『名探偵』混沌の現
手記
明治○○年10月25日
今年の収穫が終わりを告げ、来年の豊作を祈願した。祠に供えをし、祭りを行う。
本来は夕刻で終わりのはずだが、父の誘いで家に人が集まって祭りは続いている。今年は比較的豊作であり、更に政府が熱心に食糧を集めているらしく、高騰した。正月はうまい酒を飲めそうだ。古い酒を出し切りたいのだ。
家督を継いだとはいえ、存命の父が酒と肴を皆に振る舞うと言うならば、振る舞わねばならぬ。今、書斎に下がれたが、また戻らねばならぬ。
朝までこの祭りは続くのだろう。
明治○○年元旦
新たな年となる。村の衆が集まり、万歳をし、祠へ練り歩いた。家長となって久しいが、やはり慣れない。父がついつい前に出てしまい、後に母より嗜められている声を聞いた。それに激昂する父の声も聞こえ、情けない。家督を継いだことで、父からの言葉は直接受けなくなったが、こうして母への言葉で私に聞こえるようになった。
帝都で出世したらしい分家の次男坊が嫁を取りに家に来た。何年振りか。書生として一高に行き、銀行家になっていた。田舎農家の分家の次男坊が帝都で成功するとは、勘当同然に村を出た当時からは想像もできない話だ。坊は即日に帝都へ帰るらしい。どうやら大陸と欧州がにわかに騒ぎ出しており、次はいつこの地に戻れるか分からないため、無理しても帰ってきたらしい。妹が彼の許嫁となっていたのは、村にいた頃の話だ。一度は流れた話だったが、お偉いさんとなればこちらも有り難い話だ。半時で慌ただしく準備をし、婚姻の契りを結ばせると、妹は夫と共に帝都へと発った。泥くさい妹が都会で暮らせると思わないが、これで春までの食糧に余裕ができたのは、こちらとて幸いだ。
明治○○年2月12日
昨日大本営が設置されたと憲兵がわざわざ伝えに来た。露国への宣戦布告をしたらしい。万歳。
清に大勝したことを思い出す。若き日に倒幕へ参加したと自慢する父曰く、正月に次男坊はこれを言っていたのだという。
まだ村の衆も私も戦争が始まった実感はわかないが、熱心なことに憲兵から名簿片手に確認を受けた。内容からすると、動員をかけることを陸軍は考えているのか。
弟からの手紙はないが、近く出征をするかもしれない。酒を今の内に集めておくように頼んだ。
明治○○年3月10日
末の弟が数年ぶりに家へ帰ってきた。出征前の休みという。士官の計らいで、岐阜の行軍に合流する。
やはり大騒ぎとなった。酒を蓄えていてよかった。村中をあげての奉りとなった。休耕中、提灯づくりの内職をしていた甲斐もあったと衆も笑っている。
明治○○年5月3日
今朝は憲兵が早朝から連れ立って揚々とやって来た。
用件はわかっていた。すでに動員を備えて、今期の村の植え付けを早めに済ましている。祭りも細やかにしたのも幸いした。分家の若い衆も備えていた。
母にはこそりと親の気持ちを話している様子だが、当人は親の気持ち、子知らずという様子だ。しかし、良い酒であった。
明治○○年11月27日
覚悟をしていたが、やはり悔いる。
末の弟が帰ってきた。負傷した分家の四男が遺品を届けにきた。脚気の悪化と利き腕側の肩を撃ち抜かれた。今後の講演活動で内地での奉仕が予定されている彼の名誉の為、憲兵は言葉を選んでいたが、つまり負傷して戦力外通告となったらしい。
父が久しぶりに人前で激昂した。おかげで私が家長として寡黙にいられた。明日、集会所で戦地についての公演を行うという。父は出ないと言うが、私が出るのだから問題ない。
