古の秩序


【Episode Ε】


「もっと右」
「はい。こうですか?」
「いいよ! そのまま下ろして」

 穴の空いた床に気をつけながら、和也は葬儀屋の社員と共に棺桶を部屋へと運び込んでいた。
 和也は視線を部屋の隅に向けた。故人の霊が佇んでいた。
 霊は視線を穴の空いた床に向けている。

「………」

 和也はブスッとした表情のまま、床の空いた床に近づいた。
 床裏の梁から木が腐っている。
 かつては昭文町内でも有数の資産家で、若い頃は武道家としても多くの弟子を育てた数々の武勇を持つ人物であったらしいが、バブル経済の崩壊後は同時暮らしていた豪邸も、武勇の舞台となった道場も人手に渡り、隠居してからは唯一残ったこの家で残った資産を切り崩して生活をしていたらしい。
 その家も全体的に古く、かなり痛んでおり、生前は時折家族や弟子が出入りしていたというが、一人暮らしであったのことだ。掃除をしても、家の修繕までには手が回っていなかったということは想像がつく。
 霊を視ると、故人は視線を壁際のタンスに向けられていた。

「……ったく」

 和也は頭をかきながら、タンスを調べる。
 ごく普通のタンスで、腐っているわけでもない。

「ん?」

 タンスの上に置かれた箱が、タンスを触れる度に揺れていることに気づき、箱に手を伸ばした。
 箱は触れると、手前に落ちてきた。

「おっと!」

 胸で受け止め、箱を確認すると、かなり重い。しかも、不安定に歪んでいる。中身は古い水晶玉だった。
 これはタンスが地震で揺れると、落下する可能性が高い状態であったと想像することは容易なことだった。もしかしたら地震どころか、ダンプカーが走れば落ちたかもしれない。

「……まさかな」

 一瞬頭をよぎった想像を否定しつつ、視線を霊に向ける。

「!」

 霊におぞましい視線を和也に向けていた。
 次第に想像が現実味を帯びて和也の脳裏に広がっていく。

「どう?」

 不安げな表情で涼が問いかけてきた。

「どうって、なにがだ?」
「そ、それは……」
「故人ならそこにいる」
「それで、呪いは?」

 涼は声を潜めて、和也に問いかけた。

「……呪いは死人がかけるものじゃねぇよ」

 その後、親族が次第に集まり、葬儀の準備が本格的に始まった。






 

「そこの角を曲がると着きます」
「ありがとう」

 九十九と三波を乗せた住職のライトバンは、まもなく目的地に到着した。
 すでに葬儀屋が案内看板を着けており、家の門戸には鉄家葬儀と書かれた看板とともに、菊の花が飾られている。
 路地に停められた葬儀屋のトラックと共に石坂納棺のワゴンがあるのに、九十九は気がついた。
 葬儀の場にいて不思議なことではなかったが、九十九は何か予感めいたものを持った。

「住職様、こちらが控え室となっております」

 葬儀屋に案内されて、空き室へと案内され、九十九と三波も住職に同行する。
 通夜の会場となる居間では葬儀屋のスタッフが準備を進めていた。
 その中に和也と涼の姿があった。予感的中となり、彼らも九十九達に気づいた。

「あれ? 何で神社の娘が住職様と一緒にいるんだ?」
「それはこっちの台詞ですよ。なんで江戸川先輩がいるんですか? 婿入り修行?」
「なんでそうなるんだ! それを言うなら、百瀬もだろ」
「百瀬でなく、一ノ瀬九十九です。俺のは単に夕飯の為の対価です。……で、先輩はなぜ?」
「実はな」

 和也は声を潜めて九十九に事情を説明した。

「ということだ」
「……その床、確認できますか?」
「いや、安全の為に分厚い板を敷いてしまって、もう確認できない」
「そうですか」
「一ノ瀬君、呪いなんてないわよね?」

 涼が考える九十九に聞く。
 彼は静かに首を振った。

「呪いはありますよ。勿論、幽霊だの悪霊だのによるものではなく、呪術といった人が人に対して仕掛けるものとして、あるという意味です」
「どういうこと?」
「わら人形といった呪術的なものを使い、お前に不幸が降りかかると伝えられて、実際に何か不運や不幸なことが起きたら、その人は偶然と思う一方で呪いを連想します。そうした他人の意識に呪いを植え込ませて、精神的な影響を与える呪術は実際に効果もあります」
「だから、私も呪詛払いやお祓いとかの仕事が時々あるわけだしね」

