海賊さんの拾いもの
ホテル内の構造はとても複雑になっていて、案内なしでは迷ってしまいそうなほどであった。
連れてこられたのは手術室、と言っても空部屋をそのようにあつらえたものにすぎないが。
清潔な敷布が掛けられたベッド、棚に並べられた数々の薬瓶、何に使うのかよく分からない医療器具らしきもの。
普通のホテルにはまずないであろう設備が整っているのは、家永が元医者であるということに対し信憑性を増した。
家永は椅子を用意すると海賊に上着を脱いで座るよう言い、自身は白衣を纏って向かい合う形で座った。
あばたは何やら器具の乗った盆を持たされ、傍に立っているよう言われた。
自称名医は奇妙な刺青にはピクリとも反応せず、淡々と肩周りにぐるぐる巻きつけられた包帯を解いていく。
軽く傷口の確認を行うと早速嫡出に取り掛かった。
「は〜い、それじゃあちょっとチクッとしますからね」
そう言って金属製の器具を傷口に差し込むと、その穴をぐっと広げる。
見ているだけで体が痛くなりそうな光景。
あばたは思わず悲鳴を上げそうになったが、そんなことをしたら医者の集中力を削いでしまうかもしれないし、患者の痛みを増長してしまうかもしれない。
それに、絶対うるさいと怒られる。
あばたは目と口をぎゅっと閉じて堪え、力の抜けた手で盆を持つことに集中した。
その間、盆の上のものは減ったり増えたりを数回繰り返しているようであった。
「これで手術は終了です。お疲れ様でした」
どのくらい経ったのだろうか。
そんなに長い時間ではなかったように感じる。
終了の言葉を聞いてあばたがそーっと目を開くと、海賊の肩にはきっちり綺麗に包帯が巻かれていた。
安堵の息をついてふと手元に目をやると、そこには血塗れの潰れた弾丸が転がっている。
また全身の力がさーっと抜けて、あばたは危うく盆を落とすところであった。
「腕利きの医者ってのは本当だったみたいだな」
よほど鮮やかな手さばきだったのか、海賊の警戒も少し解かれたようである。
「もちろんでございますよ。では、次はそちらのお客様を診ましょうか」
今度はあばたを椅子に座らせ、家永は顔の包帯を解こうと指をかける。
「あ、いえ。これは怪我とは違うので。大丈夫です」
それを制止しようとするあばたに、海賊が「いいじゃん、診てもらいなよ」と口を挟んだ。
対する返事は「はあ」と気が乗り切らない。
あばたには今さら顔の傷跡をどうこうするつもりもなく、良くなろうと悪くなろうとどうでもよいと思っていた。
ただ、どうでもよいが故に拒否する理由も特に見当たらない。
結局、促されるまま診察を受けることにした。
「これはひどいですね」
家永は露わになったあばた顔を見るや否やそう言い放った。
それは、今までに彼女の顔を見た人が零したような忌避や嫌悪の意味ではなく、ただただ冷静に容態を示したものである。
だからこそ、その言葉の重みは大きかった。
「痘痕とは別にいくつもの瘢痕が重なっています。治りかけのかさぶたを無理やり剥がしたでしょう。そうすると傷口が広がったり化膿したりして余計ひどい跡になるのですよ」
海賊が打った「だろうな」という相槌には非難の意が乗っていた。
つい「すみません......」と答えたあばたであるが、よくよく考えると謝ることでもない気がした。
「で、どうなんだ。名医の先生の見立てでもこれを治すのは難しいのか」
「そうですね。今の医学、少なくとも国内の技術では完全に治療することは不可能かと。特に痘痕の上に広がっている熱傷痕が厄介ですね。深部まで達している箇所もありますし、ろくな治療もせずに放置したのかひどい治り方をしています」
「すごい。そんなことまで分かるんですか」
あばたは治療不可能という事実より、傷跡を見ただけでそこまで言い当てられる家永の技量に驚いた。
