海賊さんの拾いもの
遥か北方の地。
広大な自然と特質的な生物相を有し、先住民と移民とが交錯する半未開の秘境。
ここ、北海道の山奥に1人の女がいた。
女は手ぬぐいを目深にかぶり、その表情は伺えない。
しかし、湖畔にしゃがみこんで水面を覗き込む背中は、今にも吸い込まれそうな危うさに溢れていた。
至って単純なことだ。
歩き疲れて腹も減り、夜の寒さも深まるばかり。
この辺りは温泉の名地だというが、湯に浸かるには金にも心にも余裕などなかった。
女は意を決すると息を大きく吸いこむ。
せめて最後に味わう空気が、この憧れの大地のものであることを嬉しく思う。
山の澄んだ空気は少し冷たく心地よかったが、名残惜しくなる前にすべて吐き出した。
肺の中はからっぽ。
“さようなら”
心の内でそう唱えたときだった。
「そこのお嬢さん。ちょっといいか」
背後から急に声をかけられた女は驚いて短く硬直した後、うらめしそうに振り返る。
一大決心を妨害されたのだ。
その返事にも不機嫌さがにじみ出ていた。
「……なんでしょうか」
見ると、声をかけてきたのはとても背の高い男で、眉と髭が特徴的であったが、それ以上に女と見紛うほどの長い黒髪が印象的に映った。
「いや~、丁度よかった。あんたみたいなやつを探してたんだ」
そう言うと男はぐいーっと女の腕を引いて立ち上がらせ、ぐいぐいと引っ張っていってしまった。
少し行くと、湖から出る支流の1つがあり、その近くに雨風がしのげる程度に組まれた簡素な仮小屋があった。
小屋の前には赤々と火が焚かれている。
男はその火が消えないよう見張りを頼むと、足早に湖の方へと戻っていってしまった。
1人取り残された女は、「何で私が」と苛立ちを覚えつつも何となく立ち去る気になれず、言われた通りにそこで待つことにした。
どうせ行く当ても帰る場所もない身であるし、生き急ぐこともない。
これも人助けだと思えば冥土の土産になるだろう。
日暮れが近づき、寒気と暗闇がにじり迫る中、火の温もりと明かりが彼女の心を少しだけ軽くさせたようだ。
男はそれほど経たないうちに帰ってきた。
立派なヒメマスを2匹連ねた銛を片手に、空いている方の手で濡れた髪をタオルで拭う。
もちろん、肩にかけたタオルでは到底収まりきらない髪の長さなので、衣服のあちこちに水滴を落としているのだが、当の本人はあまり気にしていない様子である。
「お!逃げてないしちゃんと火もついてる。上出来だな」
男は上機嫌に火の前に座ると、エライエライと女の背をバシバシと強く叩いた。
どこからかナイフを取り出したかと思うと、手慣れた手つきで魚の下処理を済ませていく。
驚いたのは、貧相に見えた小屋の中からあれよあれよと調理器具やら食器やら調味料やらが出てくることだ。
そして、日が沈み切った頃には立派な夕食ができあがっていた。
ぐつぐつと食欲のそそる音と匂いを放つ鍋の中では、ぶつ切りにしたマスの身と頭、白子、筋子が煮えている。
男はそこから1人分を椀に取り分け、差し出した。
「ほら、あんたも食べな。腹へってんだろ。ここ数日何も食べてません、って顔してるぜ」
女はうつむいたままそれを受け取り、小さく「いただきます」と呟くとおもむろにマスの身を口へ運ぶ。
男の言う通り、彼女が最後に満足な食事をしたのはだいぶ前のことで、一口食べるともう止まらず、あっという間にたいらげてしまった。
「おお~!いい食べっぷりだな。気に入ったぜ」
男は再び女の背をバシバシ叩くと、どんどん食えとおかわりをよそう。
椀に入れられたマスの頭と目が合いながらも、彼女は躊躇うことなく箸を進める。
「美味しいでしょ」と聞かれて「美味しいです」と素っ気ない返答。
