古ぼけた鏡
シリルの父親の容態はかんばしくなかった。担当医の話では、今の容態は助かるかどうか五分五分で、こちらも全力を尽くすがもしものために会わせたい人には連絡をしてくれという話が合ったそうだ。それでやっとレオナは面会できることになった。
普段の学園では絶対に着ない上着を着て、ネクタイ迄締めてきたのはこのためだ。「親父さん」はなぜかレオナのことを気に入ってくれている。精いっぱいの敬意を示す必要があった。ただしネクタイは少し緩めさせてもらった。服装にうるさいクルーウェルあたりが見たら何度も見直すかもしれない。
「お父様、レオナ様が来てくださいました」
ああ、とか、うう、という声にならない声がした。
「引き出し?これですかお父様」
ベッドサイドの引き出しをシリルが開けると、装飾を施した古めかしい大きな鏡があった。シリルの母が花に水を入れて戻ってきて、声をあげた。
「あら、見当たらないと思ったら病室に持ち込んでいらしたのね」
「お母様、なんですこの鏡」
「それはね…」
母は唇に右手人差し指を当てて考え込むようなポーズを取った。
「真実を映す鏡だそうよ」
「しん、じつ?」
「自分の本当の気持ちを伝えられない者が、この鏡に向かうと真実が分かる、という魔法の鏡。効果のほどは…」
「どういうこと?」
「お父様が私に結婚を申し込みに来た時の話。口下手なお父様はこの鏡の効果を信じていて、鏡を持ってくる予定だった。でもお忘れになったままいらした」
シリルは呆れたように父を見た。
「だとしたら、なぜお父様はこの鏡を…レオナ様?」
話をずっと腕組みをしながら聞いていたレオナは、シリルに名前を呼ばれて我に返った。
「あ、ああ。何だ」
「どうやらお父様がこの鏡をくださるとのことです。荷物になるかもしれないけれど、しばらく預かっていただけませんか。魔力のかかっている鏡は、音楽院に持ち込めないという規則があるんです」
「いいだろう。預かる」
レオナは袋に入れられた鏡を受け取った。
「お父様、また来るわね」
眠っているような父親を眺めて、シリルは病室のドアを閉めた。
「良くないと聞いてはいたが、想像以上だったな」
「私も、あんな父の姿は初めて見ました…」
「気を落とすな。親父さんは株の暴落で倒産寸前から立ち直ったあのラルフ・マクリーンだ。きっと持ち直す」
「だといいのですけれど…」
なんだかぎこちなかった。うまく言葉をかけられない。
レオナはシリルを心配させないように笑顔を見せた。
「後で鏡を見ろ。ひどい顔をしている」
シリルは顔を覆った。
「そんなに顔色悪いのかしら…」
「ああ、俺が今まで見た中で一番悪い。ちゃんと食ってるのか」
シリルは頭を横に何度も振った。
「食べたくないの…胸がいっぱいで」
「親父さんが大変な時に、お前まで倒れたらどうなる。食える時に食って、寝られるときに寝ておけ」
妙な励まし方ではあるが、確かにその通りだとシリルは思った。
改めて背の高いレオナを見上げると、胸にあまずっぱい気持ちが込み上げた。
「それ、ナイトレイブンカレッジの制服?」
「ああ」
「あなたの制服姿って初めて見た」
「そうだったか…」
「良く似合うわ」
薄暗い電球と月明りの中で、シリルが少しはにかんで見えた。急いで出かけたから、まともに見える服は制服しかなかったということはレオナは言わなかった。褒められるのは慣れていないが、悪い気はしない。
真夜中の病院は寒く、寮服のままで来なかったことを賢明な判断だとレオナは考えた。
「お前、寝ていないのか」
顔色の悪いシリルを見て、レオナの表情が曇った。
「寝てはいます…」
「そこらへんで寝てるんじゃないだろうな」
図星だった。シリルはバツが悪そうな表情で下を向いた。レオナはシリルの髪をくしゃっとかきまぜた。
「そこらで寝て風邪をひいちゃ世話ねえだろ」
「…平気です」
シリルはくしゃみをした。