もはや信頼の域を超えて尊敬の念すら抱きつつある。
感心に輝くあばたの顔を見つめながら、海賊はけげんに顔を曇らせた。
「なんだよ熱傷って。誰かに嫌がらせでもされたのか」
いつもの如くジッと見つめてそう尋ねてくるものだから、たじろいでしまって誤魔化そうにも誤魔化せない。
あばたはゴニョゴニョと口ごもった末、観念して言いづらそうに白状した。
「いや、そうではなくて。その、ちょっと魔が差したといいますか。忌々しい疱瘡を焼き切ってしまいたくて」
「はあ?何それ。馬鹿な奴だとは思ってたが、まさかそれほどまでとはな」
「あれは我ながら馬鹿だったと思います……。めちゃめちゃ痛かっただけで何の得にもなりませんでしたし」
海賊は呆れ果てて溜息を吐く。
もしかして、心配してくれていたのだろうか、と思うと申し訳なくて仕方ないあばたなのであった。
「もうこの顔のことは気にしないでください。全部自業自得なんですから。いっそ治らないって聞けて清々しましたよ。それに、この包帯をしているうちはこれ以上ひどくなることはないですしね」
弁明も兼ねてそう言い括ると、あばたは再び顔に包帯を巻きつけた。
客室へと戻る道すがら、家永は“同物同治”の考え方について語ってくれた。
“体の不調な部分を治すには、その部分と同じものを食べるのが良い”らしい。
医学に精通している彼女がそのような俗説を推しているとは意外だ。
それもあってか、ただの迷信として片づけるには興味深い話に思えた。
「おもしろい考え方ですね。魚の顔の皮をいっぱい食べたら顔の傷も少しは良くなるでしょうか。脳みそを食べて頭も良くなってくれたらありがたいですけどね」
はははっ、とあばたは自虐めいた笑いを飛ばす。
先程の言葉といい、無理に取り繕っているわけではないようだ。
吹っ切れたらしい彼女の様子を見て、海賊は少し安心した。
ここに来てまた自殺願望をぶり返されたら困る。
もし勝手に死なれでもしたら、新しい小間使いを探す手間がかかってしまうのだから。
札幌には西洋料理店をはじめ、異国の料理を出す店が多い。
家永に勧められた店のうち、良さげなところを適当に選んで入る。
初め、運ばれてきたその店の看板料理を目にしたあばたは度肝を抜かれた。
茶色くてドロドロした物体が飯にかかったそれは、おおよそ食べ物とは思えない見目であったからだ。
だが、そこから発せられる香りは異様なほど食欲をそそるものであり、それが美味しいものであることを証明していた。
慣れないスプーンを握りしめ、零さないよう注意して口へと運ぶ。
やはり思った通り、いや思った以上に美味しい。
どんな味かと問われれば“ライスカレーの味”としか言い表せないような複雑な味わいである。
刺激的な汁と甘みのある米が口の中で合わさる至福。
あばたの緊張はたったの一口で解け、あとは食欲に任せてスプーンを動かすだけであった。
そんなあばたをおもしろそうに眺めながら、海賊は真っ白な服を汚すことなく器用に食べ進めている。
長い髪が邪魔にならないよう束ねてやるのは、不器用な家臣の仕事の1つになっていた。
それくらい自分でできるでしょう、なんてことは言っても無意味なので、あばたは王様から賜った名誉ある仕事をありがたく全うするだけである。
「相変わらずすごい食いっぷりだよな。いつもそんな腹ぺこなの?」
「別にそういうわけじゃないですけど。とっても美味しいものばかりで、残すなんて罰当たりなことできないじゃないですか。それに、家にいる時はお腹いっぱい食べることなんてまずなかったですし。食べられるときに食べておかないと後悔しそうで」
餌を与えられた野良猫のような形相でそう言うあばたを、海賊は「貧乏性だな」と一笑した。
「ま、食欲があって元気なのはいいけどさ。あんま太りすぎんなよ?何かあったときこの前みたいに担げなくなったら不便だからな」
