海賊さんの拾いもの
漁場からかなり離れたところで岸に上がる。
追手の影はなく、ひとまずは安心できそうだ。
「し、死ぬかと思った……」
激しく咳き込んだ後、ぽつりと零れた言葉。
あばた自身、どの口が言うんだかと呆れる。
溺死というのは想像していたより遥かに苦しくて辛い死に方なのかもしれない、と思った。
時折息継ぎの間を与えてもらってはいたものの、酸欠で何度も気を失いかけたし、海水もたくさん飲み込んでしまった。
口も喉も胃の中も、塩辛くてほんのり磯臭い。
さながら、イルカに海中を引きずり回される拷問にでもあった気分である。
「うぇ……しょっぱ」
海賊も塩でヒリヒリする舌を出して苦い顔をしている。
海賊のくせに、と思ったが、そう言えば彼が海で泳ぐところは初めて見たかもしれない。
「で。何だってこんなことになったんですか。ちゃんと説明してくれますよね」
あばたの険しい目つきが睨むように海賊に向けられる。
機嫌が悪いときの彼女はすこぶる人相が悪い。
「あー、まあなんだ。ちょっと色々あってさ。警察に追われるわ、漁師に襲われるわで、とにかく逃げなきゃなんなかったんだよ」
「はい?いや、ますます分かんないんですけど。一体何をどうしたらそんなことになるんです」
結果だけでなく過程も説明するよう問いただしに詰め寄る。
そこで初めてあばたは気がついた。
海賊は左肩を負傷している。
もう出血は止まっていて、周りに付着していたであろう血もあらかた海水で洗い流されているようだ。
しかし、黒々と開いた穴と服に染み付いた赤色は、それがかすり傷程度ではないことを示していた。
「え、ちょっ。どうしたんです、その怪我!?」
「んー、ちょっとしくじって撃たれちまった。海水がしみて痛え」
「い、言ってる場合ですか!早く手当しないと」
とは言ったものの、携帯している応急道具では気休め程度にしかならず、せいぜい無いよりマシといったところだ。
医学知識など露ほども持ち合わせていないあばたでは、埋まったままの銃弾をどう処置すれば良いかなど想像もつかない。
「この傷、お医者様に診てもらわないとどうにもなりませんよ。病院に行きましょう」
「医者つってもな。刺青を見られたら足がつくだろ。さっきの警官たちもそれを手がかりに追ってくるかもしれねえし」
じゃあどうすれば、と頭を抱えるあばたであったが、ふと引っかかることがあって待ったをかけた。
「いやちょっと待ってください。なんで警察に刺青のことを知られてるんです」
「なんでって、そりゃ見られちゃったから」
「 いやいやいや、だからどうしてそんなことに??まったく本当に何してたんですかぁ!?」
「何って言われてもなぁ……」
海賊は面倒くさそうに頭を搔く。
番屋での一件を話すとまた色々と長くなりそうだし、漁師の件に至っては何故いきなり斬りかかられたのか海賊にもさっぱりだった。
「あー、いてててて。傷の痛みが酷くなってきた。よし、早く病院に行こう」
海賊は棒読みの台詞で雑に話題を逸らす。
あからさま過ぎてもはや誤魔化す気があるのかすらも怪しい。
しかしながら、今先決すべきなのは傷の適切な処置。
それにはあばたも賛成であった。
事の顛末を知ったところで、現状がどう変わるわけでもない。
いささかの不満は残るが、あばたはしぶしぶ追求を諦めることにした。
しばらくは小樽へ戻ることを避け、とりあえずの避難場所として札幌の町に紛れこむ。
人が多く行き交い、賑わいのある街。
そういった華やかな場所には、それ故に日陰に巣くう者たちも多い。
金さえ積めば何でも承る、いわゆる闇医者を探すのにも申し分ないと言えるだろう。
幸いなことに懐はホカホカなので、その点は心配無用であった。
裏社会のことは裏の者に聞くのが手っ取り早い。
その辺のごろつきを捕まえて、知っていそうな奴から聞き出せば良い。
元より、そんな連中が簡単に口を割るとは思わないが、そのときは半殺しにしてでも吐かせるだけだ。
それくらいしたって、日の当たらない世界では通報される心配もないのだから。
