惑わす絵
翌朝、吾郎と伝は片桐の所属する警察署を訪れていた。
「いいんですか? 昨夜、草加部百合のところに怪盗φが現れて、今日の昼に絵を盗むと予告したらしいじゃねぇか。そんな終わったヤマを調べ直すこともないと思いますがね」
資料庫で10年前の殺人事件の調書を読む吾郎に片桐は睨み付けて言った。
しかし、吾郎は顔を上げずに答える。
「つまり、昼までは時間があるということです。それと怪盗φは絵の呪いを盗むといっているので、絵を盗む訳ではないですよ」
「本気で呪いなんて盗めると思ってんのか?」
「くくく、それがウチの課長ですよ。それから片桐さん、挙げたヤマを蒸し返されていい気分じゃないのはわかりますが、あんまり言うと不当な捜査をしていたと勘繰られて痛くない腹を探られますよ?」
草加部村や温泉地などの周辺を印した地図を広げて伝が歯茎を見せて笑いながら、片桐に言った。
片桐はムッとした顔をするが、すぐに嘆息し、資料を出したテーブルを挟んで吾郎の向かいの椅子に座った。
「ただし、疑問や質問は俺にしてくれ。これはヤクのヤマだ。殺人課連中にかき回されると、次のヤマでこっちが迷惑を被るんだ」
「わざわざの手間が省けるので、ありがたいです」
「ちっ」
片桐が吾郎の嫌みの通じない態度に舌打ちをするが、吾郎は全く意に介さず、早速調書を片桐に見せる。
「大体の話は昨日聞いた通りの内容ですが、調書としての記載では、被疑者は被害者の妻がかつて被疑者に好意があり、今も被疑者を好いていると思い、夫である被害者の存在が疎ましく思い、殺害に及んだとなっています」
「確かにそう書いてあるな」
「そして、被害者の妻の供述を纏めると、被疑者をかつて好いた時期はあったが、被害者と結婚する前のことだとあり、そもそも被疑者はその事実を知らないはずだとなっています」
「誰かから聞いたとか、雰囲気で察したとかじゃないか?」
「誰か、とは誰でしょうか?」
「知らねぇよ」
「可能性がある人はいます。葬儀の夜、被疑者が薬物を服用した場合の目撃情報を集めた為でしょう。事件前に誰と会話をしたかも記録されています。草加部松さんと世間話程度の会話を交わしたと記載されています。薬物の服用の目撃はありませんが、目の焦点があっておらず、不可解な言動もあったと松さんは話しています。その前は故人の部屋に篭っていたと書かれています。事件の概要に簡単な見取り図が残っています。故人の部屋を出ると、丁度被害者とその妻がいたとされる葬儀の控え部屋が真っ直ぐ見えます」
「何が言いてぇんだ?」
「調書として、薬物反応はなかったが、心神喪失状態と医師が判断したとなっており、反応がなくなったものの、この故人の部屋で薬物を服用し、精神が不安定な状態で妻を見て、夫である被疑者を刃物で殺害したとなっています」
「そうなってただろう?」
「鍵が足らないんです。薬物のことは勿論、片桐さんのが詳しいと思いますし、反応が出なかったので他の精神疾患なども疑う余地もあるでしょう。ある種の中毒による禁断症状という可能性も考えられます。ただ、気になる事実は、被疑者のいた部屋に例の絵があったということがこちらに書かれています」
「だから、呪いの絵による事件なんだよ」
「では、仮にその被疑者の状態を呪いによるものとします。問題は、なぜその状態で殺害に及んだ相手が被害者だったか? ということです」
「? そんな理屈でわかる相手じゃねぇだろ?」
片桐が吾郎に苛立ち、机を叩く。
しかし、吾郎は穏やかな表情でありつつも、鋭く片桐を捉えたままの顔で首を振った。
「抜け落ちているんです。被疑者が被害者の妻に好意を持ち、それを動機とする上で、妻も自分を好いていたという情報を得ないと供述で出てこないところなんですよ」