「ふ、ふと......!?」
容赦なく放たれた鋭い指摘があばたにグッサリと突き刺さる。
実際問題、日に日に締めた帯の残りが短くなっているような気はしていた。
だとしても、こんなにも直接的に言うことないではないか。
あばたとて、仮にもいっぱしの乙女であるというのに。
動揺したあばたのスプーンから、エゾシカ肉の欠片がポトリと皿に落ちる。
それを拾って口にする勇気はもうない。
少しの間、皿の上に残るシカ肉を黙って見つめていたあばただったが、おもむろにスプーンですくい上げると向いの海賊の皿へと移し始めた。
「え?なになに。もしかして気にしてた?」
「いや違いますよ。エゾシカの肩肉が使われているかもしれないので、海賊さんに譲ってあげようと思っただけです。同物同治の効果があるかもしれませんからね」
「ああ、はいはい。じゃあもらってやるよ」
あながちそれも嘘ではないのかもしれないが、だとしてもいつものあばたなら「ま、私の分はあげませんけどね」と言って完食していたことだろう。
どうやら顔の傷が一生モノだと宣告されたときよりも遥かにこたえたらしい。
そんな些細なことで一喜一憂する女は大変だなと海賊は他人事のように思った。
「というか、太ってないですし、これくらいが標準ですし」
あばたはシカ肉を引越しさせ終えた後も、残りのライスとカレーを混ぜ合わせながらまだブツクサぼやいている。
「なぁ、悪かったって。そんなイジけんなよ。あー、ほら。夏毛のキツネより冬毛のタヌキの方がかわいいだろ?だから大丈夫だって」
「誰が冬毛のタヌキですかッ!まだそこまでじゃないですよ、まだ!」
相手を蔑むとか貶めるとかそういう悪意はないのだろうが、そのぶん逆に深く傷つく。
あばたはコップの中の水をぐいっと飲み干し、はぁ〜と深いため息を吐いた。
食生活を見直そう。
そう心に決め、最後の1粒までしっかり腹に収めて両手を合わせた。
夜闇に包まれたホテルはより一層不気味さを増して感じられた。
他に客はいないらしく、家永もどこかに姿を消していたので、広い建物内はしんと静まり返っている。
それなのに何故か誰かに見られているような気がするのだ。
そう言うあばたを海賊はいつものことだと相手にしない。
「気のせいだろ。んなもん寝ちまえば気になんねえよ」
ランプの灯りが消され、部屋の中も暗闇で満たされる。
真っ暗な虚空を見つめていると恐ろしい想像ばかりしてしまう。
どうせ同じ真っ暗闇なら瞼の裏側を見ている方がよっぽどマシだ。
あばたは念のため頭から布団をかぶり、目をぎゅっと瞑った。
ゴンッという鈍い音と「ぎゃあッ」という悲鳴が聞こえてハッと目が覚める。
いつの間にか眠っていたことに気がついて、あばたは飛び起きた。
恐ろしいが確認しないでいる方がもっと恐い。
身の縮む思いで音がした辺りに目を凝らすと、闇中にぼんやりと人間の輪郭が浮かび上がった。
窓から差す僅かな光だけがその姿を鮮明化していく。
顔を覆い隠すように垂れ下がる長い長い髪。
その隙間から覗く睨みつけるような鋭い目。
それはまさしく怪談話に出てくる幽霊像そのままの姿であった。
「ひいッ!!出たぁぁ!!」
あばたは咄嗟に手元にあった枕を投げつける。
目の前の怪異からとにかく身を守らなければという思いでいっぱいだったのだ。
火事場の馬鹿力というやつか、ほぼ直線状に吹っ飛んだ枕は見事標的の顔面へぼふっと命中した。
その音が妙に現実的で、錯乱していたあばたの思考に冷静さが取り戻される。
果たして幽体に物理攻撃など聞くものだろうか。
「いってえな。何すんだよ急に」
「ってなんだ、海賊さんじゃないですか。もう〜、驚かさないでくださいよ!」
「もう〜じゃねえよ」
海賊は拾い上げた枕を投げ返し、それをあばたは「へぶっ」と顔面で受け止めた。