そうやって適当な標的を探していたところ、どういうわけか自分たちが声をかけられる側になってしまった。
「そこの御二方。少しよろしいでしょうか」
声の主は黒い洋風衣装を纏った女であった。
長いまつ毛に縁どられた目、真っ赤な紅が引かれた唇、その口元の色っぽい黒子。
女のあばたからしても見惚れるほどに美しい女だ。
以前出会った狐目の占い師も大層な美人であったが、それともまた少し違った妖しい魅力を放っている。
彼女は近くでホテルを経営しているらしく、名前を“家永カノ”といった。
要件はと言うと、「よろしければ是非、うちのホテルをご利用ください」とのことだった。
だが、ホテルの客引きなど聞いたことがない。
少々の不信感でも警戒すべきとして、体よくお断りするのが無難だろう。
と思ったのだが、女亭主もなかなか引き下がらない。
経営が火の車でどうしても客が欲しいだとか、貸切状態で静かに過ごせるだとか、色々と並べ立て、仕舞いには海賊の左肩とあばたの顔に巻きつけられた包帯にまで言い及んだ。
「ほら、御二人ともお怪我なさっているようですし。私、ホテルを継ぐまでは医師として働いておりましたので。泊まっていただけるなら治療致しますよ」
そして、声を落としてこうつけ加えた。
「人様には言えないような患者様も大勢診てきましたので、ご安心ください。他言無用は承知の上でございます」
こんなうまい話があるだろうか。
探していた都合の良い医者が自分の方からやって来るなんて。
ますます怪しい、と海賊は警戒の念を強める。
「やったじゃないですか。治療を受けられるうえに、宿にも泊まれるだなんて。一石二鳥ですよ、ツイてますね」
一方のあばたは疑う気などさらさらない様子。
呑気なことに「ホテルに泊まるのなんて初めてです」などと言って、ちょっと楽しみそうでもある。
無警戒にほいほいついて行こうとするあばたを海賊は引き止めた。
「なに簡単に信じてんの。こんなよくできた話、いかにも胡散臭いだろうが」
「ええ、そうですか?うーん、でも他に頼るアテもないですし。もし何か変だったらすぐ逃げたらいいじゃないですか。女の人ひとり倒すくらい海賊さんにとってはわけないでしょう」
「相手が1人とは限らないだろ。どっかに仲間が隠れてるかもしれないし、大勢で囲まれたらこっちが不利だ」
声を潜めて協議する2人の背後に、すっと黒い影が忍び寄る。
「見ず知らずの女に唐突に声をかけられたのですから、疑うのも無理はない話です。しかし、この肩の傷。見たところ銃創ですか。しかも弾がまだ残っている」
まるで気配を感じさせずに接近した家永は、いつの間にか海賊の左肩に触れ、包帯に顔を近づけて見ていた。
「このまま放っておいたら化膿して感染症を引き起こすかもしれません。銃弾から鉛が溶け出して中毒になる恐れもあります。いずれにしても手遅れになる前に摘出しないと、最悪死にますよ」
驚いた海賊が腕を振り払う前に、家永は身を引いて満面の笑みを浮かべる。
「自分で言うのも何ですか、私の医師としての腕は1級品でございます。さあ、どうぞ我がホテルへいらしてくださいませ」
“札幌世界ホテル”の看板を掲げた西洋建築の館。
趣のある立派な佇まいは、今までの安宿やボロ屋の仮拠点とは比べるまでもなく上質そうである。
しかし、その館に踏み入れた瞬間、あばた何か言い知れぬ不気味さを覚えた。
「あの……、家永さん。気を悪くしたら申し訳ないんですけど、このホテルで何か事件があったこととかってあります?」
部屋へ案内される途中、あばたは不躾だと分かっていても尋ねずにはいられなかった。
「何か、と言いますと?」
「それはその、例えば誰かが宿泊中に亡くなったとか…」
終始挙動が不審なあばたを見て、海賊はヤレヤレまたかという表情を浮かべる。
「まったくしょうがないビビりだな、あばたちゃんは。そんな遠回しに聞いてないで直接聞けばいいだろ。このホテルにお化けは出るんですか〜?って」
