古の秩序




 三週間前、資材置き場で数はεに苦戦し、遂に地面に倒された。
 その時、リムジンの屋根の上に、その場にいた誰もが登場を予想していなかった人物が唐突に現れた。

「えっ? 凱吾君、なぜ?」

 真っ先に声を上げたのは、彼とは面識のないはずの銀河であった。
 彼は元の世界で蒲生凱吾を知っていたのだ。
 リムジンの上に立つ凱吾は、学ランをたなびかせ、拳を叩き、バシンと音を立て、鉄下駄を履いたまさに漫画の番長を彷彿させる格好で、声高々に資材置き場へ向かって叫んだ。

「面白そうなことをしているじゃないか! 女に手をあげるとは漢として、月が見過ごしてもっ!」

 凱吾は人差し指を夜空の月に向かって突き上げた後、親指をグッと突き立ててそのまま自分の胸に突きつける。

「このっ喧嘩番長、蒲生凱吾が許さねぇ! っ!」

 凱吾はリムジンの屋根から地面に飛び降り、腕を組んで仁王立ちした。

「月に代わってお仕置きだっ!」

 明らかにこれまでと空気を一変させた暑苦しい凱吾の登場に、その場の全員が言葉を失う。

「確かにあの男なら可能性はあるが、否。相手がεでは話が違う」

 かつて凱吾に学園の用心棒を依頼したことのある七尾も、混乱した様子で呟いた。
 探貞も同意見だ。彼が暴徒化した若者達を次々に倒した姿を見て、噂でも暴走族をいくつも壊滅させたと聞いているが、それらはすべて人間が相手の話だ。プロの暗殺者である刺客で、chaoticのεにその武勇伝が通用するとは思えなかった。

「凱吾君、あぁいうキャラなんですか? その、この世界では」

 銀河が通信でわざわざ聞いてきた。どうやら異世界の凱吾とは大分違うらしい。
 そんな周囲の反応を余所に、喧嘩番長蒲生凱吾は、悠然と数に歩み寄る。

「女、大丈夫か?」
「危険です! 来ないで下さい!」

 誰だかわからなくとも、数は凱吾に叫んだ。
 しかし、砂利の動く音は聞こえた。εが動いた。

「むっ!」
「なっ!」

 刹那、二つの声が資材置き場に響き、次の瞬間には地面の砂利が音を立てて飛び散った。
 そして、裏拳を放った凱吾が不思議な顔をしていた。

「なんだ? 殺気も感触もあったが……」
「………」

 数だけではなく、その場にいた全員の言葉が出なかった。
 εは気配も限りなく零にできる為、数やアールでなければ、その存在を感じることすら困難だ。

「どういうことだ! まぐれか?」

 εの声が聞こえる。彼も動揺しているらしい。
 再び砂利が動き、その内の一部が高速で凱吾を目掛けて襲いかかる。

「とっ!」

 凱吾はひょいと身をそらし、その砂利をかわす。
 更に、少し大きい小石も襲いかかるが、それはボールが壁に当たったような低音を立て、凱吾が素早く動かした手に握られていた。

「おいっ! 石や灯籠を投げてはいけませんと習わなかったのかっ!」
「え、灯籠?」

 和也が思わず口を開いた。
 この時はまだ彼にもそういう一言程度に反応できる余裕があった。
 更に、鉄パイプが再び宙を舞い、凱吾に襲いかかる。
 しかし、既に探貞は予感した。これはεの悪手だと。

「そこかぁぁぁーっ!」

 凱吾は鉄パイプを顔の目の前でかわしながら、足を踏み込み、素早く摺り足で距離を詰め、宙に正拳突きを放つ。そして、空振りでなく、確かな手応えがあったことは直後に地面を何かが滑る音でわかった。

「がはっ! なんだ、こいつはっ!」

 εが呻く。そして、再び砂利が音を立てていく。
 数でも行った自身の居場所を撹乱させて攻撃を不規則に行うεの得意な戦法だ。
 それに対して凱吾はその場で仁王立ちしたままだ。
 探貞達は、この攻撃には凱吾も太刀打ちできないのだと思った。
 しかし、いつの間にかリムジンから降りて腕を組んで、資材置き場の様子を観賞する橘は、不敵な笑みを浮かべて呟く。

「あの童、鉄大人の奥義まで体得していたか」
「奥義?」

 九十九が問いかけると、橘はニヤリと笑った。

「明鏡止水の境地。わしには何者があそこにいるのか知らんし、見えず、感じず、一人相撲をしているように見えるが、そんなまやかしは必ず綻びがある。殺気などの第六感の様な類は勿論、空気の揺めき、音、その者が以下に巧妙に隠密行動に長けていても、それを長じる武人には忍んでいる内に入らん。童は既にこの場と一体化しているんだ。己が掌にあるものを追いかける必要もない。すでに翻弄されているのは童でなく、忍びの方だ」

