静寂が降りる頃に

「あ、あの……」
 しどろもどろになるのを押さえ、渇く喉を抑えて、明奈は口を開こうとした。
「あー。紹介でいらした方ですか!」
「あ、え、あ、はあ……」
 目前のエプロンが似合う女性は途端に笑顔を作ったかと思うと、玄関のドアを大きく開いて明奈を招いた。
「詳しい話は中でします」
「え、あ、はい……」
 まだ解離した部分が引っ掛かって素直になれない明奈。こうして普通の家屋の中に勧められるままに入っていく。
「狭いところですが……」
 女性は笑顔で言う。
 まだ引きつり笑顔の明奈。
 6畳間のテーブル。
 周りは箪笥やテレビなどの普通の家庭だった。
 テーブルに相対するように座った二人。テーブルの上には珈琲が湯気を立てるカップが2つ。
「情報屋さんから大まかな経緯は聞いております。遅れながら、当組織【屋長組】の組長代理を与っております屋長楓(やなが かえで)と申します」
「…………」
 できるだけのポーカーフェイスで固める明奈。
 解離が益々激しくなる。
 組織と言われても俄かには信じがたい。
 そもそも暗い世界を歩いている人間とは思えない。
 確かに、楓と名乗った女性は正座をして背筋を正して、一廉ならぬ雰囲気を醸し出している。
 だからこそ認識の不一致と言う解離が発生するのだ。
「……高矢明奈。この街で腕っ節を売る代わりに三食と寝床を探しているケチな流れ者であります。こちらさんで『間違いない』ですね」
 明奈は確認するように念を押すように楓に問うた。
 楓は面接官の顔をせずに、微笑みを浮かべながら頷いて「はい」と答える。
「失礼ですが、先ずはご身代の説明をお願いできますか?」
「承知いたしました……我が【屋長組】は嘗ては西日本の片田舎で看板を揚げていた任侠道を重んじるヤクザでした」
 楓の台詞の『ヤクザでした』と言う言葉に引っ掛かりを覚える。……今はもうヤクザではないのだろうか。
「とある抗争で壊滅。県警の頂上作戦で虱潰しにその他の勢力も淘汰されてしまいました。その中でも一番大きな勢力を誇っていた【屋長組】は当時の組長屋長正(やなが ただし)の命令で僅かに残った手勢にも解散命令を出しました。最早、ヤクザとしてシノギを得る事も、新しい食い扶持に有りつく事も不可能だったのです。それは……30年前の話です。私はまだ3歳で当時の記憶は有りません。夫の祖父と父親、親子二代で何とか守った看板でしたが祖父は他界し、父も今は介護施設で暮らしております」
 そこまで彼女は一気に話す。言葉を区切って静かに珈琲カップに両手を伸ばす。飲まない。温かみを掌に感じているだけのようだ。
「……夫は跡継ぎを拒否して逃げるようにこの街へ来ました。ですが……事故で……。駆け落ち同然までして逃げてきたのに、無責任な人でしょ?」
 彼女は自嘲気味にクスッと嗤う。
 そこで明奈はこの部屋のしんみりしつつある空気に、句読点を打つように自分の前に出された珈琲に口をつける。
 インスタント珈琲だった。何か隠し味でもあるのか、普通の特売で手に入るような安っぽい味がしなかった。
 もっと深く香ばしい風味。
 なのにコクは普通のインスタント珈琲だ。
 無性にキングエドワードスペシャルが吸いたくなってきた。安っぽい機械巻きが似合いそうな香り。
「何もかも忘れて一から出直そうと思ったのです……それは本心です……」
 何と無く話の筋が見えてきた明菜は思わず口を挟む。
「昔の……解散したはずの古いヤクザ連中に『御旗にされた?』」
 楓の肯定の頷き。
「任侠の世界に戻って来いと悪い囁きが聞こえたんだね……良くある話だよ。直系の血筋と言うだけで突然、足元を掬われる罠に落とし込まれて引き返せないまでに手も足も汚れてしまう……ご愁傷様でございます」