 三波が頷いて言うと、涼が驚く。

「えっ! そんなの本当にあるの?」
「大っぴらにする必要もないから、神社も有名なところ以外じゃやってることを宣伝してないけど、お炊き上げも立派なお祓いの一つですよ」
「ただ、死んでから人が呪いをかけることはできない。だったら、生きてる人の仕業だ」
「江戸川先輩、謎は解けてるんですね?」
「大体の見当はな。俺には、視えるからな。恨めしそうな顔をして相手を見つめる姿が」

 和也が遺族の集まる部屋の隅を見つめて言った。




 

 

 日没が近づき、薄く紅色に染まる空の下、昭文神社参道を数と七尾は歩いていた。

「この交差点を右に曲がった先の住宅地に住んでいる」
「突然お邪魔して大丈夫なのでしょうか?」
「肯定だ。あいつなら、連絡を入れたらそもそも応対しない」
「それ、いいんですか?」
「唯一の手がかりだ。七不思議事件が起こり、怪盗Φが復活しなければ、あの文化祭はなかった。あいつは何かを知っている。……着いた。ここだ」

 七尾は、雨場と書かれた表札の家の前で立ち止まった。
 所謂高級住宅で、門戸付きの地下駐車場と二階建ての家屋が彼らの前にあった。
 彼は躊躇なく呼び鈴を鳴らした。

「風紀委員長の七尾と申します。龍一さんをお願いします」

 まもなく、門戸が空き、雨場が出てきた。

「珍しい組み合わせだな。……七尾委員長、何の用だね?」
「文化祭でのことについて、聞きたいことがある」
「……少し歩こうか」

 閑静な住宅街を歩く三人の影が道に長くのびる。
 しばらく歩いて、雨場は徐に話し始めた。

「文化祭の時のことだったか?」
「肯定だ」
「……話すのは待って下さい」
「え?」
「尾行されています。……振り向かず、歩き続けましょう。相手はかなりの手練れです。気配を極限まで消しています」

 数がいつもの穏やかな表情から一変し、鋭い眼光を放つ刺客の表情となっていた。

「相手はプロか?」
「恐らく。それに通常の人では感知すらできないレベルの気配であり、私には物理的に感知できると考えると」
「chaoticか」
「はい。……問題は、何故今の私達にこれほどの相手が尾行しているかです」
「……声は相手に聞こえるか?」
「この位の大きさなら、ギリギリ聞き取られません」
「わかった。……雨場会長。さっきの話の続きを聞かせてくれ」
「あぁ。俺はある人物からの命を受けて、文化祭で怪盗Φを探した。が、結果は知っての通りだ。彼らは怪盗Φの存在を快く思っていない。そして、昨晩私に命じられた」
「その内容は?」
「怪盗Φを排除するための協力で、情報を提供させられた」
「排除……。それは殺すという意味だな」
「そうだ。そして、私は怪盗Φについてのすべてを彼らに伝えた」
「どういうことですか?」
「私は彼らに逆らうことが許されない」
「……そいつらの名は?」
「わからない。組織とだけ聞かされている。ただ、世界中の政財界に圧倒的な力を持つ存在で、世界の混沌を統べるとか」
「「!」」

 七尾と数は顔を見合わせた。

「雨場会長。いつからその組織に関わっている?」
「生まれたときからだ。両親もその組織に関わっている」
「……七尾さん、それはもしかして」
「肯定だ。これは想定外だ。この時点で奴らの存在が我々の身近にあったとは」
「私もです。私のデータでも、この時代に組織の刺客が昭文学園になんて」
「……怪盗Φか。本来起こらなかった七不思議事件が怪盗Φの存在を蘇らせ、組織もそれを知り、無視できない理由があり、刺客を送り込んだ。……先刻話したグレーゾーンが最悪の形で歴史の前倒しとなって、起こったと考えられる」
「どうしますか? いつまで歩いても仕方ありませんよ? 例えchaoticでプロであっても、この時代の刺客なら私が本気を出せば何とかなるかと思います」
「いや、早まるな。……お前はダークホースそのものだ。今下手に動けば、歴史そのものを狂わせかねない」
「……相手の情報はないか?」

