静寂が降りる頃に

 客や店員が全員屋外へ避難する。
 僅かな静寂。ほんの僅かな静寂。
 硝煙と鉄錆びの臭いが生々しく立ち込める雀荘内部。
 ここまで、たったの数十秒。
 ラドムVIS35に慈悲は無かった。
 降参だと手を挙げた男の額に2発と心臓に1発の9mmパラベラムを叩き込む。
 首が後方へ直角に折れ曲がりながら脳漿を床にぶち撒ける。
 死亡を確認するまでも無い。
 踵を返し雀荘の出入り口へ向かう……しかし、またも踵を返し、太腿に被弾し腕や腹部に3発の銃弾をお見舞いした男の元へ来ると、その頭部を容赦無く弾く。
 腹部に銃弾を受けた男の射出孔から衝撃でペーストのような内容物が押し出される。
 標的全員の死亡を目視する。目視で充分だ。
 頭の中身を撹拌されて尚且つ呼吸が出来る人間は人間の範疇ではない。そのような人間を殺すのは専門外だ。
 僅か数十秒程度の銃撃戦。
 明奈は今度こそ雀荘から出て、住宅街に紛れるように路地裏を伝いながら逃走した。
 その背後にパトカーが、おっとり刀でやってくるサイレンが聞こえる。
 カタギ様がひしめく場所で派手に鉄砲を弾いた。
 これでもうまともにこの街を歩けない。
 自ずと明奈がこの街を出て行く理由が出来た。
 楓がどれほどの草鞋銭を包んでくれるのかが気になるところだ。
 そして、楓について謎と言えばもう一つる。
 今となっては無視しても構わない他愛も無い事柄だ。聞きたいかと尋ねられれば、少し間をおいて、聞きたいと返答する程度の質問だった。
 腕時計をこまめに確認する。
 何輌もの軽四車や原付バイクを乗り捨てて大きく迂回しながら帰路に着く。
 随分と久し振りにゆったりした気分で【屋長組】の『本拠地』を見上げた。
「…………」
 玄関へ入る前にキングエドワードスペシャルを銜える。
 右手だけでマッチを1本取り出し、指先だけで先端を擦り紙に擦り付けて火を熾す。
 円く温かい火を左掌で覆いながら体を丸め、キングエドワードスペシャルの先端を炙る。
 着香されたインドネシア葉とシートタバコの安っぽい香りが口中に広がり、細く長く煙を吐く。
 煙は冬の風に煽られて上空へ吸い上げられて掻き消される。
 明奈のその姿はまるで躊躇しているかのようだった。
 玄関に踏み込めば全てが終わる気がした。
 もうこれで楓の元で働く理由は無い。
 楓も不義を犯してまでヤクザ者として働く理由を捨てたのだ。
 この街に居る限り、互いに待ち受けるのは破滅だ。
 重い足を玄関のポーチに乗せてスライドドアを開ける。
「ただいま……」
 ぼそぼそとした明奈の声。
 そのまま台所へと足を向ける。
 手を洗ってうがいをしなさいといつも楓に言われているのだ。
「あら、お帰りなさい」
 台所で電気ケトルで湯を沸かしながら楓が振り向く。
 任務遂行の報告をする前に気が付いた。
 この【屋長組】に一時的に傘下に収まってから謎だった最後の事柄が氷解した。
「そうか……そう言う事だったの……」
「?」
 楓は何の事か解らないと言う顔で明奈を見た。
「コーヒーよ。美味しいコーヒーの正体……そう言う事だったの」
「ああ、これの事」
 楓の手元には3種類のインスタントコーヒーと台所用の重量計測器があった。
 大匙に乗せられたコーヒースプーン2杯分の分量のインスタント粉末……複数のインスタントコーヒーのブレンドだった。
 一般的なインスタントコーヒーだけではなく、エスプレッソテイストの苦いコーヒーなども含まれる。
 それらの瓶が並んで台所にある。
 いつか、台所の棚で見たインスタントコーヒーの瓶。あの内どれかが美味いコーヒーなのだと思っていたが実際は違う。