よくよく考えればこの部屋にいる髪の長い者など海賊に決まっているのだが、暗闇への恐怖と寝ぼけ頭というのは人間の認識を酷く歪めてしまうようである。
「あれ?それじゃあ、さっきの悲鳴は何だったんです」
「いや、それがさ......」
海賊は見た方が早いと言うようにランプの灯りをつける。
並んだベッドとベッドの間。
照らされた床の上には、白目をむいて気絶している家永が横たわっていた。
「ええっ家永さん!?なんでここに、っていうかなんで倒れてるんですか??」
「物音がしたからネズミかと思って、つい」
「ついって、どんだけネズミ苦手なんですか!というか、どうするんですか、これ!!」
見たところ流血はなく、呼吸もしっかりしている。
命に別状はなさそうで一先ずは安心した。
しかし、額には立派なタンコブが膨れ上がっている。
彼女の整った顔立ちとの対比で余計に痛々しい。
「 何か冷やすものを用意しないと」
「なあ。それよりさ、そいつはどっから入ってきたんだと思う?」
「ええ?そんなのその扉からに決まってるじゃないですか」
この部屋の出入口は1つしかないのだから当然だ。
なぜ今そのような分かりきったことを聞いてくるのか、あばたは少し苛立ちながら答えた。
「普通に考えりゃそうだが、それなら気づかないはずがねえ。扉どころか窓だって、開け閉めするような音はしなかった」
「それは、寝ている私たちを起こさないようそーっと入ってきただけでは」
「俺が聞いたのもほんの小さな音だったが、そのときにはもう既に枕元に立ってたんだ。いくら注意したって、全くの無音でそこまで近づけるものか?」
「うーん……」
そう言われると確かに不審に思えてくる。
だがしかし、他のどこに出入りする隙があるというのだろうか。
そもそも、そうまでして家永がこの部屋に侵入したかった理由とは何なのだろうか。
謎は深まるばかり。
真相を突き止めるにしても、彼女には早く起きてもらう必要があった。
連れてこられたのは手術室、と言っても空部屋をそのようにあつらえたものにすぎないが。
清潔な敷布が掛けられたベッド、棚に並べられた数々の薬瓶、何に使うのかよく分からない医療器具らしきもの。
普通のホテルにはまずないであろう設備が整っているのは、家永が元医者であるということに対し信憑性を増した。
家永は椅子を用意すると海賊に上着を脱いで座るよう言い、自身は白衣を纏って向かい合う形で座った。
あばたは何やら器具の乗った盆を持たされ、傍に立っているよう言われた。
自称名医は奇妙な刺青にはピクリとも反応せず、淡々と肩周りにぐるぐる巻きつけられた包帯を解いていく。
軽く傷口の確認を行うと早速嫡出に取り掛かった。
「は〜い、それじゃあちょっとチクッとしますからね」
そう言って金属製の器具を傷口に差し込むと、その穴をぐっと広げる。
見ているだけで体が痛くなりそうな光景。
あばたは思わず悲鳴を上げそうになったが、そんなことをしたら医者の集中力を削いでしまうかもしれないし、患者の痛みを増長してしまうかもしれない。
それに、絶対うるさいと怒られる。
あばたは目と口をぎゅっと閉じて堪え、力の抜けた手で盆を持つことに集中した。
その間、盆の上のものは減ったり増えたりを数回繰り返しているようであった。
「これで手術は終了です。お疲れ様でした」
どのくらい経ったのだろうか。
そんなに長い時間ではなかったように感じる。
終了の言葉を聞いてあばたがそーっと目を開くと、海賊の肩にはきっちり綺麗に包帯が巻かれていた。
安堵の息をついてふと手元に目をやると、そこには血塗れの潰れた弾丸が転がっている。
また全身の力がさーっと抜けて、あばたは危うく盆を落とすところであった。
「腕利きの医者ってのは本当だったみたいだな」
よほど鮮やかな手さばきだったのか、海賊の警戒も少し解かれたようである。