 すでに三人は昭文神社前まで歩いていた。
 人通りも少なく、相手はいつでも三人を襲える。
 七尾の質問に雨場は緊張した声で答えた。

「暗殺者だ。気配や痕跡を残さず、その存在自体が存在しない幻だとも言われているらしい」
「……εか。まさかこの時代から活動していたのか」
「七尾さん、εってまさか」
「あぁ。前の時に、9OD壊滅の際、お前とマオと同時に動いた暗殺者だ。……お前の記憶では?」
「ほぼ同じです。もっとも、私が外れ、εの名前を以後一度も聞いていないのでその詳細は不明です」
「知名度に差があるな。それこそ前倒しの影響か。……奴と相手をするなら、ステルス戦闘を覚悟しろ。奴の力そのものが、人の認識から己の存在を限りなくゼロにするεというものだ」
「……なら、相手に私の正体を隠して戦います。昭文神社へ行きましょう」
「勝算があるのか?」
「あなた方と一緒に歩くよりは」

 数は二人に言うと、石段を登りはじめた。
 二人も後に続く。




 

 

 夕陽に赤く染まる石段を登りながら、雨場は数に問いかける。

「何を考えているんだ? 相手は組織の刺客なんだろ? 戦うなんて」
「私もかつてはその組織の刺客でした」

 数は後方のεに警戒をしつつ、信号を送り続けていた。

『なんでぇ? 追われてんのか?』

 刹那、彼らに衝撃が起こった。

「「「!」」」

 次の瞬間、彼らは昭文神社の境内にいた。

『ちょっとストップウォッチでぇ~。……オメェら、オイラに何の用だ?』
「アール、お願い協力して!」

 数の言葉に呼応するように、本堂の影から雪だるま型宇宙人のアールが姿を現した。

「宇宙人、アールか」
「なんでぇ、未来人組か」
「ゆ、雪だるまがしゃべった!」
「てやんでぇ! オイラは雪だるまじゃねぇ!」
「アール、そんなことよりも私の正体を隠して戦える道具を出して」
「そんなこと? ……ほれ、変装セットォ~」

 銀色の髪をしたシエル・睦海・シスの姿に戻った数がアールにいうと、アールは彼女の言葉に機嫌を損なった顔をし、投げやりに頭の四次元バケツからマントと帽子と仮面を出した。

「この道具は?」
「怪盗Φになった気分に何となくなれるでぇ」
「それって、ただの仮装じゃない」
「そりゃそうでぇ。文化祭の時に怪盗Φの仮装用に用意したものでぇ。正体は隠せる」
「……」

 数はアールに非難の目を向けつつも衣装を受け取り、身につける。
 一方、雨場は腰を抜かしたままだ。

「とりあえず、こいつは現段階でオイラ達のことを知っているのは不都合だな」

 アールは四次元バケツからスプーンを取り出し、雨場の前に翳した。

「な、何をするつもりだ!」
「ジュワッチ!」

 スプーンが光り、雨場はその場で意識を失った。

「記憶取消スプーンでぇ。これで、こいつはオイラやオメェらとの会話の記憶は消えたでぇ」
「お前は本当に侵略目的ではないんだろうな?」
「二度目の人生を生きてる七尾北斗だったな? オメェ、オイラがもしも侵略目的だったら、とっくにこの星はオイラに征服されているでぇ?」
「肯定だな。すまなかった。……江戸川数、いやシエル・睦海・シスよ。雨場会長は俺が連れて行く。死ぬなよ」
「七尾さん、私を甘くみないで。昔の人間に私が負けるわけないわ」

 怪盗Φの仮装をした数は、彼らを残し、石段を降りて行った。





  
 

 夕焼け色に染まる石段をシエルが降りていくと、前方から何かが近づいてくる反応が、彼女のセンサーが伝えている。しかし、相変わらず彼女の感覚には相手の気配は感じない。
 彼女は目を閉じて、センサーの反応に意識を集中させる。

「!」





 
 