明治○○年元旦
喪に伏した正月である。
帝都の妹から昨年中に出した手紙が届いた。彼女も元旦に届くとは思わなかったようだ。
すっかり馴染みになった憲兵も家長の私に直接の面会に来た。本家の父や母の機嫌を損なうのは、戦時下の今、彼らにとって内地の厄介毎となると判断しているらしい。明治生まれと幕末生まれの違いは、こういう時に顕著になる。対して、日増しに同じ明治生まれの私には強気になるのだから、彼らは面白い。
明治○○年1月18日
まだ手が震えている。悪夢だ。目覚めた。
明治○○年1月19日
まだ頭の整理がつかない。陸軍が来た。もう大丈夫だ。
明治○○年1月20日
神の怒りが鎮まり、森は静まった。
人の敵う相手ではなかった。
明治○○年10月7日
戦争が終わり、私も落ち着きを取り戻し、あの惨劇のことを整理できるようになってきた。
生き残った者達の幾人かは、再び私と共にこの地で生きることを決めてくれた。こうして家で書き物ができることに、彼の日のことを口外しない約束ですべての支援を行ってくれた陸軍に感謝しつつ、彼の日のことを、家族の本当の最後を妹にも話すことができないことを悔いる。家は分家の生き残った小僧、新三を養子にしたことで絶えずに済むだろう。新三は齢十。学校にもあまり通っていなかった末席の家の末息子。これまでの本家のようにはいかぬだろう。
しかし、次の代を憂いでも仕方のないことだ。妹の子孫がこの地に帰る時が来るかもしれない。淡い期待だ。
陸軍との約束があり、彼の日のことを口外できぬ。憲兵も眼を光らせている。故に、これ以後に記すことは凡て我が犬山家本家の門外不出のものとし、家長を継ぐものは如何なる厄災、戦禍に曝されようと、人目に触れさせることを禁じ、百年の後の代を継ぐものに託す。
また、この記の必要を教えた松田氏に感謝を忘れぬこと。
あの朝のことは忘れない。1月18日の朝のことだ。朝の支度を女達が行う音を聞きながら、私は日課の素振りをしていた。幕末に満足な志士となれず、農民武士のなりそこないとして参加した若き日の悔しさからか、はたまた清との戦の煽りを受けた為なのか、父は幼い私を剣の門下へ入れた。鍬の使い方や戦時下での米相場の上下の見方を習うなら兎も角、刀を習ったところで、門下を出てからこれまで使った試しは一度もない。しかしながら、朝の日課に今も尚、素振りだけは続けている。
そんな折のことであった。地面が揺れ、山が轟いた。
始め、私は地震とすら思わなかった。地震はこれまでにも経験をしているが、それとは音がまるで異なっていた。何か想像を絶する出来事が起きたのだと思った。
雪がポツリポツリと振り始めた冷えた外に、女達や子ども達が家の中から飛び出してきた。聞くと、箪笥や食器が崩れ、妻が手を怪我していた。
庭は母屋の瓦が飛び散り、蔵は土壁が崩れ落ち、離れは紙のように潰れていた。
更に、追い討ちをかけるように、揺れと地響きが起きた。目の前にある山が崩れていた。墓地や祠がある山だ。あの麓には墓と祠を守る家があった。
父が青ざめた顔で、私の腕を掴んで叫んだ。
「岩噛巳様だ! 岩噛巳様が起きた!」
そして、父は村の衆を集めて村から離れるように言うようにと、私に命じた。
