静寂が降りる頃に

 明奈はラドムVIS35を左脇に仕舞うとフライトジャケットのジッパーを引き上げて背中を丸めながら黒い布を被ったまま歩き出した。
 途中のゴミ捨て場に丸めてその布を放り込む。
 曇り空。月は隠れて見えない。
 この夜は仕事を完遂するのに条件が揃いすぎていた。
 後は報酬と言う名の草鞋銭を幾らか貰ってこの街を去るのみだ。



 明奈は数日後には、全く縁も所縁も無い街に流れ着いていた。
 気侭な旅だ。
 手荷物は赤い大型ボストンバッグと黒い大型リュックサック。草臥れたフライトジャケットに砂漠戦用ピクセルパターンのカーゴパンツという出で立ちで完全に雑踏に紛れている。
 人が多い。紛れたくない場所だ。
 早くこの場から離脱して、この街で一番の組織の庇護を受けたい。
 嗜み程度の薄い化粧。それなりに手の込んだ化粧を施せばどこに出ても恥ずかしくない美貌を完全に顕すだろう。
 170cmの身長は隠しようも無く、女性の割りに頭が一つ出ている。
 脚の運び方を早過ぎず遅過ぎず、進ませる。
 派手に周りの人間と衝突して顔を覚えられたくない。
 正月も明けて一月。
 この街で一番の大通り。繁華街に通じる大通り。繁華街の路地への入り口には浮浪者やちんぴらに変装した情報屋が屯している。
 視線を小さく振り、どんな小さな諍いも拾い上げようと神経を尖らせる。勿論、背中への警戒も忘れない。
 現在午前10時。
 この街へ来てまだ数時間。
 駅のホームに降り立って数時間。体が冷えそうなので喫茶店に入る。 70%ほどの席が埋まったフランチャイズの喫茶店。完全分煙の喫煙席が有るのは助かる。
 ブレンドをオーダーし、それを持って喫煙席に移る。
 大きな荷物が少しばかり邪魔だった。足元に二つのバッグを置いて席に座るなり一口、大きく熱い珈琲を飲む。喉が火傷しそうな珈琲。美味くも不味くも無い珈琲でも、熱いだけで大助かりだ。
 この分煙室は合計で20席有った。
 この界隈には煙草を吸う人間少ないのか、5人ほどしか分煙室に居ない。
 フライトジャケットの懐に手を突っ込んで、オレンジ色の薄い髪箱を取り出す。
 キングエドワードスペシャルのドライシガーだ。
 セロファンを剥いて口に銜え、紙箱のマッチをハンドウォームから取り出した。片手で器用にマッチを抜き、そのまま擦り紙に擦り付けて火を熾し、口元のキングエドワードスペシャルに近づける。
 少し大きい煙草屋ならどこでも手に入る安価な機械巻き葉巻だ。
 全長11cmほどの細長い葉巻。
 着香料やシートタバコを用いている事から葉巻の愛好家が見れば思わず鼻で嗤うような邪道の葉巻だ。
 シートタバコとはタバコの葉を粉砕し、和紙を漉く要領で作ったニコチンを含む紙だ。
 どこでも手に入る安い葉巻。
 本物の葉巻と比較すれば格段に次元が低い。
 それでも嗜好品だ。誰が何を好きになるのか解らない。
 作られたからには一定の支持層が現れるのは当たり前だ。それに、キングエドワードスペシャルの前身であるキングエドワードシガリロは世界で一番売れているドライシガーと言うキャッチコピーで世界中に愛飲家を獲得した。……その後継を彼女は愛飲している。
 着香。インドネシア葉とドミニカ葉のブレンドから出る雑味を消す程度の麝香に似た香り。
 それは本物の……プレミアムシガーが奏でる馥郁たる香りとは全く世界が違う。
 一服ごとに味が表情豊かに変化するような高級な代物ではない。最初から最後まで味はフラットでニコチンがぎゅうぎゅうに詰まった、残り2cmほどの長さでも大した変化は見られない。
 熱い珈琲とドライシガー。
 この一息の価値は最近では貴重だ。
 紫煙を細く吐きながら、窓の外へと視線を向ける。