 探偵課こと、特殊捜査課は警視庁内にある元倉庫の一室にある。数年前までカビ臭く、読まれることのない遠い昔の捜査資料が所狭しと積まれていたこの部屋も、今や小綺麗な机とパソコンの置かれた狭いながらも使い勝手のよいオフィススペースとなっていた。
 そのドアをノックし、入室したのは警視庁捜査一課の犬山張介であった。所謂ノンキャリアで、所轄署の交番勤務から刑事の花形である警視庁捜査一課の警部になった人物である。定年が間際に迫る年齢ながら、未だ周囲の刑事や警察官僚から一目置かれている。その老犬のような細く痩せた体型とは裏腹に、庁内で十の指に数えられる剣道の実力者のも理由の一つだ。
 そして、特殊捜査課の迷圭二、伝節男両名の師匠的存在でもあり、捜査一課との重要なパイプ役でもある。

「ん? 名探偵はもう帰ったか?」
「いや、今日は非番です」

 壁に掛けられた出勤板の迷圭二と書かれた赤札を一瞥して、犬山が問いかけると、自分の椅子で犯罪心理学の本を読んでいた伝が本から顔を上げて答えた。
 ちなみに、迷圭二に名探偵というあだ名をつけた張本人こそ、犬山である。

「そうか。……まぁいい。伝にも関わりのある話だ」
「何です? 事件ですか? 奇妙ですか? それとも怪奇ですか?」
「どれでもない。しいて言うなら、過去の亡霊だ」
「亡霊?」
「怪盗φの復活が関係しているのかはわからないが……。前に日本に奴が現れた時のことを覚えているか?」
「忘れる訳がありませんよ」
「なら、虚無僧の格好をした男について覚えているか?」
「あぁ。覚えてますよ。確か、ミナモトとか名乗ってた素性のよくわからない男でしたね。それが?」
「日本に再び現れたという情報が入った。そのミナモトは各国のゲリラやマフィアと幅広く関係しているらしく、最近だと中東の紛争にも関わりがあったらしい。国際手配されている所謂テロリストだな」

 犬山は印刷されたばかりと思われるA4用紙が数枚まとめられた資料を伝に渡した。
 本を机に置き、資料を受け取った伝は、パラパラと目を通す。

「出典、ウィキペディアですか」
「インターポールすら資料がなく、各国の情報に照会を求めても、何も出てこないらしい。一番情報があるのが、インターネットだったらしい」
「……最高気温40℃を超える地域で虚無僧の格好をしてるのかよ。暑くねぇのか? てゆうか、記事の文章が荒れてますね」
「どうやら英雄視する意見が根強くあるらしい。過激派宗教者のテロリストに多いらしいな」
「格好は虚無僧ですよね。紛争地域じゃ異教徒ですよ。というか、日本でも怪しいのに、イスラム教徒の中にいると違和感がありすぎると思うんですが」
「そこまではわからねぇよ。とりあえず、こちらは国際手配者の入国についての情報を得た。担当部署は警戒しつつも別の危険人物の捜査中。それでこいつとかつて接触した探偵課に投げに来たんだ」
「建て前抜きで、本音を言いましたね」
「お前さんに建て前は通用しないだろ」
「確かに。……ちなみに、国際さんは誰を追ってるんですか?」
「よくわからないが、数年前から追っかけてる組織があるらしくてな。公安と協力して何やかんや忙しく調べまわってるよ」
「それこそテロ組織ってことですね。……日本の治安、大丈夫かよ」
「それを維持するのがお前さんの仕事だ」
「張さんもですよ」

 伝が言うのを背に犬山は笑いながら、部屋を後にした。







 
 シエルは目の前に迫る物体を感知し、回避する。
 木の枝が彼女に向かって投げられたらしい。枝が石段にぶつかり、はじけた。
 更に、何かが周囲の木々の間を移動している。
 シエルは素早く石段から薄暗い森の中へと入り、移動する相手に飛びかかる。

「!」
「タァァァアッ!」

 相手は身を翻し、彼女の攻撃を回避する。

『捕捉できただと?』

 相手は英語で呟いた。男とも女とも取れないが、若い声だった。声が聞こえるほどに近い場所にいるはずなのにも関わらず、相手の姿も位置も認識する事が出来ない。
 シエルは更にセンサーを頼りに追撃をする。