「本当にちゃんとベッドで寝ろ」
「疑い深いですね」
「お前、俺が気づいてないとでも思ってるのか。お前のように、痛いのに痛みをギリギリまでこらえ、辛くても無理やり笑顔を作るような奴は肝心なところで弱い。倒れるまで頑張って誰か褒めてくれるか?そんな賞賛もらって何になる」
シリルは唇を噛んで下を向いた。
「…それでも、そんな賞賛でもないよりはましです」
「無理してでもか」
「はい」
「馬鹿正直もほどほどにしろ」
「マクリーン家の家訓では、むやみに人を頼るなと」
「そんな家訓、この際わきへ置いておけ」
「でも」
「一人で抱えるな」
その言葉がきっかけで、シリルは泣き崩れた。堰を切ったように泣くシリルの肩にレオナは腕を回し、抱えた。
「肩を貸してやる。存分に泣け」
「う、…くっ…」
しばらく涙を流し、落ち着くとシリルは鼻と目を赤くしてハンカチで顔をぬぐった。
「…ごめんなさい、急に泣いて」
「それはいい。落ち着いたか」
「…あ、ありがとう」
「礼には及ばん」
「三人いる娘の中で、長女の私が一番父と仲が良かったんです。普段は離れているから、久しぶりにホリデー休暇に戻ろうと思っていた矢先に父が倒れたって聞いて…やつれた父など見たくなかった」
レオナは自分のハンカチをシリルに差し出し、シリルの頭をもう一度撫でた。
「今は医者の指示に従って、親父さんの生命力を信じるしかない」
「…」
シリルは小さくうなずいた。
「お前ひとりくらい支えられる。頼れ」
レオナの言葉に、シリルは小さくうなずいた。気が付くと女性用の仮眠室の前に立っていた。シリルは一礼して仮眠室へ戻っていった。
レオナは男性用仮眠室の壁に立てかけておいた古ぼけた鏡を眺めた。(じゃまくせえがこれ、どうするかな)
古い年代物の鏡だが、いわゆる魔力らしいものは感じられない。
(リリアあたりに聞けば、どれくらいの年代のものなのかわかるかもしれんがな…。一体親父さんはどういうつもりで、こんなもんを託してきたんだろう)
レオナは首を捻ったが考えても分からないのでそのうち諦めて、またベッドに横たわって眠った。
普段の学園では絶対に着ない上着を着て、ネクタイ迄締めてきたのはこのためだ。「親父さん」はなぜかレオナのことを気に入ってくれている。精いっぱいの敬意を示す必要があった。ただしネクタイは少し緩めさせてもらった。服装にうるさいクルーウェルあたりが見たら何度も見直すかもしれない。
「お父様、レオナ様が来てくださいました」
ああ、とか、うう、という声にならない声がした。
「引き出し?これですかお父様」
ベッドサイドの引き出しをシリルが開けると、装飾を施した古めかしい大きな鏡があった。シリルの母が花に水を入れて戻ってきて、声をあげた。
「あら、見当たらないと思ったら病室に持ち込んでいらしたのね」
「お母様、なんですこの鏡」
「それはね…」
母は唇に右手人差し指を当てて考え込むようなポーズを取った。
「真実を映す鏡だそうよ」
「しん、じつ?」
「自分の本当の気持ちを伝えられない者が、この鏡に向かうと真実が分かる、という魔法の鏡。効果のほどは…」
「どういうこと?」
「お父様が私に結婚を申し込みに来た時の話。口下手なお父様はこの鏡の効果を信じていて、鏡を持ってくる予定だった。でもお忘れになったままいらした」
シリルは呆れたように父を見た。
「だとしたら、なぜお父様はこの鏡を…レオナ様?」
話をずっと腕組みをしながら聞いていたレオナは、シリルに名前を呼ばれて我に返った。
「あ、ああ。何だ」
「どうやらお父様がこの鏡をくださるとのことです。荷物になるかもしれないけれど、しばらく預かっていただけませんか。魔力のかかっている鏡は、音楽院に持ち込めないという規則があるんです」
「いいだろう。預かる」
レオナは袋に入れられた鏡を受け取った。
「お父様、また来るわね」
眠っているような父親を眺めて、シリルは病室のドアを閉めた。