私はにわかに信じられなかった。それどころか、地崩れを見て父は気違いになったのだとすら思った。今に思えば、すべて父の言ったことは正しかった。私も村に伝わる岩噛巳のことは、幼少からずっと聞いていた。寛政の頃、目覚めた岩噛巳がかつての村を全滅し、唯一生き残った者が犬山家本家の、私の祖先になるという伝説だ。しかし、他の多くの明治生まれの村人と同じく、私も地崩れで全滅し、藩が他所から寄越した者達を束ねる為に、当主となったその某が騙った武勇の類だと思っていたのだ。
その後も不規則に地崩れは起こり、村の山際に暮らす家は次々に巻き込まれ、村の三割の者が一日で死んだ。皆、老人と女ばかりだった。
夕刻には、地崩れの報せに走らせた分家の若者が憲兵と衛生兵を連れて戻ってきた。惨状に形式的な悔やみの言葉を言い、村の衆を一つに集め、物資を集めさせた。覚悟はしていたが、戦時下であり、新たな師団をつくり、動員をしている中、陸軍に内地の地崩れ、しかも田舎の村の一つにこれ以上の人は出せないのだ。
そして、恐らくあの段階は、不平や人員不足などの戦況の不振を国民に抱かせる類の話を流布させぬように憲兵が救援に駆けつけたのだ。
繰り返された地崩れも、誰しもがこれ以上続きはしないだろうと考えていた。しかし、地崩れ以上の禍が私達は遭う。
地崩れから免れた本家の前で火を起こし、無事な家屋に寝床を拵え、食糧をつくり、やっと生き残った者達が一息ついた。そんな日の落ちた後の頃のことだ。これまでの地崩れや揺れとは全く異なる轟きが山々にこだました。
グガガガゴゴゴオン、という音。大地の腹が空かせて音をたてたのか、はたまた山の底が砕け散ったのか。この世の終わりと誰もが感じるおぞましい轟音が、私達の体の芯を震わせた。実際、直立不動であったまだ若い憲兵の一人は、腰を砕けたように地面に座り込み、股間から湯気を立てていた。
後に、それは彼の者が岩を食み、その強大な力で大砲ですらも割ることのできないような硬い岩を噛み砕き、粉々にする音であったことを私達は知った。つまり、穀物を私が奥歯でギリギリと噛むのと同じことをしていたのだが、とてもそれを同じと思うことは今でも尚、信じられない。
そのおぞましい轟音を耳に、否、体に響かされながらも、私や屈強な憲兵達は音の出所を目で探った。しんしんと降る雪の夜は、心底暗いが、その闇の山間にぼんやりと大きな影が動くのを見つけた。
村の娘の誰かが悲鳴を上げた。そして、その良く通る声は彼の者の耳にも届いた。ドシン、ドシンと地面を揺らし、巨大な山のような影が私達の方へと近づいてきた。
遂に、かがり火に照らされ、彼の者が暗闇の中に現れた。
私は見た。確かに岩を噛む生物だ。
それは田畑を踏みつけ、本家の家屋を踏みつけ、私達は成す術もなく逃げ出した。遠ざかるに連れて、その姿の全てが私の目にも捉えることができるようになった。まるで炭のように黒く、岩のようにゴツゴツとした肌に包まれ、目も、鼻も、耳も何処にあるのかわからないが、巨大な口が開いては口の中の岩を砕いていることだけははっきりと見えた。まるで牛が何度も草を食むようだった。
そして、影の全てがわかった。真っ先に頭に浮かんだのは、沼にいる亀だ。甲羅を背負い、四つの太い足、太い尾、そして周辺を見渡すように伸びた首。小便を漏らした憲兵の若者は学があり、伝説上の生き物の玄武だと言っていた。しかし、村の者の誰もが彼の者を岩噛巳様と呼んでいた。
その夜、気ままに村を横切り、家々を押し潰して行った岩噛巳は、山間へと歩いていった。
屈強の憲兵は、我に返り、拳銃を何度も岩噛巳の後ろ姿に撃っていたが、最早岩噛巳の大きく硬い体に傷を付けることも叶わなかった。
