古の秩序


【Episode Φ】


 怪盗φからの予告状を受け取った圭二は、数日後の夜、私立某大学附属東京美術館の正面玄関前にいた。
 今宵は満月。そして、世間では皆既月食がまもなく始まる為、多くの人が夜空を見上げていた。
 しかし、圭二は警官達が厳戒な警備をしている美術館と、その重々しい様相に集まってきた群衆の様子を見渡しながら、ふうと深い息を吐いた。

「緊張してるのですか? 名探偵警部殿?」
「……ん? あぁ、伝警部補か」

 背後から声をかけられた圭二が振り向くと、伝がニヤニヤと笑っていた。
 警視庁捜査一課犬山班の圭二が抜けた欠員補充で配属されたばかりの伝節男警部補は、班長犬山張介の鶴の一声で今回の怪盗φ事件の応援に回されていた。
 詰まるところが、圭二の代わりに班に入るなら、頭が切れるだけのエリート様じゃ使えないから、圭二の下で勉強してこいということだった。
 しかし、既に挨拶から僅か数日ながら、この伝がただのガリ勉エリートではなく、煮ても焼いても喰えない毒舌家であるものの、それだけでない確かな推理力、観察力を持ち合わせた優秀な人物であることを、圭二は知っていた。

「緊張も時には必要なのかもしれませんが、一介の泥棒ながら、まぁまぁの洒落が通じる相手みたいで、俺はわくわくしていますけどね」
「怪盗を名乗るだけのことはあるさ」
「名探偵警部殿は、怪盗φの肩を持ちますね? まぁ、怪盗と名探偵が対峙する光景をこの20世紀の世で見れるとは思いもしませんでしたがね」
「やめてくれたまえ。私はただの警察だ。物語に生きる名探偵ではないよ」
「そういうことにしておきます。……あぁ、名探偵殿、怪盗なら名探偵だが、大泥棒なら大捕物の名警官が必要でしょう?」

 伝は勿体ぶった様子で、圭二に問いかけた。
 圭二はそれが誰を指すのか、すぐにわかった。
 美術館の庭で、じっと月蝕が始まろうとしている月を見上げている男を圭二は見た。
 男の名前は、蒲生吾郎。警視庁捜査二課の警部で、今回の現場内の陣頭指揮を取っている人物だ。
 年齢は圭二と然程の違いはないように見える。やや気弱な印象を与える下がり眉以外はさした特徴がなく、背広を着た姿は、刑事とは対照的な雑踏でもっとも印象に残りにくい典型的な会社員そのものだった。

「あぁ、迷さん。伝さんも、今回はご協力していただきありがとうございます。……月がかけてきましたね」

 吾郎は圭二達の視線に気づき、穏やかな笑みを出しながら、近づいてきた。
 その様子は、緊迫したまもなく大捕物と怪盗による窃盗ショーが起きる現場ではなく、のんびりと夕涼みをしながら皆既月食の天体ショーを鑑賞しにきた仕事帰りの会社員のようだ。

「天文台の話だと、皆既になるのは後、一時間はかかるそうですよ」
「えぇ。既に、警備の配置に捜査員も着いていますし、月蝕を見ながら待ちましょう」
「呑気だな……」

 伝が夜空を見上げる吾郎に毒づく。
 しかし、吾郎はそれを気にする風でもなく、圭二に話しかける。

「迷さん、怪盗φは皆既月食が今夜だから今日にしたのでしょうか? それとも、今日がたまたま皆既月食だったのでしょうか?」
「……そうですね。私がφならば、前者でしょうね。人々の注意が空に向いている上、月明かりがなくなるので、仕事もしやすい。それに、あの予告状は皆既月食ありきのものですから、その為に日時を皆既月食に合わせたといえますね」
「なるほど。……夜空を照らすもっとも明るい星は月であり、その月の輝きが失われ、闇に包まれる。怪盗にとってはとても魅力的なシチュエーションというわけですね」
「……でも、蒲生警部はなぜそのことを私に?」

 圭二が問いかけると、吾郎は微笑んだ。

「それは、怪盗を追うのは名探偵ですから。僕の様な刑事ではないですよ。……刑事は、不審な人物に声をかけるくらいですよ」

 吾郎はそう言うと、ゆっくりと少しずつ集まってきた野次馬へと近づいていった。
 その先には、野次馬の中で異様な雰囲気を放つ虚無僧がいた。






 

「すみません。ちょっと宜しいですか?」
「………」

 野次馬へと近づくと、敷地の門扉を空けて、警官の間から野次馬の中にいた虚無僧へと話しかけた。

「あなたは数日前からこの美術館周辺に来ていますね? 防犯カメラの映像にあなたらしき姿が映っていました。お名前を伺っても宜しいですか?」
「……ミナモトと言います」