空腹が満たされて体も温まり、ようやく心の余裕が生まれてきた女は、改めて今の状況の飲み込みにくさに気がつく。
しっかりご馳走になっておいて「あなたは一体何者ですか」なんて礼儀知らずにも程があるが、正直一番気になるところだ。
そんな心中を知ってか知らずか、男の方が先に問いかけた。
「あんた名前は?どっから来たの?」
女がうつむいたまま何も答えずにいるので、続けざまに質問が投げかけられる。
「家出か?家族はどうした?あんたがここにいることを知ってるやつはいるのか?」
それでも女は一向に口を開こうとせず、男はやれやれと息を吐いた。
「あんたさ、死のうとしてただろ。そういうやつを今までに何度か見たことがあるが、みんな決まって同じような背中をしてるもんだ」
図星を突かれ、女はより一層深くうつむき唇を嚙みしめる。
「水死体はむごいもんだ。水を吸ってぶくぶくに膨れ上がっちまうし、あちこち魚にかじられてたりする。親御さんが泣くぜ」
「死んで魚の餌になれるなら本望です。この北の大地で死に、土に還って自然の一部になる。私にはもったいないくらい綺麗な最後だと思いました」
やっと口を開いた女は、虚ろな目を伏せ気味にただ燃える火を見つめて言った。
照らされる女の顔には、全面を覆いつくさんばかりの痛々しい傷跡が広がっている。
火が揺れてその顔に陰が躍る様子は、こうも夜闇の中ではおどろおどろしさすら感じてしまう。
しかし、男は別段怖がるふうでもなく、忌むわけでもなく、至って普通の態度で話す。
女にはそれが不思議でならず、複雑な思いだった。
「その顔、疱瘡の跡だろ」
女は静かに頷く。
先程から何もかもずばり言い当てられているような気がして、何だか決まりが悪い。
だがそれも、彼の身の上を聞くうちにどうでも良くなっていった。
幼くして14人もいた家族を全て疱瘡で亡くし、ただ独り残った彼は故郷を追い出されてしまったのだという。
そんな彼を不憫に思ったのか、同じ理不尽に苦しめられた者どうし聞いてほしくなったのか、堅かった女の口もつい緩んだ。
彼女もまた、姉を疱瘡で亡くしていた。
才媛の誉れ高い姉ではなく、その残渣であるような自分が生き残ってしまったことに周りの目は冷たく、耐えかねて故郷を飛び出してきたのだった。
「そっか、そりゃつらかったな」
男は今度はぽふぽふと優しく女の頭を叩いた。
「帰る場所がないなら俺と一緒に来たらいい。家臣にしてやるぜ」
「はい?家臣?」
聞きなれない言葉にきょとんとする女のことなどお構いなしに、男は話を続ける。
「俺は王様になって、自分の国を作る。そうすれば誰も俺を追い出したりできないだろ。帰る場所がないならあんたもそこに住めばいい」
男は女の肩をぐいと引き寄せ、終始うつむいていたその顔を上げさせる。
「あんたの命、どうせ捨てるくらいなら俺が拾ってやるよ」
間近に迫った黒く凛とした目に見詰められ、垂れ幕のように取り囲む長い髪に退路を断たれ、女は蛇に睨まれた蛙のごとく動けなくなる。
圧に押され、彼女は絞り出すように「はい」と答えるほかなかった。
その返答に満足したようで、男は顔を離すと含みのある笑みを浮かべた。
そして、やや声色を落としてとんでもないことを言い出したのだ。
なんと彼は、ここより少し北にある網走の監獄から逃げてきた脱獄囚であるという。
それも、24人もの囚人が一斉に逃げ出す計画的な集団脱獄で、そのうちの多くは死刑や無期徒刑を受けた凶悪犯罪者ばかり。
おまけに、アイヌの埋蔵金の話まで飛び出す始末。
女は初め、あまりに出鱈目だと眉唾に聞いていたのだが、彼の上半身に彫られた“暗号”とやらを見せられていよいよ信じざるを得なくなった。