 雑踏が見える。人が行き交う。
 ここで葉巻を灰にして珈琲を飲み干したら、少なくとも今日一日泊まれる宿を探さなければならない。
 就職活動をこの街で行うにしても全体の勢力分布図が必要だった。駅の改札口の脇にあった観光案内のパンフレットを銜え葉巻で眺める。
 中規模の街。典型的な地方都市。余り金の臭いがしない。ちらっと脳裏に、来る街を間違えたか、と考えが過ぎる。
 それから2時間ばかり徒歩で街中を大きなバッグを提げて歩く。
 この姿だけでも目立ちすぎるのでバッグを早く安心できる場所に預けたい。
「…………」
 正午。
 明奈は曇天の下、ベンチで寝転がる浮浪者を見つけた。
 寒風を避ける為に段ボールを被っている。
 繁華街から道筋1本離れただけの場所に有る公園。
 辺りはテナントビルや1Kマンションに囲まれており、日当たりは良くない。視線を左右、上方へと振る。
 『この場所』はどこの街も同じだ。
 大きな荷物を抱えたまま明奈は浮浪者に近付き、不意に声を掛ける。
「ちょっといいかな?」
 浮浪者は狸寝入りを決め込んでいた。明奈はそろりそろりと右手を左脇に差し込もうとする。
「ちょっといいかな?」
 再び明奈は問うた。
 右手はラドムVIS35のグリップに触れている。浮浪者は顔を明奈に向けず、大きな欠伸の後にこう言った。
「止めときな。あんたの頭は350m先から狙われている」
 元の衣服のデザインが解らないほどに使い古されたぼろぼろの風体。白い物の方が多い髪も髭も伸び放題。汗や体臭が風に乗って明菜の鼻に届く。
 悪臭が極まり、思わず悪心を覚える。
 年齢は60代前半といったところか。顔をこちらに向けていないのでどんな顔付きなのかは不明だが、その年季の入った嗄れ声から想像に難くなかった。
 明奈は自分が狙われている事などとっくに承知だった。
 この公園に来た時に、この浮浪者に近付いた時に、視線を左右、上方に振って確認していた。「自分ならこの位置で陣取って狙撃をする」と。
 複雑なビルの風が吹きすさぶ街中でこのポイントだけは風が凪いでおり、『重い弾頭』なら問題無く狙撃できる。
 浮浪者も浮浪者で明奈が……背後から近付く人物の気配を既に読み取り、仲間内だけに通用するジェスチャーで明奈の頭を狙えと命令を下していたのだろう。
 例えば、頭を2回掻いたら狙え、くしゃみをしたら撃て、と言う風に。
 浮浪者。実際は違う。
 この街を縄張りにする情報屋の窓口だ。
 警護要員が付いている事を鑑みるに、余程の実力者の『端末』だと見受けられた。
「…………仕事を探しているんだけど、幾らになる?」
 明奈は素直に銃を離した右手をだらりと下げ、自分を狙っているであろう狙撃手に敵対意識は無い事を知らせる。
 左手はカーゴパンツのサイドポケットに差し伸ばされ、封を切っていないキングエドワードスペシャルの箱を取り出して浮浪者の後頭部辺りに置く。
 体を横に向けて背もたれ側に顔を向けた浮浪者の背後に立った。どこからも銃弾は飛んでこない……この遣り取りはどこの街でも同じだった。
 慣れたもので、恐怖は薄かった。
 敵意が無い事を見せると平穏な風景に溶け込んでしまうのだ。
「あんた、流れ者だね……素直に言いなよ。どこかの組に入り込めないかって。それとも自由契約でうろついているだけかい?」
 浮浪者はこちらに顔を向けず、左手で後頭部に置かれたキングエドワードスペシャルのオレンジ色の紙箱を取り、不精に前歯で包装しているセロファンを剥き始めた。
 その場で立ち尽くすのも不自然なので明奈はベンチの隣に座り、靴紐を結び直す振りをする。
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