未来への約束




「ねぇねぇ。知ってる? 理事長、殺されたらしいわよ」
「えぇ? でも新聞じゃどっちだかわからないって書いてあったわよ?」
「それはあくまでも表向き。証拠がないからはっきりとは書かれてないだけらしいわ。警察は殺人事件で調べているみたいよ。しかも、もう犯人もわかっているらしいわ」
「そうなの? 誰なの?」
「ここだけの話だけど……。実は警察が大っぴらにできないのは、それが生徒だからみたいよ」
「うそ。じゃあ、私達の中に犯人がいるの?」

 昼休み中、生徒達の雑談で賑わう教室の片隅で女子生徒達が声を潜めて噂話をしていた。
 国見はチラリとそんな彼女達を一瞥すると、そのまま教室を出た。
 嫌悪感。そう形容する以外にない胸のざわめきを感じながら彼は廊下を歩く。
 しかし、野次馬的な好奇心の面白半分である今の程度の噂話ならば、まだましだと思うところもあった。
 すでに彼は学校内でまことしやかに囁かれている噂の中に、興味本位ではなく恐怖と狂気をまとうものがあることを知っていた。
 きっかけは理事長の怪死事件だった。理事長は旧校舎にあった特注の理事長室で発見され、すぐに警察が捜査に入り、砒素中毒であるとわかった。
 しかし、どれだけ調べても理事長がどのように砒素中毒に至ったか、全く解明できず、事故か他殺か、自殺かもわからないのだ。
 これだけであれば、ただの怪死事件であったが、噂は凄まじい勢いで尾鰭がついていた。
 人は誰もが得体の知れない存在、理解のできないことに恐怖する。恐怖は未知のウィルスと同じだ。伝染し、パンデミックになる。理事長の死は瞬く間に怪奇となり、教職員、生徒の隔たりなく恐怖し、いつの間にか彼女の持つ力も怪奇となり、二つは彼女が理事長を殺害したという形で一つの話になっていた。
 彼は階段を上り、屋上の重い金属製の扉を開いた。戸が開くと同時に風が吹き込み、思わず彼は目を細めた。
 扉を閉め、壁に付けられた非常用梯子を登り、屋上の更に上、踊り場の屋根に上がる。
 避雷針に寄りかかり、風が吹いてページがめくれそうになるのを気にせずに分厚い単行本を読む女子生徒の姿があった。

「……やはりここにいたか」
「……やはりここに来たか」

 彼女は国見の言葉に対して、視線を単行本に落としたまま同じような言葉で返した。
 件の噂の渦中にあり、恐怖の対象となっている中口麗子は、ここのところ教室に現れることがなく、いつもこの学校内で最も高い場所にいた。
 教師陣も彼女のことは知っていたが、彼女を教室へと戻らせようと来た者は一人としておらず、それどころかこの屋上を嫌煙し、近づこうともしない。

「また違う本だな。今度は何を読んでるんだ?」
「埴谷雄高の死霊」
「……えらく難解なものを読んでいる」
「読んだことはある?」
「いや。図書館で手に取ったことがあるけど、数ページで挫折した」
「懸命よ。読むことにこれほど労を要する書籍は久しぶりだわ」

 麗子は肩を動かし、肩がこったと呟きつつも、その視線は文章に向けたままだ。

「……噂、日増しに広がっている。尾鰭もかなり付いている。全く、なんだって理事長はあんな迷惑な死に方をしたんだ」
「死という事象そのものは珍しいものではないわ。ヒ素だって、世の中にある毒物として考えれば特別なものではないわ。不可解なことは何もないただの中毒死よ。ただ単に部屋が密室だっただけ。自殺や他殺でも、難解とされる探偵小説に出てくる謎の方がずっと不可解なものがあるし、現実の世界でも日々密室という空間が物事をややこしくしていることなんてたくさんある。問題はそんなありふれた事象をどう捉えるか、それだけよ」
「怪奇だのと騒いでいる奴らの認識が問題だってのはわかっている。だけどな、それで今みたいな状況にお前らが置かれている。それをどう解決するか、というのが一番の問題なんじゃないか?」
「辰巳さんらしいわね。だけど、それは私たち兄妹だけの、今回だけの問題にしか過ぎないのよ。……あなただって、口では私たちと同じ立ち位置にいるように振舞っているけれど、それが本当にあなたの立ち位置なのか? それを私たちに示すことも、あなた自身が確信をもって示すこともできないはずよ」
「それは……」
「国見にそれを答えさせるのは酷というものだぞ、麗子!」