 そして、その言葉の意味を九十九はその目で理解させられた。
 時折、凱吾は体を揺らし、風を避けるような動きをする。εの攻撃は次々に回避され、命中しないのだ。
 更に、おもむろに凱吾は肉食動物が野生の獲物を捕らえるかのような素早い動きで、手をのばし、空中で何かを掴む。

「捕まえた」
「な、……がっ!」

 空中からεの呻く声が聞こえる。
 恐らく彼の腕は今、凱吾に掴まれている。数の捨て身の攻撃で先日も同じ状況になったが、今回凱吾はただ手をのばして掴んでいる。呻く声から、凱吾はεの数に折られた腕を掴んでいるらしい。

「面白いな。どうしてもお前の姿と体からの気を感じられない。もしや幽霊なのか?」
「くっ! ……幽霊? ……違うな、俺はε! 極限までその存在を零にできる暗殺者だ!」
「暗殺者? つまり、お前、強いんだな?」
「は?」
「お前はまだまだ強いんだな?」

 凱吾はニヤニヤと笑みを浮かべて再度εに問いかけた。

「舐めやがって! 俺の本気を見たいのか? 死ぬぞ?」
「面白い!」
「ーっ!」

 凱吾は口角を上げ、あろうことかその手を開き、下げてしまった。
 この行動にはεも反応に迷った様だが、すぐにバカにされたと考え、激昂してあらげた声が資材置き場に響いた。

「クソガキめぇ! ぶっ殺す!」
「来い!」

 対して、凱吾はニヤリと笑い、構えを取る。
 そして、探貞は昨年の文化祭で聞いた凱吾の武勇伝を思い出す。自分が強くなりすぎて、本気で戦える相手を求め、喧嘩を聞きつけては乱入し、その結果ついた称号が喧嘩番長。しかし、壊滅していった暴走族には彼を満足させる強者はいなかったと。
 探貞は理解した。凱吾はその満足できる相手と戦っているのだと。即ち、数が苦戦するほどのεでやっと楽しむことができているのだと。しかし、それでもεがすでに凱吾に追い込まれているように見える。
 それは紛れもない事実だった。

「遅いっ!」
「ぐはっ!」

 砂利が宙を次々に舞い、それらをすべてかわしながら、凱吾は地面を踏み込んで、平手を突きだした。
 恐らく胸を突かれたεは両足を地面に踏みとどまらせた二本の線を地面に刻む。しかし、次の瞬間、再び砂利が動く。

「なんでわかる?」
「わかる?」
「俺のことが見えるのか?」
「見えない」
「なら、なんでわかるんだ?」
「そんな大きい体をしているんだ、いやでもそこにいるとわかる」
「お前も何かの能力者か?」
「意味がわからないな。俺はただの喧嘩番長と呼ばれる者だ。師匠からの教えで、弱いものいじめはするな! ご飯は残すな! 野菜を食べろ! 迷い箸をするな! 納豆にはナットーキナーゼが入っている! ゴミは分別しろ! 強者と戦うなら、納豆の糸の一本一本の気配も逃すな! と言われ、納豆の糸を一本ずつ高速で摘まむ練習と、目を積むって木から落ちる葉っぱを箸で迷わず摘まむ修行とゴミの分別を毎日続けている。ちなみに、俺の暮らす地域は納豆の発泡容器は燃えるゴミだが、付属しているビニールは燃えないゴミだ!」
「わかった。お前、バカだな!」

 εの声が聞こえた。
 一方、和也の隣で九十九がブツブツと「って、ただの朝食の会話だろーがっ!」とツッコミを繰り返し呟いているのを和也は聞き逃さなかった。

「なんだと? 人をバカにしてはいけませんと、教わらなかったのか? 納豆の糸や木葉を眼をつむって箸で摘まむよりも、お前の体の方がずっと大きく動きも遅いっ! それを掴む程度、驚くことでもないっ! 納豆の糸の方がお前よりも手強いんだっ!」
「結局、俺を納豆の糸以下とバカにしているだろうが!」

 εのツッコミを聞いて、九十九は清々しい顔をした。思っているツッコミをしてくれたらしい。
 そして、砂利の音と同時に、凱吾も動いた。
 凱吾が飛び上がり、手首を捻りながら拳を右斜め上に方向に突き上げた。所謂、スクリューアッパーだ。