「良くないと聞いてはいたが、想像以上だったな」
「私も、あんな父の姿は初めて見ました…」
「気を落とすな。親父さんは株の暴落で倒産寸前から立ち直ったあのラルフ・マクリーンだ。きっと持ち直す」
「だといいのですけれど…」
なんだかぎこちなかった。うまく言葉をかけられない。
レオナはシリルを心配させないように笑顔を見せた。
「後で鏡を見ろ。ひどい顔をしている」
シリルは顔を覆った。
「そんなに顔色悪いのかしら…」
「ああ、俺が今まで見た中で一番悪い。ちゃんと食ってるのか」
シリルは頭を横に何度も振った。
「食べたくないの…胸がいっぱいで」
「親父さんが大変な時に、お前まで倒れたらどうなる。食える時に食って、寝られるときに寝ておけ」
妙な励まし方ではあるが、確かにその通りだとシリルは思った。
改めて背の高いレオナを見上げると、胸にあまずっぱい気持ちが込み上げた。
「それ、ナイトレイブンカレッジの制服?」
「ああ」
「あなたの制服姿って初めて見た」
「そうだったか…」
「良く似合うわ」
薄暗い電球と月明りの中で、シリルが少しはにかんで見えた。急いで出かけたから、まともに見える服は制服しかなかったということはレオナは言わなかった。褒められるのは慣れていないが、悪い気はしない。
真夜中の病院は寒く、寮服のままで来なかったことを賢明な判断だとレオナは考えた。
「お前、寝ていないのか」
顔色の悪いシリルを見て、レオナの表情が曇った。
「寝てはいます…」
「そこらへんで寝てるんじゃないだろうな」
図星だった。シリルはバツが悪そうな表情で下を向いた。レオナはシリルの髪をくしゃっとかきまぜた。
「そこらで寝て風邪をひいちゃ世話ねえだろ」
「…平気です」
シリルはくしゃみをした。
「本当にちゃんとベッドで寝ろ」
「疑い深いですね」
「お前、俺が気づいてないとでも思ってるのか。お前のように、痛いのに痛みをギリギリまでこらえ、辛くても無理やり笑顔を作るような奴は肝心なところで弱い。倒れるまで頑張って誰か褒めてくれるか?そんな賞賛もらって何になる」
シリルは唇を噛んで下を向いた。
「…それでも、そんな賞賛でもないよりはましです」
「無理してでもか」
「はい」
「馬鹿正直もほどほどにしろ」
「マクリーン家の家訓では、むやみに人を頼るなと」
「そんな家訓、この際わきへ置いておけ」
「でも」
「一人で抱えるな」
その言葉がきっかけで、シリルは泣き崩れた。堰を切ったように泣くシリルの肩にレオナは腕を回し、抱えた。
「肩を貸してやる。存分に泣け」
「う、…くっ…」
しばらく涙を流し、落ち着くとシリルは鼻と目を赤くしてハンカチで顔をぬぐった。
「…ごめんなさい、急に泣いて」
「それはいい。落ち着いたか」
「…あ、ありがとう」
「礼には及ばん」
「三人いる娘の中で、長女の私が一番父と仲が良かったんです。普段は離れているから、久しぶりにホリデー休暇に戻ろうと思っていた矢先に父が倒れたって聞いて…やつれた父など見たくなかった」
レオナは自分のハンカチをシリルに差し出し、シリルの頭をもう一度撫でた。
「今は医者の指示に従って、親父さんの生命力を信じるしかない」
「…」
シリルは小さくうなずいた。
「お前ひとりくらい支えられる。頼れ」
レオナの言葉に、シリルは小さくうなずいた。気が付くと女性用の仮眠室の前に立っていた。シリルは一礼して仮眠室へ戻っていった。
レオナは男性用仮眠室の壁に立てかけておいた古ぼけた鏡を眺めた。(じゃまくせえがこれ、どうするかな)
古い年代物の鏡だが、いわゆる魔力らしいものは感じられない。
(リリアあたりに聞けば、どれくらいの年代のものなのかわかるかもしれんがな…。一体親父さんはどういうつもりで、こんなもんを託してきたんだろう)
レオナは首を捻ったが考えても分からないのでそのうち諦めて、またベッドに横たわって眠った。