 虚無僧に吾郎が問いかけると、深く被った天蓋の中から若い男性の声がかえってきた。

「ミナモト……フルネームでは?」
「……ミナモト、サンジューロー。……まぁ、まだまだ二十郎だけどな?」
「顔を確認させてください。天蓋を取っていただけないですか?」
「それはできない。俺は半僧半俗の修行僧だ。有髪の顔を俗世で晒すわけにはいかない」

 ミナモトは語気を強め、はっきりと拒絶の意思を伝えた。

「……わかりました」
「ただ、捜査には協力するよ? 俺は……あなたの捜査に役立つはずだ」
「それは修行の為ですか?」
「いいや、ここでは伝えられないが、ある人物から頼まれたんだ」
「なるほど。……ここでは、お話もままならないですので、中へどうぞ」

 吾郎はミナモトを美術館へと促す。その行動には、これまで淡々とした口調であったミナモトも動揺する。

「ご……。俺が怪盗φだったら、どうするんだ? わざわざ泥棒を招き入れるのか?」
「もしあなたが怪盗φなら、逮捕するだけです」
「……わかった」

 ミナモトは、何か納得した様子で、吾郎と一緒に美術館の敷地内へと入っていった。







 
 一方、圭二と伝は敷地内から美術館の外周を歩きながら、侵入経路となりそうな箇所を探していた。

「マスコミ、野次馬、随分集まったな」

 伝は敷地の外にいる人々を見て呟いた。
 美術館の正門側は勿論、今は裏手を歩いているにも関わらず、カメラを持った人々が敷地の境界となる塀になる柵に沿って群がっている。
 情報はどこからか広まり、今夜皆既月食と共に怪盗φが日本の美術館に現れると聞きつけた様々な人々が集まっていた。

「そうだな。……もしかしたら、この中に怪盗φはいるのかもしれない」

 圭二はボソリと言った。

「だったら、こいつらを片っ端から職質かけますか? 見通しが良くなりそうだ」

 伝がニヤリと人垣を見ながら言った。

「そう言いなさんな……?」
 
 圭二はカメラのフラッシュを感じ、その方向を見た。あまり人がいない所だったのですぐにわかった。
 一眼レフカメラを構えた若い女性が自分達を見ながら、塀越しに立っていた。

「どうした?」
「………」

 伝は突然歩き出した圭二に聞いたが、彼は無言のまま女性に向かって歩いていく。

「あら、気付かれちゃったわ。刑事さん、中々のやり手みたいね。あなた、もしかして警視さんとか?」

 圭二が塀の柵まで来ると、女性はそう言いながら、柵に近寄る。

「警部です。………あなたはなぜ写真を?」
「あら、ごめんなさい。それは答えなきゃいけない事かしら?」
「警察には職務質問する事が仕事の一つなんですよ」
「じゃあ、仕方ないわね。私、こう言う者です」

 女性は柵の隙間から名刺を差し出した。
 圭二は受け取った名刺に目を落とすと、『乙弾文庫社記者部門国際報道部 一ノ瀬絵里 Eri Ichinose 』と書かれていた。

「一ノ瀬さんですか」
「えぇ。警部さんのお名前は?」

 圭二は一ノ瀬に警察手帳を見せた。

「迷さんですか。珍しい苗字ですね。………それよりこの『特殊捜査課』というのは?」

 一ノ瀬は好奇心を抑えられない様子で聞いてきた。

「別名探偵課、通常とは違う捜査をする特殊な捜査課だ」

 圭二が答えるよりも早く、背後から伝が答えた。

「そうなんですか。では、怪盗φと対決ですか?」

 一ノ瀬の問いに、圭二は曖昧な笑みを返し、その場を後にしようとするが、伝はニヤニヤと笑いながら、彼女に答える。

「勿論だ。何せ、この特殊捜査課課長、迷圭二警部は、警視庁内で名探偵と呼ばれる男だ。怪盗に対峙するのは、この名探偵以外考えられない!」
「お、おい!」
「名探偵! すごい方なのですね! 迷さん、しっかりと一部始終を取材させて頂きます! 平成の名探偵対大怪盗と銘打って紙面を飾りたいと思いますので、ご活躍を期待していますね! では!」
「いや、待って……」
「残念だな、行ってしまったようです」

 一ノ瀬は圭二の言葉が既に耳に入らない様子で、特ダネを手に入れたと喜びながら爽やかに彼らから離れて行った。
 肩を落とす圭二に伝は、ぽんと肩を叩いた。

「いつか私は伝に殺されそうだ」
「なにを物騒なことをおっしゃるか。あっさりと終わりにせずに、生かしながらゆっくりと味わうのが良いんですよ」
「………君という人は」
「恨み言は名探偵に似合わないですぜ? さぁ、一度美術館内に戻りましょう。蒲生警部と合流しなくては」

 圭二にとりつく島を与えず、伝は彼を美術館の正面へと促した。
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