「つまり、あれか? 蒲生警視は松がホシに殺しをさせたって言いたいのか?」
「それなら恐らくこの資料を見る限り、松さんに取り調べくらいは行われたと思います。あるのは捜査員による草加部の屋敷での聞き取りと、検察の調書だけですので、その疑いはなかったのでしょう。つまり、触法の範囲ではないと警察も検察も判断したと思います」
「だったら良いだろう?」
「良くはないんですよ。もしかしたら、松さんが話したことがきっかけで被疑者は犯行に及んだ可能性がありますから。もしかしたら、昔好きだったらしいとか、被害者と結婚しなかったら付き合っていたかもしれないねとかの物凄く些細なやり取りだったのかもしれないです」
「その程度の色恋話、親戚が立ち話でしてくることなんて」
「珍しい話ではないと思います。しかし、万が一、松さんの言葉がこの事件の引き金となってしまったとしたら?」
「まぁ松としては悔いるだろうな」
「えぇ。……最後に一つ」
片桐の言葉に満足そうな笑みを浮かべた後、吾郎は人指し指を一つ立てる。
「まだあるのかよ」
「はい。被疑者から薬物反応はなかった。しかし、薬物中毒の様子に似ていた。被疑者は何の薬物でこれまで検挙されてきたんでしょうか?」
「あいつのマエか? ……確か、大麻。いや、大麻よりも覚醒剤だったな」
「そして、被疑者は新しい薬を見つけてくるかわりに借金の帳消しを考え、草加部家へ戻った」
「ん? そんなこと書いてあったか?」
「いいえ。ただの戯言です」
雲に巻く様な吾郎の態度に、片桐はあからさまに苛立ってそっぽを向いた。
そして、吾郎は資料を閉じる。
「おや、課長。終わりですか?」
「資料は頭に入りましたし、大体理解できました。早めの昼食を食べて草加部家に行きましょう。……あ、鑑識に寄りたいんですが、片桐さん」
「案内致しますよ、警視殿」
立ち上がった片桐は、嘆息混じりに言った。
草加部家の奥の間に、百合、松、正樹、吾郎、伝、片桐、駐在の竹志が集まったのは正午の少し前であった。
全員がちゃぶ台に巻かれて置かれた絵を取り囲むように座っている。
正樹が出したお茶と煎餅を食べながら待つ光景は、怪盗の出現に備えた警備というよりも、古き良き日本のお茶の間のイメージだ。
「竹志、お腹の調子は大丈夫かえ? 今朝、厠から出られんと電話があったけども」
「いや、心配かけました」
お茶を啜る竹志は松に声をかけられ、頭をかいて侘びた。
「それで、もうすぐこの絵を盗みに賊は来るのでしょうか?」
松が視線を巻かれた絵に向ける。
それをすかさず煎餅をくわえた百合が口を挟んだ。
「絵でなく絵の呪いよ」
「何が違うの? って、百合さん!」
松に嗜められ、百合は首をすくめる。
吾郎が眉をあげる。
竹志が時計を見て、声をあげた。
「あ、正午になりますぞ!」
そして、正午になった瞬間、部屋中に不敵な笑い声が響き渡った。皆、周囲をキョロキョロと見回す。
『フハハハハ! 絵の呪いを頂きに参上した!』
「どこから? ……天井? いや、壁からか?」
警戒する伝に対し、吾郎は静かに立ち上がる。
「怪盗φ、呪いを盗むことなどできるのか?」
『ククク、勿論だとも! 怪盗φに盗めぬ物はない! そして、今この時をもって、五十鈴昭文と絵師が施した呪いを盗ませてもらった!』
「なら、その証拠を見せてもらおう!」
『良いだろう。絵を広げてみるがいい』
怪盗φの声を聞いて、百合が絵を広げた。
何も変わった様子は見られない。
「このどこに呪いの証拠があるというのだ?」
『すでに呪いは盗んだ。何も起こらないはずだ! 草加部松、絵の背景を見つめろ! 毎晩やっているように、絵の秘密を解こうとしてみろ!』
「「!」」
明らかに松と正樹の表情が変わった。