「おかしな話ですよね、『傘下も配下も居ない』のに名前だけでヤクザの女親分ですよ……昔の『馴染み』が私をダシにして看板を揚げさせて、昔に見た、好かった時代を再現したがっているんです」
 明奈は唐突に切り込んだ。
「そこで、だ。楓さん、あんたの意思はどう働いたんですかい? 情報屋を使って求人広告を出すほどだ。並大抵の覚悟じゃないんでござんしょ?」
 楓の唇がサッと白くなる。突かれたくない部分を突かれた、そんな表情だ。
 楓は二呼吸ほどの時間を置いてとつとつと語り出した。
「夫の交通事故……交通事故じゃなかったんです。『昔の馴染み』の方が教えてくれました。嘘だと思いました……本当かも、とも思いました……居ても立ってもいられなくなって、初めてこの街を牛耳る情報屋を頼ったのです」
「そしたら……ビンゴだった訳、ですかい」
「はい。交通事故を偽装した殺人でした。捜査関係者にも賄賂が贈られているのも確認しました。最初から夫はターゲットだったのです。夫の祖父と父親に恨みを持つ人間の犯行だと判明して………………」
 楓の長い沈黙が始まる。
「……少し退屈ですね……」
 楓は涙を薄く浮かべた瞳で明奈を見据える。
「…………そうだね。退屈だね。普通の話だね。早く給与面での話が聞きたいね」
 明奈は、口調を変え、態とぶっきらぼうに言う。
 これまでの話を纏めれば簡単に筋が読める。
 駆け落ちまでした自分の夫が交通事故を偽装した殺人で喪った。
 それも恐らく他の組織の報復だろう。それを嘆いて泣いて暗く沈むだけに楓は収まらなかったのだろう。
 裏の世界に通じる情報屋を使った時点で終末は見えている。
 情報屋を使うことを足がかりにどんどんと暗い世界の住人に転落していき、とうとう本懐を遂げたのだろう。……だが、振り返ればもう明るい世界には戻れないほどに楓は黒く染まっていた。
 ……この世界に入った理由としては有り触れている。
 特筆すべき点が無いほどに、つまらない理由で欠伸が出そうだ。
 明奈の冷酷な心情。
 この手の話に深く立ち入って、情に絆されて道を間違えかねない。
 故にそっけない台詞で会話を打ち切ったのだ。
 そうしなければ延々と楓の身の上話を聞かされていただろう。
 それだけで、楓が闇社会に染まって日が浅いという事が感じられた。
 求人の面接のはずが、いつの間にか楓は自分の身形から疑問を解かそうと、自分から事のあらましを話し出した。
 即ち、要点を纏めて端的に説明するほど、彼女は慣れていない。
 今までに求人を出して、まともに使い捨ての手勢を雇った事が無いのだろう。
 使い捨ての手勢。
 大概の場合、流れ者が腰掛け程度に就く仮初の職業。
 素浪人が端金で人を斬るのと変わらない。背後を詮索されたり洗われたりしても金銭以外の繋がりが無い為に度々、鉄砲玉やヒットマンとして使い捨てられる。
 泥臭く見栄えの好くない求人が、そもそも楓率いる【屋長組】には必要なのだろうか? 寧ろ、その方面の疑問は多い。
 倒すべき敵、守るべき対象、消すべき障害、付き従うべき象徴。
 そんなものがこの家屋の中に有るのだろうか? 楓が組員の頭数として求人を出しているのは察した。
 だが、それは雇い主としては悪手だ。
 雇った人間に付け上がられて、足元を見られたり掬われたりする可能性が非常に高い。求人で雇われたからには裏切らないだろうが、金銭を搾り取る隙を与えすぎる危険性が常に表面化している。
 今の話を聞いていても、危なっかしいポイントが幾つも転がっていた。
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