鼻で笑う海賊の態度に腹は立つものの言い返せず、あばたはぐぬぬと声にならない屈辱の呻きを上げる。
「お化けだなんて、そんなまさか。当ホテルは創業以来無事故を誇っております。死者はおろか怪我人だって出たことはありません。何のいわくもない優良ホテルでございますよ」
家永はホテルの潔白を主張し、一点の曇りもない笑顔を見せる。
少し過剰かと思われるほどの回答だったが、あばたにはありがたい安心材料となった。
「そうですね。出るとしたらネズミくらいでしょうか。きちんと清掃は行っておりますが、なにぶん女一人で切り盛りしているもので。どこからか紛れ込んでいるかもしれません」
“ネズミ”という言葉にピクっと反応して、海賊はほんの一瞬だけ顔を強ばらせた。
その一瞬をあばたは目ざとく見逃さなかった。
客室には2つのベッドとランプが置かれた小さな机があり、壁には2枚の絵画が掛けられていた。
造りとしては簡素なものだが、見慣れない洋式というだけでなんだか非日常空間にいるように感じられる。
あばたは初めて使う洋式の寝床に恐る恐る腰かけた。
布団が床に着いていないなんて落ち着かない。
勢いよく乗ったら底が抜けてしまうのではないかと思ったのだ。
しかしそれは杞憂であり、座ってみると案外なかなか心地よい。
これなら夜もぐっすり眠れそうだと安心した。
規格外の海賊には少し狭そうであったが。
「ねぇねぇ。聞きましたか。ネズミが出るかもしれないそうですよ。ネズミですって、ネズミ。いやあ、ネズミくらいなら全然かわいいものですよね。ね?海賊さん」
ニマニマと嫌らしく執拗にネズミという言葉を繰り返すあばた。
これまでの旅の中でも薄々感づいていたことだが、それがここに来て確信に変わった。
そう、彼女は完全に理解していたのだ。
「んん〜?あれあれ、どうしたんですか海賊さん。顔色悪いですよ。もしかして、ネズミ苦手なんですかあ?」
勝ち誇ったように問うその顔は、誰が見ても鬱陶しさを覚えるだろう嫌味ったらしいものである。
それもそのはず。
いつもいつも馬鹿にしてくる相手の弱みをようやく掴んだのだから。
馬鹿にされたまま黙っておけるほど、あばたの人間性は純粋でも大人でもなかった。
「うっせえな、ほっとけよ。てかその顔やめろ。めちゃくちゃ腹立つ」
「やめませーん。せっかく弱点を見つけたんですから。たまには海賊さんにもおちょくられる側の気持ちを味わってもらわないと」
あばたはベッドの上に仁王立ちして海賊を見下ろすと、ふふんと鼻を鳴らした。
その憎たらしさたるや。
海賊は苛立ちと共に、面倒な奴に面倒なことを知られてしまったという焦りを覚える。
「はいはい、悪かったって。もうからかいません。これでいいだろ」
「……ふぅん、本当ですか?ま、そういうならしょうがないですね。私は心が広いので許してあげましょう」
あばたは意外にもあっさり引き下がると、そのままストンとベッドの上に座った。
何か言いたげに口を開きかけたのだが、そこであばたの動きはピタッと止まり、「あ」とだけ声を発した。
その視線は海賊の背後に向けられている。
僅かな間の沈黙。
それは逆に“そこに何かある”ことを明確にしているようで薄気味悪い。
耐えきれずに海賊が口を開く。
「……なに?」
「いえ、なんでもないです。なんでもないですけど、振り返らない方がいいですよ」
そう制止するあばたの顔は、先程までのうざったいものとは打って変わり、真剣味のある面持ちだ。
「はっ、そんなこと言って。ビビらせようって魂胆が見え見えだぜ。いかにもあばたちゃんが考えそうな安っぽい手だな」
「なんですか、人が親切で言ってあげてると言うのに。じゃあ自分で確認してみればいいじゃないですか」
不愉快そうに口を曲げたあばたは「ほら、そこの窓枠の隅に」と言って海賊の後方を指さした。
あまりに本当らしく言うので、嘘だと思いながらも一抹の不安を拭いきれない。
恐る恐る、というのを悟られぬ程度にゆっくりと海賊は振り返った。