「てやぁぁぁーっ!」
「ぐふぉっ!」

 果たしてεのどこを拳が突き上げたのかは見えない為、わからないが、踏み潰された蛙のような声を上げ、εはその体の形に砂利の上に落下した。

「がはっ……がはっ……」

 砂利の上からεの咳き込みが聞こえる。
 その前に着地した凱吾は仁王立ちする。

「どうした?」
「参った! ……俺の敗けだ。殺せ!」
「なっ………。そうか」
「一思いに楽にしてくれ。さっさと殺せ!」
「いや、殺すわけにはいかない」
「何っ? どうするつもりだ?」
「どうもしない。……確かに、久しぶりに本気を出せたが、まだこの程度のところで降参をされてしまったとなれば、これ以上俺がお前に何かをするのは弱いものいじめだ。それは師匠の教えでできない」
「なっ! ……俺が弱い? ………この、俺が情けをかけられている、だと?」

 凱吾は見えないεに向けて、憐れむ目をしている。彼は本気でεを自分よりも弱いものと認識している。
 それはεにとって、何よりも決定的な敗北を感じさせるものであった。
 εはそのまま動かなくなった。

「だが、お前。今までの弱いものの中で、一番強かったぞ。……朝までそうしていると風邪をひくから気をつけるんだぞ」

 凱吾は学ランをたなびかせて資材置き場を後にしようとする。
 その背中に、εが声をかけた。

「待て!」

 その声に凱吾は足を止める。

「お前が強者と認めたものはいるのか? いたら、教えてほしい」
「俺の師匠だ。師匠に、俺は一度も勝てなかった。……もうこの世にいないがな」
「そうか。……いつか、また相手をしてくれ」
「あぁ!」

 凱吾は背を向けたまま親指をグッと突き立てるサムズアップをした腕を横に伸ばし、そのまま去った。
 そして、計画は大幅に狂ったものの、予定通り銀河が怪盗φの変装でεの暗殺をやめさせる説得をしたのであった。






 

「なんでぇ? あの蒲生凱吾ってあんちゃんのことを知りてぇのか?」

 三波との口喧嘩を中断し、アールは探貞と数を見る。二人が頷く。
 アールは勿体ぶることなく、石のベンチに座る探貞の隣にポンと移ると、頭に被る四次元バケツのボタンをポチりと押した。地面に解析結果らしき図やグラフが投影される。

「結論から言うと、蒲生凱吾はchaoticではねぇ!」
「え?」
「うそっ!」
「嘘も何も、それが結論でぇ! あのあんちゃんは確かにとんでもなく鍛えられた肉体と精神を持ってるでぇ。それは見た通りだけどな。別に見えないはずのものが見えるわけでもねぇ! εはあくまでも限りなく存在を零に近づけることのできる能力であって、存在を消す能力じゃねぇ。実際、オイラや数のセンサーはその微かな存在とその因果関係によって生じる音だとかを観測してεの場所や動きを探っていたっつーこってぇ。そんで、あんちゃんはただ単にその微かな存在を殺気で感じとり、音や空気の揺めきを全身で感じてεを捉えていたんでぇ!」
「それは能力ではないの?」
「人間が誰しも持ってる感覚でぇ! あんちゃんの場合は、日々の鍛練でそれを体得しただけで、それ故に奥義ってぇ呼び方をしていたんでねぇのか? 強いてchaosと結びつけるんだったら、あんちゃんは三波と同じでぇ! 特異点や確率の変数ってぇ云う呼び方はオイラが勝手に付けたもんだけども、三波も通常の確率ではほぼ起こり得ない事象を引き当てる。それと同じことがあのあんちゃんはある。勿論、三波みてぇに石を投げればミサイルが落ちてくるような極端で不安定なもんでねぇよ? つーか、三波もchaoticではなく、この宇宙に非物質的に存在する場の確率変数の方が狂うといった方が正しく、三波が確率に干渉している訳でねぇというのがオイラの出した結論でぇ。あんちゃんも同じで、丁度よくあんちゃんを鍛えるような相手と出合い、強くしていくんでぇ! 人との出会いも本来は数学的な演算で確率を出せるもんだからな。よって、あんちゃんはchaoticでねぇ!」
「なるほど、わかりません」
「ごめん、私も理解できないわ」