朝を迎える前に、屈強の憲兵は至急の連絡を陸軍へ伝えに走った。若い憲兵の話では、彼はこの地域全体を任されている立場の者だという。
朝日は私達に生きていることを教えた。あの朝焼けは一生忘れることはないだろう。
岩噛巳もその日は動かず、時折近くの岩を食んで、あの大きな音を響かせ、私達を恐れさせるに留まっていた。私達は身を寄せ合い、寒さを耐えながら残された食糧を分け合って凌いだ。若い憲兵も衛生兵も共に食糧を分けた。
夕刻、街道の方から村へと続く道に光の筋が近づくのを目にして、私達は涙を流しながら喜んだ。何故なのか、今になってはわからない。しかし、救われたと思ったのだろう。
憲兵は、岐阜の街道で大砲を四門も曳いて行軍中であった一個中隊を引き連れたのだ。既に地崩れの一報は陸軍に伝わっており、師団に動員する為に行軍中の中隊に村近くを通るようにと命ぜられたらしい。
中隊長は、大尉と呼ばれており、私にも挨拶に来た。私よりやや年上のその男は挨拶もそこそこに岩噛巳の動きとこの土地の地図を速やかに用意させた。寡黙ながら、発する言葉は求めるものであり、混乱していた村の衆も、憲兵達も彼の一言で我に返された。
「岩噛巳なるものが如何なるものかを考えるな。家や人、田畑、家畜を奪った敵がいる。ならば、我らに選ぶ贅沢が与えられたのは二つ。逃げるか、戦うかだ」
大尉がまともに衆の前に立ち鼓舞したのはこの只一度だった。それで十分であった。村の総意は決死戦であり、私に委ねられた。勿論、陸軍中隊の応援を得て、私は負けることなど微塵も思わなかった。
大尉はそれを私が伝えにいくと、寡黙に頷き、手早く四門の大砲を本家近くの休ませてい畑に大きく配置した。丁度岩噛巳のいる山と祠のあった谷を繋ぐように弧を描く。これは村の周辺如何なる場所にも砲弾を撃ち込める配置であった。
大尉は各長からの報告を受け、彼自身は本家の跡地に本陣を構えた。
大砲は野砲といわれるものらしく、10人ほどが一砲に対してついていた。更に銃や火薬をもった隊列が山に詳しい村の者を一人ずつ連れて、岩噛巳のいる山へと入った。
大尉は夜がふけ、雪がやんで月が現れると、狼煙をあげた。戦いが始まった。
そして、岩噛巳のいる山で地崩れの起こる音が立て続けに聞こえてきた。大尉のいる本陣に村の長として立ち会う私は、咄嗟に大尉を見た。彼は静かに笑みを浮かべ、旗を持つ手を上げた。そのあげ方を見て、士官が次の狼煙を上げる。つまり今の地崩れは岩噛巳でなく中隊の攻撃であったのだ。
生き残った山に入った村の一人曰く、共に歩いた下士官の話では、雪山で雪崩れを意図的に起こす術があるらしい。そして、山を案内させて、その場所を決めると火薬を撒き、狼煙を見て火を放って地崩れを起こしたという。
そして、岩噛巳は地崩れに巻き込まれ、足掻きながら、地中から這い出てきた。
山の手前に配置されていた兵隊達が一斉に岩噛巳へ銃を放った。立て続けに銃の音が山に響き、恐らく弾の雨を受けている岩噛巳は土の中から出てくると、真っ直ぐ村へと歩き始めた。足音が地面を揺らし、山々に轟き、鳥が一斉に飛び上がった。
恐らく鳥は察したのだ。岩噛巳が売られた喧嘩を買い、怒り始めたことを。
兵隊達は怯むことなく弾を撃ち切ると、一斉に蜘蛛の子を散らす。そして、真っ直ぐ村へと走る兵がたき火に何かを放り込む。狼煙が上がった。
大尉は頷き、旗をふりかざした。