言われた通り窓枠に目をやるが、案の定そこには何もいない。
「ほら見ろ、やっぱり何もいねえじゃねえか」
と言いつつ、内心胸を撫で下ろす。
そんな海賊の背筋を何かが走った。
比喩ではなく、物理的に。
何かが下から上に向かってすすーっと走り抜けたのだ。
反射的にビクッと肩が跳ね上がり、ゾワッと肌が粟立ち、バクバクと心臓が音を鳴らす。
しばしの硬直。
堪えきれずにあばたが吹き出した。
「プッ、ふふふっ。安っぽい手にまんまと引っかかりましたね。もっと大声で叫んでくれてもよかったんですけど、いいもの見れたのでまあいいです。びっくりして固まっちゃうなんて、やっぱり意外とかわいいとこありますよねぇ〜」
あばたは腹を抱えてあっはっはとそれはそれは愉快そうに笑う。
まるで子供の悪戯だ。
相手の不意をついて背筋をツーっとなぞり、反応を楽しむアレである。
それを理解した海賊は言うまでもなく腹立たしい思いでいっぱい、特に無駄に高い演技力は甚だ癪であったが、何とか抑えて笑い転げる確信犯が静まるのを待った。
ガキの悪戯には感情的にならず、大人の対応をすべきなのである。
しかし、いくら待ってもあばたは笑い収まらない。
結果、我慢の限界に達した海賊によって鉄槌を下されることとなった。
「いぎゃああああああ!!頭骨が!頭骨が割れるゥゥゥゥ」
海賊の大きな手が頭を左右から包み込み、めいっぱいの力で圧される。
メキメキと骨が軋む音が聞こえてきてもおかしくないほどに。
「いくら何でも笑いすぎ。あと、次やったら殺す」
「わわわわかりました!もうしませんから許してくださいッ!ずみまぜんでしたぁ!!」
そんなあばたの絶叫を遮るように、部屋の扉が叩かれて開いた。
「お楽しみのところすみません。準備が整いましたのでお呼びに上がりました」
入口に立ったまま、家永が中の2人へ向けて呼びかける。
準備とはつまり、銃弾の摘出手術の準備のことだ。
それでやっと放してもらえたあばたは、痛む頭を抑えながら「何も楽しくないですよぅぅ」と呻いてベッドの上をのたうち回った。
追手の影はなく、ひとまずは安心できそうだ。
「し、死ぬかと思った……」
激しく咳き込んだ後、ぽつりと零れた言葉。
あばた自身、どの口が言うんだかと呆れる。
溺死というのは想像していたより遥かに苦しくて辛い死に方なのかもしれない、と思った。
時折息継ぎの間を与えてもらってはいたものの、酸欠で何度も気を失いかけたし、海水もたくさん飲み込んでしまった。
口も喉も胃の中も、塩辛くてほんのり磯臭い。
さながら、イルカに海中を引きずり回される拷問にでもあった気分である。
「うぇ……しょっぱ」
海賊も塩でヒリヒリする舌を出して苦い顔をしている。
海賊のくせに、と思ったが、そう言えば彼が海で泳ぐところは初めて見たかもしれない。
「で。何だってこんなことになったんですか。ちゃんと説明してくれますよね」
あばたの険しい目つきが睨むように海賊に向けられる。
機嫌が悪いときの彼女はすこぶる人相が悪い。
「あー、まあなんだ。ちょっと色々あってさ。警察に追われるわ、漁師に襲われるわで、とにかく逃げなきゃなんなかったんだよ」
「はい?いや、ますます分かんないんですけど。一体何をどうしたらそんなことになるんです」
結果だけでなく過程も説明するよう問いただしに詰め寄る。
そこで初めてあばたは気がついた。
海賊は左肩を負傷している。
もう出血は止まっていて、周りに付着していたであろう血もあらかた海水で洗い流されているようだ。
しかし、黒々と開いた穴と服に染み付いた赤色は、それがかすり傷程度ではないことを示していた。
「え、ちょっ。どうしたんです、その怪我!?」
「んー、ちょっとしくじって撃たれちまった。海水がしみて痛え」
「い、言ってる場合ですか!早く手当しないと」
とは言ったものの、携帯している応急道具では気休め程度にしかならず、せいぜい無いよりマシといったところだ。
医学知識など露ほども持ち合わせていないあばたでは、埋まったままの銃弾をどう処置すれば良いかなど想像もつかない。