 探貞と数が頭を抱えながら言うが、三波はニコニコと笑って端的な言葉に変換する。

「つまり、生まれた星の下の運命って奴でしょ? そして、私はスゴい!」
「「「「あぁ~」」」」

 平たい胸を張ってどや顔をする三波と納得してしまう一同。

「ま、そういう星の下の運命ってぇのが案外あってんのかもしんねぇな」

 アールも腕を組んで頷く。

「さて、そろそろ時間ですね」

 数が時計を見て呟いた。

「もうそんな時間か。……涼の奴、まだ来ないのか」

 和也が鳥居の先にある石階段を見て呟いた。
 すると、丁度良く涼のポニーテールが見えてきた。

「よかった」
「数ちゃーん!」

 涼が手を振る。
 涼は在校生最高学年の学級委員で、在校生代表までした為、卒業式の後も学校を出られず、この時間になってしまったのだ。

「ごめんね。……でも、もう一人連れて来たわよ!」

 涼がそう言い、石階段の下を見る。
 もう一人、石階段を上がってくる人物がいた。七尾だ。

「まさか、江戸川や百瀬でなく石坂に連れて来られるとは思わなかった」
「百瀬でなく一ノ瀬九十九です!」

 すかさず九十九が言う。
 七尾は苦笑し、数の下に歩み寄る。

「シス、色々あったが、共に学べたことを良い思い出として心に止めておく」
「ありがとうございます。七尾先輩はこれからどうするんですか?」
「勿論、コスモスを組織してカオス・パニックの阻止を行う。もっとも、今からそれを言っても、良くて変人、悪ければ病院送りだ。妄言と思われぬよう、社会的信用のある地位に立ち、非営利団体などの形でコスモスを組織するつもりだ。一応、雨場と共に進学するからな。アイツの監視もできる。まぁ組織経営と機械工学を学ぶつもりだし、コンサルティングを生業にできるはずだ」

 雨場と七尾は、昭文学園高等部初とも云われる二名同時東大現役合格者だ。

「そうですか」
「お前も未来へ帰ってからが本番だ。あっちが俺の知る未来と異なっていても、カオス・パニックが始まっている以上、何かは起こる。精々死ぬなよ」
「はい! 先輩も、迷さんとの約束をよろしくお願いします」
「肯定だ」

 数と七尾は握手した。
 そして、それぞれと別れの挨拶を交わし、数は昭文神社の境内から出て、森の中に入っていった。
 境内から一同が涙を流しながら見送られ、森の中に入った数の体が夕焼け色に染まる。

「皆さん、ありがとうございます! 未来で待ってます!」

 数の声と共に、夕日は沈み、彼女の姿もその場から消滅した。






 

 三重県蒲生村。そこは都市部から離れた寒村であり、診療所と駐在所、役場はあるもののコンビニは夜7時に閉店する。過疎化、高齢化をひた走る田舎の村であった。
 しかし、そこへ訪れた虚無僧ミナモトサンジューローこと、異世界人後藤銀河にはすべてが懐かしい景色であった。
 彼は一日かけて村を歩いた。
 彼の知る老人の多くが既に亡くなっていたが、その記録、痕跡はすべて彼の記憶のままであった。
 歩けば歩くほど、そこが異世界でなく、彼の生まれ育った故郷と錯覚をしてしまう。
 しかし、それでも彼は気づいていた。その村に彼は愚か、異世界の自分すらも存在していないことに。

「存在はしていたか」

 彼は一軒の農家の前に立っていた。既に長いこと住まわれていない廃墟だったが、それはすべてそのまま残っていた。
 家の表札には、「後藤」と書かれていた。彼の異世界の実家だ。
 後藤家は村のやや奥にあり、そのさらに奥には数軒くらいしか家はなく、幼い頃にすでにほとんどが廃屋となっていた。この世界でもそれは変わらないらしい。
 彼は敷地の中に入っていった。一メートル近い草が鬱蒼と茂る庭の中を進む。草が昔から祖父が裏口の鍵は庭の中に隠して、普段は玄関か縁側から出入りをしていた。
 鍵はすぐに見つかり、裏口を開けると、中に入った。
 既に床の一部が抜け、天井も雨漏りで朽ち始めている。それでも、慣れた実家の中を灯りを灯さずに彼は歩いていく。

「じぃちゃん……」

 壁の扉を開けると、立派な仏壇が姿を現した。中には、祖父と祖母の位牌が置かれている。
 彼の記憶とは全く異なるものだった。彼の記憶は、ここには仏壇もなく、写真しか置かれていない。彼の力によって、祖父が神仏を信じなくなったからだ。
 彼の世界では、この家屋は蒲生夫婦が手入れをしていたが、この世界では銀河がいない為、管理をする理由はない。
 しかし、それならば完全に所有者死亡の廃墟かというと、祖父の位牌が納められている以上、考えにくい。それに、一部の物がなくなっている。
 異世界の為、元々ないのではなく、撤去されている。その痕跡は至るところにあった。
 考えられるのは一つだった。