そして後悔した。
冥土の土産にと、ほんのちょっとばかり人助けをするつもりが、とんでもない犯罪者の一味となり、これもまたとんでもない厄介事に加担する羽目になってしまった。
彼は他の囚人たちと埋蔵金を山分けする気などさらさらなく、全てぶんどって国を作る資金に充てるのだと、まるで無垢な少年のように無邪気な笑顔で語るのであった。
もちろん、その方法は物騒極まりないものであるのだが。
彼と行動を共にするということは、その逃亡を手助けする上に、これから引き起こされるであろう諸々の悪行を容認することと同義である。
かといって、ここまで聞かされてしまった手前、怖気づいたのでやっぱり辞めます、など眼前のこの男が許すはずもない。
しかし、そこでふとある疑問が女の頭に浮かぶ。
「にわかには信じがたいですけど、話は分かりました。でも、それなら私みたいなのは放っておいた方がいいと思います。何の役にも立たないどころか、足手まといになりますよ」
女には特別秀でた才もなければ、学があるわけでもない。
自分を連れて行くことで彼に得られる利点など何一つ思い浮かばなかった。
「いや、あんたみたいなのが丁度いいんだ。脅したり報酬で釣ったりしたやつは結局のところ信用できない。その点、あんたみたいな満身創痍の死にたがりなら裏切る心配もないだろ」
「はあ」
「それに、家臣をどう使うかは王の手腕だ。役に立つかどうかはあんたじゃなくて俺が決める」
「……分かりました。できる限りのことはしますけど、あんまり期待しないでくださいね」
納得できるようなできないような微妙な理由だったが、何だかもう観念してしまった方が早い気がして、甘んじて受け入れることにした。
女は長きにわたる一人旅に疲弊しきっていたし、久しぶりの満腹感が睡魔を引き連れてきていて、正常な判断力が少し欠けていたのかもしれない。
「良い返事が聞けて嬉しいよ。それじゃあ、これからよろしくな」
男の背が高いので、女は必然とその顔を見上げる形になる。
遠くに湖の上で瞬く星空が見え、そういえば最近はずっとうつむいたままだったな、と気づかされた。
「俺はボウタロウってんだ。まあ、“海賊”って呼ばれることの方が多いけど」
「海賊?」
「そう、海賊。そんで、あんたは?」
「好きなように呼んでもらっていいですよ。自分の名前、嫌いなので」
自嘲するように言う女に対し、海賊は少し眉を寄せた。
「そんなふうに言うもんじゃないぜ。親からもらった大切な名前だろ」
諭すようにそう言う海賊に、「親にもらったから嫌なんだ」とはまさか言えず、女は口をつぐんだ。
「ま、いいや。じゃあ俺がつけてやるよ。そうだな~」
海賊は少し考えた後、女の顔を指さして思いついた名前を告げた。
「“あばたちゃん”にしよう!」
「人の心ってもんがないんですか、あなたは」
あまりに露骨なことに驚き、思ったままが口をついて出る。
それは彼女の顔に幾度となく浴びせられてきた言葉であり、決して心持ちの良いものではなかった。
「なんだよ、何でもいいって言ったじゃん。文句があるなら名前を言えばいいだろ」
「言いましたけど……。あぁー、もうそれでいいですよ」
ため息まじりに彼女は了承した。
確かに言い始めたのは自分であるし、逆に言われ慣れてしまった節もあり、今更傷つくこともない。
それに、彼女は海賊と長旅するつもりは毛頭なかった。
邪魔になって置いていかれるか、あるいは口封じに殺されてしまうのかは分からないけれど、こんな馬鹿げた契約はきっとすぐに破棄されるだろうからと。
「よろしくお願いしますね。海賊さん」
遥か北の大地の片隅、透き通る湖のほとりにて。
捨てられた者が拾われた。
たったそれだけの邂逅である。