「この傷、お医者様に診てもらわないとどうにもなりませんよ。病院に行きましょう」
「医者つってもな。刺青を見られたら足がつくだろ。さっきの警官たちもそれを手がかりに追ってくるかもしれねえし」
じゃあどうすれば、と頭を抱えるあばたであったが、ふと引っかかることがあって待ったをかけた。
「いやちょっと待ってください。なんで警察に刺青のことを知られてるんです」
「なんでって、そりゃ見られちゃったから」
「 いやいやいや、だからどうしてそんなことに??まったく本当に何してたんですかぁ!?」
「何って言われてもなぁ……」
海賊は面倒くさそうに頭を搔く。
番屋での一件を話すとまた色々と長くなりそうだし、漁師の件に至っては何故いきなり斬りかかられたのか海賊にもさっぱりだった。
「あー、いてててて。傷の痛みが酷くなってきた。よし、早く病院に行こう」
海賊は棒読みの台詞で雑に話題を逸らす。
あからさま過ぎてもはや誤魔化す気があるのかすらも怪しい。
しかしながら、今先決すべきなのは傷の適切な処置。
それにはあばたも賛成であった。
事の顛末を知ったところで、現状がどう変わるわけでもない。
いささかの不満は残るが、あばたはしぶしぶ追求を諦めることにした。
しばらくは小樽へ戻ることを避け、とりあえずの避難場所として札幌の町に紛れこむ。
人が多く行き交い、賑わいのある街。
そういった華やかな場所には、それ故に日陰に巣くう者たちも多い。
金さえ積めば何でも承る、いわゆる闇医者を探すのにも申し分ないと言えるだろう。
幸いなことに懐はホカホカなので、その点は心配無用であった。
裏社会のことは裏の者に聞くのが手っ取り早い。
その辺のごろつきを捕まえて、知っていそうな奴から聞き出せば良い。
元より、そんな連中が簡単に口を割るとは思わないが、そのときは半殺しにしてでも吐かせるだけだ。
それくらいしたって、日の当たらない世界では通報される心配もないのだから。
そうやって適当な標的を探していたところ、どういうわけか自分たちが声をかけられる側になってしまった。
「そこの御二方。少しよろしいでしょうか」
声の主は黒い洋風衣装を纏った女であった。
長いまつ毛に縁どられた目、真っ赤な紅が引かれた唇、その口元の色っぽい黒子。
女のあばたからしても見惚れるほどに美しい女だ。
以前出会った狐目の占い師も大層な美人であったが、それともまた少し違った妖しい魅力を放っている。
彼女は近くでホテルを経営しているらしく、名前を“家永カノ”といった。
要件はと言うと、「よろしければ是非、うちのホテルをご利用ください」とのことだった。
だが、ホテルの客引きなど聞いたことがない。
少々の不信感でも警戒すべきとして、体よくお断りするのが無難だろう。
と思ったのだが、女亭主もなかなか引き下がらない。
経営が火の車でどうしても客が欲しいだとか、貸切状態で静かに過ごせるだとか、色々と並べ立て、仕舞いには海賊の左肩とあばたの顔に巻きつけられた包帯にまで言い及んだ。
「ほら、御二人ともお怪我なさっているようですし。私、ホテルを継ぐまでは医師として働いておりましたので。泊まっていただけるなら治療致しますよ」
そして、声を落としてこうつけ加えた。
「人様には言えないような患者様も大勢診てきましたので、ご安心ください。他言無用は承知の上でございます」
こんなうまい話があるだろうか。
探していた都合の良い医者が自分の方からやって来るなんて。
ますます怪しい、と海賊は警戒の念を強める。
「やったじゃないですか。治療を受けられるうえに、宿にも泊まれるだなんて。一石二鳥ですよ、ツイてますね」
一方のあばたは疑う気などさらさらない様子。
呑気なことに「ホテルに泊まるのなんて初めてです」などと言って、ちょっと楽しみそうでもある。
無警戒にほいほいついて行こうとするあばたを海賊は引き止めた。
「なに簡単に信じてんの。こんなよくできた話、いかにも胡散臭いだろうが」
