戸惑う男心(レオナ視線)
公にはしていないが、俺には将来の結婚相手、つまり「許嫁」が決まっていた。俺は第二王子で王位継承権が低いとはいえ、家柄は適齢期の娘を嫁がせるに申し分ないものでもあり、場合によっては姻族の契りを結ぶことで自分たちに有利に事を運びたいという思惑の者から、様々な縁談が持ち込まれる。それは早ければ10歳を過ぎた頃からだ。親父はそれを「顔合わせ」と呼んでいた。
兄貴の時にも実は義姉との話が決まる直前にねじ込まれた「顔合わせ」があり、揉めたらしい。だからというわけではなく、俺の気難しいと言われる性質を見越して、早い時期に親同士の間で許嫁の話を決めたのだと聞かされた。
相手は俺たちの母方の遠縁で、元王族ではあるが事業を広く営む名家の娘だ。
子どもの頃からのいろいろなこともあり、恋愛にはさほど興味がない俺だったが、形式上でも結婚相手が決まっているのは、面倒ごとが減ってちょうどいいと考えていた。しかも、なぜか俺は許嫁の父親からえらく気に入られていて、婿に来いとか、自分の事業を引き継がないかなどと散々言われている。とりあえず学生だからということで、その話は保留にしているが、許嫁の父親が気のいいおっさんだということだけは気に入った。
その許嫁の父親がこのところ病に臥せっているらしく、ここ2,3日が峠という連絡をもらったため、ホリデー休暇にはやや早いがクロウリーを半分脅して休みを分捕ってきたというところだ。
来てみたはいいが、一体どうすればいいか俺は考えあぐねた。
そこで、シリルのところに来てみりゃこのありさまだ。
それにしても、まさか1年生の3バカがついてきちまったとは。しかも言うに事欠いてストーカーだと。そんなに他寮の寮長に関心があるのか。
あいつらはきっと戻ったらクロウリーに小言を言われるだろう。俺の知ったことじゃねえが、あいつらとは俺がオーバーブロットをしたときに借りがある。でなければ他の寮の奴の面倒なんか見るわけがない。
とりあえず、3バカの中では一番話が通じそうなオンボロ寮の監督生に口止めをしておいた。
シリル・マクリーン。それが、俺の許嫁の名前だ。2つ年下の、胸までのやわらかなはちみつの色の髪で小柄なヤマネコの獣人族の娘だ。丁度立って並ぶと、シリルの頭は俺の顎のあたりに来る。美人というより愛らしいという形容詞がぴったりの娘だ。マクリーン財閥のトップ企業、マクリーン・コーポレーションの社長令嬢にして、輝石の国の音楽院で学ぶピアニスト。俺の横にいる娘はそういう女だった。
俺はシリルを見下ろしていた。
耳がしおれたように折れている。昨晩かけつけてから碌に休養も取っておらず、疲れている様子だ。だらんと下がった尻尾がその疲れをよく表していた。どれほどの涙を流したのだろう、目が赤く、瞼が腫れていた。
実は、俺とシリルが会うのはこれで5回目だ。
まだナイトレイブンカレッジに入学する前、俺が15歳、シリルが13歳で顔合わせをした。未来のお前の花嫁だと言われても、俺は女に惚れた経験がなく結婚というものがどんなものか全くわかっていなかったし、シリルも緊張のせいか、ほとんど言葉を発しなかった。その時はシリルのぷくぷくした頬をつついて遊んだ記憶がある。
俺がナイトレイブンカレッジに入学して家を出てから、シリルも名門女子校と名高いクイーンズ・ファブラ・カレッジに入学した。それで会うのはお互いの休暇の時、ほんの短い時間だけだった。
数回言葉を交わしただけの相手。形だけの結婚。政略結婚が王族や旧家では多く、珍しい話ではない。そこには愛情などという不確かなものは必要なく、ただ子を成し、俺たちの代が費えるときチェカの側近になるものを育てることだけが目的だ。
だがなんだか、それだけでは物足りない気がしたのだ。
「レオナ…さま」
シリルに声をかけられていることにも俺は気づかなかった。
「さまはいらん。どうした」
「エース君たちを付き添い用の仮眠室に案内しました」
「気を使わなくても、あいつらなんてそこら辺の床に転がしときゃよかったものを」
「それはさすがに、清掃員が驚きますから。レオナ様も仮眠室を使いますか?お疲れでは」
「いや、いい。長椅子でも寝られる」
「でも」
「シリルこそ疲れているんじゃねえのか?お前も急いで駆けつけたんだろう」
そう言うと、シリルは目を伏せて下を向いた。
(またか…)