「もちろんでございますよ。では、次はそちらのお客様を診ましょうか」
今度はあばたを椅子に座らせ、家永は顔の包帯を解こうと指をかける。
「あ、いえ。これは怪我とは違うので。大丈夫です」
それを制止しようとするあばたに、海賊が「いいじゃん、診てもらいなよ」と口を挟んだ。
対する返事は「はあ」と気が乗り切らない。
あばたには今さら顔の傷跡をどうこうするつもりもなく、良くなろうと悪くなろうとどうでもよいと思っていた。
ただ、どうでもよいが故に拒否する理由も特に見当たらない。
結局、促されるまま診察を受けることにした。
「これはひどいですね」
家永は露わになったあばた顔を見るや否やそう言い放った。
それは、今までに彼女の顔を見た人が零したような忌避や嫌悪の意味ではなく、ただただ冷静に容態を示したものである。
だからこそ、その言葉の重みは大きかった。
「痘痕とは別にいくつもの瘢痕が重なっています。治りかけのかさぶたを無理やり剥がしたでしょう。そうすると傷口が広がったり化膿したりして余計ひどい跡になるのですよ」
海賊が打った「だろうな」という相槌には非難の意が乗っていた。
つい「すみません......」と答えたあばたであるが、よくよく考えると謝ることでもない気がした。
「で、どうなんだ。名医の先生の見立てでもこれを治すのは難しいのか」
「そうですね。今の医学、少なくとも国内の技術では完全に治療することは不可能かと。特に痘痕の上に広がっている熱傷痕が厄介ですね。深部まで達している箇所もありますし、ろくな治療もせずに放置したのかひどい治り方をしています」
「すごい。そんなことまで分かるんですか」
あばたは治療不可能という事実より、傷跡を見ただけでそこまで言い当てられる家永の技量に驚いた。
もはや信頼の域を超えて尊敬の念すら抱きつつある。
感心に輝くあばたの顔を見つめながら、海賊はけげんに顔を曇らせた。
「なんだよ熱傷って。誰かに嫌がらせでもされたのか」
いつもの如くジッと見つめてそう尋ねてくるものだから、たじろいでしまって誤魔化そうにも誤魔化せない。
あばたはゴニョゴニョと口ごもった末、観念して言いづらそうに白状した。
「いや、そうではなくて。その、ちょっと魔が差したといいますか。忌々しい疱瘡を焼き切ってしまいたくて」
「はあ?何それ。馬鹿な奴だとは思ってたが、まさかそれほどまでとはな」
「あれは我ながら馬鹿だったと思います……。めちゃめちゃ痛かっただけで何の得にもなりませんでしたし」
海賊は呆れ果てて溜息を吐く。
もしかして、心配してくれていたのだろうか、と思うと申し訳なくて仕方ないあばたなのであった。
「もうこの顔のことは気にしないでください。全部自業自得なんですから。いっそ治らないって聞けて清々しましたよ。それに、この包帯をしているうちはこれ以上ひどくなることはないですしね」
弁明も兼ねてそう言い括ると、あばたは再び顔に包帯を巻きつけた。
客室へと戻る道すがら、家永は“同物同治”の考え方について語ってくれた。
“体の不調な部分を治すには、その部分と同じものを食べるのが良い”らしい。
医学に精通している彼女がそのような俗説を推しているとは意外だ。
それもあってか、ただの迷信として片づけるには興味深い話に思えた。
「おもしろい考え方ですね。魚の顔の皮をいっぱい食べたら顔の傷も少しは良くなるでしょうか。脳みそを食べて頭も良くなってくれたらありがたいですけどね」
はははっ、とあばたは自虐めいた笑いを飛ばす。
先程の言葉といい、無理に取り繕っているわけではないようだ。
吹っ切れたらしい彼女の様子を見て、海賊は少し安心した。
ここに来てまた自殺願望をぶり返されたら困る。
もし勝手に死なれでもしたら、新しい小間使いを探す手間がかかってしまうのだから。
