『名探偵』混沌の現




 森の中は冬でも落葉しない樹木が多く、枝葉の上にも雪が薄く被っている為、薄暗かった。
 地面にも凍った霜や雪が積もっており、雪掻きされていないペンションの裏のような深い新雪は無いが、表面が溶けかけた地面は、踏むとシャリシャリと音がし、そして滑りやすい。
 探貞も何度か足を滑らしかけ、周囲でもシャリシャリという足音に混ざって、誰かの「うわっ!」や「きゃっ!」という声が何処からか聴こえてくる。
 背の低い木や朽ちた倒木などがあちこちにあり、人の手が長いこと入っていなかった林の中は、方角どころか互いの位置すらもわからなくなる危険な場所だった。
 いつ自分が遭難するかわからない危険を感じながらも、椎名の向かった方角へ走る。探貞の脳裏に警告が鳴り響いている。このままでは、椎名も被害者になると。
 しかし、それは現実のものとなった。

「きゃぁぁぁぁぁぁーっ!」

 女性の悲鳴が木々の先から聴こえ、山々をこだまする。
 探貞は声の方角へ木々を払いながら進む。
 数人の人影が見えた。

「あぁ、無事だったか」
「関口さん、高田さん、康介君。……え?」

 関口が探貞が近づくと声をかけてきた。彼が関口達三人の元に来ると、関口は黙って指を下に向けた。
 彼らの足元は地割れでもしたかのような崖があり、地面には誰かが足を滑らせた跡が残っていた。

「救助に行きたいが、この斜面をどう降りればいいかもわからないし、動かないんだ」

 高田は下を見下ろしながら言った。
 探貞も恐る恐る崖の下を覗き込むと、崖の下、雪で真っ白になった底に椎名が倒れている姿が見えた。
 フードが被さり、顔が見えないものの、血が周囲に広がり、真っ白い地面を赤く染めている。建物の三階や四階分の高さは十分にありそうに見える崖から滑落して大量の出血を頭部から流して倒れているのだ。助かる可能性は極めて低い。

「丁度、目の前で滑ったんだよ」

 高田が口を開いた。
 探貞が顔を上げると、高田と康介が頷いた。

「俺が駆けつけたら、二人が青い顔をして立っていたんだ」

 関口は苦い顔をして言った。
 まもなく、出井、麻倉、榊原、飯沼と順に合流した。
 出井がロープを使えば、安否を確認しに行けるかもしれないと言い、一度ペンションに戻ることになった。
 ペンションの位置は意外にも茂みを越すとすぐに見え、まっすぐ歩くと例の焼却機の近くに出てきた。
 どうやら、大きく曲がっていたらしく、実際にはペンションのほぼ裏にある崖であった。






 

「救急セット、これで応急処置には足りるはずです」

 康介と麻倉が倉庫から取ってきた救急箱とガムテープ、タオル、バッテリー用の水を受け取ると、出井は自分のリュックサックを空にしてそれらを詰め込んだ。榊原の部屋から回収したロープも巻き、カラビナでリュックサックに繋ぐ。
 探貞はオーナー室でマニュアルのファイルをひっくり返し、中から周辺の地図を見つける。確かに、ペンションの裏は崖があるので注意するようにと赤ペンで書かれていた。そして、よく見ると、ペンションの正面の道から迂回すれば崖の底へ出られそうであった。
 すぐさまそれを出井に渡した。

「ありがとう。これなら崖を降りずに回り込めそうだ。この場所にも残っている人間が必要だ。万が一も考えて、三、四人で向かった方がいい。あの怪物のこともある」
「そうですね。それで、誰が残りますか?」

 高田が聞くと、出井は首を振った。

「ここは向かう人間を選抜した方が早い。まず俺。そして、その医者の卵。あと高田さん、あんたも言った方がいい。後は残れ」
「僕も一緒に行かせてください」

 探貞が進言するが、彼は首を振った。

「あんたは須藤殺人の第一発見者だ。確かに、関口さんや麻倉さん、それに椎名さんもあんたを信用している様子だったが、俺はあんたを信用できない。本当にあんたが小説やドラマの探偵役ができるんだったら、さっさと犯人を捕まえてみせろ!」
「っ」

 出井の言葉に探貞は何も言い返せなかった。
 そして、出井は二人を連れ立って外へと出ていった。
 止めないといけない。探貞はわかっていた。止めないと更に人が死ぬとわかっていた。
 しかし、それを引き留めるだけの自信が彼にはなかった。犯人が何のために殺人を犯したのか、それ以上にこんな偶然のような状況の中で計画的な犯行ができるのか、すべてを繋げると辻褄の合わないことが出てくるこの連続殺人事件に、探貞は食い止める術が見つからなかった。
 がっくりと膝を床に突き、閉まる扉を眺めていた。