広大な自然と特質的な生物相を有し、先住民と移民とが交錯する半未開の秘境。
ここ、北海道の山奥に1人の女がいた。
女は手ぬぐいを目深にかぶり、その表情は伺えない。
しかし、湖畔にしゃがみこんで水面を覗き込む背中は、今にも吸い込まれそうな危うさに溢れていた。
至って単純なことだ。
歩き疲れて腹も減り、夜の寒さも深まるばかり。
この辺りは温泉の名地だというが、湯に浸かるには金にも心にも余裕などなかった。
女は意を決すると息を大きく吸いこむ。
せめて最後に味わう空気が、この憧れの大地のものであることを嬉しく思う。
山の澄んだ空気は少し冷たく心地よかったが、名残惜しくなる前にすべて吐き出した。
肺の中はからっぽ。
“さようなら”
心の内でそう唱えたときだった。
「そこのお嬢さん。ちょっといいか」
背後から急に声をかけられた女は驚いて短く硬直した後、うらめしそうに振り返る。
一大決心を妨害されたのだ。
その返事にも不機嫌さがにじみ出ていた。
「……なんでしょうか」
見ると、声をかけてきたのはとても背の高い男で、眉と髭が特徴的であったが、それ以上に女と見紛うほどの長い黒髪が印象的に映った。
「いや~、丁度よかった。あんたみたいなやつを探してたんだ」
そう言うと男はぐいーっと女の腕を引いて立ち上がらせ、ぐいぐいと引っ張っていってしまった。
少し行くと、湖から出る支流の1つがあり、その近くに雨風がしのげる程度に組まれた簡素な仮小屋があった。
小屋の前には赤々と火が焚かれている。
男はその火が消えないよう見張りを頼むと、足早に湖の方へと戻っていってしまった。
1人取り残された女は、「何で私が」と苛立ちを覚えつつも何となく立ち去る気になれず、言われた通りにそこで待つことにした。
どうせ行く当ても帰る場所もない身であるし、生き急ぐこともない。
これも人助けだと思えば冥土の土産になるだろう。
日暮れが近づき、寒気と暗闇がにじり迫る中、火の温もりと明かりが彼女の心を少しだけ軽くさせたようだ。
男はそれほど経たないうちに帰ってきた。
立派なヒメマスを2匹連ねた銛を片手に、空いている方の手で濡れた髪をタオルで拭う。
もちろん、肩にかけたタオルでは到底収まりきらない髪の長さなので、衣服のあちこちに水滴を落としているのだが、当の本人はあまり気にしていない様子である。
「お!逃げてないしちゃんと火もついてる。上出来だな」
男は上機嫌に火の前に座ると、エライエライと女の背をバシバシと強く叩いた。
どこからかナイフを取り出したかと思うと、手慣れた手つきで魚の下処理を済ませていく。
驚いたのは、貧相に見えた小屋の中からあれよあれよと調理器具やら食器やら調味料やらが出てくることだ。
そして、日が沈み切った頃には立派な夕食ができあがっていた。
ぐつぐつと食欲のそそる音と匂いを放つ鍋の中では、ぶつ切りにしたマスの身と頭、白子、筋子が煮えている。
男はそこから1人分を椀に取り分け、差し出した。
「ほら、あんたも食べな。腹へってんだろ。ここ数日何も食べてません、って顔してるぜ」
女はうつむいたままそれを受け取り、小さく「いただきます」と呟くとおもむろにマスの身を口へ運ぶ。
男の言う通り、彼女が最後に満足な食事をしたのはだいぶ前のことで、一口食べるともう止まらず、あっという間にたいらげてしまった。
「おお~!いい食べっぷりだな。気に入ったぜ」
男は再び女の背をバシバシ叩くと、どんどん食えとおかわりをよそう。
椀に入れられたマスの頭と目が合いながらも、彼女は躊躇うことなく箸を進める。
「美味しいでしょ」と聞かれて「美味しいです」と素っ気ない返答。