ここに来てから見ているシリルの姿は、以前会った時と比べて沈んでいた。父親が危篤状態だから無理もないのかもしれないが。
こういう時、どんな言葉をかけてもそれは上滑りの心のこもらないものになる。むやみに要らぬ口を利くことはできないと思った。
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですので」
「大丈夫じゃねえから言ってるんだがな」
その言葉に、シリルはまたうなだれた。
「確かに、俺たちはまだ会って5回目だ。礼儀を重んじるマクリーン家の家風はわかるが、いちいち敬語を使われるとむずがゆい」
「ごめんなさい。どういう立ち位置で炒ればいいのかわからなくて」
「普通に話せばいいだろう。カレッジは女子校だったかもしれないが、音楽院には普通に男もいるんだろう」
「学校の人たちとレオナ様では違います…」
レオナは頭を掻きむしった。
「せめて敬語はやめてくれ。俺を第二王子と知って立ててくれているのだろうが、そんなふうに扱われるとむず痒い」
「…努力、します…」
取って食うわけじゃないからなというと、シリルはぎょっとした顔で俺を見た。冗談が通じないのか、それともそんな余裕がないのだろうか。
シリルの外見は、お世辞にも美人とは言い難い。だが顔立ちが派手ではないだけで、楚々とした姿は年頃の娘らしく愛らしく俺には見えた。城の女兵士たちと比べれば小柄で頼りないが、集中力と持久力はかなりある。加えて短い会話から、彼女の聡明さがうかがえた。そして。
(でかいおっぱいをまた押し込めるような服を着てるな)
そう。あいつはまさに俺の好みの体型だ。抑えた服装からでも予想できる豊かな胸と引き締まった尻。姿勢の良い背中。もちろんじかに触ったことはないが、少ない記憶から想像して劣情に悩まされたことはあった。だが断っておくが、シリルの体だけに俺は興味があるわけではない。俺にはない勤勉さや真面目さ、まっすぐな心にも次第に惹かれていたのだ。
(もう少し、距離を縮めたいんだがな)
そんなことを言うタイミングがつかめないから、困惑しているのだが。
「シリルも休め。親父さんが目を覚ましたときに元気な顔を見せてやれるようにな」
俺はシリルの頭を撫でた。
結局仮眠室を借りることになった。
仮眠室の硬いベッドに仰向けに寝て、天井を眺める。さすが病院だ。白い。白すぎて寒気さえ覚える。
シリル。
最初に惹かれたのは、彼女の声だった。鈴を鳴らすような愛らしい声。その次は澄んだ瞳。偶然俺と同じ翡翠色だったことも気に入った。彼女の妹たちは父親と同じ群青色の瞳で、一族でもこの色の瞳が出るのは珍しいようだ。
まともに話をしたのは3回目に会った時だ。音楽院へ進学するという話の流れで、俺はシリルにピアノの演奏をを聴かせてくれと頼んだ。
「自分よりうまい者はたくさんいる」
と、シリルは謙遜したが、俺はいくらでも聴いていたいと思った。優しい音が俺の心を癒した。
レモンのタルトが好きなこと。コーヒーはカフェオレ。まだ食事を一緒にとったことがなく、食の好みまではわからない。嬉しいと尻尾がぴんと上がる。本が好きで、俺が贈った古代呪術語の解説本をとても喜んだ。
香水の香りを決めるのに迷っているが、俺にどんな香りが好きかと聞いてきた。
自分の好きなものでいいじゃないかと言った俺に、
「3本迄絞ったのですが、最後の決め手がなくて。これは人に選んでもらったほうがいいと思って」
と、珍しくお願いめいたことをしてきたので、俺は快く選定に立ち会った。
3本の瓶を鼻がおかしくなるほどかぎくらべてから、結局俺は最初に選んだスイカズラの香水を差し出した。シリルもその香りを気に入って、どうやらいつも使っているらしい。今も体臭とまじりあって清楚な匂いがしている。
俺も王族だからそれなりに女からの誘いはあった。もっと美人がなびいてきたこともある。シリルには言えないが、据え膳食わぬは男の恥と、かなりきわどいところまで行った相手もいる。だがそんなときに、最後まで進む誘惑を断ち切ったのはシリルの声とスイカズラの香水の香りだった。それはシリルのためにとって置こうと思っていた。
あいつは俺と番になることを承知しているのだろうか。
父親と仲の良い娘だ。父のお気に入りの男だから粗相がないように、と思っているようにも見える。だが時々見せる嬉しそうな表情や屈託のない笑顔に、俺はくらくらする。俺みたいな汚れてる男にそんな笑顔を見せないでくれとも思うが、それほど自分を信頼している相手がいるという安心感もある。
