静寂が降りる頃に

 靴紐を結び直している間に風が浮浪者の体臭を消すかのように、葉巻の煙を吹きつける。
 いつの間にか浮浪者は、与えた機械巻きを銜えて、いつの間にか火を点けて、いつの間にかくゆらせていた。
 相変わらずの寝た姿のまま。
「今日は……そうだな……午後1時に……駅前に戻れ。駅前西口の交番で1万円札を5枚入れた財布を拾得物だといって持って行け。拾得物届けの書類の書き方は自由にしろ。だが必ず書け。自分の名前の欄外左側に小さくVの字を書け。それが合図だ」
 この手の遣り取りも既に使い古された手だ。
 法の番人が非合法な世界の入り口になっているのは珍しくない。
 その時間に交番に行けば『担当の警官』が机に座っているという寸法だろう。
 そして財布の中身が手数料で、恐らくその場でこの街での就職口を斡旋してくれるのだろう……隠語だらけの説明で。
「それで、おじさんへの支払いは?」
「気にするな……『5万円のうちの幾らかだ』」
 それを聞くと明奈はベンチを立ち、公園を出る。
 公園を出るまで誰かに監視される視線に付き纏われた。どうやらこの街の情報屋組合は強固な連携で結ばれているらしい。
 駅前付近の立ち食い蕎麦屋で簡素な食事を忙しなく摂り、表の自動販売機で熱いブラック珈琲を買う。
 蕎麦の味など舌にも残らない。
 缶コーヒーがあっさりと、呆気無く、簡単に口中の脂分を洗い流してしまった。
 予定の時刻より5分遅刻。『予定通りの遅刻』だ。『午後1時きっかりに到着しろ』とは言われていない。
 『担当の警官』らしき人物が午後1時にスチールデスクに座るのを確認したうえでの遅刻だった。
 若しも『担当の警官』以外に当たれば大問題だ。
 犯罪が表面化する可能性は低いが、就職口を5万円と共に失う。
 先ほど、駅前の100円均一で買ったばかりの財布に1万円札を5枚押し込んで交番に向かう。
 そこから先は拍子抜けするくらいに簡単だった。
 30代前半の『担当の警官』が、始終相好を崩さず拾得物の書類の手続きを済ませている間にこっそりとマイクロSDカードを差し出した。
 そのマイクロSDカードの中に就職口の情報が詰まっているのだろう。
 書類に出鱈目を書き、交番を後にした明奈は駅のトイレに篭ると自分のプリペイド式のスマートフォンにマイクロSDカードを差し込んで然るべきフォルダを開き、テキストファイルを目で追う。
 就職口一覧。
 厳密に言えば、使い捨ての殺し屋や鉄砲玉を募集する求人広告。
 完全中立を誇示して、そのポジションを維持している大手の情報屋ならではの求人広告だ。
 敵味方の勢力図や相関図は一切掲載されず、淡々と羅列される給料。
 この街の情報屋がいかに強大であるのかを改めて思い知った。
 直ぐに死ぬか契約を打ち切られる事が前提の『日雇い労働』。
 一宿一飯の恩という言葉も時代が変われば、このように商売として成立する。
 本当に恩義を感じて組織に尽くそうとする殊勝な心掛けの流れ者が少なくなってきた世情の表れだ。
 そして明奈もその一人で、飯つきの寝床と金を貰えるのなら平気で頭を下げる。
 尤も、明奈の場合は、裏切らない事をモットーとしているのでその街でその組織の傘下に収まれば、どんなに金を積まれても他の組織へ鞍替えはしない。
 実績と信頼で売っている信用商売でもあるので、尻の軽い真似は即、命を左右する。
 無事に街を抜け出せても、次に流れる街ではブラックリストの回状が手配されており、『信用できない不忠義者』として針の筵に座らされる。
 このリストを眺める限り、最早博打である。
 もっとこの街の勢力図を把握してから情報屋に頼っても良かったのではないかと少し後悔。
