静寂が降りる頃に


   ※ ※ ※

「昨夜は散々だった……」
「クレームは報告しておきましたから。申し訳有りません」
 楓がさも全ての責任は自分に有ると言う困り顔で6畳間のテーブルの上にコーヒーが入ったマグカップを置いた。
 取引が終わって帰宅して大きな鼾を掻き、午後3次時。
 空腹を覚えて起きたらその時間だった。
 帰宅するなり義務として、楓にありのままを報告した。
 楓は大層驚いて取引を仲介した業者を通じてクレームを報告した。
 雇われ人の現場での暴走だったとしても、あらゆる規定に違反している。
 取引は終わっても看過できない出来事だった。性根がまじめな楓は明け方までクレームに到る報告をつらつらと携帯電話で仕事を斡旋してくれた仲介業者に報告していた。
 その様子を最後まで見届ける事無く、明奈は自分にあてられた部屋である、2階の6畳間へ上がり、さっさと布団を敷いて寝た。
 衣服を脱ぎ散らかしたままでラドムVIS35が収まったままのショルダーホルスターを枕元に置いて。
 風呂に入って体を温める手間すら惜しかった。
 羽毛布団と毛布に挟まれて、足元の電気あんかで早く夢の国へと旅立ちたかったのだ。
 空腹に押されて起きたものの、今から昼食を食べるには中途半端。夕食には早い。
 いつものように深い味わいの割りにコクが無く、それでも不思議と美味い熱いインスタントコーヒーを啜りながら、電熱器に背中を当てて背筋を丸める。……近いうちに楓がコタツを出す予定だという。
 基本的に家屋内は禁煙なので、気楽にキングエドワードスペシャルを吸えないのが殆ど唯一の難点だった。
 給料は楓の夫の家系を担ごうとする『昔の馴染み』からそこそこの入金が有り、歩合も考慮され、更に昨日――実質、本日早朝――の不手際で、機嫌を損ないそうな明奈を宥める為にやや多めに色を付けてくれた。支払いは現金で手渡しだ。
 部屋着の濃紺のジャージ。
 明奈の私物ではなく、楓の夫が着ていた物で、捨てずに置いていた。 身長が160cmも無い楓には大きすぎたが、身長が170cm余ある明奈には丁度いい寸法だった。
 その楽なジャージを遠慮なく借りてコーヒーを飲みながら寛いでいると台所から楓が顔を出した。
「あの、お腹空いていませんか? 何も食べてないでしょう?」
「あ、ああ。何も食べてないね。今からだとちょっと中途半端かな?」
 楓は微笑みながら台所に消えた。
「?」
 微笑の意味は理解できなかった。
 直ぐに何かを拵える雑多な台所の音が聞こえる。
 明奈は特に興味を示さず、ジャージのハンドウォームに突っ込んだキングエドワードスペシャルを吸うべく玄関から屋外へ出た。
 直ぐに左手に折れて敷地内の小さな庭で折り畳みの椅子を広げて座る。
 キングエドワードスペシャルを口に銜えると体を丸めて風除けを造り、右手の中でマッチ箱を回転させて中身から1本のマッチを取り出し、器用に片手だけで火を熾す。
 マッチが吹き付ける風で消えないうちに小さな火を細長い機械巻きの先端をゆっくり炙る。
 じっくりと吸うのは久し振りのような気がする。
 気持ち好くすぱーっと長い煙を吐きたいのだが、風が強く口元から押し出された煙は無常にも掻き消されてしまう。それに結構寒い。
 ジャージの下にセーターを着込んでタイツを穿いているがそれでも爪先や尻から寒さが沁みる。
 手袋を忘れた指先も風に撫でられて思わず両手をハンドウォームに突っ込んでしまう。
 絶好の喫煙スペースなのだが、暑かろうが寒かろうが屋外でしか喫煙できないのは肩身が狭い。
 今まで、こんなに喫煙場所で困った職場は無かった。
 役目を終えたマッチ棒は既にポケット型灰皿に押し込んである。その安っぽい灰皿にキングエドワードスペシャルの灰を落とす。
