第二章 因縁
彼に幼少時の記憶はほとんど残っていない。しかし、鮮明に覚えている一夜の出来事がある。
当時、彼はドイツの離島で漁師をする父の元で暮らしていた。慎ましい生活は、決して裕福ではなかったが、彼は生涯で最も幸せな時間を過ごしていた。
時代は戦後からソビエト連邦とアメリカ合衆国の冷戦へ突入し、核開発競争はミサイル開発、宇宙開発競争に推移していた。しかし、核実験は国際条約の穴を掻い潜るように幾年もの間続けられ、その影響も彼の生活に現れており、かつて行われた核実験の放射能汚染で、漁獲制限が設けられ、父の収入を減らしていた。
この夜も、細やかな夕食を済まし、早くに就寝していた。いつもと同じく、静かな夜であった。窓からの景色は、霧により星も見えない闇に包まれていた。
「なんだろう? 今、音が……」
彼は静けさの中に打ちつける地響きに気がつき、父に話しかけた。しかし、父は一向に起きる気配はなく、寝息を立てていた。
彼は恐る恐る外へと出た。冷たい空気が肌を刺す中、彼は確かに霧の先にいる気配を感じとった。
「海の方だ……」
小波が霧の先から囁く。しかし、その音の中に、地響きに似た重厚な音が混ざっている。彼はゆっくりと海岸に近寄った。
霧の中に時折見える岬の灯台からの灯をたよりに、洋上の様子を伺った。
「っ!」
彼は見てしまった。霧の中に差し込む灯が巨大な影を浮かび上がらせた。
影は、息遣いで周囲の空気を震わせ、彼のすぐそばを横切った。一際大きな地響きが彼を襲った。立っていられず、とっさにその場に座り込んだ。
「なんだ……今のは?」
彼は一人呟いた。
刹那、大きな破壊音が霧の中に轟いた。彼は見えずともわかっていた、今の破壊音が先の影によるものである事に。
しかし、彼のまだ短い人生の中で、かつて経験したことのない恐怖と敗北感が彼をその場に座り込ませていた。
破壊音や爆発音、時には悲鳴が白い闇の中から聞こえ、彼は何もできず、その場にいた。
霧が薄まり、霞になり、月光が周囲を照らし始めた。灯台は破壊され、灯はなくなり、港からは炎と黒煙が上がっていた。
彼は恐怖に震える体を奮い、ふらつきながらも立ち上がった。地響きは尚も続き、脅威が去っていない事を理解する。
泣き声に気がついたのはその時だった。彼は無我夢中で泣き声の元へと走った。
「大丈夫か!」
子どもだった。自分よりも遥かに幼い子どもだった。その側の瓦礫から大人の手が覗かせていた。
「お母さん、動かないんだ」
まだソプラノの声で幼い男の子は彼に言った。何も言い返せなかったが、同時に不安が脳裏を過ぎった。
子どもの手を掴むと、彼は家まで走った。
「………っ、親父!」
家の裏手に父の亡骸はあった。後頭部に拳くらいのレンガが当たっていた。
自分の事を探そうとわざわざ裏手に周り、その時に運悪く死んだのだと、彼は理解した。悲しさよりも虚しさが先行した。
彼が虚無感を感じていると、先程自分がいた岬に、影がいた。影は黒い巨体に背鰭と尾を揺さぶり、咆哮した。
それは全てを奪い去った悪魔の雄叫びだった。
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「流石、イギリスはネス湖。寒いわねぇ」
優は白い息を吐きながら言った。
ゴジラが消息不明となり早くも2ヶ月が経とうとしていた12月20日。時折、雪もチラつく寒空の下、三神と優の二人はブリテン島北部ネス湖湖畔を歩いていた。
「寒いのが辛いなら、来なければよかったのに………」
「はぁ?」
三神の一言が癇に障ったらしく、優が三神を睨みつける。
「私はミジンコ君が急にネッシーの目撃数が増えているって情報を持ってきて調査しにいくってわざわざ言ってきたから、仕方なく一緒に来ているのよ。それに、こっちに来てからまともに私と二人で話をしようとしてなかったじゃない! これは、クルーズさんの意思でもあるのよ。それを貴方は、よくもまぁいけしゃあしゃあと来なければよかったなんて………。全く、離婚して正解だったわ!」
