序章 記録



『その昔、何年、何十年に一度、長く時化が続く時があった。それは海の中に潜む巨大な怪物『呉爾羅』が暴れているからであった。呉爾羅は海の物食い尽くすと、今度は陸へ上がってきて人間までも食べてしまう。島の人は呉爾羅を鎮める為に、島の若い娘を選び、神楽を行い遠い沖へと娘を生贄として舟に一人乗せて捧げる。すると、呉爾羅は鎮まり、魚が取れるようになる。』(大戸島・呉爾羅伝説より~)


1954年8月13日19時5分。
 太平洋の日本近海(北緯二十四度、東経百四十一度)の地点。南海汽船所属7500トンの船舶、栄光丸はSOS信号を残し、消息を絶った。全てはこの海難事故から始まった。
 更に、翌日には栄光丸の捜索に向かった備後丸までも消息を絶ち、その後救助をした大戸島の漁船までも同じ地点で消息を絶つ。
 当時海上保安庁につめていた私は、大戸島の漁船の男性乗組員が奇跡的に生還したとの情報を得て、大戸島へ向かった。その乗組員(所沢~政治さん)は「巨大な生き物に襲われた。」と証言。また、島のある老漁師は「伝説の化け物『呉爾羅(ゴジラ)』の仕業だ」と語る。
 果たして、その様な事があるのであろうか………。


1954年8月17日夜。
 事件が起きたのは呉爾羅の怒りを鎮める祭りが終わり、暴風雨となったその夜の事であった。嵐と共に現れた巨大な何かに襲われて、島は大被害を受けたのだ。実の所、私の乗って来たヘリコプターもその被害にあったのだ。
 その被害は、破壊家屋17棟、死者9人、牛12頭、豚8頭に及んだ。破壊された家屋やヘリコプターを見た私は、それが台風によるものではなく、上から押しつぶされたとしか考えられなかった。


1954年8月19日朝。
 嵐の翌日、私を含め、被害を受けた人々が東京の国会へ『大戸島災害陳情團』として証言し、その国会で古生物学者山根恭平博士は委嘱を受け、調査団を編成し、大戸島災害調査船『しきね』が今朝出発した。この調査には、山根博士の他、博士の一人娘で助手である恵美子さん、南海サルベージK.K.の尾形秀人さんも同行していた。
 そして、大戸島での調査から足跡らしき窪みから発見された太古に絶滅した筈の三葉虫の死骸、島の一方だけが放射能に汚染されている井戸、謎が次々に湧き上がる中、島中に鐘の音が響き渡った。
 島の中央にそびえる丘に駆けつけた調査団と島民が目にしたのは、禍々しい不気味な怪獣の巨大な頭部であった。その後、怪獣は足音を残し、海へと去って行った。
 そして、国会へ戻った山根博士の報告は、怪獣は水爆実験によって安住の地を追われたジュラ紀の海生ハ虫類と陸生獣類に進化しようとする中間型の生物だというものであった。山根博士は怪獣を仮に大戸島の伝説にしたがって、『ゴジラ(Godzilla)』と呼称した。後に世紀の大怪獣と呼ばれる事となるゴジラの名はこの時つけられた。
 その時、既に船舶の被害は甚大で、17隻に及んでいた。この被害と本土上陸の危惧から、政府はゴジラ対策に本腰を上げ、『特設災害対策本部』を設置した。
 この前代未聞の怪獣災害の危機に、戦後復興も完全には終わっていない東京に住む人々は再び疎開を考え始めていた。


1954年8月21日10時17分。
 特設災害対策本部の指示で、大戸島西方海上である東経百三十八度より同じく七分、北緯三十三度より同じく八分を結ぶ海上において、10隻のフリゲート艦隊はゴジラに対し、爆雷攻撃を開始した。
 この恐怖にかられた政府のゴジラへの攻撃にゴジラの研究を推進していた山根博士は心を痛めたという。
 そして、恐怖は人々に多くの波紋を生みつつ、突如夜の東京湾にゴジラが現われ、更に恐怖を駆り立てた。


1954年8月22日昼。
 ゴジラの東京湾出現に混乱が静かに広がる翌日、私は恵美子さんにお願いし、彼女の許婚であり、山根博士の弟子であるという若き原子物理学者芹沢大助博士を会いに、『芹澤科学研究所』を訪ねた。結果は、門前払いで研究室にも入る事が出来なかったが、彼の研究がゴジラ対策の役に立つと私は考えていたのだ。
 しかし、非情にもその夜、ついにゴジラは品川に上陸し、本土に被害を及ぼす事となった。この夜の出来事により、翌朝には各国の調査団が日本に続々と到着した。


1954年8月23日16時30分。
 東京湾を移動中のゴジラが確認され、対ゴジラ用に高圧電流鉄条網を急務で準備し、同時に避難が開始された。


1954年8月23日夜。
 その夜の東京を照らす明かりは、街灯ではなかった。燃え盛る炎、それが東京を火の海にしながら、照らしていた。
 そして、人々はその目に焼き付けていた。その年結成されたばかりの防衛隊による攻撃を物ともせず、放射能を帯びた白熱光(radiation flame)を吐く、この世のものとは思えないその怪獣の姿を。
 その後、ゴジラはテレビ塔をなぎ倒し、ビルや国会議事堂をも叩き壊し、ジェット戦闘機の攻撃もはねのけて東京湾に去った。


1954年8月24日昼。
 夜が明けて、東京は9年前へと逆戻りとなった。人々は、親しい人や家を失い、怪我と放射能症に苦しんでいた。そして、全国で「安らぎよ、光よ、突かえれかし」と一斉に平和への祈りを少女達の美しい歌声にのせて捧げられた。
 この日政府は、山根博士にゴジラの対策研究班を用意し、更なる被害に対して備える方針を示した。


1954年8月25日昼。
 東京湾へしきねが出発する。
 その目的は、芹沢博士の発明品『オキシジェン・デストロイヤー』をただ一度の使用を条件に、ゴジラに使用し、葬り去る事。その発明品は、水中の酸素を破壊し、あらゆる生物を液化して消滅させるものであった。この発明品を片手に芹沢博士は、反対を押し切り、自らも尾形さんと共に潜水する事になった。
 オキシジェン・デストロイヤーは、始動し、ゴジラを苦しめ始める。
 一方、尾形さんを先に上がらせた芹沢博士は、世界平和の為に、自分の命と共にオキシジェン・デストロイヤーの秘密を永遠に葬ってしまった。芹沢博士の遺言は、恵美子さんへ「幸せになれ」というものであった。
 果たして、ゴジラは息絶え、東京湾の海底で跡形もなく溶けて消滅した。こうして、ゴジラの脅威は一人の若き天才の貴い犠牲によって去った。
 しかし、山根博士はこう語る。「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また世界のどこかに現れてくるかもしれない」


国立大戸ゴジラ博物館展示物「ゴジラを見た男~(毎朝新聞提供)」より抜粋
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