 国見が言葉に詰まらせていると、後方から聞き覚えのある声が助け舟としてかけられた。
 振り向くと、麗子の兄、中口一が梯子を上がってきた。

「なら、兄さんは構わないの? この世の中が、人が、このままでも」
「そうだな。生きにくいと感じるけれど、それで他の人が暮らしやすいなら、俺は別に構わない」
「それは兄さんがお人好しなだけよ。いえ、逃げてるだけよ。それでは、何も変わらないし、兄さんはいつまでも今と同じよ」
「だからと言って、周囲を傷つけてまでやることでもない」
「……それはきれいごとよ。犠牲なく何かをなせるなんてことはないわ。……兄さんは優しすぎるのよ。それはいつか取り返しのつかないことになるわよ。私は違うわ。どんな手段を使っても、例え大きな犠牲を払っても、私はこんな生きにくい世界に兄さんを生かす訳にはいかない」

 麗子ははじめて視線を単行本から視線を上げ、中口と国見を見た。その目はとても強い意志が宿っている全く揺るぎのないものであった。
 そして、単行本を閉じると、徐に麗子は立ち上がり、彼らに近づく。

「辰巳さん、本当に私と同じ立ち位置にいるというのなら、今晩、学校に来て」

 国見の横を通り過ぎる瞬間、中口に聞こえない小さな声で麗子は囁いた。
 そして、彼が驚いて振り返ると、麗子は中口の前に立つ。

「どいて。もうここも安息の場所じゃなくなったわ」

 中口が横にズレると、麗子はそのまま屋上を去っていった。
 その日、麗子の姿は校内になかった。




 

 

 その夜、国見は昭文学園へ向かった。
 校門の前に麗子の姿があった。

「来てくれたのね」

 麗子は静かに微笑んだ。

「当然だ。しかし、なんで夜の学校に?」
「言ったでしょ? 犠牲を払うと。私は兄さんをこのまま他者にとって得体の知れない存在を受け入れない世界に生かし続ける訳にはいかない。私はφよ」
「φ……。まだその呼び名を」
「辰巳さん、私の為に犠牲になれる?」
「え?」
「何もしなければ何かをなすことはできない。それに大きな犠牲を払うことであっても、それができる? 私と同じ立ち位置にいるのなら、できるわよね?」
「な、何をするつもりなんだ?」

 国見は目の前にいる麗子に恐れを感じた。
 麗子はジッと彼を見つめている。それは彼の、彼自身すらも自覚していない心の奥底を見透かしているかのように思えた。

「人々に気づかせ、そして受け入れさせるのよ。多くの人にはない力を持つ私達のことを」
「どうやって?」
「φになるのよ。私と辰巳さんで。そして、本当の怪奇を人々に見せるの」
「……何をするつもりなんだ?」

 国見はもう一度、先と同じ質問をした。

「理事長を殺したのが私だというのならば、本当にそうしてしまうのよ。ただし、この場合の私は、中口麗子ではなくてφ。そして、再びφは殺人を犯す。その被害者は辰巳さん。しかし、φは死者を蘇らせる。辰巳さんは生き返り、私と同じφとなる。人々は怪奇と奇跡を目の当たりにする。……それが第一のシナリオよ」
「第一?」
「そう。所詮は茶番。この程度で何人が考え方を変えるかわからない。だから、第二のシナリオも、第三のシナリオも考えたのよ。第二は、本物の恐怖を教えるのよ。この学校に例えば、爆弾を仕掛けるの。そして、人々は怪奇よりももっと具体的な恐怖を知るのよ。第三は……」
「それ以上言うな」
「怖じ気づいた? 方法は幾らでもあるというのを伝えたかったのよ。でも、これらは現実から遠いわ。私も馬鹿じゃない。もっと手っ取り早い方法があるのよ。理事長の死に今回のことは端を発しているわ。なら、それを根底から覆せば良い話よ。理事長こそがφで、今も生きている。そうなれば、人々は都合のいい解釈なんてなく、はっきりとした具体的な存在としてφを認識するわ」
「そんな、死んだ人間は生き返らない! それこそ荒唐無稽じゃないか!」
「……やはりあなたも他の人と同じね。固定観念を捨てられない。自分達の信じる常識に当てはまらない存在を排他してしまう。それこそが今の社会の差別や迫害の根幹にあるものよ。そして、それこそが今回の事件を抜け出せない迷宮へと誘い、人々は怪奇という都合のいい逃げ道に迷い込ませ、混沌へと惑わす要因よ。私は辰巳さんに言ったはずだわ。理事長の死は別段珍しくない出来事なのだと。しかし、それを怪奇へと惑わす要因が覆い隠している。なら、それはなに? 簡単なことよ。起こり得ないことがいくつも重なっているから。でも、複雑に考えないで、シンプルに考えると自ずと結論は見えてくる。砒素は部屋にあり、理事長はそれを密室内で飲んだ」
「自殺だったと?」