空腹が満たされて体も温まり、ようやく心の余裕が生まれてきた女は、改めて今の状況の飲み込みにくさに気がつく。
しっかりご馳走になっておいて「あなたは一体何者ですか」なんて礼儀知らずにも程があるが、正直一番気になるところだ。
そんな心中を知ってか知らずか、男の方が先に問いかけた。
「あんた名前は?どっから来たの?」
女がうつむいたまま何も答えずにいるので、続けざまに質問が投げかけられる。
「家出か?家族はどうした?あんたがここにいることを知ってるやつはいるのか?」
それでも女は一向に口を開こうとせず、男はやれやれと息を吐いた。
「あんたさ、死のうとしてただろ。そういうやつを今までに何度か見たことがあるが、みんな決まって同じような背中をしてるもんだ」
図星を突かれ、女はより一層深くうつむき唇を嚙みしめる。
「水死体はむごいもんだ。水を吸ってぶくぶくに膨れ上がっちまうし、あちこち魚にかじられてたりする。親御さんが泣くぜ」
「死んで魚の餌になれるなら本望です。この北の大地で死に、土に還って自然の一部になる。私にはもったいないくらい綺麗な最後だと思いました」
やっと口を開いた女は、虚ろな目を伏せ気味にただ燃える火を見つめて言った。
照らされる女の顔には、全面を覆いつくさんばかりの痛々しい傷跡が広がっている。
火が揺れてその顔に陰が躍る様子は、こうも夜闇の中ではおどろおどろしさすら感じてしまう。
しかし、男は別段怖がるふうでもなく、忌むわけでもなく、至って普通の態度で話す。
女にはそれが不思議でならず、複雑な思いだった。
「その顔、疱瘡の跡だろ」
女は静かに頷く。
先程から何もかもずばり言い当てられているような気がして、何だか決まりが悪い。
だがそれも、彼の身の上を聞くうちにどうでも良くなっていった。
幼くして14人もいた家族を全て疱瘡で亡くし、ただ独り残った彼は故郷を追い出されてしまったのだという。
そんな彼を不憫に思ったのか、同じ理不尽に苦しめられた者どうし聞いてほしくなったのか、堅かった女の口もつい緩んだ。
彼女もまた、姉を疱瘡で亡くしていた。
才媛の誉れ高い姉ではなく、その残渣であるような自分が生き残ってしまったことに周りの目は冷たく、耐えかねて故郷を飛び出してきたのだった。
「そっか、そりゃつらかったな」
男は今度はぽふぽふと優しく女の頭を叩いた。
「帰る場所がないなら俺と一緒に来たらいい。家臣にしてやるぜ」
「はい?家臣?」
聞きなれない言葉にきょとんとする女のことなどお構いなしに、男は話を続ける。
「俺は王様になって、自分の国を作る。そうすれば誰も俺を追い出したりできないだろ。帰る場所がないならあんたもそこに住めばいい」
男は女の肩をぐいと引き寄せ、終始うつむいていたその顔を上げさせる。
「あんたの命、どうせ捨てるくらいなら俺が拾ってやるよ」
間近に迫った黒く凛とした目に見詰められ、垂れ幕のように取り囲む長い髪に退路を断たれ、女は蛇に睨まれた蛙のごとく動けなくなる。
圧に押され、彼女は絞り出すように「はい」と答えるほかなかった。
その返答に満足したようで、男は顔を離すと含みのある笑みを浮かべた。
そして、やや声色を落としてとんでもないことを言い出したのだ。
なんと彼は、ここより少し北にある網走の監獄から逃げてきた脱獄囚であるという。
それも、24人もの囚人が一斉に逃げ出す計画的な集団脱獄で、そのうちの多くは死刑や無期徒刑を受けた凶悪犯罪者ばかり。
おまけに、アイヌの埋蔵金の話まで飛び出す始末。
女は初め、あまりに出鱈目だと眉唾に聞いていたのだが、彼の上半身に彫られた“暗号”とやらを見せられていよいよ信じざるを得なくなった。
そして後悔した。