「お母さんか」

 彼は記憶に母親はいない。自分の誕生によって死んだのだ。
 しかし、この世界では少なくとも祖父の死亡した時はまだ生きていた可能性が高かった。
 彼は室内を探し、古いメモ帳を見つけた。祖父が使用していたものらしい。
 そこに、母の住所が書かれていた。

「アメリカ……。前後の日付は、吾郎の年齢からして……。生きてるのか」

 唯一の世界の相違点は、西暦で見た彼の記憶の蒲生村とこの世界での蒲生村の時代とでは数十年近いズレが生じていた。
 2040年頃の蒲生村が現在のこの世界での蒲生村であった。
 そして、銀河は再びアメリカを訪れ、独身として生存する異世界の母親に出会うことになる。
 しかし、それはまた別のお話である。





 
 

「大丈夫か?」

 チベットの山岳地帯で野宿をしていた銀河は、εの声で目が覚めた。
 勿論、目を開けても、εがどこにいるのか見えないのでわからないが、銀河の側にいることは間違いない。

「あぁ、ごめん。昔のことを夢見ていたものでな?」
「例の異世界でのことか?」
「いいや、こっちの世界に来て何年も経たない頃の、丁度怪盗φの事件の後、日本の故郷でのことだよ」
「故郷か。……しかし、この世界にもお前の故郷があるのか?」
「いいや。景色も人も俺の故郷そのものだったけど、俺は存在しなかったんだ。……たぶん、ε。俺はお前と自分を重ねてしまっているんだろうな?」
「お互い、故郷がありながら、故郷の方が認めてくれない身ということか?」
「そういうことだな? ……さて、もうここの麓だろ?」

 銀河は立ち上がると、山の麓というよりも谷の底を覗き込んだ。

「そうだ。……本当に上手くいくのか?」
「さぁな? 今の俺はただの言霊使いだ。一言ですべてを解決する力はない。だけど、いや。だからこそ、どんなに時間がかかっても、お前の故郷を解放させてみせる!」
「ふっ。俺に言霊を使っても意味がないだろ?」
「そうだな?」

 εの声は笑っている。
 銀河も笑みを浮かべて、εの故郷アガルタがある山間の村へと向かった。





 
 

「あぁ、蒲生さん」

 3月の終わり、警視庁特殊捜査課に吾郎が数週間ぶりに顔を出した。
 伝は非番で、圭二だけが室内にいた。彼は吾郎を室内に招き入れる。

「今回は色々とありがとうございます」
「いいえ。お礼を言うのは僕の方です。εは行方不明となったようで、あちらさんもεが国内にいないと判断したようです」
「サンジューロー君も出国したと確認されたよ。虚無僧姿でなく、素顔で出国したから、我々しかその事実は知り得ないけれどね」
「それでも十分です。怪盗φも行方不明のままです」
「それでもこれで少しは僕達も動きやすくなりますね」
「そうだといいけどね。それで、わざわざ私が一人の時に来たということは、例の件ですか?」
「えぇ。怪盗φ、いや中口一の殺害事件についての当局の捜査資料と例の組織に関連性のある人物のリストです」
「ありがとうございます」

 圭二は吾郎から資料を受けとり、目を通す。

「僕の力でもここまでが限界です。それにこれ以上は本当に危険ですよ」
「それはこのリストの名前をみれば十二分に理解できるよ。警察関係者もやはりか。……官僚のキーマンがいますね」
「勿論、迷さんの調査資料と推理を組み合わせて僕の権限で探れる範囲の関係者です。そもそも組織に無関係の人物も多数含まれていると思いますし……」
「そもそもそんな組織は存在しない。その可能性も考慮しているよ」
「それでもその存在を信じている。それは貴方のもう一つの肩書きによるものですか?」
「やはり知っていましたか」
「知らなければ、協力をしないで止めています。伝さん程ではありませんが、僕も多少は噂が耳に入ります。例えば、数年前の都内で起きた宗教団体による連続テロの解決に動いたのは貴方の指示があったとか」
「僕ではないよ。僕はただ助言をしただけで、地道な監視を続けた彼らの成果だよ」
「そういうことにしておきます。そういう迷さんを影にしたこと、日本警察もまだまだ捨てたものではないと思いますよ」
「ただの面倒を押し付けられただけですよ」
「そういうことにしておきます」

 吾郎は微笑み、圭二も笑った。
 迷圭二死亡の280日前の出来事だった。




【終】
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