 それらの絶妙な分量のブレンドだった。
 やがて沸騰した電気ケトル。
 その湯をブレンドされたコーヒー粉末を入れたマグカップに注ぐ。
「お先にどうぞ。寒かったでしょ? あ、うがいと手洗いはちゃんとしてね」
 いつもの儚げな楓の笑顔。
 言われるままに洗面所で手洗いとうがいを済ませる。
 いつもの茶の間に入ると熱く湯気が立つマグカップが、香ばしい好い香りを立てていた。
 そのコーヒーで体を温める。
「!」
 いつもより深い味わいが鼻腔を抜けると思ったら少量のコニャックが垂らされているらしい。
 冷える夜には堪らない味だ。
 マグカップを両手で包んで指先を暖めていると同じくマグカップを持った楓が茶の間に入ってきた。
 今気が付いたが、今夜、明奈が『大きな仕事』をこなしている間に石油ストーブを物入れから出したらしい。
 見慣れない暖房器具が部屋の隅っこにあった。古典的なストーブ。上辺に水が入ったヤカンが乗せられている。
「…………」
「…………」
 2人の間に暫しの沈黙。
 コーヒーを啜る音だけがノイズとして室内に残る。
 最初にその静かな空気を破ったのは楓だった。
「……お疲れ様でした」
「ああ……」
 楓の横顔に寂寥が混じる。2人の間にまたも沈黙。
「今夜、始末していただいた4人は私にとっては……」
「ああ、いや、いいよ。喋らなくて。もう済んだ話だ。【屋長組】と『何かの縁が有る』人間だったのでしょ? それを片付けた」
「……解りますか」
「解るよ。それにお互い、もうこの街で長居できない事も、ね」
 自分に噛み付くしがらみを、殺し屋をけしかけて縁を切った。
 楓にとって、自分に恩義を売る人間たちを皆殺しにした。
 それ以上は最早、蛇足だった。それ以上、説明しなくとも、そこに到るまでの説明すら明奈は遮った。
 その言葉で、今夜の背景は全て明奈に知られていたと悟る。
 【屋長組】を解散しようにも不慣れな楓は神輿として担がれた。
 その尻拭いを流れ者に任せた。
 筋を通すなら、楓自らが銃を握って4人を始末して全ての落とし前を付けねばならない。
 【屋長組】再興の為に表向きの援助を行われていたのに耐えられなくなった楓。
 亡き夫に義理立てし、いつまで経っても優柔不断を続けていた結果だ。
 全ての原因は自分に有る。
 もう隠れようが無い……この街では。
 明奈は少量のコニャックのお陰でいつもより風味が増して、いつもより体の芯が温まるコーヒーを飲みながら、いつ、屋外へ葉巻を吸いに行こうか思案していた。
 言葉が詰まるだけの冷たい空気。
 殺してしまった人間はどうしようもない。
 楓の判断は賢明ではないが、愚の骨頂でもない。
 何もかもを捨てる覚悟が出来た人間ならば、だ。
 流れ者で雇われ人の明奈は指示通りに動いて、指示通りに遂行した。……最早、何もかもが蛇足で余計で邪魔だった。


「次に遭う時は違う世界の人間で在りたいな」
 明奈は呟く。
「そうですね……次が有れば」
 楓も呟く。


 彼女達が出立の用意をし、玄関を出てそれぞれ別々の方向へ向かったのは明け方近くだった。


 日付が変わり2月になって数時間後の寒い朝の出来事だった。


 どこかの地方で明奈は流れ者を名乗っているのかもしれない。
 どこかの街で楓は未亡人を隠して生活しているかもしれない。

 いつの時代にも、どこにでもある、弱小ヤクザの最後だった。

《静寂の降りる頃・了》
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