「ええ、そうですか?うーん、でも他に頼るアテもないですし。もし何か変だったらすぐ逃げたらいいじゃないですか。女の人ひとり倒すくらい海賊さんにとってはわけないでしょう」
「相手が1人とは限らないだろ。どっかに仲間が隠れてるかもしれないし、大勢で囲まれたらこっちが不利だ」
声を潜めて協議する2人の背後に、すっと黒い影が忍び寄る。
「見ず知らずの女に唐突に声をかけられたのですから、疑うのも無理はない話です。しかし、この肩の傷。見たところ銃創ですか。しかも弾がまだ残っている」
まるで気配を感じさせずに接近した家永は、いつの間にか海賊の左肩に触れ、包帯に顔を近づけて見ていた。
「このまま放っておいたら化膿して感染症を引き起こすかもしれません。銃弾から鉛が溶け出して中毒になる恐れもあります。いずれにしても手遅れになる前に摘出しないと、最悪死にますよ」
驚いた海賊が腕を振り払う前に、家永は身を引いて満面の笑みを浮かべる。
「自分で言うのも何ですか、私の医師としての腕は1級品でございます。さあ、どうぞ我がホテルへいらしてくださいませ」
“札幌世界ホテル”の看板を掲げた西洋建築の館。
趣のある立派な佇まいは、今までの安宿やボロ屋の仮拠点とは比べるまでもなく上質そうである。
しかし、その館に踏み入れた瞬間、あばた何か言い知れぬ不気味さを覚えた。
「あの……、家永さん。気を悪くしたら申し訳ないんですけど、このホテルで何か事件があったこととかってあります?」
部屋へ案内される途中、あばたは不躾だと分かっていても尋ねずにはいられなかった。
「何か、と言いますと?」
「それはその、例えば誰かが宿泊中に亡くなったとか…」
終始挙動が不審なあばたを見て、海賊はヤレヤレまたかという表情を浮かべる。
「まったくしょうがないビビりだな、あばたちゃんは。そんな遠回しに聞いてないで直接聞けばいいだろ。このホテルにお化けは出るんですか〜?って」
鼻で笑う海賊の態度に腹は立つものの言い返せず、あばたはぐぬぬと声にならない屈辱の呻きを上げる。
「お化けだなんて、そんなまさか。当ホテルは創業以来無事故を誇っております。死者はおろか怪我人だって出たことはありません。何のいわくもない優良ホテルでございますよ」
家永はホテルの潔白を主張し、一点の曇りもない笑顔を見せる。
少し過剰かと思われるほどの回答だったが、あばたにはありがたい安心材料となった。
「そうですね。出るとしたらネズミくらいでしょうか。きちんと清掃は行っておりますが、なにぶん女一人で切り盛りしているもので。どこからか紛れ込んでいるかもしれません」
“ネズミ”という言葉にピクっと反応して、海賊はほんの一瞬だけ顔を強ばらせた。
その一瞬をあばたは目ざとく見逃さなかった。
客室には2つのベッドとランプが置かれた小さな机があり、壁には2枚の絵画が掛けられていた。
造りとしては簡素なものだが、見慣れない洋式というだけでなんだか非日常空間にいるように感じられる。
あばたは初めて使う洋式の寝床に恐る恐る腰かけた。
布団が床に着いていないなんて落ち着かない。
勢いよく乗ったら底が抜けてしまうのではないかと思ったのだ。
しかしそれは杞憂であり、座ってみると案外なかなか心地よい。
これなら夜もぐっすり眠れそうだと安心した。
規格外の海賊には少し狭そうであったが。
「ねぇねぇ。聞きましたか。ネズミが出るかもしれないそうですよ。ネズミですって、ネズミ。いやあ、ネズミくらいなら全然かわいいものですよね。ね?海賊さん」
ニマニマと嫌らしく執拗にネズミという言葉を繰り返すあばた。
これまでの旅の中でも薄々感づいていたことだが、それがここに来て確信に変わった。
そう、彼女は完全に理解していたのだ。
「んん〜?あれあれ、どうしたんですか海賊さん。顔色悪いですよ。もしかして、ネズミ苦手なんですかあ?」
勝ち誇ったように問うその顔は、誰が見ても鬱陶しさを覚えるだろう嫌味ったらしいものである。
それもそのはず。