松は絵の背景を覗き込む。それを正樹が慌てて止める。
「止めなよ! 皆の前であぁなったら!」
「お黙りなさい。……見るわ」
そして、松はじっと絵の背景を見つめる。
片桐と伝はそれを不思議そうな顔で見る。しかし、百合と吾郎、竹志はそれを静かに見つめていた。
時間が刻々と過ぎ、5分近くが経過しても、何も変化はなく、松は顔を上げて皆を見回した。
一番驚いているのは正樹だ。
「やった! 呪いが解けたよ!」
「あなた、やめなさい!」
「何を言ってるんだ! こんなに長く絵を見て平気だったことなんてなかったじゃないか!」
松は止めるが、正樹は涙を流して喜んでいる。
「やはり、松さんは呪いを受けていたんですね?」
「そうです! でも、解けました!」
吾郎が問いかけると、正樹は大きく頷いた。
「どういうことですか? そもそも、彼女が呪われていたというのは?」
片桐が吾郎に問いかける。
「彼女も桔梗氏が亡くなって、この家に来てから、絵の秘密を調べたんですよ。絵の秘密、即ち五十鈴昭文の遺産を受け継げるのが、本家の当主。逆に考えれば、絵の秘密を知るものは本家の当主となります。つまり、絵の秘密を解き、松さんは本家の当主になろうとしたんです。動機は財産なのか、10年前の事に対する松さんなりの懺悔なのか、それは僕にはわかりません」
そこで吾郎は言葉を一度切って松を見たが、彼女は何も語らずに俯いたので、続きを話しだす。
「しかし、松さんは呪いにかかってしまった。その呪いとは、10年前の惨劇の引き金を計らずも引いてしまったという後悔です。昨日、呪いが10年前の事件以降になかったかと聞いた時、明らかに松さんは心当たりのある反応をしていました。恐らく、亡くなった二人の幻覚を見ていたのでしょう」
「………」
「怪盗φ、あなたはこの絵に仕掛けられた幻覚を起こすからくりを盗んだ。……だが、残念ながらそんなまやかしは一時的なものだ。この草加部家にかけられた絵の呪いはからくり一つを盗んだだけで盗みきれるものではない」
吾郎はちゃぶ台を囲んで座る彼らの後ろを歩きながら言う。
そして、一人の人物の両肩に手を置いた。
「それをどうやって盗むんですか? 百合さん? いや、怪盗φ」
「!」
百合は飛び上がるほどに肩を弾ませて驚いた。
目を回し、口をパクパクとさせている。明らかにパニックをしている。
「お待ちなさい。百合さんが怪盗φだというのは草加部村の人間として黙って見ているわけにはいかない話だ!」
竹志が立ち上がって吾郎に抗議した。
しかし、百合は微笑を浮かべ、吾郎に両手を出した。
「刑事さん。私を怪盗φと疑うのでしたら、手錠をかけて下さい。私は間違いなく、草加部百合ですから」
「わかりました」
「! 警視殿!」
吾郎は躊躇なく百合に手錠をかけた。
驚く片桐の声が部屋に響く。
『ククク、被害者である本家の当主に躊躇なく手錠をかけるとは、大したものだ。それに、蒲生刑事の言う呪いは盗むまでもない。なぜなら、既に呪いではなくなっているのだからな』
「何?」
「怪盗φの言う通りです。私は既に絵の秘密をある方から聴きました。そして、当主としてこの絵を呪いで縛り、次代に受け継がせる必要がないと判断しました。竹志さん、お話して下さい」
百合は吾郎の目を見て淡々と語り、竹志を見た。
一同の視線が竹志に集まる。
「百合さんが仰るなら、話しましょう。私は生前の桔梗様から百合さんに時が来たときに話すように頼まれていました。それが、五十鈴昭文の遺産です」
竹志の言葉に松が目を見開く。