目の前の相手に確かめることが怖くなった。
(怖い?この俺が)
そう感じるのはなぜか、わからなかった。
兄貴の時にも実は義姉との話が決まる直前にねじ込まれた「顔合わせ」があり、揉めたらしい。だからというわけではなく、俺の気難しいと言われる性質を見越して、早い時期に親同士の間で許嫁の話を決めたのだと聞かされた。
相手は俺たちの母方の遠縁で、元王族ではあるが事業を広く営む名家の娘だ。
子どもの頃からのいろいろなこともあり、恋愛にはさほど興味がない俺だったが、形式上でも結婚相手が決まっているのは、面倒ごとが減ってちょうどいいと考えていた。しかも、なぜか俺は許嫁の父親からえらく気に入られていて、婿に来いとか、自分の事業を引き継がないかなどと散々言われている。とりあえず学生だからということで、その話は保留にしているが、許嫁の父親が気のいいおっさんだということだけは気に入った。
その許嫁の父親がこのところ病に臥せっているらしく、ここ2,3日が峠という連絡をもらったため、ホリデー休暇にはやや早いがクロウリーを半分脅して休みを分捕ってきたというところだ。
来てみたはいいが、一体どうすればいいか俺は考えあぐねた。
そこで、シリルのところに来てみりゃこのありさまだ。
それにしても、まさか1年生の3バカがついてきちまったとは。しかも言うに事欠いてストーカーだと。そんなに他寮の寮長に関心があるのか。
あいつらはきっと戻ったらクロウリーに小言を言われるだろう。俺の知ったことじゃねえが、あいつらとは俺がオーバーブロットをしたときに借りがある。でなければ他の寮の奴の面倒なんか見るわけがない。
とりあえず、3バカの中では一番話が通じそうなオンボロ寮の監督生に口止めをしておいた。
シリル・マクリーン。それが、俺の許嫁の名前だ。2つ年下の、胸までのやわらかなはちみつの色の髪で小柄なヤマネコの獣人族の娘だ。丁度立って並ぶと、シリルの頭は俺の顎のあたりに来る。美人というより愛らしいという形容詞がぴったりの娘だ。マクリーン財閥のトップ企業、マクリーン・コーポレーションの社長令嬢にして、輝石の国の音楽院で学ぶピアニスト。俺の横にいる娘はそういう女だった。
俺はシリルを見下ろしていた。
耳がしおれたように折れている。昨晩かけつけてから碌に休養も取っておらず、疲れている様子だ。だらんと下がった尻尾がその疲れをよく表していた。どれほどの涙を流したのだろう、目が赤く、瞼が腫れていた。
実は、俺とシリルが会うのはこれで5回目だ。
まだナイトレイブンカレッジに入学する前、俺が15歳、シリルが13歳で顔合わせをした。未来のお前の花嫁だと言われても、俺は女に惚れた経験がなく結婚というものがどんなものか全くわかっていなかったし、シリルも緊張のせいか、ほとんど言葉を発しなかった。その時はシリルのぷくぷくした頬をつついて遊んだ記憶がある。
俺がナイトレイブンカレッジに入学して家を出てから、シリルも名門女子校と名高いクイーンズ・ファブラ・カレッジに入学した。それで会うのはお互いの休暇の時、ほんの短い時間だけだった。
数回言葉を交わしただけの相手。形だけの結婚。政略結婚が王族や旧家では多く、珍しい話ではない。そこには愛情などという不確かなものは必要なく、ただ子を成し、俺たちの代が費えるときチェカの側近になるものを育てることだけが目的だ。
だがなんだか、それだけでは物足りない気がしたのだ。
「レオナ…さま」
シリルに声をかけられていることにも俺は気づかなかった。
「さまはいらん。どうした」
「エース君たちを付き添い用の仮眠室に案内しました」
「気を使わなくても、あいつらなんてそこら辺の床に転がしときゃよかったものを」
「それはさすがに、清掃員が驚きますから。レオナ様も仮眠室を使いますか?お疲れでは」
「いや、いい。長椅子でも寝られる」
「でも」
「シリルこそ疲れているんじゃねえのか?お前も急いで駆けつけたんだろう」
そう言うと、シリルは目を伏せて下を向いた。
(またか…)
ここに来てから見ているシリルの姿は、以前会った時と比べて沈んでいた。父親が危篤状態だから無理もないのかもしれないが。
こういう時、どんな言葉をかけてもそれは上滑りの心のこもらないものになる。むやみに要らぬ口を利くことはできないと思った。