大砲が火を吐き始めた。砲撃の順番は事前に伝えられていたらしく、指示を待つことなく彼らは手際よく動くのが遠目に見えた。
第一弾が岩噛巳の頭に着弾した。流石に大砲の弾を頭上に受け、岩噛巳は拳骨で殴られた小僧のように首をすくめ、頭を下げる。
「やはり硬いな」
大尉が呟いた。崩れた家の壁に貼り出した地図を確認しながら、大尉は士官と話す。互いに頷き合う。
その後も大砲は明らかに節約をしながら、一発放ち、そして歩兵が銃弾を放ちながら後退する。三列になり、一発放ち、後退を繰り返す。それは特定の方向に誘導していることは明らかだった。
そして、村の地図を頭に浮かべ、私は大尉の考えに気がついた。大きく展開された四門の大砲は、大きな沼を囲っており、その沼へ岩噛巳を落とそうと誘導しているのだ。
その作戦はまもなく成功し、岩噛巳の大きな体は沼に足を取られて動きが鈍くなった。
この好機を逃さなかった。四門の大砲は一斉に火を噴いた。岩噛巳の立てる音に負けない程のドオン、という音が山々に轟いた。煙が周囲に広がり、まもなく砲弾は岩噛巳の体に爆ぜた。
更に、次の玉を詰める間に先程まで散り散りになっていた兵達が、弓を構える。矢には縄が括られている。更に石を結びつけた縄を回す。そして、一気に矢を放ち、投石が飛んだ。空を舞った無数の縄は、まるで蜘蛛の糸の様に広がった。
縄は岩噛巳のゴツゴツとした体に絡まり、その縄は地面に打ち込まれた杭や木々に結びつけられる。網に捕らわれた獣の様に岩噛巳がもがくが、無作為に無数に張り巡らされた縄は外れるどころかより一層に岩噛巳の体に絡まり、捕らえる。
大尉は再び旗を振った。
再び四門の大砲が一斉に放たれた。今度は岩噛巳の足に当たる。火花が光り、煙が風に流れる。
岩噛巳が足を撃たれて、地面に崩れる。地面が揺れ、大きな音が響く。
「倒れたぞ!」
思わず誰かが声を上げた。ジロリと大尉はその方向に睨みつけるも、何も言わず、すぐに次の作戦を士官に耳打ちしている。
伝令の兵が走り、順番に大砲の角度が変えられていく。その間も岩噛巳は縄を取ろうともがく。
そして、更に大砲が一斉に放たれた。今度は岩噛巳の頭部を同じに四発の砲弾が襲った。硬い体は砲弾ですら殆ど傷をつけることは叶わなかったが、頭に四発の砲弾を同じに受けるのは、私が木刀で殴られることにも勝る力だろう。岩噛巳は目を回し、首を大きく回しながら地面に降ろし、頭を地面につけた。その揺れが起こる。
私達は一斉に歓喜の声を上げた。
勝ったのだ。大日本帝国万歳。万歳。
大木の様に太い首を見ながら、私達は手放しに万歳をしていた。しかし、大尉だけは冷静に旗を上げた。士官も我に返り、慌てて兵達に次の砲撃の準備を指示する。皆、とどめの一撃を加えようと揚々としていた。
ただ一人、大尉だけはやはり地図を睨みつけ、険しい表情をしていた。
柄にもなく笑顔を振りまく憲兵は、「慎重過ぎる士官は出征も出世も遅い」と私に耳打ちする。確かに、素人の私でもわかる見事な指揮、采配にも関わらず、大陸の戦線でなく今も内地の予備師団に動員される中隊長というのは不思議に思った。成程、寡黙な彼は陸軍の出世に遅れ、戦果の出せない内地に配されていたのだ。
しかし、私は大尉がどれ程に優れ、冷静でいたのか、正しくわかってはいなかった。否、大尉以外の誰もが勝ちを確信していたのだ。
だが、その確信がほんの一時の夢であったことに大尉以外の者達が気付いたのは、すべてが手遅れとなった後であった。