『何者だ?』
「怪盗Φ!」
『なにっ?』

 相手はεというchaoticの力だけでなく、自身の身体能力や暗殺者としての技術もかなり高く、シエルのセンサーでもその実体をはっきりと捉えきれない。
 εの動きを掴もうと周囲を警戒するシエルに石が四方八方から次々に襲いかかる。

「くっ!」

 投石を回避し続けるが、絶え間ない攻撃に意識が向かい、εの動きが掴めない。
 投石はシエルの周囲から不規則に襲いかかる。自身の動きを読まれないように、εが攻撃と同時に撹乱をしていることが彼女にもわかった。
 シエルは気づいていた。相手は自分以上の戦闘経験を積んでいる。

「ならぁ……」

 シエルは動きを変えた。ゆらりと体を揺らし、石をかわす。
 一つ目、二つ目、三つ目と石を回避する。

「……がっ!」

 刹那、四つ目の石がシエルの左腕にぶつかり、続いて五つ目が腰、六つ目が右太股に直撃する。
 シエルの体がふらつき、動きが鈍る。

『終わりだ』

 次の瞬間、木々の間から太い木の枝がシエルの胸部に目掛けて襲いかかった。
 同時に、シエルのセンサーが木の枝を持つ人の姿を感知した。
 そして、静寂が訪れた。

「やっと捕まえたわ」
『貴様、わざと隙を……』
「そうよ。存在が感知できず、動きも読めないなら、隙を作ってそこへおびき寄せれば、動きが読めて、感知もできる」
『何者なんだ、貴様は』
「言ったでしょ? 怪盗Φだと」

 シエルは仮面の奥で細く笑い、刹那、掴んでいるεの腕を思いっきり握りつぶした。

『ギャァァァーッ!』

 骨が砕ける音と、εの悲鳴が森の中に轟いた。
 砕けた骨は皮膚を破り、血飛沫がシエルの仮面とマントにかかる。
 そして、シエルがもう一方の手でεの首を掴もうとした瞬間、シエルの体に衝撃が走った。

「っ!」

 εは自身の砕けた腕を軸にシエルの胸に体当たりをしたのだ。
 そして、シエルがバランスを崩した一瞬のうちに、彼女の掴むεの腕の感覚が消え去る。
 突然の空を掴む感覚に思わずシエルの力が緩む。

「っ! しまった!」

 シエルのセンサーが手の中からεの腕がすり抜けるのを捉えるが、すでに時遅く、εは夕闇の木々の中へと消え去った。
 風に吹かれてざわめく草木の中、能力と技術でその気配を消すεを追うことは、如何に未来のサイボーグであるシエルであっても困難なことであった。
 シエルはマスクと帽子を脱ぎ捨て、その場で木々の間から見える夕陽に赤紫色に染まる昭文町を眺めながら脱力した。



 

 

 日没が過ぎた昭文駅前のロータリーは、街灯がつき、帰路へ向かう人々が往来し、昼の緩やかなホームタウン特有の落ち着きに対し、にわかに雑踏が急いてきた。
 その行き交う人の流れに外れ、駅構内へと繋がる階段の脇に佇む一人の虚無僧がいた。

「お母さん、あの人まだ立ってるよ。昼からずっとあぁしてるの?」
「そうよ。そういう修行中なの」
「修行?」
「そうよ。さ、今夜はカレーよ」
「わーい! クスクスだもんね! クミン、コリアンダー、ターメリック、ナツメグ、カルダモン、クローブ、フェンネル、ブラックペッパー、ジンジャー、オールスパイス♪」

 虚無僧に近付こうとした子どもを母親は手を引いて、立ち去った。虚無僧の前に小銭が入った籠が置かれていた為だ。
 虚無僧は、深編みの天蓋の奥からその親子の後ろ姿を見つめながら、今夜のカレーが、ヨーロッパ風になるのか、インド風になるのかと考えていたが、それは周りを歩く人々にはわからない。
 そして、虚無僧はゆっくりと天蓋を動かし、視線をロータリー中央にある時計台に向けた。

「………」

 虚無僧はおもむろに、傍らに置いていた1メートル以上ある長い錫杖を掴み、身支度を整えると雑踏の中へと歩き始めた。
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