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですので」
「大丈夫じゃねえから言ってるんだがな」
その言葉に、シリルはまたうなだれた。
「確かに、俺たちはまだ会って5回目だ。礼儀を重んじるマクリーン家の家風はわかるが、いちいち敬語を使われるとむずがゆい」
「ごめんなさい。どういう立ち位置で炒ればいいのかわからなくて」
「普通に話せばいいだろう。カレッジは女子校だったかもしれないが、音楽院には普通に男もいるんだろう」
「学校の人たちとレオナ様では違います…」
レオナは頭を掻きむしった。
「せめて敬語はやめてくれ。俺を第二王子と知って立ててくれているのだろうが、そんなふうに扱われるとむず痒い」
「…努力、します…」
取って食うわけじゃないからなというと、シリルはぎょっとした顔で俺を見た。冗談が通じないのか、それともそんな余裕がないのだろうか。
シリルの外見は、お世辞にも美人とは言い難い。だが顔立ちが派手ではないだけで、楚々とした姿は年頃の娘らしく愛らしく俺には見えた。城の女兵士たちと比べれば小柄で頼りないが、集中力と持久力はかなりある。加えて短い会話から、彼女の聡明さがうかがえた。そして。
(でかいおっぱいをまた押し込めるような服を着てるな)
そう。あいつはまさに俺の好みの体型だ。抑えた服装からでも予想できる豊かな胸と引き締まった尻。姿勢の良い背中。もちろんじかに触ったことはないが、少ない記憶から想像して劣情に悩まされたことはあった。だが断っておくが、シリルの体だけに俺は興味があるわけではない。俺にはない勤勉さや真面目さ、まっすぐな心にも次第に惹かれていたのだ。
(もう少し、距離を縮めたいんだがな)
そんなことを言うタイミングがつかめないから、困惑しているのだが。
「シリルも休め。親父さんが目を覚ましたときに元気な顔を見せてやれるようにな」
俺はシリルの頭を撫でた。
結局仮眠室を借りることになった。
仮眠室の硬いベッドに仰向けに寝て、天井を眺める。さすが病院だ。白い。白すぎて寒気さえ覚える。
シリル。
最初に惹かれたのは、彼女の声だった。鈴を鳴らすような愛らしい声。その次は澄んだ瞳。偶然俺と同じ翡翠色だったことも気に入った。彼女の妹たちは父親と同じ群青色の瞳で、一族でもこの色の瞳が出るのは珍しいようだ。
まともに話をしたのは3回目に会った時だ。音楽院へ進学するという話の流れで、俺はシリルにピアノの演奏をを聴かせてくれと頼んだ。
「自分よりうまい者はたくさんいる」
と、シリルは謙遜したが、俺はいくらでも聴いていたいと思った。優しい音が俺の心を癒した。
レモンのタルトが好きなこと。コーヒーはカフェオレ。まだ食事を一緒にとったことがなく、食の好みまではわからない。嬉しいと尻尾がぴんと上がる。本が好きで、俺が贈った古代呪術語の解説本をとても喜んだ。
香水の香りを決めるのに迷っているが、俺にどんな香りが好きかと聞いてきた。
自分の好きなものでいいじゃないかと言った俺に、
「3本迄絞ったのですが、最後の決め手がなくて。これは人に選んでもらったほうがいいと思って」
と、珍しくお願いめいたことをしてきたので、俺は快く選定に立ち会った。
3本の瓶を鼻がおかしくなるほどかぎくらべてから、結局俺は最初に選んだスイカズラの香水を差し出した。シリルもその香りを気に入って、どうやらいつも使っているらしい。今も体臭とまじりあって清楚な匂いがしている。
俺も王族だからそれなりに女からの誘いはあった。もっと美人がなびいてきたこともある。シリルには言えないが、据え膳食わぬは男の恥と、かなりきわどいところまで行った相手もいる。だがそんなときに、最後まで進む誘惑を断ち切ったのはシリルの声とスイカズラの香水の香りだった。それはシリルのためにとって置こうと思っていた。
あいつは俺と番になることを承知しているのだろうか。
父親と仲の良い娘だ。父のお気に入りの男だから粗相がないように、と思っているようにも見える。だが時々見せる嬉しそうな表情や屈託のない笑顔に、俺はくらくらする。俺みたいな汚れてる男にそんな笑顔を見せないでくれとも思うが、それほど自分を信頼している相手がいるという安心感もある。
目の前の相手に確かめることが怖くなった。
(怖い?この俺が)
そう感じるのはなぜか、わからなかった。