地面に倒れた岩噛巳の頭部の中心にある平たく大きな鉱石のようなところが淡く光を帯びた。それが私達の目のようなものだということは、後に村へ来た松田氏の談だ。
一瞬、私も兵達も身構えたが、身構えるのでは遅かった。
岩が砕けるような不気味な音を芯から立てて岩噛巳は首を、体を大きく起こした。周囲から分厚い布が破けるような音が次々に聞こえ、悲鳴が聞こえてきた。そして、こがらしが空を切り裂くような音と、ものすごい勢いで飛んでいく木々。岩噛巳を捕らえていた縄を引き、打ち付けていた杭どころか、結びつけた木の根ごと引き抜いたのだ。矢のごとく凄まじい勢いで飛び交う木々と縄に巻き込まれた衆は、如何に屈強な陸軍の兵達であってもひとたまりもなく、中には縄に胴を抉られたまま引き摺られて、遂に二つに分けられて死した者までいた。
岩噛巳の体内から轟く不気味な音と人々の悲鳴、そして空を飛び交う縄と木々のブオンブオンという音が響き渡るその光景は、地獄としか言い表せなかった。
兵達は地面に血だらけで倒れ、無事な者も恐怖に悲鳴を上げて逃げ惑い、私も腰が抜けてその場で震えながら、しかし目を逸らすことすらできずにいた。私が命を奪われなかったのは本当にただ運良く私のいた場所に木々と縄が通らなかっただけだ。立っていれば縄の餌食になり、少しでも場所が違えば地面に叩きつけられる木々の下敷きになっていた。或いは、飛んでくる杭に串刺しとなっていた。
その地獄の中心で岩噛巳は、沼から這い出て、田畑をズシンと踏み締め、私達を虫けらのように見下ろしていた。その圧倒的な恐ろしく大きな影は、岩噛巳を神として崇めた理由を私にまざまざと思い知らさせているようだった。
そして、神を私達は怒らせた。天誅は私達に下された。
それからの岩噛巳と陸軍は、もはや戦いと呼べるものではなかった。童が蟻の巣を見つけ、穴をほじくり、巣を守ろうと立ち向かう蟻の戦士達を指で押し潰し、足で磨り潰し、穴の奥に守られた巣の子らすらも一片足らず残さず殺し尽くす。あれと変わらない。
大砲や銃に込められていた弾を放つ者達もいたが、秩序のない攻勢は守りにもならない。むしろ岩噛巳を一層に怒らせ、真っ先にその者達から襲われた。兵達は飛び交う縄やその巨大な足で蹴り殺され、大砲すらも一蹴りで壊され、鍛えた兵達が何人もの力で牽いていた砲が、一田、二田も先に吹き飛んでいく。その砲が落ちて家や村の衆も巻き込まれて死んでいく。
私は諦めた。岩噛巳はこの山々の神であり、神の怒りは私達を全滅させ、村を消しきるまで鎮まらない。抗うこと、勝つなどましては畏れ多いことだったのだと。
しかし、ただ一人だけ諦めていない者がいた。大尉だ。
無事な兵を地獄の最中に走り回り集め、壊されていない大砲に集める。すでに使われた後で弾が入っていないのを、その場で弾を拾い、充填させる。寡黙であった大尉が声を出し、一兵一兵に指示をし、兵達も言われるがままきびきびと動く。早かった。大砲の充填を瞬く間に終らせ、大尉は大砲の後ろに火を放った。そう、崩れた私の家だ。燃え盛る炎は岩噛巳を引き付ける。更に、大尉は腰に下げた刀を抜き、声を張り上げた。
「岩噛巳よ! 神と呼ばれし者よ! 我はこの中隊を率いる大尉! 露国との戦の地へ赴く道半ばだが、必死の覚悟で貴様とまみえる! 我の背には錦を背負う官軍にある! 古き神は眠りにつくがよい! 覚悟!」
岩噛巳が真っ直ぐ大尉と大砲に向かう。大尉は震える兵達に片手で制する。まだ撃つなと。