札幌には西洋料理店をはじめ、異国の料理を出す店が多い。
家永に勧められた店のうち、良さげなところを適当に選んで入る。
初め、運ばれてきたその店の看板料理を目にしたあばたは度肝を抜かれた。
茶色くてドロドロした物体が飯にかかったそれは、おおよそ食べ物とは思えない見目であったからだ。
だが、そこから発せられる香りは異様なほど食欲をそそるものであり、それが美味しいものであることを証明していた。
慣れないスプーンを握りしめ、零さないよう注意して口へと運ぶ。
やはり思った通り、いや思った以上に美味しい。
どんな味かと問われれば“ライスカレーの味”としか言い表せないような複雑な味わいである。
刺激的な汁と甘みのある米が口の中で合わさる至福。
あばたの緊張はたったの一口で解け、あとは食欲に任せてスプーンを動かすだけであった。
そんなあばたをおもしろそうに眺めながら、海賊は真っ白な服を汚すことなく器用に食べ進めている。
長い髪が邪魔にならないよう束ねてやるのは、不器用な家臣の仕事の1つになっていた。
それくらい自分でできるでしょう、なんてことは言っても無意味なので、あばたは王様から賜った名誉ある仕事をありがたく全うするだけである。
「相変わらずすごい食いっぷりだよな。いつもそんな腹ぺこなの?」
「別にそういうわけじゃないですけど。とっても美味しいものばかりで、残すなんて罰当たりなことできないじゃないですか。それに、家にいる時はお腹いっぱい食べることなんてまずなかったですし。食べられるときに食べておかないと後悔しそうで」
餌を与えられた野良猫のような形相でそう言うあばたを、海賊は「貧乏性だな」と一笑した。
「ま、食欲があって元気なのはいいけどさ。あんま太りすぎんなよ?何かあったときこの前みたいに担げなくなったら不便だからな」
「ふ、ふと......!?」
容赦なく放たれた鋭い指摘があばたにグッサリと突き刺さる。
実際問題、日に日に締めた帯の残りが短くなっているような気はしていた。
だとしても、こんなにも直接的に言うことないではないか。
あばたとて、仮にもいっぱしの乙女であるというのに。
動揺したあばたのスプーンから、エゾシカ肉の欠片がポトリと皿に落ちる。
それを拾って口にする勇気はもうない。
少しの間、皿の上に残るシカ肉を黙って見つめていたあばただったが、おもむろにスプーンですくい上げると向いの海賊の皿へと移し始めた。
「え?なになに。もしかして気にしてた?」
「いや違いますよ。エゾシカの肩肉が使われているかもしれないので、海賊さんに譲ってあげようと思っただけです。同物同治の効果があるかもしれませんからね」
「ああ、はいはい。じゃあもらってやるよ」
あながちそれも嘘ではないのかもしれないが、だとしてもいつものあばたなら「ま、私の分はあげませんけどね」と言って完食していたことだろう。
どうやら顔の傷が一生モノだと宣告されたときよりも遥かにこたえたらしい。
そんな些細なことで一喜一憂する女は大変だなと海賊は他人事のように思った。
「というか、太ってないですし、これくらいが標準ですし」
あばたはシカ肉を引越しさせ終えた後も、残りのライスとカレーを混ぜ合わせながらまだブツクサぼやいている。
「なぁ、悪かったって。そんなイジけんなよ。あー、ほら。夏毛のキツネより冬毛のタヌキの方がかわいいだろ?だから大丈夫だって」
「誰が冬毛のタヌキですかッ!まだそこまでじゃないですよ、まだ!」
相手を蔑むとか貶めるとかそういう悪意はないのだろうが、そのぶん逆に深く傷つく。
あばたはコップの中の水をぐいっと飲み干し、はぁ〜と深いため息を吐いた。
食生活を見直そう。
そう心に決め、最後の1粒までしっかり腹に収めて両手を合わせた。
