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揺れる心(シリル視点)

彼が本当に来てくれるなんて期待してなかった。
私だって呼ばれて驚いたのに、まだ正式な婚約者でもない彼を呼ぶなんて考えられなかったし、ホリデー休暇でもないのにわざわざ来てもらえるなんてことは考えちゃいけないと思った。
 だから、お母様から「レオナ様をお呼びした」と聞かされた時、私も本気にはしなかったのだ。

 でも、彼は来てくれた。

 まだ会うのが5回目で、なんだかぎこちない。
呼び方だって、「レオナ様」と呼ぶのは堅苦しいのはわかっているけれど、ではどう呼べばいいのか。軽々しく「レオナ」なんて呼べない。あの人のほうが年上なんだし、ファレナ国王様の弟君という尊いお立場なのだから。

 はじめてお会いしたとき、あの方は15歳。それにしてはずいぶん大人びて、世の中のいろいろなことをわかっている方だと思った。13歳の私はまだまだこどもで、ぷにぷにとほっぺをつつかれてただただ無言で戸惑っていただけだった。なにしろ、結婚相手が決まっているということがどういう意味を持つのか、考えたこともなかったのだ。
 その時の唯一のこどもっぽい印象は、レオナ様がなぜか私のほっぺたをむにっとつかんでニヤッと笑ったということだった。そこに、悪戯好きの小さな男の子の姿を見たと言ったら怒られるだろうか。

 本国では、国王のファレナ様と第二王子であるレオナ様はよく比較されている。怠惰で陰気で気難しいため従者が定着しないだの、仕える侍女が手を焼いているだの、評判はよろしくない。
 確かに気難しく見えるが、私にはぶっきらぼうながら機嫌よく付き合ってくれた。あの方の話は興味深く、深い知性の感じられる聡明な男性だということが分かる。加えて立ち振る舞いに品性が感じられ、外見の美しさや人を惹きつける魅力がある。レオナ様が通ると、女性たちが色めき立つのも分かる。

 それに比べれば私は地味な顔立ちで、美しいと言われたことはなかった。唯一誇れるのは、はちみつのような色をした髪。そして珍しいと言われる翡翠のようなサマー・グリーンの瞳くらいだ。

 私は胸が大きく、男性の欲情を掻き立てる体型なのだそうだ。そして、咄嗟の時に大声を上げられないため今まで性被害に何度か遭ってきた。下品な冷やかしをされたり、知らないおじさんに突然胸やお尻を触られて悲鳴を上げたりなんてこともあって、すごく嫌だった。胸を抑えた服ばかり着ているのも、トラウマからだ。レオナ様にはそんな話をしたら、そんな雄は噛み付いても罰は当たらないとおかしな慰め方をされた。
「俺がお前と一緒にいる時にお前が嫌な思いや、怖い目にあったら俺がはねのけてやるから安心しろ」
そんなことを、珍しく真面目な顔つきで言うのがおかしくて微笑むと、「女性に親切にするのは当然だ」と言われてまたほっぺたをつつかれた。

 まだ彼に会うのはこれで5回目なのに、私は会うたびにあの人に惹かれている自分を感じる。最初は親が決めた相手なんて窮屈だと思っていたのに、彼に会って、話をすればするほど、またお会いしたいと思う。傍にいたいと思う。

 思えば、私の話を笑ったり馬鹿にしないで聞いてくれる年の近い男性はレオナ様が初めてだった。音楽院に進みたいという話を初めてした時に呆れたり無理だと否定せず、お前ならできるかもしれんなと言ってくれたのが心の支えだった。

 先刻、私の頭をくしゃっと撫でた彼の手が心地よかった。
大きく武骨な手。すらりと伸びた背中。困った時、寂しいとき、もし彼が私を抱き寄せて包んでくれたら、きっと元気になれる。
 そして、私はもっと大胆な望みを抱く。

 私の名前を呼んで。何度でも。何度でも。

 お前が欲しいと言ってほしい。あの深い声で。

彼が私を呼ぶ声が好き。左目の傷も。私と同じ翡翠色の瞳も。

「自分がしてほしいことがあるなら、まず自分から動きなさい」

お父様の言葉。わかってる。わかってるけど、シリルはそんなふうに大胆になれません。嫌われてはいないと思うけど、許嫁はたまたま私だっただけで本当は誰でもよかったのかもしれないし。本当にこのまま、許嫁でいてもいいのかな…。

 やだ、また涙が出てきた。
しっかりしなきゃ。お父様の容態が峠を超えられるかどうかの瀬戸際なんだから。

 病室前の長椅子でそんなことを考えているうちに、私は眠ってしまったようだった。ふと寒さを感じて目を開けると、冷え冷えとした病院の壁と床が見えた。
起き上がって膝の上で指を動かす。
「ピアノ、弾かなきゃ…」
オーディションに4回落ちてやっと受かった念願の演奏会が2か月後にある。受かった話を喜んでくれた父が演奏会に来られるかどうかはわからないが、それでも立派にやり遂げなければとシリルは思った。
「腹が減ったんだゾ」
「こら、グリム!病院の中を走っちゃだめだよ」
顔を上げると、レオナが「草食動物」と呼んでいた男の子が、ぬいぐるみのような動物と一緒に立っていた。
「ごめんなさい、シリル、さんでしたっけ…うるさくして」
「いいんですよ。食堂、まだ開いていないものね」
その子は、自分は「オンボロ寮の監督生」で、名前はユウという、と名乗った。魔法士学校の学生なのに魔法が使えなくて、使い魔みたいな動物(グリムという名前だ)が魔力を持っているという。不思議な子だ。身長は、前に見かけたレオナと同じ寮のハイエナの男の子よりも低い。
「お、おなかはすいて…」
不意にぐーきゅるるるという音がした。体は正直だ。
「とりあえずこんなものしかないけれど」
私は、自販機でスープを買って差し出した。私も冷えたのでカフェオレを買う。
「あと1時間あるから、朝食まではもつでしょう」
「ありがとうございます」
コンソメスープを冷ましながら飲んでいるユウ君の横顔を見て、不思議な気持ちになった。
「あなたたちはレオナ様‥と同じ寮ではないのね」
「はい。エースとデュースは別の寮です。僕は言うまでもなくどこにも入れなくて、オンボロ寮というところにいます」
「それでもついてきたのは?」
ユウ君は紙コップで手を温めながらしばらく考えていた。
「それはアクシデント…です。でも、レオナさ…レオナ先輩は僕たちのことを見捨てたままではないと思いました」
「あら」
ユウ君は立ち上がって、紙コップをつぶし自販機のごみ入れに入れた。
「あの人は素直じゃないので、僕たち…特に僕は率直でいようと思ったんです。あの人は僕たちに恩があるので。それに、僕もレオナ先輩には恩があります。あの人はそういう言葉を使うのは好まないかもしれませんが」
「素直…率直…」
「じゃあ。スープごちそうさまでした」
ユウ君がグリムと一緒に去って行ってからも、私は考え事をしていた。
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