 家主が嫌煙家や非喫煙者だとこんなにも辛いのだと、冷たさと共に寒さも感じる。
 葉巻を吸い終わったらもう一杯熱いコーヒーを淹れてもらおう。あのコーヒーはインスタントのはずなのに何故か美味しいのだ。中堅程度の簡易ドリップコーヒーと同じくらいに美味しい。……まさか愛情が隠し味などとそんな安っぽいオチではないだろう。
 20分ほどで喫煙を切り上げる。
 夕方に差しかかろうとしている時間帯で少し寒さが強くなってきた。 3分の2ほどを灰にしたところで、名残惜しくも吸い差しを灰皿に押し込んで外側から良く揉む。
 ポケット灰皿はこの様にして火を強制的に消す事が出来るし樹脂製なので水洗いできる上に、紛失しても100円均一で手に入るので扱いが楽だ。
 ……尤も、吸殻の臭いは隠しようが無いので玄関脇に置かれた蓋付きのアルミ製ペール缶に捨てる。楓が言うからには喫煙者の為の配慮だそうだが、喫煙者からすれば何かの苛めかと思われる仕打ちだ。
 家屋内に体を震わせながら入り、いつもの1階6畳間へ行くとBLTサンドが白い皿に乗って待ち構えていた。
「コーヒー、淹れますか?」
 楓が台所から訊ねる。「ああ」と応える明奈。
 この【屋長組】は普通の住宅が本拠地と言うことも有って、毒気が抜かれてしまう。
 これでは流れ者の宿と言うより、居候させてもらっている学生のような気分だ。
 確かに三食が付いてくる。だが、ハイカロリーで高タンパクな脂ぎったものは出てこない。
 主婦が夫や子供の為を思って考案された家庭料理ばかりだ。
 健康的な生活に突然、身を窶してしまった為に未だに慣れない。どこかへ食べに行こうかと思うが、愉しそうに料理を作る楓の横顔を見ていると無碍に出来ない気持ちばかりが先走る。
 今し方作って貰ったBLTサンドにしてもたったの二切れしかない。ボリュームも抑え気味。……もう直ぐ夕飯だから腹具合を考えてくれたのだろう。
 ふと……危険な思考が走る。
 若しも、【屋長組】の『流れ者の第一号が女で無かったら、明奈で無かったらどうなっていただろう?』と。
 流れ者は、荒くたく粗暴で、粗野な性分の男がイメージを裏切らずに大量に存在する。
 そんなむくつけき男が、この家に上がりこんだら、どこから見ても寸鉄一つ帯びない楓は無事だろうか? 無事なわけは無い。
 テーブルの前にちょこんと座り、大人しくコーヒーが出るのを待つ。 前に一度、自分で台所でコーヒーを淹れたが、楓の作るコーヒーには遠く及ばない味だった。
 同じインスタントを用いても何故こんなに差が歴然と出るのか未だに不思議だ。
 棚には複数のインスタントコーヒーの瓶が並んでいたので、もしかするとあの複数の瓶の何れかが大層な代物で、来客にしか供さない高級品なのかもしれない。
 やがて運ばれてきた熱いコーヒーを啜りながらBLTサンドを齧る。 ベーコン、レタス、トマトだけのシンプルな具材。
 パンの両面に水分を過剰に吸い込まないように少量のマスタードを練り込んだバターが塗られている。
 小腹を満たすのに十分な大きさ。夕飯までに繋ぐおやつ程度。
 齧って咀嚼する。
 ベーコンの塩分と歯触りがレタスの植物質なささやかな抵抗と合わさって食感が愉しい。
 後からベーコンの脂分を洗い流すようなトマトの瑞々しい水分。
 苦味を感じないトマト。
 マスタードが混ぜられたバターの仄かな塩分と更に混ざり合い、見た目以上に複雑な味が口の中で広がり、噛み締めるごとに代わる代わる、具材が頭角を現す様は味が迷路のように広がっていく。
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