「五十鈴昭文はかつて無敵といわれる兵隊、まぁ当時は武者ですね。それをもたらしたと言います。実のところ、それは傷ついた武者達が癒し、再び戦う鋭気を養い、戦に赴けるようにした隠れ湯のことです。しかし、隠れ湯は歳月の中で存在が知られるようになり、現在は温泉地となっています。……そうです。警視さん達が昨夜泊まった、あの温泉地が五十鈴昭文の遺産です。そして、その絵の背景ではなく、丸めて見た時に見える顔料の起伏、それを山と照らし合わせると温泉地の位置と一致するらしいです。つまり、五十鈴昭文の遺産は、実際にはもう草加部家のものではない」
「つまり、絵の秘密は既に当初の意味をなくし、当主を継ぐものの証でしかなかったの。確かにお婆様から生前に伺った大昔、何代も前の頃は家督争い、相続争いがあり、泥沼になる前に絵の秘密を継ぐものが当主になり、他の者も絵の呪いを怖れてそれ以上騒ぎ立てるものも、絵の秘密を調べる者もほとんどいなかったと聞いています。そして、それでも調べた者は呪いを受け、一層草加部家は呪いを信じ、怖れた。……でも、それは大昔の話よ。今の草加部家はむしろ呪いで縛りつけられてしまっているわ。もうその呪いに意味はない。そうでしょ? 怪盗φ」
百合は真っ直ぐ部屋の外、庭にいつの間にか立っていた怪盗φの仮面を被った人物を見て言った。
一同も驚きの声を出して、その視線は怪盗φに集まる。
吾郎も怪盗φと百合を交互に見る。
怪盗φは壁から聞こえていた声と同じ機械的な低い声を出した。
「その通り! 怪盗φが答えよう! 絵の呪いとは3つの呪いが混ざっていたのだよ! まず、ひとぉーつっ!」
声は変わらないが、テンションが高い怪盗φは、ノリノリで人指し指を立てる。
「それは今、百合ちゃんが話していた五十鈴昭文の遺産の秘密! だけど、それはもう意味のないものになった! これで呪いはないので、私は盗めない! ふたぁーつっ!」
怪盗φは中指も立て、ピースをつくる。
「これは私が先ほど盗んだ絵のからくり! だけど、もう私が盗んでいる! そして、みいぃーつっ!」
怪盗φは薬指も立てる。
「それは、絵師が草加部家に残した言葉! 絵には呪いがある。……これこそが、最大の呪い! 絵の呪いを信じれば、皆が呪いにしばられる! その結果、21世紀の現代までその絵はこの家に残り続けたのだ! しかし、その呪いも私が今、この時をもって盗みましょう! ハッ!」
怪盗φは、テレビアニメの魔法少女が使うようなカラフルなステッキの先端に白い紙を挟んだ、お祓いに使う御幣のような棒を取り出し、振り始めた。ゆっくりと動かし、紙が揺れる。
怪盗φもこれまでのハイテンションから一変し、本当の宮司の様な厳かな雰囲気を放つ。すると、カラフルな魔法少女仕様の御幣の先端が光りだし、ちゃぶ台の上の絵が御幣の動きに合わせて動き出した。
その光景に驚く一同。
そして、御幣をシャンッと振ると、絵も一度宙に浮き、その後ちゃぶ台の上に落ちた。
「以上で、絵の呪いは盗みました。もうこの絵は呪われていません! では、さらばじゃ! トウッ!」
呆気に取られる一同は、もはや何を意識したのか全くわからない怪盗φの言動に気に止めるものもおらず、瞬時に高く飛び上がり、姿を消した怪盗φのいた庭を見つめることしかできなかった。
「えぇーと、呪いは盗まれちゃったのかしら?」
豆鉄砲を食らった鳩のように松が目をぱちくりさせながら言った。
反応に困る一同だが、百合は力強く頷いた。
「そうです。もう呪いは怪盗φに盗まれてしまいました。流石の怪盗φも温泉は盗めませんでしたが、私達草加部もあの温泉を今更、手に入れることはできません。この絵はもう呪われていません」
すっと百合は絵を手に持ち、床の間に向かうと、手錠をカチャカチャと音を立てつつも、両手に手錠をかけられながらも器用に絵を掛軸として床の間に飾ってみせた。
そして、百合は笑顔で振り返った。
「やはり、絵はこのように人の目に触れてこそ価値があります」