いつもいつも馬鹿にしてくる相手の弱みをようやく掴んだのだから。
馬鹿にされたまま黙っておけるほど、あばたの人間性は純粋でも大人でもなかった。
「うっせえな、ほっとけよ。てかその顔やめろ。めちゃくちゃ腹立つ」
「やめませーん。せっかく弱点を見つけたんですから。たまには海賊さんにもおちょくられる側の気持ちを味わってもらわないと」
あばたはベッドの上に仁王立ちして海賊を見下ろすと、ふふんと鼻を鳴らした。
その憎たらしさたるや。
海賊は苛立ちと共に、面倒な奴に面倒なことを知られてしまったという焦りを覚える。
「はいはい、悪かったって。もうからかいません。これでいいだろ」
「……ふぅん、本当ですか?ま、そういうならしょうがないですね。私は心が広いので許してあげましょう」
あばたは意外にもあっさり引き下がると、そのままストンとベッドの上に座った。
何か言いたげに口を開きかけたのだが、そこであばたの動きはピタッと止まり、「あ」とだけ声を発した。
その視線は海賊の背後に向けられている。
僅かな間の沈黙。
それは逆に“そこに何かある”ことを明確にしているようで薄気味悪い。
耐えきれずに海賊が口を開く。
「……なに?」
「いえ、なんでもないです。なんでもないですけど、振り返らない方がいいですよ」
そう制止するあばたの顔は、先程までのうざったいものとは打って変わり、真剣味のある面持ちだ。
「はっ、そんなこと言って。ビビらせようって魂胆が見え見えだぜ。いかにもあばたちゃんが考えそうな安っぽい手だな」
「なんですか、人が親切で言ってあげてると言うのに。じゃあ自分で確認してみればいいじゃないですか」
不愉快そうに口を曲げたあばたは「ほら、そこの窓枠の隅に」と言って海賊の後方を指さした。
あまりに本当らしく言うので、嘘だと思いながらも一抹の不安を拭いきれない。
恐る恐る、というのを悟られぬ程度にゆっくりと海賊は振り返った。
言われた通り窓枠に目をやるが、案の定そこには何もいない。
「ほら見ろ、やっぱり何もいねえじゃねえか」
と言いつつ、内心胸を撫で下ろす。
そんな海賊の背筋を何かが走った。
比喩ではなく、物理的に。
何かが下から上に向かってすすーっと走り抜けたのだ。
反射的にビクッと肩が跳ね上がり、ゾワッと肌が粟立ち、バクバクと心臓が音を鳴らす。
しばしの硬直。
堪えきれずにあばたが吹き出した。
「プッ、ふふふっ。安っぽい手にまんまと引っかかりましたね。もっと大声で叫んでくれてもよかったんですけど、いいもの見れたのでまあいいです。びっくりして固まっちゃうなんて、やっぱり意外とかわいいとこありますよねぇ〜」
あばたは腹を抱えてあっはっはとそれはそれは愉快そうに笑う。
まるで子供の悪戯だ。
相手の不意をついて背筋をツーっとなぞり、反応を楽しむアレである。
それを理解した海賊は言うまでもなく腹立たしい思いでいっぱい、特に無駄に高い演技力は甚だ癪であったが、何とか抑えて笑い転げる確信犯が静まるのを待った。
ガキの悪戯には感情的にならず、大人の対応をすべきなのである。
しかし、いくら待ってもあばたは笑い収まらない。
結果、我慢の限界に達した海賊によって鉄槌を下されることとなった。
「いぎゃああああああ!!頭骨が!頭骨が割れるゥゥゥゥ」
海賊の大きな手が頭を左右から包み込み、めいっぱいの力で圧される。
メキメキと骨が軋む音が聞こえてきてもおかしくないほどに。
「いくら何でも笑いすぎ。あと、次やったら殺す」
「わわわわかりました!もうしませんから許してくださいッ!ずみまぜんでしたぁ!!」
そんなあばたの絶叫を遮るように、部屋の扉が叩かれて開いた。
「お楽しみのところすみません。準備が整いましたのでお呼びに上がりました」
入口に立ったまま、家永が中の2人へ向けて呼びかける。
準備とはつまり、銃弾の摘出手術の準備のことだ。
それでやっと放してもらえたあばたは、痛む頭を抑えながら「何も楽しくないですよぅぅ」と呻いてベッドの上をのたうち回った。