 国見が聞くと、麗子は静かに笑った。

「いいえ。自殺ではないわ」
「だけど、その言葉はそういう意味だろ? それに、なんでそんな断言が言えるんだ?」
「調べたのよ。現場にも何回か侵入したし、関係者から話も聞いたわ。警察が自殺と判断できなかったのは、当日理事長は毒物を所持していなかったと確たる状況であったから。他殺と言えないのは、中から鍵がかかった密室であったから。でも、事故か、他殺か、自殺かという固定観念を捨てて何が起こればあの怪奇ができるかと考えれば、別の見方ができるわ」
「別の見方?」
「毒物ははじめから部屋にあって、理事長は密室を使って、それを使って死亡した。それなら、納得できるでしょ?」
「それなら自殺なのでは?」
「彼の死が私達にとっての死と同じとは限らない。私はそれを調べる為に、辰巳さんに頼んだのよ。この学園には秘密があるの。それを暴く」
「待って、話が見えない! 秘密ってなんだ? それに、それが麗子や中口を助けることになるのか?」
「ふふふ、それこそがφにする手段なのよ。どうする? 世界の真実を見る勇気があなたにある? 受け入れる勇気があなたにある?」
「………」

 国見が麗子に問われ、答えに詰まらせていると、明かりが彼らに向けられた。

「「!」」
「そこでなにをしている!」

 自転車に乗った警官であった。
 麗子は素早く前に立ち、警官に口を開く。

「教室に宿題を置いてきてしまい、どうにか取りにいけないかと来ておりました」
「生徒か。……だが、それは諦めてもらう」
「なにかあったのですか?」
「理事長の遺体が消えたんだ」
「「!」」
「というわけで、もう一度現場検証を行いに警視庁の人達がこれからここにくる。夜遅くに出歩いていることは今日咎めないから、今日はさっさと帰るんだ!」

 そのまま麗子と国見は警官から追い返され、夜道で麗子は彼に別れ際に伝えた。

「明日の夜。学校へ侵入するわよ。私を信じるなら、今日と同じ場所に、同じ時間で会いましょう」






 

 翌朝、麗子が学校に登校せず、帰宅していないことを国見は中口から聞かされた。
 そして、理事長の遺体が消えたことは既に校内中の噂となっていた。更に、新たな事実として昨日現場検証に警察が部屋へ向かうと鍵がかかっており、全く中へと入れなかったという。
 同時に消えた二人と開かずの間の出現に対して、人々は関連づけ、やはり麗子が理事長を殺したのだと噂していた。
 そして、麗子が度々現場に侵入していたことも明らかになり、開かずの間は麗子が仕組んだ証拠隠滅だという内容も耳にした。
 噂とはじめは気にとめなかった国見も、次第に昨晩の自らをかつての様にφと呼び、怪しい雰囲気を纏った麗子の姿が脳裏に浮かび、彼自身も麗子を信じきれなくなってることに気づいた。
 そして、次第に麗子への疑心暗鬼が募り、もしも麗子がすべての犯人であったら、次は自分が殺されるかもしれないと思い始めていた。

「なぁ、国見。……麗子の昨晩の足取りを知らないか?」
「いいや」

 中口に問われた時、彼は嘘をついた。
 そして、その夜彼は何もしなかった。
 学校に行くこともなく、麗子を探すことも、中口に麗子と会ったことを伝えることも、理事長の死について調べることも、開かずの間について考えることも、なぜ麗子が自らをφと呼んだのか思い出すこともなく、彼は床についた。

「明日になれば、なんとかなる」

 彼はそう呟いて眠りについた。
 彼は恐ろしかったのだ。
 そして、翌朝、中口麗子の首吊り死体が昭文学園で発見された。
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