夜闇に包まれたホテルはより一層不気味さを増して感じられた。
他に客はいないらしく、家永もどこかに姿を消していたので、広い建物内はしんと静まり返っている。
それなのに何故か誰かに見られているような気がするのだ。
そう言うあばたを海賊はいつものことだと相手にしない。
「気のせいだろ。んなもん寝ちまえば気になんねえよ」
ランプの灯りが消され、部屋の中も暗闇で満たされる。
真っ暗な虚空を見つめていると恐ろしい想像ばかりしてしまう。
どうせ同じ真っ暗闇なら瞼の裏側を見ている方がよっぽどマシだ。
あばたは念のため頭から布団をかぶり、目をぎゅっと瞑った。
ゴンッという鈍い音と「ぎゃあッ」という悲鳴が聞こえてハッと目が覚める。
いつの間にか眠っていたことに気がついて、あばたは飛び起きた。
恐ろしいが確認しないでいる方がもっと恐い。
身の縮む思いで音がした辺りに目を凝らすと、闇中にぼんやりと人間の輪郭が浮かび上がった。
窓から差す僅かな光だけがその姿を鮮明化していく。
顔を覆い隠すように垂れ下がる長い長い髪。
その隙間から覗く睨みつけるような鋭い目。
それはまさしく怪談話に出てくる幽霊像そのままの姿であった。
「ひいッ!!出たぁぁ!!」
あばたは咄嗟に手元にあった枕を投げつける。
目の前の怪異からとにかく身を守らなければという思いでいっぱいだったのだ。
火事場の馬鹿力というやつか、ほぼ直線状に吹っ飛んだ枕は見事標的の顔面へぼふっと命中した。
その音が妙に現実的で、錯乱していたあばたの思考に冷静さが取り戻される。
果たして幽体に物理攻撃など聞くものだろうか。
「いってえな。何すんだよ急に」
「ってなんだ、海賊さんじゃないですか。もう〜、驚かさないでくださいよ!」
「もう〜じゃねえよ」
海賊は拾い上げた枕を投げ返し、それをあばたは「へぶっ」と顔面で受け止めた。
よくよく考えればこの部屋にいる髪の長い者など海賊に決まっているのだが、暗闇への恐怖と寝ぼけ頭というのは人間の認識を酷く歪めてしまうようである。
「あれ?それじゃあ、さっきの悲鳴は何だったんです」
「いや、それがさ......」
海賊は見た方が早いと言うようにランプの灯りをつける。
並んだベッドとベッドの間。
照らされた床の上には、白目をむいて気絶している家永が横たわっていた。
「ええっ家永さん!?なんでここに、っていうかなんで倒れてるんですか??」
「物音がしたからネズミかと思って、つい」
「ついって、どんだけネズミ苦手なんですか!というか、どうするんですか、これ!!」
見たところ流血はなく、呼吸もしっかりしている。
命に別状はなさそうで一先ずは安心した。
しかし、額には立派なタンコブが膨れ上がっている。
彼女の整った顔立ちとの対比で余計に痛々しい。
「 何か冷やすものを用意しないと」
「なあ。それよりさ、そいつはどっから入ってきたんだと思う?」
「ええ?そんなのその扉からに決まってるじゃないですか」
この部屋の出入口は1つしかないのだから当然だ。
なぜ今そのような分かりきったことを聞いてくるのか、あばたは少し苛立ちながら答えた。
「普通に考えりゃそうだが、それなら気づかないはずがねえ。扉どころか窓だって、開け閉めするような音はしなかった」
「それは、寝ている私たちを起こさないようそーっと入ってきただけでは」
「俺が聞いたのもほんの小さな音だったが、そのときにはもう既に枕元に立ってたんだ。いくら注意したって、全くの無音でそこまで近づけるものか?」
「うーん……」
そう言われると確かに不審に思えてくる。
だがしかし、他のどこに出入りする隙があるというのだろうか。
そもそも、そうまでして家永がこの部屋に侵入したかった理由とは何なのだろうか。
謎は深まるばかり。
真相を突き止めるにしても、彼女には早く起きてもらう必要があった。