そして、もう一方の手が握る刀の切っ先は岩噛巳を捉えている。
迫り来るあまりにも大きすぎる敵に、火を持つ兵の手が震える。
「まだだ。腹をくくれ」
岩噛巳へ突きつける刀の刃のように鋭くも澄んだ低い声で大尉は言った。兵達は背筋を伸ばす。
そして、岩噛巳の大きな頭が眼前に迫るその瞬間、大尉は制し続けた腕をふるい、叫んだ。
「撃テェェェーッ!」
それはあまりにも短い間に起きた出来事であった。しかし、私は見た。
大砲は火を噴き、放たれた砲弾は目の前に迫っていた岩噛巳の頭にある平たく大きな鉱石に当たり、そこにヒビが入る。そのまま岩噛巳は、頭から大砲へと突っ込んでいく。そこに刀を構えた大尉が刃をヒビの隙間に突き立てて、そのまま飛びかかる。刀を両手で掴み、自らの重みも加えて、刃を深く突き立てる。しかし、硬く、そして勢いをもった岩噛巳の頭はその鍛えられた刃を砕き、大尉もろとも地面を走る。大尉は刃が砕け、岩噛巳に押し潰される直前、私の目には笑っているように見えた。瞬きをするほどの短い間のことだ。見間違えだろう。しかし、私はこの目で見た大尉の笑みが忘れられない。その笑みは「見たか、岩噛巳。一矢報いてやったぞ」と言っているように見えた。
そして、大尉はその体を完全に潰れるほどの壮絶な最期を迎えた。その命がけの刃は私のいる後方を振り返った岩噛巳に確りと残されていた。砕けた刃の切っ先はヒビの隙間に深く埋め込まれ、炎や月明かりにキラリと輝いたのだ。
岩噛巳はそれからしばらく悲鳴を上げる村の衆に向かって暴れまわり、残された家屋も殆どを壊しつくした。
やがて朝日が昇り、地獄の夜が終わりを告げると、岩噛巳も祠のあった谷へと向かった。そして、姿が見えなくなると、遂にあの不気味な岩を噛む音が聞こえなくなり、山々はしんと静まった。
これほどにこの村は静かであったのかと呆然としながら私は思った。次第に耳が慣れ、家の燃え残りがパチパチと鳴っていること、木々のざわめき、風の音、生き残った者達の呻き声や嗚咽、鳥達の声が聞こえてきた。
二日間で村は滅んだ。私の家族は、父も母も子も妻も兄弟も皆死んでいた。他の村人も同じような状態で、家を盛り返すことのできそうな者は数名であった。新三と出会ったのは家族の見るに耐えない姿となった死体を前に涙を流しているところであった。彼は血だらけになった服でやはり泣きべそをかきながら、潰された分家の家屋の中から這い出てきた。
陸軍中隊も生き残った者は十数名であった。大砲はすべて壊され、士官も少尉一人だけが生き残り、後は山にいた下士官率いる兵達と負傷しながらも生き長らえた兵達であった。士官も足を折ったらしく、まともに歩けない状態であった。あの若い憲兵も見つけた時は息があったが、腹を杭に貫かれ、まもなく息絶えた。屈強なもう一人の憲兵も潰された死体の中から服が見つかった。衛生兵も中隊の者と合わせて二人だけが生き残ったが、一人は心をやられたらしく、まともに包帯を巻くことすらできなかった。
心をやられたのは、村の者も兵も関係なかった。私もその一人であり、夜は眠れなくなり、聞こえるはずのない音が聞こえることやあの日の恐怖が唐突に思い出されて声を上げることも一度や二度ではなかった。
それでも何とか気を狂わずに新三と共に村へ残り、陸軍が家を建て直してくれた。
そして、今こうして筆を取り、次に岩噛巳が目覚めた時の為に記した。願わくば、次は岩噛巳の怒りに触れぬようにくれぐれも気をつけて欲しい。
犬山政蔵