「迷さん、出井さんの言い方はよくなかったと思うわ。気にしないで」

 麻倉が探貞に寄り添って声をかける。
 彼は頷き、ゆっくりと立ち上がる。

「すみません。ありがとうございます。……本当は大体の謎がわかっているんです。でも、それを言葉にすることができない。事件が解決できないんです」
「いいじゃない。解決できるなんて、名探偵じゃないんですから、迷さんの思うことを言ってみてくださいよ。それが本当なのか、偽りのことなのかなんて、私にだって多分わかりませんよ。名探偵は真実をすべて解けるかもしれないですけど、迷さんがそれをする必要なんてないんですから。それは後で警察が調べますよ。だって、それが警察のしないといけない仕事なんですから」
「………」
「ん?」

 探貞は呆然と麻倉の顔を見つめていた。
 彼の中で彼女の言葉が、黒い靄に包まれていた彼の頭の中に光となって広がっていく。
 段々とすべての謎が解けている。そして、次第に彼の目が輝き始める。
 そして、彼は笑顔を麻倉に向けて、こう言い放った。

「……そうか、わかった!」

 驚く麻倉に笑顔で微笑み、関口、榊原、飯沼に向かって彼は口を開いた。

「急いで彼らの後を追いましょう! 彼らの命が危ない!」
「それはどういうことだ?」
「犯人がわかったのか?」

 飯沼、関口と疑問を言うと、探貞は力強く頷いた。

「はい」
「それは、誰なんですか? 誰が、栄子を?」

 麻倉が問いかけた。
 そして、探貞は吸った息を吐くと共に言った。

「犯人は、犬山康介君です。いや、正しくは康介君と呼んでいた彼です。しかし、彼の命もまた危ないんです!」

 探貞の言葉に一同は驚く。
 彼の導きだした事件の真相は、康介に成り済ました別人が犯人であるというものであった。






 

「ぐはっ!」
「な、何を……」

 呻き声を上げて倒れた出井とその光景に恐怖と驚きが混在した表情で立ち尽くす高田は、出井の胸からたった今引き抜いたばかりの血が滴る包丁を握る康介を見つめていた。

「見ればわかるだろ? これで四人目だ。高田さん、動くなよ? あんたを俺は殺したくない。そのまま大人しく両手を上げて後ろを向け、そして地面に伏せろ」
「わ、わかった」

 康介の包丁は高田にまっすぐ向いている。歩いている最中、突然服の中から抜き出した包丁で出井の胸を突き刺し、高田は何が起きたか、始めは全くわからなかった。
 そして、その躊躇のない動きは、高田が無抵抗で彼の言いなりになるには十分過ぎるものであった。
 高田が後ろを向いて、地面に伏せたことを確認すると、康介は素早く茂みの中へと走った。
 予め木の枝に結び付けた印の糸を確認しながら康介は走る。
 そして、これまでの記憶が彼の脳裏に過った。