冥土の土産にと、ほんのちょっとばかり人助けをするつもりが、とんでもない犯罪者の一味となり、これもまたとんでもない厄介事に加担する羽目になってしまった。
彼は他の囚人たちと埋蔵金を山分けする気などさらさらなく、全てぶんどって国を作る資金に充てるのだと、まるで無垢な少年のように無邪気な笑顔で語るのであった。
もちろん、その方法は物騒極まりないものであるのだが。
彼と行動を共にするということは、その逃亡を手助けする上に、これから引き起こされるであろう諸々の悪行を容認することと同義である。
かといって、ここまで聞かされてしまった手前、怖気づいたのでやっぱり辞めます、など眼前のこの男が許すはずもない。
しかし、そこでふとある疑問が女の頭に浮かぶ。
「にわかには信じがたいですけど、話は分かりました。でも、それなら私みたいなのは放っておいた方がいいと思います。何の役にも立たないどころか、足手まといになりますよ」
女には特別秀でた才もなければ、学があるわけでもない。
自分を連れて行くことで彼に得られる利点など何一つ思い浮かばなかった。
「いや、あんたみたいなのが丁度いいんだ。脅したり報酬で釣ったりしたやつは結局のところ信用できない。その点、あんたみたいな満身創痍の死にたがりなら裏切る心配もないだろ」
「はあ」
「それに、家臣をどう使うかは王の手腕だ。役に立つかどうかはあんたじゃなくて俺が決める」
「……分かりました。できる限りのことはしますけど、あんまり期待しないでくださいね」
納得できるようなできないような微妙な理由だったが、何だかもう観念してしまった方が早い気がして、甘んじて受け入れることにした。
女は長きにわたる一人旅に疲弊しきっていたし、久しぶりの満腹感が睡魔を引き連れてきていて、正常な判断力が少し欠けていたのかもしれない。
「良い返事が聞けて嬉しいよ。それじゃあ、これからよろしくな」
男の背が高いので、女は必然とその顔を見上げる形になる。
遠くに湖の上で瞬く星空が見え、そういえば最近はずっとうつむいたままだったな、と気づかされた。
「俺はボウタロウってんだ。まあ、“海賊”って呼ばれることの方が多いけど」
「海賊?」
「そう、海賊。そんで、あんたは?」
「好きなように呼んでもらっていいですよ。自分の名前、嫌いなので」
自嘲するように言う女に対し、海賊は少し眉を寄せた。
「そんなふうに言うもんじゃないぜ。親からもらった大切な名前だろ」
諭すようにそう言う海賊に、「親にもらったから嫌なんだ」とはまさか言えず、女は口をつぐんだ。
「ま、いいや。じゃあ俺がつけてやるよ。そうだな~」
海賊は少し考えた後、女の顔を指さして思いついた名前を告げた。
「“あばたちゃん”にしよう!」
「人の心ってもんがないんですか、あなたは」
あまりに露骨なことに驚き、思ったままが口をついて出る。
それは彼女の顔に幾度となく浴びせられてきた言葉であり、決して心持ちの良いものではなかった。
「なんだよ、何でもいいって言ったじゃん。文句があるなら名前を言えばいいだろ」
「言いましたけど……。あぁー、もうそれでいいですよ」
ため息まじりに彼女は了承した。
確かに言い始めたのは自分であるし、逆に言われ慣れてしまった節もあり、今更傷つくこともない。
それに、彼女は海賊と長旅するつもりは毛頭なかった。
邪魔になって置いていかれるか、あるいは口封じに殺されてしまうのかは分からないけれど、こんな馬鹿げた契約はきっとすぐに破棄されるだろうからと。
「よろしくお願いしますね。海賊さん」
遥か北の大地の片隅、透き通る湖のほとりにて。
捨てられた者が拾われた。
たったそれだけの邂逅である。
1/14ページ