっかり置いてけぼりだ。
「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
そんな一言だけを残し、海賊は稲妻と連れ立って店を出て行ってしまった。
それから暫く、あばたは居候中のホテルでいつ帰るのかどこへ行ったのかも知れぬ海賊を待つ日々を過ごしていた。
「ほら、早くッ!もっと強く圧迫しないと失血死してしまうわよ。頑張ってッ!」
「そそそそんなこと言われたって!!ああ、血が……!!うぅぅ!!」
地下室で拷問にかけられているのは宿泊客もとい家永の獲物。
切断された動脈から一定間隔でドクッドクッと鮮血が吐き出される。
懸命に傷口を抑えるあばたであるが、上手く力がこめられずなかなか止まってくれない。
とめどなく溢れ出す赤色を見てますます力が抜けてしまう悪循環。
必死に拍動するその人の心臓より、自分の心臓の方が早鐘を打っているのが分かる。
心を落ち着かせようと大きく深呼吸をしたら、むせ返るような血の臭いが脳裏まで染み渡って吐き気を催した。
もうやめたい。
逃げ出したい。
全て忘れてふかふかのお布団にもぐりこんでしまいたい。
それができればどんなに幸せだろう。
だが、あばたに与えられた選択肢は二つに一つ。
一刻も早く止血を成功させるか、このまま無力さに苛まれながら彼の最期を見届けるのか。
そんなもの、前者が良いに決まっているではないか。
喉の奥へ込み上げてきた酸っぱいものを胃の中へ送り返し、あばたは死に物狂いの処置を続けた。
「はい、よくできました。時間はかなりかかってしまったけれど、彼はなんとか一命を取り留めたわ。次もまた頑張りましょうね」
「つ、次って、またやるんですか!?こんな惨たらしいことを?……うぅえっ」
緊張の糸が切れたところにつきつけられた、これで終わりではないという事実。
こらえきれない嘔吐きがあばたの口から漏れた。
「あら、あなたから言ってきたのでしょう。医学知識を学びたいと」
「それはそうですけども……」
あばたが知りたかったのは応急手当の心得的なものであって、血みどろの実践教育など望んでいない。
人選を誤っていることは明白なのだが、とは言え他に頼れる人もいないわけで。
結局のところ、あばたはこの猟奇的な医師に教えを乞うしかないのである。
「さぁて、ここからは解剖学の時間よ」
あばたは耳を疑った。
「え。解剖って、何するつもりですか?」
「人体の構造を知るには実際に開いて見た方が早いでしょう」
家永は医療用ナイフを手に取り、今さっき出血が止まったばかりの人間の腹に添えた。
「そんなことをしたらこの人今度こそ死んじゃいますよ!?」
「ええ、そうね。でも、結局食べるのだし、別に問題ないじゃない」
「そんな……。じゃあさっきのは何だったんですか。私は一体何のために」
「まさか本気で助けようとしていたの?こんなことをしておいて生かして帰せるわけないのに。馬鹿みたいに素直な子ね」
彼の言うことは倫理にこそ反しているが、道理にはかなっている。
少し考えれば分かることである。
しかし、それに気づける余裕などあばたにはなかったのだ。
これでは自分も殺人鬼の仲間入りではないか。
「安心して。あなたが行ったのは立派な救命措置だった。そして、これから起こることも、あなたはただ傍に立って見ているだけ」
再び吐き気が込み上げてきたあばたの心情を読み取ってか、家永が諭すようにそう言った。
しかしながら、そんな暗示めいた言葉で払拭できるほど生易しい胸糞の悪さではない。
けれども、どうだろう。
その言葉に甘えて無垢なふりをしたとして、あばたの一線がとっくに不明瞭であることに変わりはないはずだ。
思えばあの日、あの人に拾われたときからずっと、その境界はあやふやになり続けている。
自らあちら側へ踏み込むつもりはないが、いつまでもこちら側にいられるとも思っていない。
それほどに染まりすぎていることはあばた自身も重々承知していた。
この期に及んで曖昧な境界線にしがみついても窮屈なだけ。
ならいっそ、思い切りは早い方が楽なのかもしれない。
これから先もあの人についていくなら、いつか。
染まり切るときがくるかもしれないから。
「いいですよ、始めてください。しっかり学ばせてもらいますから。言い逃れするつもりもありません。私たちは立派な共犯者です」
「覚悟を決めた、って感じ。素敵な目。でもあんまり素敵になられると、食べたくなっちゃうわよ」
あばたの瞳を覗き込みながら舌なめずりをする家永。
「ちょ、勘弁してくださいよ……」
「ふふ、冗談よ」
彼が言うと冗談に聞こえない。
なぜなら、解剖し終えた後の一部も彼は食する気でいるのだから。
あなたもどう?と勧められたが、もちろんお断りだ。
さすがのあばたでも、目の前で処理された人肉に食欲など湧こうはずがない。
それどころか、今後しばらく肉類は口にできないだろう。
ただし、彼の理屈にほんの少しだけ気が触れかけたのは認めなくてはならない。
人間は他の動物を食べるために殺す。
殺生を悪とする中、それだけは切り離して考える。
そして、その死骸を“食べる”ことを“食材への感謝”とする。
たとえその相手が人間に置き換わったとしても彼にとっては同じこと。
ただそれだけのことなのだ。
その考え方は弱肉強食、いわゆる自然界の掟に近いのかもしれない。
しかし、人間が人間である以上、従うべきは人間界の掟である。
つまるところ、やはり食人は肯定できない悪であるべきだ。
そう結論づけたあばたの倫理観は、まだ正常と言って良いだろうか。
地獄の特訓は連日にわたって続いた。
部屋の隅に乱雑に積み上げられた人骨も、床に飛び散った血飛沫も、ネズミに齧られている肉片も。
悲しいことに見慣れてしまって、あばたがいちいち悲鳴を上げることはなくなった。
それは最早ただの“モノ”に過ぎない。
それよりも恐ろしいのは、そこから抜け出た魂が死霊となって現れることである。
ただでさえそういった心霊の類は苦手だというのに、日に日にすり減っていく精神がそれをより悪化させる。
あまつさえ幻覚や幻聴の症状まで表れる始末。
そんなあばたを見兼ねて、家永が叱咤激励を飛ばす。
「いいですか、あばた様。科学的に考えて幽霊など存在しないのです」
「どうしてそう言い切れるんです。見えないからいないとは限らないじゃないですか」
「確かにそれは仰る通りです。しかし、もし存在するとしたらどうでしょう。私も海賊も、今までに殺してきた人々の怨霊にとっくに呪い殺されているはずです」
家永は演劇の役者のように大袈裟な身振りで自分の正しさを示す。
「それだというのに、私は今もこうして生きているではありませんか。これが何よりの証拠でございますよ」
あばたはハッと息を飲む。
妙に納得できてしまったのだ。
それからというもの幻覚や幻聴に悩まされることはなくなった。
それが良いことなのかどうかは分からない。
まるで罪悪感を欠損してしまったようにも感じるのだ。
はてさてしかし、暗闇への恐怖は晴れて消え去ったはずなのに、未だに独りの部屋を“怖い”と感じるのは何故なのか。
理由も分からず、あばたの心には苛立ちばかりが募っていく。
それもこれも、あの人が早く帰ってこないのが悪い。
帰って来たら散々文句を言ってやろう。
なんて思うと、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
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