「ふふふ、すべて上手く言った!」

 思わず声に出してしまった。慌てて口紡ぐ。高田に聴かれ、自分が犬山康介でないとバレたらすべてが水の泡となってしまう。
 “彼”は、探貞の推理通り、犬山康介ではない。都内にある医学部に通う少しばかり裕福な家庭に育った大学生だった。“彼”は幼少から異常な性癖、感性が自信にあることに気づいていた。逆に、平穏に暮らす周囲や日常に対しての退屈、そしてその退屈に対しての苦痛を感じ続けていた。
 “彼”が医学部を志したのも、単に学業が優れていたことだけではない。しかし、人を救いたいとか、医療の発展を考えるなどの崇高な想いは全くなかった。“彼”が医学部を志した理由は、外科医になれば人を堂々と切り裂くことができるから。実験と称して、研究用のマウスなどの動物をナイフで切り裂いた。しかし、“彼”は無作為に刃物を生き物に突き立てても、自分の欲求が満たされるものではないと気づいた。
 “彼”の求めたものは、美しい殺し方だった。美しく生きる生物を、最小の一突き、一刺しで殺めることで満たされるものであった。
 しかも、愛した生き物でないと満たされなかった。長年愛した犬をある日、一刺しで殺した。剥製にできるほどに綺麗な愛犬の死骸に、“彼”は初めて幸せを感じた。
 それから数年間、“彼”は新たな苦痛を知ってしまった。“彼”の欲望は決して満たしてはいけないものだったからだ。
 “彼”は異常な性癖と感性を持つと共に、非常に強い理性を持っていた。愛犬の殺害も、愛犬は認知症と内部疾患を患い、生きることが苦痛であると家族も知っていた。だから、“彼”は動物の安楽死を行う所へ託すと家族に説明し、連れ出して犯行に及んだ。動物を残虐に殺すことは“彼”の理性の為出来ず、マウスも実験と称して初めて行うことができた。
 つまり、究極の願望である愛した人間を殺すことは、法律と社会が犯罪を認めないことを理解してしまっている“彼”の理性が絶対に許さなかったのだ。それ故に、所謂異常犯罪者の仲間に“彼”は永らくなれずに、医学部の道を進むことで誤魔化していた。
 しかし、現代医学は例え外科医でもそうそう人をメスで刺すことはなかった。勿論、解剖や外科手術の立ち会いでその姿を希にみることはあったが、現代の医療の主流はチーム医療、そして患者負担の少ない手術であり、カテーテル手術の演習などがカリキュラムには書かれていた。
 “彼”は空想した。仮に正体を隠す術があり、安楽死をさせる医者に慣れれば、夢は叶えられると。しかし、海外の安楽死も薬物死であり、日本は安楽死も殺人となる。あくまでも空想でしかなかった。
 そんな折、“彼”は一人の女性を知った。アイドルの鈴木栄子だ。すべてが“彼”の描いた愛した人間のイメージ通りであった。瞬く間に“彼”は栄子のファンになった。しかし、“彼”は決して彼女のイベントや彼女の関係者に見つかるような行動はしなかった。それは“彼”の理性と感性、そして優れた頭脳の成せるものであった。
 いつか“彼”は自分が彼女に対して、犯罪となるような行動を、理性を超えて起こしてしまう時が来ると予感していた。その時、自分の存在を知られていたら、自分は社会から犯罪者とされてしまう。それを避ける為、“彼”は栄子を密かに愛し続けた。
 最初に“彼”が理性を超えて彼女に行動を起こしたのは、手紙を送ることだった。差出人を架空のものにし、文字をパソコンで印刷し、熱烈な思いを認めた。
 しかし、問題があった。これでは彼女の反応、返事を受け取る方法がないのだ。“彼”は悩んだ。
 一度、警察に通報されないだろうギリギリの過激な内容で手紙を出した。ブログなどを確認し、彼女が反応を示すか調べたが、全くそれらしいものはなかった。盗聴器も用意したが、それを使用すると犯罪になり、バレてしまうとその先が進めなくなってしまう。
 “彼”は悩んだ。苦しんだ。そして、友人に栄子の事務所への宅配のバイトをしている者を見つけた。“彼”は天性の才なのか、その異常性を隠す術として身につけたのか、演技力に優れており、友人はとても多く、皆“彼”を明るく社交的な人と評していた。それ故に、“彼”は栄子のファンであることを巧妙に隠し、友人の宅配を代わりに行うことの成功した。そして、栄子の所属事務所へ行くチャンスが巡ってきた。栄子宛の荷物に紛れ込ませて、“彼”は用意した手紙を届けた。
 しかし、その場でそれに気づかれず、事務所のスタッフはそのまま棚の上に荷物を置いて終わってしまった。
 “彼”はこれ以上宅配のバイトを代わるのは危険だと判断して、友人にバイトの交代を断った。
 それから一ヶ月程たった昨年の冬、突然“彼”のメールアドレスに知らないフリーメールアドレスからのメールが届いた。そこには、“彼”がこれまで送った手紙が書かれており、更にそれを批難するのではなく、協力したいという旨が記されていた。
 そう、“彼”の願望に対する協力だ。メールの人物は、既に“彼”の身辺を調べた後であるらしく、“彼”の正体も本性も知っている様子だった。どのようにして“彼”の素性や詳しいことを調べたのかはわからないが、メールの人物は“彼”に取引を求めた。
 始めはその取引の内容があまりにも荒唐無稽に見えて尻込みしたが、その内容、いや犯罪計画は成功した場合、“彼”の犯行でありながら、“彼”でない人物、つまり犬山康介という人物の犯した殺人となる完全犯罪の計画であった。しかし、信じられない内容も含まれていた。岩噛巳なる存在が携帯電話を使えなくし、ペンションを陸の孤島にすることができるという。あり得ないと思いつつ、他の内容は完璧に見えた。できるかもしれないという可能性が“彼”の願望、欲求を高め、理性を超え始めた。
 年が代わり、三賀日明けの朝、犬山張介が入院し、代わりにペンションのオーナー代理を任された犬山康介と入れ替わることができると指示されたペンション近くの洞窟に“彼”は向かった。
 洞窟に入ると、すぐにメールの主が本気であることを“彼”は知った。そこには犬山康介の死体が転がっていた。
 そして、“彼”は指示通りに犬山康介の死体を処分した。この行動によって“彼”の理性が弱まった。メールの主は試したのだろう。または、“彼”に殺人の抵抗を弛める、麻痺させる為に、犬山康介の死体処分を任せたのだと“彼”は解釈していた。恐らく事実だろう。
 そして、康介となった“彼”は数日間で康介の役割と知識を蓄えた。後は、探貞を迎え、事件決行の時を迎えた。
 すべてを完璧に終えた。後はこの予め作った逃走経路で山を越えて逃げ切れば事件の犯人は、とっくに死んだ犬山康介として手配される。そして、数年後に犬山康介の白骨死体が発見されれば事件は被疑者死亡で送検され、“彼”の完全犯罪は完成する。
 “彼”は、笑みを隠すことができず、笑ったまま木の枝に付いている糸を確認する。次は左だ。

「!」

 “彼”の体は宙に浮いた。落ちる。落ちる。そして、頭が鈍く響いた。痛みが遠くに消えていく。そして、視界が白く曇る。そして、意識が遠退く。

「あぁ……あぁ………」

 そして、“彼”の意識は消滅した。
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