優の剣幕に圧倒され、三神は後ずさる。ネッシーとは、ネス湖の未確認生物、UMAの名前で、その正体は首長竜の生き残りとも新種の生物とも囁かれている。
「まぁ……ネス湖に関しては、最近嫌な夢が続いているのもあってね。万が一の為に、一人では行きたくなかったんだ」
「なんだっけ? ゴジラが洞窟をゆらゆら潜っていくって夢?」
三神は頷く。
「そう。大西洋の深海の闇の中を巨大なゴジラの影はゆっくり泳いでいくんだ。やがて巨大な穴を見つけて、その影はゆっくりと穴へと入っていく。その遥か先の海上には、ヨーロッパがあるって夢」
「全く、特殊生物学者はUMAハンターの事だったのね。それだから、失業するのよ。甲斐性なし」
優は冷たい視線で言い放った。しかし、流石の三神も黙っていない。
「し、失業じゃない! 無期限の休職中なんだよ。それに、アメリカが僕を色々と訳のわからない容疑をかけて日本に帰国できないようにしているんだから、国立大戸ゴジラ博物館で仕事もできない。だから、仕方なくの無期限休職なんだよ!」
「確かに、今のは私の言い方が間違ってたわ。仕事も帰るところもないダメ人間」
「うぅ………」
返す言葉もなく押し黙った三神に、勝ち誇った笑みを浮かべる優が改めて聞く。
「しかし、なんでわざわざミジンコ君自身で来たの? パリにいたんだから、そのままパリにいて、私なり、グリーンなり、それこそクルーズさんに連絡して誰かに調べてもらえばよかったのに」
「グリーンはクルーズさんの依頼とやらで、殆どヨーロッパに来てから顔を見ていないし、電話やメールをするたびに違う国にいるみたいだから。確かに、クルーズさんのお陰で僕らは日本に帰れない代わりにかなりの特権を与えられているけれど、ゴジラの出現がなければ殆ど意味を持たないよ。一応今回のネス湖も、色々と調査をしてもらっているんだ」
「へぇー、意外と考えているんだ。………で、なんで私を連れてきたの? イギリスにいたからじゃ説明にならないわよ。私がいたのは、ロンドンの国立病院。しかも、チェルノブイリでの事故被害者の放射能症患者治療について、当時の担当医との対談。本当は、更に詳しく情報交換をしたかったのに、どっかのだれかさんが呼び出したから、話をするだけで帰ってきたんだから」
優が言うと、三神は説明しようと口を開くが、なかなか声が出ない。
「なによ。言いたければ言いなさいよ」
「僕だって、そろそろ話をした方がいいかなと……」
「え?」
「2年前、僕がDO-M研究中の事故で何を知ったのか、優の前から突然姿を消したのか………」
「話して、くれるの?」
優が半信半疑で聞き返すと、三神は静かに頷いた。彼が口を開こうとした時、突然男がぶつかってきた。思わず尻餅をついた三神だが、すぐにカバンが盗まれた事に気がついた。
「あ! 引ったくり! 優、ここで待ってろ!」
三神は優に言いつけると、引ったくり犯を追いかけた。優はどうしてよいのかわからず、立ち尽くしていた。
「どこに行った?」
三神は雑木林まで引ったくり犯を追いかけたが、途中で見失ってしまった。彼は周囲を見回す。
犯人を見失い、落胆した三神はうな垂れた。気を取り直して顔を上げると、後頭部に硬く冷たい無機質なものが触れている事に気がついた。
「動くな」
背後から男の声が、日本語で三神に命令してきた。確認をしなくとも、後頭部にあるものが拳銃である事は三神にもわかった。
「意外に見つけるのに時間がかかったが、騒がずについてきてもらう」
男は言った。三神は震える手足を抑え込み、グリーンの話し方を意識して言う。
「何のために行かなければならないのかも言わずにでは、誘いじゃなくて誘拐と言うんじゃないですか?」
「思ったよりも生意気だな。目的は追々話す。それから、これは誘いでも誘拐でもない。拉致だ」
刹那、三神の首に痛みが走る。男に麻酔針を指された三神は、一瞬にして意識を失った。