 リストの待遇や給料だけで選ぶのが難しい。少しばかり腰を掛けるのだからと、下手に選ぶと割に合わない役回りを押し付けられて寿命を縮める。
 恐らく……勢力分布図や相関図は別料金が発生するのだろう。
 そのURLもテキストファイルに記されている。
 第三者の組織だと思われる武器弾薬の供給源や闇医者、運び屋の連絡先もURLからアクセスし、料金を払って情報を入手する仕組みだ。
 金に厳しいのは嫌な事ばかりではない。
 金で解決するうちはまだ平穏な話だからだ。
 金は裏切らないという守銭奴の思考は裏返せば、金に忠誠を誓った思考だ。
 情報が第三者や敵対組織に渡るリスクが非常に低い。
 情報屋もまた、信用商売だ。
 どこの誰にでも情報を売るが、自分の利益優先でどこかの誰かの飼い犬に成り下がるのでは看板に瑕が付く。即ち、金に厳しいのは信用の証と言える。
 少なくともこの街では情報屋の存在は大きく、暗黙の不可侵が出来上がっているのだと直感する。……情報屋の窓口である浮浪者に情報屋組合直轄と思しき警護が付くのだから。
 3時間後。
 明奈は雑多な住宅街にある2階建ての一軒家の前で『外れ』を引いたと、早くも後悔していた。
 矢張り勢力分布図は必要だ。
 築30年以上は経過しているだろう外観のこぢんまりとした普通の家。中流階層の家。
 取り立てて言及するべき場所が無い普通の家。
 庭も小さいながら有る。駐車場は軽四車には大きく普通車には小さい、中途半端な広さ。
 4LDKといったところか。
 植木鉢や錆が浮いた郵便受けが生活臭を感じさせる。今直ぐにでも焼き魚の匂いが漂ってきそうな雰囲気。
 何度もここの住所と自分が選んだ一時の就職先を照らし合わせた。
 手元の情報が確かならば構成員40人からなる中堅暴力団の事務所のはず。
 40人の手勢を率いる暴力団ともなれば、それなりのシノギを持っていなければ維持できない。
 そして頭領はそれを誇示する邸宅に住まうのがイメージだ。
 なのに、『本部はここである』と手元のスマートフォンは報せている。
 勘だけを武器に選んだ飯と寝床が付いた就職先。それなりの給料。リスクも低そう。
 何事も穏便に済ませたい流れ者が、宿を借りるのに適した条件。
 その本拠地がここなのだ。 
 支部や出張所ではなく、本部がここの住所なのだ。
 思わず、固唾を呑む。
 もし、何かの手違いで表記されている住所が間違いで、インターホンを押して、暗い世界とは全く関係の無い人間が玄関から出てきたら何と言って回れ右をしようか……。
 意を決して、インターホンを押す。指先が心なしか震えていた。
 軽い呼び出し音。
 その次に聞こえてきた『女の家人の「はーい」という声』。
 矢張り、今の内に駆け足で逃げよう。
 踵に力が入る。
 背中に冷たい汗が浮く。
 幾ら腕利きの情報屋でも人間だ。間違いも有る。……人間だもの。
 玄関のスライドドアが、明奈が踵を返すより早く開いた。
「はい。何でしょう?」
 エプロン姿の30代前半の女性が現れた。
 長い黒髪を後ろ襟辺りで緩く縛り、今、台所から馳せ参じたと言う出で立ち。
 ピンクのセーターが可愛らしく似合う。黄色いエプロンからは台所の香りが漂う。
 デニムパンツ姿の彼女は一言で言うと可愛らしかった。
 やつれた翳りが顔に差していても、それですら彼女の美貌を損なうものではなかった。
 主婦。それもパートをしながら子育てに追われて主人のために家事を切り盛りする、一般的な主婦。
 無地の黄色いエプロンが無駄に妖艶。
 固唾を呑む明奈。
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